第38話


 ***


「あれぇ! ここどこ?」


 朱亜は気づけば後宮も飛び出し、王宮の外に出ていた。先を歩く明豪と一緒に雨龍がいそうな場所に向かっていたはずなのに。


「まさか気づかないとは思いませんでしたが……上手くいって良かったです」

「ちょっと、謀ったの! 何でこんな人を騙すような真似を!」


 一刻も早く雨龍を探さなければいけないのだから、こんなところで道草を食っている場合ではない。朱亜が明豪に問い詰めると、彼はすぐに跪く。


「大変申し訳ございません、救世主様。私も本意ではないのですが……」

「いいから、早く戻るよ! まずは東宮殿に」


 明豪が朱亜の手首のあたりを掴んだ。まるで「行くな」と言わんばかりに強く。東宮殿に行こうとしていた朱亜は振り返って明豪を見た。いつになく真面目な顔をして朱亜を見つめている。


「な、なによ……」

「皓宇様に言われたのです。朱亜様をどうか王宮から遠ざけてほしい、と」

「はぁっ?」


 どうして皓宇がそんなことを明豪に頼んだのか、朱亜はさっぱり理解できていない様子だ。しかし、明豪はそう頼まれたとき、彼の真意をすぐに理解していた。


「おそらくは、朱亜様を危険なことに巻き込みたくはないのでしょう。大切なあなたを守るために」

「ウチを守るって! 皓宇なんてウチより弱いんだよ! そんなことできるわけないじゃん!」

「だからです、朱亜様」


 明豪は低い声で朱亜に言い聞かせる。


「それこそが弱い者の戦い方なのです。大切なものはできるだけ危ない場所から遠ざけて、仕舞いこみ、危険が及ばないようにする。彼には、これしか方法がないのです。あなたは生まれてきてからずっと強い【救世主様】だからピンとこないかもしれませんが……」


 朱亜は唇を噛む。


「いざという時は自ら犠牲になる。これが、皓宇様の大切な者――あなたを守るための方法なのです」


 朱亜は明豪の言葉を聞きながら、100年後の世界に置いてきた仲間たちのことを思い出していた。彼らも朱亜を守るために、自分から囮になると言って邪王城の中で散っていった。

 そして、5年前に亡くなった皓宇の妻のことも。言葉通り、身を挺して皓宇を守った翠蘭。妻のことが頭にこびりついて離れないから、きっと自分から犠牲になるなんて方法を思いついたに違いない。


 朱亜の体が熱くなっていく。その熱源は『怒り』だった。


「バカじゃん!」


 叫びがむなしく響く。罵ってやりたい相手は明豪じゃない、皓宇だ。けれど、どれだけ叫んでも彼には届かないまま。朱亜は自分のつま先を見つめる。


「そんなの、ウチは望んでないのに! そんな風に守られるのはもうこりごりなのに!」


 顔を上げて、キッと明豪を睨んだ。


「明豪。ウチを東宮殿に連れて行って」

「……皓宇様は、朱亜を絶対に近づいてはいけない、とおっしゃっていましたが」

「いいから! ウチの事なんだと思ってるの!」


 明豪の背筋が伸びた。夜なのに、朱亜の背中から大きな光が差し込んでいるように見えた。まばゆい太陽のような光。これが彼女の強さの源、天龍の加護なのかと明豪は感じる。


「ウチは天龍に選ばれた救世主! 邪王を倒して、この国に平和と安寧をもたらす者! ウチが行かなくってどうするの!」


 明豪は立ち上がり、朱亜に道を開けた。朱亜は頷き、東宮殿に向かって走り始める。どうか皓宇が無事でありますように、本当は天龍国の平和を祈らなければいけないのに、朱亜の頭を占めるのは皓宇の事ばかりだった。


 皓宇は一足先に東宮殿に辿り着いていた。


「……どういうことだ、これは!」


 東宮殿に勤めている女官や医官たちは皆意識を失い、床に倒れこんでいる。皓宇はそのうち一人の口元に触れる。わずかだがぬるい呼吸が指に触れた。生きているらしいが、体を揺すっても意識を取り戻す様子はない。毒でも吸い込んだのか、と皓宇は東宮殿の先を見ながら危惧する。


 そっと、静かに雨龍の居室の扉を開く。わずかに開いただけなのに、今まで感じたことのない禍々しい寒気が皓宇の体を包み込んだ。それに怯まず、皓宇は一気に扉を開いた。


「……叔父上」

「雨龍……」


 寝台に座る雨龍。顔色に生気はなく、血が通っていないかのように真っ白だ。呼吸は浅く震えている。脚に力が入らないのか、立ち上がることもできない。彼の命が残り僅かであることがその様子を見ているだけで分かった。それは彼自身もよく理解しているのか、雨龍の表情は穏やかなものだった。皓宇は雨龍の手元を指さした。


「雨龍、その手に持っている物は、まさか」


 雨龍は頷く。彼は手を開いた。そこには黒水晶でできた印章があった。それを見た皓宇の体にはぞくりと鳥肌を立つ。


「邪王の印章です。間違いなく、本物ですよ」


 彼はそう言いながら胸元を広げた。そこには黒く入れ墨されたかのような、押印の痕跡が残っている。


「本当に、雨龍が契約したのか」


 その事実を信じることができない皓宇の声が震える。頼むから間違いであってほしいという祈りもむなしく、雨龍はすぐに頷いた。


「この国を脅かしていた原因は、すべて僕にあります。……叔父上にお願いがあります。どうかこの印章を葬り去り、姉様のことはどうか寛大な処分にしてもらえるよう取り図って欲しいのです」


 どうしてここで春依の名が出てくるのか。皓宇が困惑していると、雨龍は小さく笑った。


「なんだ、口が滑ったな。さすがの叔父上も、姉様のことまでは気づいていなかったのか。喋るんじゃなかった」

「どういうことだ、雨龍!」

「姉様は僕を助けるために協力してくれたんです。この邪王の印章を盗み出して、僕に契約する機会をくれた」

「血命薬のことも」

「はい。邪王の力で兵士や女官たちを操り、心臓を集めて僕に血命薬を与えてくれたのも、姉様です」


 雨龍は呼吸が苦しくなったのか、胸元に手を当てて深く息を吐いた。すべてを話しきるまで、この命はもつだろうか。けれど、彼には罪を犯した責任を果たす必要がある。究明のためにすべてを今話すことがそれだ。たとえまだ若くても、その重さに変わりはない。


「すべては5年前。僕が倒れた時から始まったことでした」

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