END (挿絵あり)

 一先ず一服する。幾らノアのお陰で傷が十分に塞がったとは言え激しい動きをしていい訳ではない。痛みも普通にあるから薬も暫くは手放せないだろう。南美が休んでいるあいだ、ヱマがあれこれと片付けをした。

 気づけば昼になっていた。出前を頼む事になり、南美が幾つか食べたいものを選んでヱマが店舗を探した。

「ん。キャンペーン中だってさ。どお?」

 画面を見せる。そこには二つ購入すると半額かつ一つドリンクがついてくると書かれてあった。

「ええですね。それにしましょ」

 新品のソファで肩を並べ、食べたいものを選んだ。値段はこの際気にしない、思う存分食べてほしいとヱマは彼の横顔を一瞥した。

「はー! また一かよ!」

 家庭用ゲーム機のコントローラーを片手にヱマが吠える。その様子を見て楽しそうに笑った。然し笑ったせいで傷に痛みが走り、少し顔を歪めてドリンクのストローを咥えた。

「ヱマさん運良さそうやのに」

 テレビ画面には大手ゲーム会社の代表的なキャラクター達が待機していた。よくあるパーティゲームで、サイコロやアイテムを駆使して星を取っていくルールだ。星の所持数が多ければ多い程一位に輝ける。

「なんだよー。また六かよー」

 不貞腐れながら少し油の抜けたポテトフライを掴む。南美は笑いながらゲームを進めた。

「あ、アカンわこれ。カッパマス止まった」

 止まるとろくな事が起きない最悪のマスに丁度キャラクターが停止、ある意味ヱマより運が悪い。大笑いする彼女に呆れたようにかぶりを振った。

 ノアの影響もあって、南美はソファの上で寝てしまった。小さな寝息に髪にさしてある簪を取ろうとした。

「ちっ、クソババア……」

 低い声にぴくっと身体が反応した。一瞬顔が険しくなったが、すぐにすやすやとした寝顔に戻る。

 彼のつけている簪は母親の形見であり、意図的に壊したり捨てたりすると呪われる気がして日常的に使っている、というのを前に聞いていた。日常的に使っていれば勝手に落ちて無くなったり壊れたりする、その事に気が付かなければ母親からの呪いを捨てる事が出来る、と。

 詳しい事は分からないが、前にいい母親ではなかったとだけ吐露した事がある。ヱマはその時の年齢に似合わない子供のような表情を思い出し、静かに腕を引っ込めた。代わりに自分の着ているスカジャンをかけてやった。

 二階で動画サイトを漁っていると物音が聞こえた。既に夕方で、口にはキャンディーを咥えていた。

「おはよ。眠れた?」

 事務所から上がってきた南美は肩にスカジャンをかけていた。ワイシャツとベストの彼には似合わないなと思いつつ、冷蔵庫から麦茶を取り出すのを眺めた。

「まだ寝たりん」

 ふあっと欠伸を漏らしてコップに入れたのを一気に飲み干した。それからヱマの座っているベッドの方に来て、流れるようにキスをした。

「お前の匂いで変な夢見たんだよ」

 彼女の手を握りしめる。それにふっと女の顔を見せた。

「手と口だけな。激しい動きは禁止されてっから」

 ベッドから立ち上がると彼の前にしゃがんだ。革製のしっかりとしたベルトに手をかけた。

 二日程経ち、ノアの活動もゆっくりになってきた頃、ヱマが立ち上がりながら口元を拭った。喉がいがいがするのか、咳き込みつつテーブルに置いてあるコップをとった。

「あともう少ししたら動けるんやけどなあ」

 ズボンを履き直し、ベルトを絞める。苦い味を喉奥まで流し込んだあと「俺の事は気にしなくていいから」と微苦笑を見せた。

「それより南美、早坂から連絡あったか?」

 空になったコップを片手に問いかけた。彼は眉をあげてかぶりを振った。

「いえ、特には。結構探すのに時間がかかっとるんですかね……」

 全身義体は国内に五名しか存在しない。そのなかでも奴は情報が少なく、リアルタイムでその場の電脳をハッキング出来る程の技術を持つ。幾ら早坂でもそうすぐには解決しないだろう。

 ソファの背を挟んで唇を合わせる。舌を軽く絡めて微笑んだ。

 ヱマとしてはこの脚で追いかけ、この手で締め上げたいところだ。然し相手が格上な以上下手な事は出来ない。公安を去った時のようになってはいけない、そう南美のタバコの臭いを嗅ぎとりながら離れた。

 刹那、がっと正面から首を掴まれた。反応が遅れる。

「久しぶり」

 ハルカの声だ。ヱマはぎりっと歯を食いしばって睨みつけた。

挿絵

https://kakuyomu.jp/users/nekomaru16/news/16818023212114214072

 相手は全身義体の奴だ。スキンヘッドと赤と黒の目玉がトラウマを刺激する。だが南美は気づいていない。

「南美、クソ、またハッキングか」

 自分の首を絞める太い腕を掴み、視線をやった。彼はこちらに背を向けたままだ。タバコの煙だけが見える。

「南美、南美!」

 喉が潰れる程に叫ぶ。全く聞こえていないのか一切反応を示さない。

「無駄だ」

 ハルカの声で発されるそれに右足で腹部を狙った。がんっと靴底が金属とぶつかる。びくともしないし、感覚的には頑丈なコンクリートの塊を殴ったような感じだ。

「くそったれ」

 吐き捨てるように言う。相手は機械のように表情一つ動かさず手に力を入れた。呻き声が僅かに漏れる。

 それでも顔を赤くして耐える。相手を見下し、右足でもう一度蹴った。今度はほんの少し相手の身体が揺れた。

「襲うのは、俺だけにしてくれ、南美は、南美にはぜってえ触るな」

 苦しさの合間合間に呪詛のように言葉を吐いた。然し次の瞬間には腹に強烈なブローを受け、少ない息を出し切って項垂れてしまった。

 早坂がバーチャル空間に意識移動させた翌日、ゼロとイチのあいだを縫うように移動していると何かのセキュリティに触れてしまった。一瞬にしてその場から弾かれ、どんっと別空間に放り出された。

 慣れているのにと自身の失敗に違和感を覚えつつ、彼女はその空間内で立ち上がった。コンクリートで出来た正方形の箱のような空間で、データが殆ど蓄積されていない。壁はシンプルな作りで早坂でも壊せそうな程脆く見えた。

 然し実際にはかなり複雑で、少しでも触れればウィルスに感染する。ようは箱の内側にも外側にも毒が塗られている状態だ。早坂はそれを理解するとすぐさま自分の部隊に合図を送った。

 はずだった。特殊回線もなにもかも、その箱のなかでは繋げる事が出来ない。完全に圏外エリアになっていた。勿論繋がっているのが大前提の合図は送られる事はなく、彼女のもとに帰ってくる。

『やられた……』

 迂闊だった。早坂は僅かな傲りのせいで精密に隙なく敷き詰めた敵の罠に引っかかった。だが全く逃げ道がない訳ではない、この壁に穴さえ開ければそこが逃げ道になる。

 身体の方は最低限の処置で生かせているし、何時間何日何週間と意識をバーチャルに移動させていても早坂は問題がない。どうしても時間はかかってしまうが希望がない訳ではなかった。

 だがそれも含めて全て、相手の罠だった。早坂は自分が敵の胎内に入ってしまった事を自覚していなかった。

 長時間その空間にいれば彼女の意識を構築する数字の羅列は溶けだしていく。それが狙いだった。気が付かないあいだに彼女の意識はゆっくりと吸収され、コピー体が完成してしまった。

 コピー体は完成度が高い。早坂が辿ってきた道を遡っていった。行き着く先は分かりきっている。リアルの身体、早坂本人の電脳だ。

 二人が事務所に戻ってきた日にはもう彼女の身体は乗っ取られていた。コピー体であり尚且つ敵の思想が組み込まれた別物に乗っ取られていた。然し言動も振る舞いも脳波も彼女そのものだ。誰も気がつく事はなかった。

 満を持して早坂の特殊な電脳と五月雨の回線を利用。事務所の入っているビルは五月雨の管理下にある為、簡単に破る事が出来た。後は実体ごと踏み入ってしまえばロボット達はスルーする。とても容易い謎解きだった。

「いっ……つ」

 意識が戻り、腹を中心にじわじわと広がる痛みに声を漏らした。ずるっと脚を引き摺ってうつ伏せの状態から起き上がる。

 眉根を寄せて辺りを見渡した。

「どこだ、ここ」

 白い息が漏れる。コンクリートの地面からせり上がってくる冷気に腕を摩る。

「目覚めたのか。早いな」

 背後からの声に勢いよく振り向いた。すぐに体勢を立て直す。

「このクソ野郎……」

 ぎりっと尖った歯がぶつかり合う。相手の声は相変わらずハルカのものだった。ヱマは呼吸を整えながら拳を構えた。ぎゅっと握りしめる。

「早坂がしくったのか知らねえけど、俺の前に出てきたのが運の尽きだ」

 牙のあいだから白い息が漏れていく。相手は笑った。反響するハルカの声に全身に熱が溜まる。

「全く抵抗出来なかった奴が何を言ってる」

 言葉が終わるにつれて声が低くなり酷く聞き覚えのあるものに変わった。

「そんなに自信があるなら、かかって来い」

 くいっと指を曲げたその男の声に、ヱマは眼を見開いて膝を折った。高い脚力で飛びかかりながら吠える。

「俺の親父らに、なにしやがったあ!!」

 右の拳を斜め上から振り下ろす。然し腕に阻まれ、着地しながら左の拳を下の方からかます。

「なにもしていない。ただ挨拶をしただけだ」

 連続で拳や蹴りを放つ。だが全て塞がれるか流されるばかりだ。ぱしっと掌で左のストレートを受け止められる。

「私はお前を気に入ってるんだ。若いくせに私の前まで来た挙句に親友を殺されたお前が可愛くて仕方がないんだ」

 自分の父親の声で、酷く舐め回すような不愉快な話し方をされる。ヱマは鬼の形相でもう一度殴りかかろうとした。だが。

 どんっと重たく硬い打撃がまた腹にぶつかる。胃酸が逆流する。耐えきれずに口から吐き出し、そのまま吹き飛んだ。

 何度も汚れた灰色の地面を跳ねて転がった。やっとこさうつ伏せになって止まる。自分の鋭い歯で口内を切っており、涎と胃酸に混じって流れ出した。

「っ」

 拳を握りしめ、靴の側面を地面に擦り付ける。

「ぐっ、そ」

 右の掌を地面に当てて、なんとか身体を持ち上げようとする。然しどんっとまた大きな衝撃と共に何十キロとある重さが背中に振り下ろされた。

 息が詰まり、ややあって苦しそうに吐き出した。声の混じった荒い呼吸にぐりぐりと足を動かす。

「全身義体はどんなに重くしても互いに支えてくれるからな」

 次は南美の声が聞こえた。かと思えば足で仰向けにされる。痛みなのかなんなのかもはや分からない程で、半分意識が朦朧としていた。

 先程よりは軽いがそれでも力を入れていないと潰れてしまう程の強さで腹部に足が振り下ろされた。僅かな呻き声と共に一瞬眼光が戻る。

 その時、ヱマの視界には最悪なものが映っていた。

 ゲスのような笑みを浮かべた南美が自分を踏みつけていた。ヱマの双眸に妙な光が現れる。まるで白い画面を見ているかのような横に長い光がある。だが彼女からは自覚出来ない。

「てめ、みなみっ」

 足首を掴み、足先を掴んだ。リミッターの外れかけている鬼の力を込めてもビクともしない。それだけでも南美ではないと分かるはずだが、ヱマの電脳は一時的にジャックされていた。

 脳が勝手に視界のなかの彼を本物だと認識してしまっている……そのストレスは半端なものではない。

「ふざけんなよ」

 一部正常な箇所が電気信号を送ったのだろうか、それとも身体自身が拒否しているのだろうか、苦しみ怒った表情に似合わず双眸から涙が零れた。瞬間、足が退いたと思ったら胸ぐらを掴まれた。

 強制的に立たされ、退こうにもがっちりと固定されている。スカジャンを脱げばと一瞬思ったが布が突っ張って難しい。寧ろ脱ぐ時の動きを利用されかねない。ヱマは柔道のように相手の胸元も掴んだ。

 涙の流れる眼で睨みつける。視界のなかの南美は意地汚い笑みで気持ちが悪い。

 だが、ふっと匂いが漂ってきた。それは無機質で革っぽい匂い。

「南美の匂いじゃ、ねえ」

 丸くした眼から妙な光が消えた。瞬間視界の南美はチラついて消え、あの嫌な顔が見えた。

挿絵

https://kakuyomu.jp/users/nekomaru16/news/16818023212114075636

 ヱマは怒号をあげて左手でも胸元を掴み、思い切り頭突きをかました。これには流石に相手もダメージを受ける。表情が固まって手が離れた。その隙に後ろへ飛び退いた。

「最悪な事しやがって」

 掴まれにくくする為、すぐにスカジャンを脱ぎ捨てた。乱れた髪に怒りを見せる。

「絶対、地獄に叩き込んでやる……!」

 こいつさえ居なければ、自分の右脚がなくなる事もハルカが死ぬ事もなかった。タオウーのせいで若くして地獄に堕ちる子達も居ずに済んだ。

「南美だって」

 こいつが作った代物のせいで南美の顔に傷ができ、彼の相棒は死んだ。自分もあの人も大切な人を失わずに済んだ。そうしてそれぞれ長官と巡査長として過ごせた筈だ。

 然し、もしそうなっていれば……?

「あの人とは……」

 関わる事もなかっただろう。公安長官とただの巡査長では立場が違う。精々すれ違ったのを一瞥するだけで終わる。

 ヱマのなかに矛盾した感情が生じる。それが一瞬の隙になった。

「そうやって気持ちが引っ張られるから、お前は弱い」

 気がついた時には遅かった。強烈な拳が顔面に振り下ろされる。空気抵抗を受けずに吹き飛び、そのまま壁を破って外に転がり出た。

 脳みそが揺れ、意識が飛びかける。殆ど白目を剥いた状態で溺れたように呼吸だけを繰り返した。

 そのうち暗雲が立ち込めて雨が降り出す。ゲリラ豪雨らしく、数秒もせずにバケツをひっくり返したように水が落ちてくる。血が滲んで広がった。

 ぴちゃりと足音が止まる。自分の頭がごろりと転がって頬に雨粒が当たる。腹にまた足が乗せられて息が難しくなった。

 口の周りが赤い。視界がちらついて仕方がない。夢なのか現実なのか分からない。

 ハルカの声と南美の声、それと両親の声が反響する。誰が何を言っているのか分からない。

 腹に力が入らなくなってくる。身体が冷たく、冷えていくのが自分でも分かった。

 だがその時奴は勢いよく振り向いた。僅かにピントが合って見えた顔には、驚きと焦りが映っていた。瞬間、銃声が幾つか鳴り響く。

 足が退けられ、後退るのが分かる。ヱマは右手を伸ばした。

「まて」

「まちやがれくそやろ」

 殆ど空気と化して出ていく言葉に相手は軽く膝を折ると跳び上がった。トタン屋根に重たい物がぶつかったような音が聞こえてくる。右腕が力を無くして水しぶきをあげながら落ちた。

 朦朧とする意識のなか、ヱマは誰かの声を聞き取っていた。

「ヱマ! ヱマ!!」

 こちらに駆け寄ってくる足音。裏返った声に「南美」と答えた。

 手に構えていた拳銃をホルスターにしまい直し、滑るように膝をついて彼女の身体を抱き起こした。頬は腫れ、口の周りは血で汚れている。腕や首には青黒い痕があり、身体のあちこちには摩擦で擦りむいたような傷もあった。

 何より腹部全体が酷い内出血を起こしており、皮膚も傷ついて実際に外に出ている箇所もあった。

「酷い……」

 南美が来た安堵によってかヱマは完全に意識を失っていた。逆さまに項垂れる顔には乱れきった髪がへばりついて離れなかった。

「すみません。今すぐ救急車を。意識失ってます」

 デバイスを片手に彼女の身体を抱え直す。首に負荷がかからないように頭も支えた。雨と深夜と言うこともあって体温はかなり低く、南美は警察への通報も済ませると自身のジャケットを脱いだ。

 かなり分厚いので内側はそこまで濡れていない。冬仕様のスーツだし、何もしないよりかはマシだ。腹の酷い傷を隠すようにしてそっと被せてやる。

 顔にへばりついた髪を軽く指で退け、頭を撫でた。

「ごめん。ヱマ」

 ドローンや救急車、パトカーが到着するまでのあいだ、南美は自分が冷えていくのも構わずにヱマを雨から庇い続けた。

 駆けつけた警察官のなかには東もおり、濡れ細った南美を見て腕をぽんぽんっと優しく叩いた。

「気負うなよ、南美。お前のせいじゃないからな?」

 沖田を失った彼にとってもう一度、しかも相棒以上の彼女を失うのは恐怖の対象でしかない。それによる危うさを東は感じ取っており、父親のような接し方で南美をパトカーの後部座席に乗せた。

「詳しい事はまだ分かっていなくてね。みんな混乱してるよ。第四のなかで警察は一番立場が低いから、余計情報の入り方も遅いんだ」

 かぶりを振る東に、南美は窓の外を見た。ヱマが救急車のなかに吸い込まれていくのが見える。

「もう、なんも失いたくないんです。それにあの子だけは、ヱマだけは」

 震えた声と握りしめた拳に東は太い眉毛をさげた。

「分かるよ。お前さんの気持ちは」

 ぽんっと濡れた太ももに手を置く。その分厚くごつごつとした中年らしい刑事の温もりに、南美は軽く鼻を啜った。

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