第4話 お呼びしても、よろしくて?

***

 すぐ近くで馬が鳴いた声を合図に、ルーシーは魔女に言われてかき混ぜていた鍋を放り出すと、小さな花の咲き誇る庭へと駆けだした。鍵のかかった扉を開けるのももどかしくて、開け放ったままの出窓から転げるように外へと飛び出す。

 くるん、と器用に一回転して地面に下りる直前で、ルーシーは大きな手に抱き上げられた。そんな風に躊躇いもなく、ルーシーに触れるのは世界でただ一人だけ。喉の奥で静かに笑った声が聞こえて、それから、低い声が耳をくすぐる。

「お転婆め」

 その声の柔らかさが好きだった。笑い声の気配が底に潜んだ声。優しくて、やわらかくて、愛されていると分かるから安心する。

「いいか、窓から出入りしていいのはそよ風だけだ」

 片手で軽々とルーシーを抱き上げたその人は、空いている方の手でやわく頬を摘まんだ。覗き込んでくる青い瞳が深い湖の底みたいに綺麗で、真ん中の黒々とした瞳孔が自分を見つめているのが嬉しくて、ルーシーは笑いながら白い首筋に抱き着く。

「ふふふ」

「聞いているか、お転婆姫」

「わたくし、そんな名前ではなくてよ?」

 む、と唇を尖らせてルーシーは首筋から顔を離した。こつん、と額を合わされて、彼の少し長い黒髪が頬をくすぐる。

「聞いているか、ルーシー」

「ふふ。くふふ」

 ルーシーは口元に両手を当てて、にこにこと笑う。名前を呼ばれるだけで嬉しかった。目が合うだけで幸せだった。

「返事は?」

 焦れたその人はもう一度ルーシーの頬を摘まんだ。ほんの少しも痛くないから、意地悪にすら優しさを感じる。

「きいてなぁーい」

 きゃらきゃらと笑って、ルーシーは背中を逸らす。本当はひとつも漏らさず聞いていたけれど、どうせ次に彼が来たときも同じように窓から飛び出してしまうのだから、聞いていない事にする方が得策だ。

「まったく……このお転婆具合は、いったい誰に似たんだ?」

 ため息をつきながらも、その人の顔には笑みが浮かんでいる。お転婆め、と怒るわりに、お転婆の方が好きなのだ。

「あなた」

 笑うのをやめて、ちょんちょんと彼の頬をつついてみれば、さっきよりもずっと大きなため息が返ってくる。

「はあ……。俺は、とっても優秀で、褒められてばかりいる子供だったんだぞ?」

「うそね」

「本当だ」

「ぽろぽろとパイを床にこぼす人が、いったい何をしたら褒められて?」

「お前のなかで、パイをこぼすのはどんな重罪なんだ」

「わたくし、お前なんて名前ではないの」

「ルーシーのなかで、パイをこぼすのはどんな重罪なんだ」

 本当は「お前」でも「お転婆姫」でも、彼に呼んでもらえるなら、それを新しい名前にしたって構わないのだけれど、指摘するたび律儀に言いなおしてくれるのが嬉しいから、そんな本音はもうしばらく秘密にしておくと決めている。

「ほら、あなたたち、いつまでそうして、遊んでいるおつもり?」

 ひょこり、と出窓から魔女が顔を出す。

「いつまでも!」

「あら。それじゃあルーシー、あなたの分のパイはいらないわね」

 魔女が意地悪く目を細めて笑うのに、ルーシーはぷくりと頬を膨らませる。

「食べるもん」

「そう。じゃ、中にはいって手を洗っておいでなさい。そこのぼんつくも、一緒にね」

「俺は、ぼんくつなんて名前じゃないんだが」

「独りよがりな愚か者はぼんつくで充分よ」

 さらりと言って、魔女はそのまま小さな家の中に戻る。彼はなおも、何かを言おうとしたようだったけれど、結局何も言わずに、ルーシーを抱きかかえて誕生祭のリースがかかった扉へと向かった。その横顔がちょっぴり、悲しそうだったから、ルーシーは両手で彼の頬を包み込む。

 真っ青な、冷たい湖みたいな瞳に自分の姿が閉じ込められている。

「わたくし、あなたの名前を知ってるわ」

 彼はぱちくり、と瞬きをする。ルーシーの言葉の真意がまるで伝わっていないようだった。この人は、時々こうして鈍いのだ。ルーシーは魔女の綺麗な笑顔を、精一杯真似して表情をつくる。

「お呼びしても、よろしくて?」

 そのセリフでようやく、ルーシーが自分を慰めようとしていることに気が付いて、彼は声を出さずに笑った。目じりをさげて、彼は頷く。

「ああ、ぜひ。その綺麗な声で呼んでくれ」

 ルーシーは、とびきりの笑みを浮かべて、囁くようにその名を口にした。


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