第5話 滴る血と盛る炎を前に、恋に殉ずると誓った、ただの乙女よ

「――オスカー」

 ぼんやりと、夢の名残を纏ったまま、ルーシーの意識が浮上する。

 薄く開いた視界の真ん中に薄い青の瞳が見えて、ルーシーはもう一度、掠れた声で彼の名前を呼んだ。「オスカー」呼びかけながら、あぁ、これは彼の瞳ではないと、不意に気が付く。彼の瞳はもっと、水底のように深い青色だった。

 こんな風に、秋晴れのような青では、なくて。

「オスカー? 生憎だけど、ボクはそんな優しい響きの名前じゃあない。ごめんね?」

 オスカーの代わりにルーシーを覗き込んでいた黄色い髪の少年は、そういって首を傾げる。まだ少し眠気が残っていたけれど、知らない少年の前でいつまでも眠りこけているわけにもいかない。起き上がろうと力をこめたルーシーを少年が額の上に手をかざすことで押しとどめる。

「動かない方がいい。君の中にいる月の女神は、君を不死身にはしてくれない。むしろ逆だね。死に近い場所に魂を引きずりこもうとしてくる。嫌だねえ。彼女、昔から嫉妬深いんだ」

 ぺらぺらとよく喋りながら、少年は手に持った針と黄色い糸で白い布地に何かの模様を縫いつけていた。話の意味も、やっていることも、一体誰であるのかも、何ひとつ分からない人物だ。

 ルーシーは起き上がるのは諦めて、体から力を抜いた。正直なところ、頭の後ろがじんじんと痛くて、とてもじゃないけれど体を動かす気にはなれない。視線だけで左右を見回してみると、どうやら今寝ているのは宿屋のベッドのようだった。

「それで、あなたは一体何者かしら? 女神のことを、彼女、なんて呼ぶ人には初めて会ったわ」

「そうか、そうだね。まずは自己紹介から始めよう。ボクにとっては初めてに感じられない相手でも、君には間違いなく初めてだ」

 少年は口と一緒に忙しなく動いていていた手をとめて、ルーシーに向き直った。黄色いくせ毛がふわふわと揺れる。秋晴れの空を映したような瞳がルーシーを見つめて、口元には少し歪な笑みを浮かんだ。

「ボクの名前はリアム。すべてが詰まった小さな箱を守ることが生きがいの、くだらない生き物さ。ま、片手間で皇帝を支える呪い師なんてのもやってるが、それはまあ、本当に片手間だから、重要なことじゃあない。はじめまして。それから、よろしく、」

 ――魔女の愛し子。

 目を細めて、囁くような声で、リアムと名乗った少年はルーシーをそう呼んだ。ぺらぺらと話す様子に、うっかり警戒心を緩めていたルーシーはその言葉できゅっと心を引き締める。

 ルーシーがモンシャイン家の実子ではなく、拾われただけの孤児であることはそれなりに有名な話で、ただの平民ならともかく、帝国の呪い師が知っていたとしてもなんの不思議も不信感も抱かない。

 けれど、モンシャイン家の養子となる前に彼女を育てていたのが魔女だというのは、決して公にはなっていないことだ。あの家が燃える前からルーシーを知っているローガンでさえ、あの小さな家の主人が魔女であることは知らない。

 知っていたのは、ルーシーを除けば、時折魔女のもとを訪れていた黒髪の青年――オスカーだけ。

 彼は話すだろうか。親しくしていたひとの秘密を、こんな誰とも知れない子供に。

 絶対に話さないだろうという気もしたし、彼女を守るためなら信頼できる誰かに、いずれ後を託すつもりで話していてもおかしくはないだろうという気もする。ルーシーが彼について知っていることなんて、甘い物が好きとかパイを食べるのが下手だとか、心臓の音が少しゆっくりなこととか手の甲に太陽を模った痣があることくらいで、何を考えていたのかなんて、今もひとつも分からない。

 そこまでぐるぐると考えて、それでもやっぱり、目の前の少年が知っているのは違和感があった。

 だって、彼は

 仮に、後を託すために話すとして、オスカーが自分より若い人を選ぶのは得心がいく。後継なのだから、自分が死んだあと、なるべく長く生きてくれそうな人の方がいいのは明らかだ。けれど、たとえ、そういう基準で選んだとしても、少年はやっぱり対象外だ。

 、まだ十にも満たなかっただろう、子供は。

 子供は大人に守られるべきだとか、安全なところでぼけっとしている方がいいとか。

 そういうことを、気にするひとだったことくらいは、ルーシーでも知っている。

 にこにこと、得体のしれない歪んだ笑みを浮かべ続けるリアムを、ルーシーはじっと見つめた。まだ十一かそこらだろうに、正体も思考も掴み切れない。

「あなた、一体何者なの」

「何者……難しいことを聞くね? 逆に聞くけれど、君は君の正体をはっきりと他者に告げられるかい? 己は何者だ、と高らかに叫ぶことができるのかい?」

 子供とは思えない怜悧さで、リアムは青い目を細めた。その問いに、ルーシーは短く息を吸って答える。

「わたくしはルーシー。滴る血と盛る炎を前に、恋に殉ずると誓った、ただの乙女よ」

 これで、満足でして?

 きっぱりと告げたルーシーに、リアムはぱちぱちと瞬きを繰り返したあとで眉をよせた苦い表情を浮かべた。

「うーん、できるのか。できてしまうのか、君は。そうか。それならボクも、あまりのらりくらりと誤魔化してはいられないな」

「ええ。わたくしに対価を払わせたのだから、もうあなたには、答えない、なんて選択肢はないわ」

 少年はひとつ、ため息をついてからルーシーと目を合わせた。

「ボクはリアム。さっきも言ったけど、すべてがつまった箱を守る者だ。太陽を司る神が地上に残した――いやま、ボクが奪いとったんだけど――全能のつまった箱を、守るのが生きがい。……ま、分かりやすくいうと、魔法使いってところかな」

「魔法使い」

「そう。魔女の同類、同胞はらから、共に神を謀った者。だから、彼女が魔女であることも、君が彼女に育てられたことも知っている」

「お待ちになって。あなた、いったい、おいくつ?」

 魔女の同胞というのなら、見た目通りの年齢でないことは確かだ。彼女は見目こそ麗しい二十歳の淑女だったけれど、その実、帝国よりも長生きで、オスカーは喧嘩になるとすぐさま彼女を年上扱いして許しを乞うていた。

 それが反対に逆鱗に触れて、結局、許してもらうまで数日かかっていたけれど。

「ボクは十一さ。ま、この体は、という意味だけどね」

「体は?」

「ボクは一度死んでるからね。魔法使いも魔女も、別に不死身なわけじゃない。ナイフで心臓を刺されれば苦しみながら死ぬ。ま、ボクの場合はお節介な同胞たちが、死に切らせてくれなかったわけだけど…………おっと、話が脱線しすぎたね。危うく本題を忘れるところだった」

 リアムの言葉にルーシーは素直に首を傾げる。彼に対する警戒心はもうほとんど解けていた。魔女の同胞を名乗る人が無暗に他人を傷つけるとは思えない。

「本題? この話に、そんな明確な着地点が存在して?」

「あぁ、あるとも。目が覚めた君に、ボクがまっさきに、一番最初に、言わなければならない言葉がね」

 そう前置きして、リアムは居住まいを正した。姿勢を正して、少年は気真面目な顔でルーシーを見る。

「ルーシー、助けてくれて、ありがとう。君のおかげで、ボクは六十七回目の死を迎えずに済んだ」

 ぱち、ぱち、ぱち。精一杯の誠意で謝辞を述べたリアムに対して、ルーシーがとったのは悠長な瞬き三回だった。ぼうっとした顔で、記憶をたどって、ようやく彼女は(そう言えば、自分がとっさに庇った少年は、こんな黄色い頭をしていたかもしれない)と気が付いた。

 短い、不自然な沈黙を誤魔化すようにルーシーはひとつ咳ばらいを落とす。こんなに真摯にお礼を言われたのに、まさか今の今まで気づきませんでした、なんてことを悟られるわけにはいかない。

 面子が命なのは、なにも男児だけではないのだ。

「いいのよ。幼子を守るのは乙女の義務ですもの」

 ツン、と澄ました表情を作って、ルーシーはなんとかそう言い切った。リリィがこの場に居たら「ルーシー様、今の今までお気づきになられませんでしたね?」と真顔で嘘を暴いてくるだろうが――。

「お待ちになって。わたくしのリリィはどこ? ヒースは?」

 正体不明の少年に気をとられて、今の今まで失念していたけれど、リリィとヒースの姿がこの部屋のどこにもない。あのリリィが命令もないのに、ルーシーの傍を離れるなんて考えられないことだ。まさか二人の身に何か――。

 焦りを見せるルーシーの視界を遮るように、リアムは顔の前に手をかざした。

「君の従者二人なら、隣の部屋で落ち込み切っているよ。なに、心配はいらない。君のせいで落ち込んでいるのだから、君がひとこと大丈夫だと言えば元気になるさ」

「それは、本当?」

「本当だとも。同胞に誓ってもいい」

 リアムの言葉にルーシーは全身の力を抜いた。

「それで、だ。ルーシー。ボクの本題は、言葉だけのお礼で終わらない。何度でも生まれ直すとはいえ、死ぬのは耐え難い苦痛だ。その苦痛から救ってくれたお礼として、君が、君の恋に殺されるまでの旅路を、ボクは手伝おうと思う」

 リアムはそこで一度言葉をきって、下手くそな笑顔を浮かべる。

「帝国に縁者も味方もいない君にとっては願ってもない申し出だと思うのだけど……どうかな?」

 下手くそな笑顔をさらに下手くそに歪めて、リアムは小さく首を傾げた。別に、お礼をして欲しくて助けたわけではないけれど、確かに、それは願ってもない申し出だ。ルーシーは目を伏せて、僅かに思考を巡らせる。

(呪い師と言えば、皇帝の側近でしょう。そんな人が味方になれば、ずいぶん心強いけれど……どこまで本当か、分からないのが厄介ね)

 魔女の同胞を疑いたくはないけれど、この縁談に応じた目的が帝国側に知られてしまえば、ローガンの開戦を待つまでもなく殺されるだろう。少年も言った通り、月の女神はルーシーを不死身にしてくれたわけではないのだ。

 同じように、神を宿して人の道を外れた皇帝とは、そこが大きく違う。死なないための、最低限の疑いは誰に対しても向けるべきだった。

「ええ、そうね」

 ルーシーはリアムと視線を合わせて、微かに頷く。

「確かに、あなたが味方となってくれるのは心強いわ。わたくし、皇帝陛下と仲良くなりたいんですの」

 そうして、殺してさしあげたいの。

 後に続く本音は、ぐっと喉の奥で飲み込んで、ルーシーは記憶の中の魔女を真似て強気な笑みを浮かべた。

「手伝っていただいても、よろしくて?」


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