34. 失策

 山の上にある琥珀紋学院こはくもんがくいん大学とは違い、中心街にある観音かんのん大学は、ご近所さんとはいえ、最寄り駅が別だし、学生が集う「学生街」も重ならないし、地形的には「周縁」と「中心」の関係にあるといってもいい。


 観音大学の学生は、初詣や海水浴、花見や紅葉狩りのときにしか、こちらの方へは来ない。そしてぼくも、あまり観音大学の「エリア」にいくことはない。


 こちらでは見ないような、商業施設や専門店や飲食店がたくさんあるけれど、さっさと駅に向かうバスに乗る――と、その前に、美月みづきから電話がかかってきた。


鱗雲うろこぐもくん?』

「どうしたの? 美月?」

『ちょっとお願いがあるんだけど、いいかな?』

「お願い?」

『うん、大学の校門の方まで来てほしいんだけど……』


 周りに聞かれたくないのか、どこかの隅でこそこそと話しているようだった。後ろからは、学生たち(だと思う)のにぎやかな声が聞こえてくる。どうやらこれから打ち上げがあるみたいだ。


 しかし、その打ち上げにぼくが呼ばれるわけがないのだから、美月はきっと、それを断るための理由として、ぼくを使おうとしてくれているのだろう。


 バス停から観音大学の方へと引き返す。来たときよりも、空はえ、見事に晴れ渡っている。いまだ寒々しい日々が続いているけれど、今日はどこか温かいような気がする。


 朱色の門の向こうは煉瓦敷れんがじきになっていて、その奥にそびえているのが大講堂で、そこでは、入学式や卒業式が営まれるのだと思う。

 その裏側には、日々講義が行なわれているとうがあり、今日はそこのいくつかの教室で、同時並行で発表会が行なわれていた。


 ひとつの教室だけが使われるわけではない。それくらい大学院生の数が多いのだ。

 美月の所属する研究科には、百人を越える大学院生が在籍していると聞いたとき、そこで営まれている「学生生活」を、まったく想像することができなかった。ぼくたちの境遇とは、あまりに乖離かいりしている。


 細かく区切られた休憩時間のあいだに、聞きたい発表が行なわれる会場に足を運ぶ。ぼくは、美月の発表を聞きにきただけのはずが、結局、いくつかの教室をしていた。


 一日中この場所にいたいと思わせられるような魅力が、そこにはあった。発表の内容――研究の成果は、どれも充実していて、それらはぼくを圧倒した。ぼくの研究より、ずっと高度なことをしている。もちろん、ぼくの気持ちは、沈んでいった。


 空は茜色に染まり、夕陽が大講堂の屋根の上にどっしりと構えていた。門から出てくるひとはいても、入っていくひとは、まったくと言っていいほどいなかった。


 それにしても、なかなか、美月の姿が見えない。門の周辺はどんどんひとがいなくなり、警備員の方が不審そうにこちらを見ている。

 このままだと、声をかけられるかもしれない。電話をかけるふりをした。すると、テキストメッセージが送られてきた。


《わたしのゼミで打ち上げをすることになって、断ろうとしたんだけど、どうしても断りきれなくて……だから、先に帰ってくれて大丈夫だよ。ほんとうに、ごめんね。終わったら、ちゃんとメッセージを送ります。取り急ぎの連絡でごめんなさい》


 美月の性格からして、こうなることは不自然ではない。それでも、どこか、もやもやとした気持ちになる。だけど、この大学とはまったく関係のないぼくが、なにか口を挟むことなんてできないから、おとなしく帰るしかない。


 と思ったが、再度バス停の方へと戻ろうとしたところで、警備員の方に声をかけられた。

 今日は研究発表会に来たこと、ひとを待っていたこと、しかし来ないことが分かり、これから帰るつもりだったということ……を丁寧に説明した。身分を証明できるものを見せてもらいたい、とのことだったので、学生証を提示した。


 その後も、いくつか質問に答えなければならなかった。きっと、それほど不審に見えていたのだろう。

 ようやく解放されたころには、夕陽は大講堂の後ろへと隠れて、冬の夜の陰が至る所に落ち、冷ややかな寂しさが感じられた。そこへ、なにやら賑やかな声が聞こえてきたかと思うと、一塊ひとかたまりの学生たちが、こちらへと近づいてきていた。


 集団から少し離れて歩いている女性がいたかと思ったら、前の方からひとりの男性が近づいていき、その隣を歩みはじめた。なにか話しかけているように見える。


 じっとそちらを見ていると、集団から離れて、うつむきながらオトコの話を聞いている女性が、誰なのかに気付いた。


「忙しくて切る暇がなかった」という、腰近くまで伸びた黒髪と、「お気に入り」だというベージュ色のコート――その女性は、間違いなく美月だった。


 なぜ、そうしたのかは分からない。ぼくは、足早に、その集団の方へと歩みを進めていた。どんどん距離がせばまるにつれて、学生集団は――もちろん美月も、ぼくの姿を認めたらしい。

 そして、美月が、戸惑った表情をしているのが分かった。そこでようやく、ぼくのしていることが、であることを自覚した。

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