心配性なのですね
ソフィーが家事を手伝うようになって一週間。
ルゼルはあの日から屋敷にいる回数が増えた。しかし相変わらず仕事の量は多いようで、いつも書斎に引きこもっている。
「ルゼルさま、紅茶をお持ちしました」
「ああ、ありがとう。どこかそこらへんに置いておいてくれ」
掃除を終えたソフィーが紅茶を用意して書斎の扉を叩くと、そう返事が返ってきたのでソフィーは扉を開けてなにかの書類と睨めっこしているルゼルの邪魔にならない位置にカップを置いた。
「お茶菓子としてクッキーも用意しました」
「ありがとう。ちょうど小腹が空いていたんだ」
ルゼルは書類から目を離さずにクッキーを手に取った。そして口に運ぶ。
サクサクと音を立てて割れるクッキーはソフィーが昼間に買い出しついでに行った洋菓子店で買ったものだ。
どうやらルゼルは素朴な味のものを好んでいるようで、ソフィーが用意した菓子を気に入ったらしくクッキーを取る手は止まらない。
書類を見つめながらクッキーを頬張るルゼルの横顔は太陽の光に照らされて美しく、そして儚く見える。
手を伸ばせば届く位置にいるのに、なぜかどこか遠くにいるような感覚。ソフィーはルゼルを見てそんな感覚に襲われることが何度かあった。
「……? どうかした?」
「あっ、いや、と、鳥がかわいらしいなと」
その場から動かないソフィーを疑問に思ったのか、不意に向けられたルゼルの視線に驚いてソフィーはとっさに窓の外を指さした。
そこには二羽の鳥が囀っていた。どちらも小鳥サイズだ。小さくて愛らしい。
「本当だ、かわいらしいね」
ルゼルは顔を上げて窓の外を見た。ソフィーと同じ鳥を見て微笑む。
「そういえば、私が前にうさぎに姿を変えられてしまったことがあったじゃないですか」
「ああ、あったね。きみと初めて会った日のことだね。よく覚えているよ」
「あのときはルゼルさまのおかげで本当に助かりました。そこでふと、なんとなく程度に思ったのですが、あの変身魔法というやつはルゼルさまも使えるのでしょうか?」
「それはもちろん使えるけれど……どうしてそんなことを聞くのかな?」
「いや、庭にやってくる鳥や動物を見て、その……ちょっとだけ楽しそうだな、と思いまして。あのときは元の姿に戻りたい! という気持ちばかりだったのですが、どうせなら、その、もう少しうさぎ姿を満喫しておけばよかったな、なんて……」
あのときのソフィーには屋敷に戻らねばならないという使命感があった。そして未知の体験に対する恐怖心に、二度と体が戻らないかもしれないという絶望感。
だからはやく元の姿に戻りたいと切に願っていたが、変身魔法は解除できるものだとわかると、これに対する恐怖心はかなり減った。むしろ最近では好奇心の方が優ってしまい、庭にやってくる動物の姿を見かけては彼らのように自由に空を飛んだり、自然の中を走り回ってみたいという願望に駆られてしまうことが多くなった。
そのことを素直に伝えるとルゼルは頬を緩ませた。
「ふふ、ソフィーは面白いことを言うね。たしかに普段と違う姿になるのは非現実感があって楽しいものなのかもしれないね」
「まぁ、私には魔法というものがまったく使えないものですから。非現実感というものはたしかに感じました」
ソフィーが頷くと、ルゼルは少し眉を顰めて苦笑した。
「でも、変身魔法はあとがつらいだろう? ソフィーの願い事はできるだけ叶えてあげたいけれど、あまりおすすめはできないな」
「え? あとがつらい、ですか?」
ルゼルの言葉の意味がわからず、ソフィーは首を傾げて聞き返した。
「うん。発熱や倦怠感に襲われたり、ひどいと一週間は寝たきりになったり」
「そんなことはなかったですけど……むしろ元気そのものでした」
「……そうなんだ」
ソフィーのけろっとした返事に、ルゼルは少し驚いた表情を浮かべると顎に手を添えて考え込んでしまった。
「あの……?」
「ソフィー」
ソフィーがルゼルの顔を覗き込もうとすると、ルゼルはパッと顔を上げた。急に近づいた距離にソフィーはとっさに距離をとってしまう。
「大体の人はね、変身魔法をかけられると魔法を解いたときにその反動で身体に不調をもたらすんだ。熱が出たり気分が悪くなったり、平衡感覚がおかしくなったりしてね。けれどソフィーにはそれがなかった」
「え、ええ、はい。私はべつにそういった症状には襲われませんでした」
すらすらと言葉を続けるルゼルにソフィーは頷いた。
初めて魔法をかけられて、もし元の姿に戻れなかったら、という恐怖心で当日の寝付きは良くなかったが、だからといって体調に不調をもたらすほどのものではなかったのはたしかだ。熱が出たわけでも、倦怠感に襲われた記憶もない。
「うん、だからソフィーはたぶん魔法に耐性があるんだと思うよ。たまにいるんだよ、魔法使いではないけれど魔法に耐性があって魔法にかからない人とか。ソフィーは変身魔法自体にはかかったから、たぶん耐性と言っても反動が出ない程度の微弱なものなのだろうけどね」
「それは……悪いこと、なのでしょうか?」
ソフィーには魔法に対しての耐性がある。
魔法を使えず、魔法と関わりのない人生を送ってきたソフィーにはそれが悪いことなのか良いことなのかわからずルゼルに問いかけた。
「いや、珍しいけど悪いことではないよ。むしろ副作用が出ないのはいいことだろうね。よかったよ、ソフィーがしんどい思いをしていなくて」
「ルゼルさまは結構心配性なのですね」
「はは……そんなこと、ないと思っていたんだけど」
耐性があることはマイノリティではあるものの、悪いことではないようで安心した。
ほっと息をはいて変身魔法が解けたあとのソフィーのことを心配してくれていたらしいルゼルに笑いかけると、苦笑で返される。書類に視線を戻して呟かれた小さなその声がソフィーに届くことはなかった。
「ルゼルさまのお仕事をお邪魔してすみません。私はもう部屋に戻りますね」
「ああ、うん……いいの?」
「え?」
これ以上ルゼルの仕事を邪魔しては悪いだろう。そう考えたソフィーが部屋を出ようと踵を返すと、くいっと袖を引っ張られる。
振り返るとルゼルが首を傾げてソフィーを見つめていて、ソフィーの口からは疑問の声が漏れた。
「いや、だって変身魔法に興味があるみたいだから。てっきりソフィーはまたうさぎの姿になりたいのかなと思ったんだけど」
ルゼルの不思議そうな声にソフィーは唸り声を上げた。
「それは……そうなのですが。あまりルゼルさまのお手を煩わせるのはちょっと」
「それくらいべつにかまわないよ。僕がいるからには魔法の解除も簡単にできるし、唯一の懸念だった魔法の反動はソフィーにはないようだからね。でももしものことがあったりしたらいけないから遠くには行かないでね」
「ほ、本当にいいのでしょうか?」
またうさぎの姿になって庭を駆け回れたら、それはきっと楽しいことだろう。しかし仕事で忙しいルゼルの手を煩わせてしまうのでは、とソフィーは戸惑いつつ尋ねた。
「もちろん。ただ危ない真似はしないように」
「……はい!」
「気が済んだらこの部屋に戻っておいで」
「わかりました!」
ルゼル的には本当に問題ないようだ。それなら少し甘えさせてもらおう。ソフィーが元気よく返事をすると、ルゼルはふっと微笑んだ。
ルゼルがソフィーに手をかざし、なにかを唱える。するとソフィーの体はみるみるうちに小さくなり、白くてちんまりいとしたうさぎに姿を変えた。
「わー! 視点が低いです!」
「変身魔法をかけられたら魔法を使える人やごく一部の体質の人にしか言葉が通じなくなるから気をつけて。屋敷の範囲内からは出ないでね」
「はい、わかりました。気をつけます!」
ルゼルから注意事項を聞いて頷くとぴょんぴょんぴょん、とソフィーは軽やかに飛んで屋敷を出た。
いつもは腰掛けられる位置にある噴水は見上げるほど高く、ぴょんとうさぎの跳躍力を持って噴水の縁に飛び乗ると、噴水に張られた水面に真っ白なうさぎの姿が映っていた。
「すごい……私、今うさぎになってる!」
ソフィーは上機嫌に庭に向かうと、普段は見れない視点の低い景色を堪能する。
「これがうさぎの……他の動物が見ている世界なのね」
大きく育った薔薇の花。たまにしか使われない屋外に設置された白い椅子。
どれも人の姿では見下ろしていたものが、今は見上げなければならない。そこにあるものは普段と変わらないのに、視点が違うだけでこんなにもべつのものに見える。
「そうだ、木の上に登ってみたい!」
せっかくうさぎの姿になったのだから、もっと人の姿ではできないことを試してみたい。
ソフィーはそう思って器用に木の枝を蹴って頂上を目指すことにした。
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