第40話

 この言葉に耳を傾けてしまった春依と雨龍の気持ちが、皓宇には痛いほど理解できる。きっと、母や妻が亡くなったときにこのような言葉を囁かれたら、邪王の印章に手を伸ばしてしまっていたかもしれない。彼が愛しい者たちを蘇らせてほしいと願ったのは一度ではない。


 ドンッと大きな音を立て、寝台に座っていた雨龍は血だまりになっている床に倒れこんだ。もう苦しそうな呼吸もなく、瞳孔が広がっていく。事切れたのだ、と皓宇は瞬時に理解した。きっと邪王も契約主を失い、再び封印されたに違いない。印章は無事に手に入った、これをどうするか……早く朱亜と合流すべきか、と振り返ったとき、足音が近づいてきているのが分かった。小さな音が一人分、どんどん近づいてくる。


 ***


 春依は走る。東宮殿に向かって真っすぐ。まるで矢のように。


 脳裏を過るのは5年前の出来事だった。雨龍が倒れ、ただでさえ陰鬱としていた後宮がさらに暗くなってしまったときのこと。


 雨龍が生まれてきてから、まるで誰かに呪われたのかと思うくらい、2人の妃は御子に恵まれなかった。香玲皇后と美花貴妃、共に気鬱となりそれは後宮全体に波及していく。母たちはあまり子に構うことはなくなり、一日でも早く新たな御子を孕むことばかり考えていた。父である皇帝はよく渡ってきていたけれど、どんよりとした空気を嫌ったのか子どもたちと接することはあまりなかった。乳母も教育係たちも口数少なく、ただでさえ狭い世界なのに、その閉塞感のせいでどんどん呼吸がしづらくなっていく。


「姉様!」


 春依にとって弟・雨龍の存在は、気落ちした時にそれを晴らしてくれる清涼の風そのものだった。母が違っても「姉」と慕ってくれて、愛らしく甘えてくれる。周りとの距離を感じていた春依にそれはとてもありがたかった。仰々しく公主様と呼ばれるときより、雨龍に「姉様」と呼ばれるときの方が自分らしくいることができた。この子のためだったら、自分の身だって惜しくないなんて思えるほど。


 だから、雨龍が大病を患い倒れたと知ったときは絶望し、死んでしまうかもしれないと言われたときはまるで地の底に落とされたようだった。きっとこの国で一番悲しんだに違いない。どうしたら、雨龍の病気を治すことができるのか……そう考えた時、あることを思い出した。


「邪王の印章……」


 天龍国王宮の中に隠されている、と聞いたことがある。邪王はとても恐ろしい存在だと幼いころから聞いていたけれど、それ以上に雨龍が死んでしまうことが春依にとっては恐ろしかった。

 だって、正真正銘のひとりぼっちになってしまうから。見返りもなく自分に愛情を向けてくれる存在がいなくなるなんて、春依には耐えられない。


「……早く見つけ出さないと」


 美花貴妃の慟哭を背にして、隠れながら王宮の宝物庫へ向かう春依。

 邪王の印章を使い邪王を蘇らせれば、その代わりどんな願いでも叶えてくれる。代償としてその身が依り代とされ邪王が復活してしまうが、この際、自分の体がどうなっても構わない。雨龍さえ助かるのであれば! 


 雨龍が倒れてからありとあらゆる場所を探してきたけれど、邪王の印章は見つからなかった。探す場所はもうこの宝物庫だけ、ここになければ……不安が胸をよぎる。早くしないと――雨龍の命の灯は、まもなく尽きてしまう。焦りながら宝物庫のずっと奥まで進んでいった。


「これは……」


 埃を被った真っ黒な木箱。触れた瞬間、背筋を冷たいものが這っていくように体が冷たくなっていく。春依は意を決してその箱を開けた。そして、大きく息を吐く。


 ――見つけた! 邪王の印章!


 叫ぶわけにもいかず、心の中で歓喜の声を上げた。それを懐に隠し、また急いで後宮の東宮殿に戻っていく。もしかしたら、その時扉を閉めるのを忘れてしまったかもしれない。けれどそれは春依にとっては些細な事だった。


 医官たちも治療を放り投げ、美花妃も看病を投げ出し居眠りをしている雨龍の居室に忍び込む。雨龍に手早く説明をして、いざ自分の腕に印章を押そうと振り上げた瞬間、それを雨龍に奪われてしまった。春依は止めようとしたけれど、雨龍は素早くそれを胸に押し付けた。春依はただ愛しい弟の名前を叫び続けることしかできなかった。


「雨龍! ねえ、雨龍!」


 そのまま、彼は意識を再び意識を失ってしまった。どれだけ肩を揺すっても目覚めない。呼吸はしているけれど、まるで死んでしまったかのように顔色が悪くなっていく。春依が助けを呼ぼうとしたその時、どこからか聞いたことのない低い声が聞こえてきた。春依は振り返る、気を失っていたはずの雨龍が目を覚まして起き上がっていた。


「雨龍……なの……?」


 しかし、その目はまるで月のない夜空のように真っ黒だった。


『なんだ、この体は』


 雨龍の口から出てくるのは、先ほどの低い声。彼が印章を押しつけた胸に、同じように真っ黒な細い染みが広がっていく。それは文字のようにも見えたけれど、春依には読めなかった。けれど、すぐに理解した。封印が解かれ邪王が現れたのだ、と。体が震え、床にぺたんと座り込む。自分が蘇らせると決めていたはずなのに、いざそれを前にすると怖くて仕方がない。


『……もう死にかけだな。この体では何もできまい』


 胸のシミが薄くなっていく。春依はそれを止めようと、邪王に支配された雨龍の手を握る。


「お願い! 雨龍の願いを叶えてください! 」

『死にたくない、という願いか。それは、天龍に力を奪われた我だけでは難しいな……』

「そんな……私でよければ、どんなことでもするから!」

『どんなことでも、か。お前に本当にその覚悟はあるのか?』


 春依は頷く。


『ならば血命薬を持ってこい』

「なにそれ、し、知らないです……」

『なんと! 血命薬を知らないとは。仕方ない、それでは我が教えてやろう』


 邪王は春依に、血命薬の作り方とその効果を教えた。飲めばわずかでも寿命が延びる、まさに命の薬。それを飲み、雨龍の体を生かして、その間に邪王自身も力を取り戻すという計画。しかし、その作り方はとても恐ろしい方法だった。春依はその身をわずかに引いてしまう


『怯んだか。それならばこの依り代は返そう。我がいなくなればすぐに死ぬ体だ、どうでもよい……もう他の者と契約する力も残ってはいない、我も印章の中で死んでいくのだろう』

「だめ! 持ってくるから……」

『よい。待っているぞ、娘』


 すっと邪王の気配がなくなっていく。力がわずかしかないのは本当らしく、すぐに雨龍の意識が戻った。春依はぎゅっと彼の手を握り、勇気を振り絞る。まずは心臓を……と考えだした数日後、ちょうどよく王宮の外に刑死された貴族が晒されていた。そこから心臓を盗み出し、言われた通りに血命薬を作る。雨龍に飲ませると、再び邪王が現れた。


『よい。これを月に一度は必ず我に差し出すように』

「これっきりじゃないの……?」

『たった一回で終わると、この体はすぐに死ぬぞ? お前たちが生かしたいと願ったのだろう?』

「でも、心臓なんてどうやって……」

『ふん。仕方ない小娘だ』


 雨龍の細い指が春依の顎を掬う。目の前にあるのはいつも穏やかで優しい目なのに、漆黒に染まり恐ろしいことばかりを口にしている。邪王に乗っ取られた雨龍は妖しく笑った。いつもの可愛い笑い方じゃない、目の前にいるのは雨龍だけど、雨龍じゃない。


『血命薬は我のためでもある。協力してやろう、娘』


 そこから始まったのは、地獄のような日々。心臓を抜き出す実行役を邪王の力で洗脳して、何人もの命を奪ってきた。直接手を下してはいないけれど、春依の心が痛まない日はない。自らのわがままのせいで多くの人が死んでいく。春依の良心は傷つき、ボロボロになっていく。いつ自分の罪を告白してしまおうか、と考えたのも一度ではない。けれどその度に足がすくんだ。春依は振り返る。


「姉様?」


 血命薬を飲み始めてから、雨龍の体の調子は良くなっていった。たまに寝込むことはあったけれど、大きな病気をしたのも嘘のよう。この子を守るためならば、いくらでもこの手を血で汚そう。後悔と決意を何度も繰り返したある日、叔父である皓宇が事件について調べていることに気付いた。正体がバレてしまう前に消してしまおう、と二度襲ったけれどいずれも失敗。すべて、皓宇の周りをうろつく奇妙な女に阻まれてしまった。ならば新たな事件を起こすのは控えようと思ったけれど、血命薬がなくなったとたん雨龍の調子が悪くなってしまった。ならば、急いで自分の手で人を殺め再び作ろうとしたけれど、それも失敗してしまった。もう残る道は一つしかない。


 ――逃げよう。雨龍と一緒に、どこか遠くへ。


 追い込まれた春依は雨龍の居室の扉を開く。しかし目に飛び込んできたのは、信じられない恐ろしい光景だった。


「雨龍!」


 力なく血だまりの中で横たわり、彼の服には血が染みこんでいる。空虚を見つめる眼はもう何も映してはいない。遠くから見ても、もう彼が生きていないことが分かった。信じられなくてわなわなと体が震え始める。その時、叔父である皓宇もこの部屋にいることにようやっと気づいた。


「春依……残念だが、雨龍はもう……」


 項垂れる皓宇。春依は、彼が邪王の印章を持っていることに気付いた。驚愕の震えが怒りに、そして憎悪に変わっていく。懐に忍ばせていた短刀を取り出した。鈍く灯りを反射するその短刀の刃は波打っている。皓宇は雨龍が話していたことが真実であったのだと、ようやっと理解した。


「お前が雨龍を殺したのか!」

「違う、私ではない! 雨龍はもう寿命が……」

「うるさい! お前は、雨龍を妬んでいたんだろう! 将来皇帝になる雨龍のことを! 王位継承権のない異形のくせに! 私から雨龍を奪うな!」


 春依の叫び。彼女も、見目が皆と違う皓宇のことを蔑んでいた一人だったようだ。短刀に皓宇への憎しみを込め、一気に駆け出す春依。同時に背後の扉が再び開いた。


「皓宇!」


 皓宇は顔を上げる。遠ざけていたはずの朱亜が、どうして東宮殿にいるのだろう? 皓宇の反応が鈍くなる。彼の危機を察知した朱亜が春依に飛びかかる。


「皓宇に何してんの!!」

「うるさい! 邪魔をするなら、お前からだ!」


 皓宇は邪王の印章を捨て、朱亜に向かって手を伸ばす。けれど、皓宇を守ろうと身を呈する朱亜にも、朱亜を襲いかかろうとしている春依にもその指先すら届かなかった。丸腰の朱亜は春依の腕を取り押さえようとしたけれど、それは簡単に振り払われた。勢いが余って転んでしまう朱亜。振り返ろうとしたとき、春依が朱亜の腹のあたりにのしかかった。春依は短刀を振り上げ――


「朱亜!」


 短刀はまっすぐ、朱亜の胸を貫いていた。春依がそれを引き抜くと、勢いよく朱亜の真っ赤な血が噴き出しきた。その勢いが怖くなったのか、春依は慄きながら後退っていく。短刀を放り投げ、赤く染まった自分の手を見て甲高い声で叫んでいた。初めて自分の手で命を奪ったのだ、その事実は彼女の小さくなった心をいとも簡単に踏みつぶした。

 朱亜の体からは心臓が脈を打つたびに生温かい血が溢れ、体が端から熱を失い徐々に冷たくなっていく。指先がしびれて力が入らなくなってきた。目の前がかすんで、呼吸もできなくなっていく。


 死ぬんだ。


 朱亜はそう感じ取っていた。邪王を討つこともできず、大切な人を守ることもできず……ただ無念だった。


「朱亜、おい、朱亜! 目を開けろ、大丈夫だ、今医官を……」


 皓宇は血が噴き出している朱亜の胸を両手で抑える。けれど指の隙間から次々と溢れて、それは次第に勢いを失くしていく。朱亜は彼の手の温度を感じながら、一筋の涙をこぼす。


 皓宇の近くに落ちている邪王の印章から、低い囁き声が聞こえてきた。


 ――我と契約すれば、その命、つなぎとめてやってもいい。


 誰がそんな甘い言葉に乗るもんか。じきに朱亜の名を叫ぶ皓宇の声も、邪王の誘う声も聞こえなくなってきた。何か囁くような音だけが聞こえてくるけれど……もう限界だ。体の力を抜こうとしたとき、視界の端で、皓宇が印章に手を伸ばすのが見えた。朱亜は驚き、息を吸い込む。


 だめ、皓宇。


 そう叫びたいのにもう声も出せない。彼を止めなきゃいけないのに朱亜の意識は遠のいていき、頭の中が真っ暗になっていった。


 ***


 同じ頃、皇后・香玲の居室では力強い産声が響き渡っていた。

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