第7話

「くっそ」

 じわっと滲み出てくる汗を冷ますように病棟内に戻った。

 喉が渇いたので南美の病室に戻る前に自販機に寄った。冷たい水を選ぶ、がこんっと音が鳴って膝を折った。

「ふう……」

 スカジャンを腰に巻いたままキャップを捻った。口をつけて飲むと僅かに見える喉仏の部分が動いた。

 その時。

「久しぶり」

 背後から女の声がした。酷く聞き覚えのある声に眼が見開く。水を片手に勢いよく振り向いた。腰に巻いたスカジャンがふわりと舞い上がる。

 瞬間、ヱマはペットボトルを手放して殴りかかった。然し掌で軽く受け止められる。もう片方の手は腕を掴んできた。

「てめえ」

 唸るように絞り出すように声を発した。周りは全く気にもとめない。まるでヱマも相手も最初からそこに居ないかのように振舞った。

「焦るな」

 相手の声は彼女の心を酷く揺さぶった。怒りなのか困惑なのか悲しみなのか、幾つかの感情が混じった表情で頬を引き攣らせた。眉が八の字になる。

「なんで、ハルカの声を……」

 幻聴かと思った。だが確かにハルカの声だ。低めで間伸びした特徴的な声は忘れた事がない。

「エルフの男はお前の恋人なんだろ」

 口調もトーンも全く違う。本能的な気持ち悪さで耳を塞ぎたかったが、拳も腕もがっちりと掴まれて動けなかった。ただかぶりを振る。

「じゃあなんだ。ただの相棒か? ただの相棒なのにキスをするのか。ただの相棒なのに毎晩毎晩飽きもせずセックスをするのか」

 ぶわっと鳥肌が全身に立つ。なんでこいつがそんな事を……眩暈がする程の気分にヱマの足元はふらついた。

「お前が南美の首に噛み付いて血を舐めとっているのも知っている。お前が蛇のような舌先で愛撫しているのも知っている。お前の喘ぎ声を再現する事だって出来るぞ」

 ハルカの声で、絶対に誰も知らないだろう事をつらつらと話す。瞬間、相手の手が離れてヱマは膝から崩れ落ちた。オニユリの絵が床に広がる。

 口元を押さえて呼吸を荒くする彼女を見下して笑った。

「ヱマ」

 名前を呼ばれて声が漏れた。その名前を呼んだ声は南美だった。無意識に息が詰まる。

「お前は可愛い。可愛いからこそ、壊しがいがある」

 耳元で聞こえるのも南美の声だ。だが両手が震えて仕方がない。恐怖で身体が硬直した。

「お前の脚を義足にしたのも、お前の親友を殺したのも、お前にトラウマを植え付けたのも、お前を追い込んで辞めさせたのも全部私だ」

「私に眼をつけられたのが運の尽きだな」

 乾いた笑い声に顔色が悪くなる。相手は周りに一切気取られる事も、ましてや“視界に映る事もなく立ち去った”。

「おえっ……」

 抑えきれない気持ち悪さと恐怖に吐き気が迫ってくる。口元に手をやったままふらふらと立ち上がり、急いでトイレに駆け込んだ。落ちたペットボトルは水をぶちまけたままそこに放置された。

 南美の病室に戻ると俯いたままふらふらと近づいた。その明らかに様子のおかしいヱマに分厚い本を閉じた。

 倒れ込むんじゃないかと思われるぐらいにふらふらとした足取りで、慌てて手を伸ばした。二の腕を掴んで「どうしました」と問いかける。

 ヱマは南美の腕を取ると小さく言った。

「今すぐ、早坂に」

 震えた声に眉根を寄せる。何かおかしな事が起こった……南美は質問しても無駄だと思い、すぐにデバイスから早坂の連絡先を探して通話を持ちかけた。

「もしもし。早坂総裁、今大丈夫ですか」

 座り込むヱマの肩に手を置いて宥める。早坂は南美から直接連絡が来るとは思っておらず、緊急性の高い話だと察した。

『大丈夫だけど、何かあったみたいだね』

「ええ、ヱマさんが、」

 視線をやる。彼の左腕を掴んだまま俯いていた。

「ヱマさん、何があったんです」

 少しデバイスを離して問いかけた。だが手を伸ばしてきただけだ。直接言った方が楽なのだろう、南美はデバイスを渡した。

「早坂、今すぐWhite Whyの事務所のロボットとAIを洗ってくれ」

 吐息混じりの疲れた声に南美が「ロボットとAI……?」と復唱した。

『何があったかわかんないけど、ヤバそうだね。すぐにやる。他には』

「奴は、相手は、全身義体だ。声のコピーと電脳のハッキングが出来る。かなり性能が高い」

 通話越しの早坂はがたっと立ち上がった。大きな眼を更に丸くして少し固まる。ややあって意識を取り戻したように咳払いをした。

『それ、ガチ?』

 ヱマは肯いた。

「俺と南美しか知ってない事を知ってた。ハルカの声も完璧に再現してた。周りは完全に奴を認識してなかったし、多分俺も認識されてなかった。それにハッキリ見たのに、“見た目の記憶が前回と変わらねえ”」

 それに早坂は『まぢかよ……』とかなり焦った声を出し絞った。

『と、とにかく陰山と田嶋にも伝える。場合によってはOSIRISにも協力してもらう。病院内で出会ったって事だよね?』

「ああ、さっきだ」

『すぐに危害は加えられないとは思う。けどなるべく南美さんの傍にいて。五月雨の隊員を何名か向かわせる。あたしの方でも病院内のセキュリティを上げておくから、そのまま待機しておいて』

 今まで以上に焦った声音にヱマは素直に肯いた。もう何も気力がないのか、すっと離すと南美に差し出した。俯いたままの彼女を見つめ、デバイスを受け取る。

「早坂総裁、私は、」

『貴方もそのまま。病院内で琉生さんに近づかれた以上無意味かも知れないけど、ノア関係の病室や手術室は特殊設計だしセキュリティも高い。下手に動くよりマシ』

「……分かりました。このまま待機しておきます」

 南美の静かな返事に早坂は『また何かあれば連絡を』と言って一方的に通話を切った。デバイスをベッドに置いてヱマの腕を引いた。立ち上がったのをそのまま抱きしめる。

「ごめんヱマ。私が軽率やった。お見舞いに来た相手に違和感持った時点で連絡すれば良かった」

 その声にかぶりを振る。

「そんな事ねーよ。分かるわけがない。南美は仕事の付き合いも多いし、仕方ねえ」

 だが恐怖だった。思い出すと勝手に手が震える。そもそもヱマはPTSDを持っている、まだフラッシュバックが起きていないだけラッキーな方だ。南美は落ち着かせるように背中をさすった。

「俺がいる。大丈夫や」

 いつも彼と事務所で寝る時、彼は本来の学生の頃の口調に戻る。ヱマは眼を固く閉じ、震えを誤魔化すように服の端を掴んだ。

 相手が全身義体となると主役は五月雨になる。必然的に公安は調査を中止、大和と警察はタオティエによる事件の処理や検挙、補導などを引き続き行った。

 日ノ国で一、二を争う程の技術力を持つ早坂が前線に立ち、先に病院内のセキュリティを強化した。同時刻に隊員数名が歌舞伎町の事務所に到着、掃除や管理ロボットから順に調べて行った。

 最後にAIであるはじめちゃんに事情を話し、協力してもらう。はずだった。

 隊員が到着した頃にはもう小型ドローンが床に落ちていた。回収するも脳みそと言える部分が焼けており、かなりのデータが破損していた。

 相手によるものかと最初は疑ったが、データを復元すると一部の映像、音声だけが集中的に壊されているのが分かった。

「……琉生さんと南美さんの、ですね」

 解析班のリーダーが呟く。乱れまくった映像は物陰から覗いているかのような画角で、下着姿のヱマと南美がちらちらと映っていた。そして更に調べたところ、それらの映像、音声周りにだけハッキングされた痕跡があった。

 自分でデータを壊したのだ。自分の脳みそごと。その証拠に小型ドローン自体にも焦げ目があり、事務所のIHを使用した跡もあった。

 なぜそうしたのかは分からない。だがもし相手のハッキングによって二人に暴かれたら、きっと酷く傷つく事だろう。はじめちゃんが何を考えどこまで気がついていたのかはデータとして残されていない、ただAIの論理的な行動からはかけ離れていた。

「わざと壊した……?」

 五月雨から送られてきたメッセージにヱマは眉根を寄せた。南美にも見せる。ややあって微苦笑を浮かべた。

「これがホンマやとしたら、シンギュラリティに達してたって事ですよね」

 それにヱマは肯き、肩を落とした。

「なんか、悲しいな」

 はじめちゃんが不在になってしまった為、事務所の入っているビルは一時的に五月雨の幹部が購入。管理も五月雨が行う事になり、その他諸々もはじめちゃんの残ったデータから引き継がれた。

 ハッキングの痕跡から相手を突き止め、彼女が消したがった分は残っているのも含めて完全に消去。一部が焦げた身体はヱマと南美の判断で保管される事になった。

『ネット、メタバース両方で直接探る。リアルの事は陰山長官、田嶋総裁の二人に任せた』

 グループ通話にて早坂は既に意識移動を完了している事を告げた。陰山はただ分かったとだけ返事をした。

『大丈夫なのか? 相手は全身義体のうえに技術もあるのだろう』

 田嶋の心配した声に早坂はすぐに答えなかった。

『あたし以外に誰が出来るって言うの』

 一瞬いつも通りの生意気な態度になると、彼女は電話越しの音質で溜息を吐いた。

『もしバーチャル世界で何かあればリアルの身体は処分してほしい。電脳を乗っ取られたらそれこそ最悪な事になる』

 淡々としたトーンに田嶋は肯いた。

『……今回OSIRISは使うのか』

 陰山の問いに早坂はかぶりを振った。

『まだ未定だよ。幾ら元政府組織とは言え今は非公式のハッカー集団だ。一般人の彼らを無闇に巻き込むわけにはいかない』

『それも、そうだな』

 沈黙が幾つか流れたあと、早坂は『それじゃ』と短く言ってグループから抜けた。残った二人はそれぞれ息を吐く。

『結局奴は何がしたいんだろな』

 陰山の呟きに田嶋は呆れたように答えた。

『単に、何かを壊したいんだろう』

 最悪な事にその欲求がヱマにも向いている。二人は今後の方針を話し合うとそれぞれのタイミングでグループから抜けた。

 事が進展する前に、南美に退院の日が言い渡された。五月雨が管理するようになった事務所なら、恐らくセキュリティ的にも大丈夫だろう。そう陰山が判断したが早坂本人からの連絡は一切なかった。

 最後にノアの活動を停止させる薬を注射してもらい、南美はいつものシャツとズボンに着替えた。二人としては不安が募る、然し病院側はあくまでも入院患者とその家族として匿う事しか出来ない。

「無人タクシーで帰ろう」

 南美が刺されてから一ヶ月近くが過ぎた。鳩尾の辺りをさする彼を一瞥し、やってきたタクシーに足を踏み出した。

 既に壊れた部分は修復されており、ソファは似たような形の新品に変わっていた。ヱマが事務所から立ち去ってからなので、はじめちゃんがわざわざ探してくれたのだろう。

「……なんか、落ち着きますねえ」

 大きく呼吸をする南美に「そうだな」と笑った。だがもうあの小型ドローンはいない、スーツのジャケットを脱いだ。

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