33. ひとつの決意
中東部アフリカの×国を研究しているのなら、現地にフィールドワークに行くべきではないのかということを、昨年の研究発表会で、ぶっきらぼうに言われた。冷ややかな表情で、ぼくと目を合わせずに。
手を上げることなく、発表が終わってすぐに、ヤジのように飛んできた「質問」ではあったけれど、その内容は核心をついている根本的な問いだ。
だけどぼくは、内戦で心身に深い傷を負った人びとにインタヴューをしたり、和解の実践の現場(法廷や団体の取り組みなど)を見聞したりすることとは、別の角度から移行期正義を見ている。
具体的に言うと、移行期正義を取り巻く「言説」を研究したいのだ。どのような人たちに、どのように移行期正義は「語られて」きたのか。言いかえるなら、どのような形で、議論され、評価されてきたのか。そうした観点から、×国の移行期正義の本質を浮かび上がらせていきたいのだ。
×国の移行期正義は、とてもねじれた形をしている。もっというと、あまりに複雑な様相を
(そしてぼくが、博士課程に進みたいという気持ちを、少なからず抱いているのは、他の国の事例を分析したり、移行期正義という「概念」が構築されていく歴史を
繰り返すと、言説を研究する以上は、実際にフィールドワークを行なう必要はない。そして、もっと積極的な理由として、現地で「
つまり、そうした感情に振り回されてしまい、冷静に言説の分析ができなくなる可能性があるということだ。自分の感情と同調するような「語り」以外を受け付けなくなってしまうのではないか、という危惧と言い換えてもいい。
そのときぼくは、そのような受け答えをした。しかし相手は、「行くのが面倒なだけだろ」と吐き捨てるように言い、やれやれみたいなジェスチャーをして見せた。悔しかったし、腹が立ったし、反論があるのなら、ぼくと向き合う姿勢を取ってほしかった。
しかしぼくは、自分の信念を曲げるつもりはない。それは研究を続けているうちに、どんどん確信に変わっていった。だからぼくの論文には、この一文を書きこんでいる。
《本稿の筆者は、実際に現地に足を運んでいないからこそ、×国の移行期正義をめぐる言説を――語られ方を、中立的に
* * *
そしていま、次々となされる厳しい質問に対して、自分の信念を――研究の妥当性を
「たしかに、いままで蓄積されてきた民俗学的な分析の方法を用いるべきだというご指摘は、妥当だと思います。ですが、民俗学の外部に、或る対象を分析する方法論があり、その方が××地域の両墓性が、××地域の特徴とどのような関係を築いているのかを明らかにするにあたり有効だとすれば、先生のご指摘なされた分析の方法を使うより妥当だと考えています」
普段の美月からは感じ取れない
「フーコーの議論を持ちだしたという一点におけるご批判ならば、フーコーの議論を参照することにより、いままで明らかにされてこなかったことを、明らかにできたかどうか、その結果により判断されるべきであり、あらかじめ研究の方向性を
これだけ理路整然とした受け答えを、あのときのぼくは出来なかった。それはもちろん、ぼくの実力不足であるわけだけれど、どうしてももうひとつの理由を探し出してしまう。
ここにいる人たちはみな、美月の研究に真剣に向き合い、発表の内容を傾聴した上で、手を上げてから質問するという当たり前の礼儀を守っている。そうした環境が、ぼくたちの昨年の研究発表会では、まったくなかった。
なんとか「まともな」研究発表会にしようと努めてくれたのは、ぼくたちを指導してくれている先生方くらいだった。それでも「まともな」ものにはならなかった。
ぼくはここにきて、ひとつの決意を抱いた。これから、
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