第6話 お初にお目にかかります、皇帝陛下

 帝国での最初の味方を見つけたあと、ルーシーは彼の言葉通り隣の部屋で落ち込んでいたリリィとヒースをどうにか慰めて、同じ部屋で皇宮に入る前の最後の夜を明かした。次の日は風のない穏やかな秋晴れで、その青い空を見上げて、ルーシーは小さく笑みを浮かべる。

(世界に祝福されているみたいね)

 本当は、そんなことないのだろうけれど。

 ルーシーは空から目を逸らして目の前にそびえたつ大きな門を見上げた。皇宮と平民も入れる皇宮前の広場を区切る門は、扉のちょうど真上に大きな太陽が彫られている。

 太陽皇帝の威信を、民に、ここを訪れる異国の者に、見せつけるための門だ。

 ルーシーは一人、門へと一歩を踏み出した。

 招かれなければ、この門はくぐれない。

 招かれたのはルーシー一人で、さらに言えば、モンシャイン公爵がリリィとヒースの同行を許したのもここまでだった。

 だから、ここから先はひとりで進むほかにない。

「ルーシー様、どうかお気をつけて」

 リリィの声は小さく震えていた。いつだって真面目で無愛想な顔を崩したことのない彼女の瞳が潤んでいる。唇が震えている。そんな顔をさせているのが自分だと思うと、ほんの少し嬉しくて、その何倍も胸が痛んだ。

「泣くものではなくよ、リリィ。わたくしは、夢を叶えるためにここへ来たの。悲しいことなんて、ひとつもないわ」

 愛しのメイドを抱きしめることすら出来ない体でも、憎い男を殺すことはできる。彼女を泣かせても、そのために生きると、もう随分昔に決めてしまったから。

「それじゃあ、リリィ、ヒース。行ってまいります」

 美しく、丁寧に、お辞儀をしてから、ルーシーは門に向き直った。門の前には、この国で出来た最初の味方が下手くそな笑顔で待ち構えている。目を閉じて、呼吸をひとつ。目を開けたときには未練はひとつもなく。

 ルーシーは、皇宮門に向かって、大きく一歩踏み出した。

 その、迷いなく進んでいく背中に、リリィは思わず指先を伸ばす。断ち切れないのは彼女の方だった。いかないで、と、縋りつこうとした手が、まっすぐに歩いて行く主に、僅かに届かず空を切る。ぶらん、と揺れて、その反動でこらえていた涙が一筋、リリィの白い頬を伝った。

 命令がないから、ともに逃げ出すことはできなくて。

 その背に迷いがないから、名前を呼ぶことはできなくて。

 愛していたから、笑って送り出すことなんて、できるはずも、なくて。

 リリィは透明な涙を流しながら、静かに瞼を閉じた。わずかに頭をさげて、温かなすべてに背を向けて、憎い男の元へと嫁ぐ主を見送る。

 その道に、柔らかな光がありますように。

 その果てに、どうか、幸福がありますように。

 声にならない祈りを捧げて、リリィは門の向こうへと消えていくルーシーに、囁くように言葉を返した。

「いってらっしゃいませ。ルーシー様」


 門をくぐったルーシーを待っていたのは、深紅の長い髪を持つ壮年の女性だった。鎖骨の見える、真っ白なドレスが深紅の髪の鮮やかさを引き立てる。長いまつ毛に縁どられているつり目は皺があってなお勝ち気で、口元に浮ぶ笑みを挑戦的に見せていた。

「ごきげんよう。モンシャイン公爵令嬢。噂で聞くより、ずっと小さく見えるな」

 ぎこちない仕草でドレスを持ち上げて頭を下げる赤髪の女性に、ルーシーは微笑みを浮かべて答える。

「ごきげんよう、クラッド公爵夫人。お出迎え、どうもありがとう。噂で聞くより、ずっと美人ですのね。わたくし、美しい人は好きよ」

 美しく、洗練された仕草でルーシーは礼を返す。ふわり、と静かにおちたドレスの裾からクラッド夫人はバツが悪そうに目を逸らした。その恥じるような表情に、ルーシーは眉を寄せる。

「そんな顔をなさるものではないわ、クラッド夫人。あなたがドレスの所作に不慣れなのは、いつも軍服を着て、前線に居るからでしょう。自ら戦場に立つ、その勇気を恥じることこそ、恥ずべき行いではなくて?」

 深紅の髪をなびかせて戦場に立つ、紅の公爵夫人。

 その姿だけで味方を鼓舞し、敵を戦慄させる、戦場の女神。

 ルーシーは驚いたように目を見開くクラッド夫人をじっと見つめる。彼女がルーシーの言葉を受け取るまで、三度、ゆっくりと瞬きをするだけの間が空いた。それから、クラッド夫人は弾かれたように大きな声で笑い出す。

 お腹を抱えて、背を反らして、大声で笑う人なんて初めて見たものだから、今度はルーシーの方が呆気にとられて固まった。

「ははっははっははははは! こりゃあ、坊にはもったいない良い姫様が来たもんだ」

「だろう? ボクも、ほんの少し話しただけで、あっという間に彼女が気に入ったよ」

「なんだ、リアムじゃないか。アンタ、また仕事をさぼって遊んでたのかい? いい加減追い出されるよ」

「追い出されはしないさ。皇帝は愚かだけど、決して非情な奴じゃあない。誤解されがちだけどね」

 ね? と、魔法使いの少年に話をふられて、ルーシーは危うく全力で首を横に振りそうになったけれど、なんとか耐えて微笑んだ。ここで嘘を見破られてしまえば、暗殺どころか、皇帝に目通りをすることすら叶わない。

「ええ。そうであると嬉しいわ」

 本当は、非情で、非道なやつであって欲しいけれど。

 優しい人を殺すのは、非道な人を殺すよりもきっと心が痛むから。

「大丈夫。あいつは優しいさ。最近は、すこし、疲れているようだけど」

「はは。不死身なんかより、疲れない体を願えばよかったのにね」

「……そうだねェ。そうすれば、そうだったなら……きっと、いまも」

 優しい男のままだったろうに。

 深く、沈みこむように呟いて、クラッド夫人は顔を上げた。

「さ、付け焼刃の淑女ごっこも暴かれたことだし、ちゃんと自己紹介をしとうこかね」

 その言葉に、ルーシーは居住まいを正した。皇帝についての話には気になるところが山ほどあれど、あまり情報を欲しがるのも得策ではないだろう。そこから疑われては、元も子もないのだから。

「アタシは、エリカ・オリー・クラッド。始まりの御三家がひとつ、紅の公爵家を束ねる女主人さ。知っての通り、クラッド公爵家は女でも戦場に立つ家だ。口と所作の悪さは勘弁しておくれよ?」

 おどけた様子で肩をすくめるエリカに、ルーシーは微笑んで頷いた。

 王国が生まれる前は諸外国との小競り合いは日常的なもので、そこかしこで起こる争いを武力でおさめてきたのがクラッド公爵家だ。その家に生まれたものは、女であろうと男であろうと、幼いころから剣を習い、兵法を叩き込まれるという。

 始まりの御三家としてモンシャイン公爵家、フォンセ公爵家と並び立つ上級貴族だが、そんな風にして戦場で育つからか、豪胆な家風ゆえか、言葉遣いや所作が粗暴な者が多い。

 形式的なお世辞を何重にも着せた物言いよりも、エリカの砕けた言葉の方がルーシーには心地よかった。

「ええ。わたくしも、剣や兵法に詳しくないのはご容赦くださいませ? クラッド夫人」

「ははっ! あんたの細腕で剣をふったら、あっという間に折れちまうよ」

 エリカは大きく口をあけて笑う。白いドレスに包まれたエリカの腕は、確かにルーシーよりは太く見える。それでも、ローガンやノアよりはずっと細かったが。

「君、自分の荷物ひとつ持てないもんね」

 くるくると指先を動かして、ルーシーの鞄を宙で踊らせながらリアムが笑う。

「あら。わたくしの荷物が持てるなんて、幸せなことではなくて?」

 ツン、と澄ました顔で言ってみせれば、エリカはさらに大きな笑い声をあげて、リアムは真面目な顔で「そうだね。そうかもしれない。なんせ、恩人の役に立てるんだから」と頷く。

 ここにローガンが居たなら「君のものでも、重い物を運ぶのはごめんだよ」とそっけなく言うだろう。

 そして、そんなつれないことを言いながら、結局ぜんぶ持ってくれるのだ。

 優しい友人の顔が浮かんで、ルーシーはぐっと奥歯を噛んだ。自分のために別れを告げたのに、寂しさはしつこく居座る。

「さて。あまり喋っていると、皇帝陛下とのお約束に遅れてしまいますわ」

 影のように付きまとう寂しさを振り切るように、ルーシーは顔を上げた。


 エリカの案内でまずは、ルーシーに与えられた自室へと向かった。さすがに荷物をくるくるさせたままで謁見をするわけにもいかない。大きな天蓋つきのベッドが真ん中に置かれた広い部屋だった。壁際のクローゼットの中には、繊細な刺繍の施された青や緑のドレスがいくつもかかっていて、エリカの話だと、それはルーシーのために誂えられたものらしい。

(わたくし、物で絆されるほど子供ではなくてよ)

 それはそれとして、綺麗なドレスに罪はないから、あとで着てみようとは思うけれど。


 ルーシーの部屋に荷物を置いて、来た道をぐるりと戻る形で三人は皇帝の座す一番奥の部屋へと向かった。皇帝暗殺の目的に気が付いて、部屋を離したのだろうか。ルーシーはぐっと気を引き締めて、エリカの後を追う。

「さ、着いたよ。ここが、ルーカス皇帝の居る部屋さ」

 エリカは扉を開ける前に、振り返ってルーシーを見た。鋭く、息を吸い込んで、何かを言おうとしたようだったけれど、結局彼女は何も言わず、曖昧な笑みだけを残してドアに向き直る。ルーシーは粘つく唾を飲み込んで、ふるえる手を握りこんだ。

 瞼を閉じれば、そこで、まだあの家が燃えている。

 血の滴る剣を持って、炎の前に皇帝が立っている。

 深いところに根付いた憎しみが、今も、ルーシーの腹を焼いている。

「開けるよ」

 エリカはちらりとルーシーの様子を窺ってから、金色のドアノブに手をかけた。ルーシーは作った微笑みと小さな頷きでその気遣いに答える。リアムとエリカによって、最後の扉が大きく両側に開かれた。玉座の奥から差し込む光が、まっすぐにルーシーを照らし出す。

 太陽の威光の前に、家臣がひれ伏すための部屋。

(あの門といい、この部屋の作りといい……趣味があわないったらないわ)

 ルーシーは開け放たれた扉の前で首を垂れる。体に染みついた美しい所作で、そっとドレスを持ち上げて、腰を落とす。

お目にかかります。わたくしはルーシー・モンシャイン。恐れ多くも、御身に尽くす栄誉をいただきたく、参上いたしました」

 目を伏せて、ルーシーは皇帝の言葉をまった。息を飲むような、小さな物音。次いで、低い声が空気を震わせる。

「面をあげよ」

 その命令をうけて、ルーシーは顔をあげた。あの日と寸分違わぬ姿で、皇帝はそこに居る。

 夕暮れと同じ橙色の髪。

 血の気のない肌。

 白い皮手袋をした細い手。

 そこだけ、切り抜かれたように白い瞳。

 黒々とした瞳孔が、射抜くようにルーシーを見る。それから、皇帝は薄い唇に微かな笑みを浮かべた。

、娘。俺は、お前の存在を歓迎しよう」

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