第39話


 雨龍の脳裏によみがえるのは5年前の出来事。


 当時、雨龍は原因不明の重い病に罹った。治す手立てもなく、医官たちは匙を投げ始めた。ぼんやりと、母と医官たちがそんな話をしているのが聞こえてくる。母・美花の叫ぶような泣き声が響いた。


「そんな、いやよ、雨龍! 母をおいてはいかないで!」


 寝台で寝込む雨龍に縋りつく美花。その母の願いすらかなえることができないのか、と絶望した。泣き声ばかりが満ちる部屋。その中に、泣きもせず舌打ちをする者がいた。


「……いつもは皇帝に媚びるばかりで、母らしい事なんてしていないくせに」

「春依! おやめなさい!」


 泣きじゃくる美花に向かって悪態をつく春依を、見舞いに来ていた香玲が諫めた。春依はまた舌打ちをして雨龍の居室を飛び出していく。彼女はここ数日、わずかな時間しか見舞いに来てくれない。病気になる前は毎日に一緒に遊んだり、本を読んだりしてくれていたのに……と雨龍は寂しさを感じながら眠りにつく。


 再び雨龍が目を覚ました時、彼の居室は静かだった。どれくらい時間がたったのだろうか? 外は真っ暗だ。もしかしたら数日くらい意識を失っていたのかもしれない。看病に疲れたのか、美花は雨龍の寝台に覆いかぶさるように眠っている。医官や女官たちの姿もない。きっとみんな自分の命を諦めたのだろう。そう思ったとき、冷たいものがおでこのあたりに触れた。


「……雨龍? 目を覚ましたの?」

「姉様……」


 悪態をついて飛び出していったはずの春依の姿があった。その手に、見慣れないものがある。けれどそれが恐ろしい物であることはすぐに分かった、寒気とは違う冷たい空気に身震いする。


「姉様、それは……」

「邪王の印章よ。ずっと探していて、先ほどようやっと見つけたの。あなたを助けるために」

「僕を、助けるって……姉様、もしかして」


 この国で暮す者なら皆知っている、ずっと語り継がれていた天龍と邪王の戦いの顛末。禍々しい気がにじみ出ているそれの正体は、春依が答えなくてもすぐに分かった。


「姉様、どこでそれを……」

「そんなことは良いから! これを使って、あなたの病気を治すから!」

「でも、姉様!」

「大きな声を出さないで! 私はあなたの姉よ、この身がどうなろうとも私が絶対にあなたを助けるって決めたのよ。身勝手な姉様をどうか許してね」


 春依は袖をまくり、眉をひそめた。印章を掲げ、勢いよく腕に向かって振り下ろそうとしたとき――雨龍は最後の力を振り絞ってその腕を止め、印章を奪った。


「雨龍!」


 自分の名を叫び、止めようとする姉。なりふり構わず、印章を胸元に押し付ける雨龍。触れた瞬間、まるで体中が針で貫かれるような痛みが雨龍を襲った。堪らずに叫びだしてしまう、痛い、痛い! 遠くから姉が自分の名を呼ぶ声が聞こえてきた。あまりの痛みに雨龍は意識を手放してしまった、そこで自分の人生が終わったのだと思った。


 雨龍は弱弱しい声で、皓宇に語りかける。


「僕はあの時、まだ死にたくないと願ったんです。僕を生かしてさえくれるなら、どんな恐ろしい力にでも縋りたかった」


 彼は自分の手のひらを見つめる。


「けれど、僕の体では邪王は完全に復活できなかった。僕の願いも、中途半端なものになった」


 長年の封印が邪王の力を奪ったのか、彼が死にかけていたからなのか。原因は分からないが、邪王は本来の力を取り戻すことはできなかった。邪王は一時的に雨龍の体を乗っ取り、春依にこう命じたそうだ。


「血命薬という薬を作れ、と。この僕の体を少しでも永らえさせたいのであれば必要不可欠だから、と。……そのせいで、僕の代わりに春依姉様が、その手を血で染めることになったのです」

「……初めて心臓を奪った死体は、やはり……」

「万家の当主です。僕が目覚めたすぐ後に刑死になって、都合が良かったと姉様が言っていました。けれど、薬の効果はすぐに切れてしまって……」


 そのせいで何度も寝込むことになった雨龍。その度に邪王の力を借り、春依が連れてきた官吏や女官を洗脳して殺人を犯すように命じ、心臓を用意させ、足がつきそうになったらその実行犯を殺害し、また新しい者を洗脳する。それを5年もの間繰り返していた。


「殺害の方法が多岐にわたっていたのはそのせいか」

「えぇ。でも、もう終わりです」


 辛そうに細く長く息を吐く雨龍。彼自身も自分の寿命がここで尽きるのは分かっているように見えた。


「この一年は血命薬をどれだけ飲んでも体の具合は良くならなくて、それに、ここ数か月飲めていない。叔父上とあの女のせいだ、と春依姉様が言っていました。あの人が、実行役の女官を殺したからって」

「朱亜が殺したんじゃない! あの女官は…….」

「……あの女官が死んで、血命薬も手に入らなくなって……ようやっと死ぬことができるんだ、僕は」


 雨龍は邪王の印章を皓宇に差し出す。その手にはもう力はなく、指先が震えて、すぐに床に落ちてしまった。それは不自然に床を転がり、皓宇の足元に辿り着く。


「きっと邪王の依り代だった僕が死ねば、死にたくないという僕との契約を守ることができなかった邪王もその印章の中に戻り再び封印されるでしょう。叔父上にお願いがあるんです、もし封印されたら……天龍様の剣のそばまでそれを持って行ってほしいんです」


 天龍様に見張られていたら、きっと邪王も悪さをできないでしょう。雨龍の言葉が徐々に弱くなっていく。皓宇は一言も聞き洩らさないように耳を澄ますけれど、彼の声はどんどん掠れ、力を失っていった。


「……そして、どうか姉様の事を助けて欲しいのです。姉様は、僕を生かすために必死だっただけ、すべて、僕がわるいんだ」


 息も絶え絶えになりながらも、春依の嘆願をする。しかし、皓宇はその言葉に首を横に振った。印章を拾い上げて、冷たく告げる。


「たとえお前を守るためだったとはいえ、春依も多くの者を殺めた。その罪は正しい罰をもって償うべきだ」

「さすが、叔父上だなぁ……」


 雨龍は苦しそうに胸を押さえた。皓宇が駆け寄ろうとするが、それを止める。口の端から鮮血が漏れ出し、彼は咳き込みながらそれを吐き出した。床一面、彼の鮮やかな血が広がっていく。


 邪王ももう雨龍のことを見限ったらしい。皓宇が持つ印章から、恐ろしく低い声が聞こえてきた。


 ――お前の愛しい者たちを蘇らせてやろう。その代わり、我と契約せよ――

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