まだ話していないことがあったな。

 宇宙人をそう呼び始める前、というのはもともと犬の名前だったんだ。

 

 彼の家では年取った雑種犬を飼っていた。そいつがボニーだ。歩き方はよぼよぼと危なっかしげなくせに、吠えるときだけやけに威勢がよくてね。彼を遊びに誘いに行くたび驚かされたからわたしはあまり好いちゃいなかったが、彼にはよく懐いていたな。首輪に繋がった鎖をじゃらじゃらいわせて近づくボニーを、あいつも可愛がっていたっけ。


 あれはたしか、サーカスの列車がやってくる数週間前のことだ。


 夏の終わりの真夜中だった。深い眠りの底にいたわたしは、こつん、という音に起こされた。雨だろうと思ってカーテンを開けたけれど、空には満月が浮かんでいる。 

 下を確かめてみると、庭に彼が立っていて、二階にあるわたしの部屋の窓に小枝を投げてつけていた。彼はわたしに気がつくと、声には出さず「下りて来いよ」と口だけ動かした。慌てて服を着替え、家族を起こさないよう忍び足で外へ出る。


「こんな夜中に何の用だよ」


 そう文句を言ってやると、彼は至極真面目な顔をこちらに向けた。頬が赤く腫れ上がり、血色の悪い唇の端が切れている。一体どこでそんな傷をこしらえたのか訊こうとしたけれど、わたしはつい躊躇ってしまった。これまで何度も彼に同じ質問をして、そのたび、はぐらかされていたからだ。


「なあテディ、お前は俺の友だちだよな」

「……君のママだとでも言うの」


 努めて明るい声を出し、いつも彼が話すときのようにおどけてみせる。彼はちょっと目を細めてこちらを睨んだ。


「ふざけるなよ。──なあ、ついてきてくれないか?」


 わたしは視線を落とし、どこに? と訊いた。たぶん、声が少し掠れていたと思う。

 

「あのさ」


 夜の闇に消えてしまいそうなほど低く、静かに、彼は言った。


「ボニーの死体を埋めるのを、手伝ってほしいんだ」




 彼の家にやって来たわたしたちは、物置から園芸用のカートを引っ張り出し、庭に立っている犬小屋に近づいた。

 何か黒々とした塊が地面に横たわっていのが目に入ると、きゅっと胃が曲がるような、あまり心地のよくない感覚が襲ってきた。それがボニーであることは容易に察しがついたけれど、いつもはすぐに聞こえてくる噛みつかんばかりの吠え声がないことに、わたしは少し拍子抜けした。


 地面には割れたビール瓶の欠片が散らばっていて、そこに横たわるボニーは見るもひどい状態だった。だらりと下がった長い耳の後ろから血が流れ、腹は青紫色になっている──彼の腕のアザと同じように。

 首輪に繋がっていた鎖をはずし、ボニーの死体を持ち上げてカートに乗せた。それからわたしたちは、シャベルを一本ずつ持つと、無言で歩き始めた。

 

 わたしたちが向かったのは「墓地」だった。月明かりに照らされて、放っておかれた車のフロントガラスのひびが鈍く光っている。自分が怯えているなんて認めたくはなかったけれど、安っぽいホラー映画みたいにそこから何か飛び出してくるんじゃないかと、内心ではとてもびくびくしていたよ。

 

 「墓地」の真ん中に穴を堀った。なるべく深い穴を。固い地面にシャベルをさし、石混じりの土をかき出していく。手を止めないまま、彼は小さく話し始めた。


「うちの親父、さっき酒場から帰ってきたんだけど、いつもより機嫌が悪くてさ。憂さ晴らしかなんだかしらないけど、ボニーがちょっと騒いだから、親父はこいつを殴り殺しちまった」

 

 彼の父親は気が荒いことで有名だった。警察沙汰を起こしたこともあるようで、わたしの母なんかは、彼のところに遊びに行くと伝えるとよく不安そうに眉をひそめたものだ。

 しかし、わたしも他の友人も、彼の家庭事情に首を突っ込むことはなかった。彼が自分から話すこともなかった。そういったことを仲間内で口に出すのは──誰かがはっきり決めたわけではないけれど──一種のタブーであったのだ。


 掘ったばかりの穴が、足元に大きな口を開けて待っている。中を覗き込むとわたしの影が真上に落ちて、暗闇が穴の底を呑み込んでしまった。まるで、最初からそんなもの、なかったみたいに。

 わたしは身を震わせて穴から離れると、彼と一緒に犬の死体を下ろし、土を被せて地面をならした。


「あのまま、朝まで庭に寝かせておくのもかわいそうでさ」

 

 沈黙が流れる。

 長い、長い沈黙が。

 

 彼が手を止めると、まるでそのタイミングを待っていたかのように、雲が月を隠してしまった。わたしたちは何も見えないその場所で、塞ぎ終えた穴を挟んで向かい合い、一言も話さずにじっと立っていた。

 近くの線路の上を、貨物列車が通り過ぎていく。ガタンゴトン。ガタンゴトン。動輪とレールのぶつかる音が辺りに響き、遠退く。後に残ったのは、脳を揺さぶるほど大きな──無音だけ。

 

 わたしは真っ暗闇の中、目を凝らした。彼は、そう、彼は泣いていた。……いや、勘違いだったのかもしれない。顔は見えなかったし、嗚咽が聞こえた訳でもないからな。それでも、泣いているのだと思った。誰のために? と、心の中で問いかける。ボニーのために? 声は出てこなかった。かけるべき言葉は形をなさないまま、吐く息に混じり、消えていく。

 

 あの頃のわたしは、年齢と同様、中身もまだ子どもで、誰かを慰めるための知識などまるで持たなかったのだ。それは学校のテストで毎回満点を取ったり、母に叱られるようないたずらをしでかさないでいるより、もっとずっと難しいことだった。


 最初に沈黙を止めたのは彼だった。


「さ、帰ろう」


 わたしはその声が少しも震えていないことにほっと息をついた。まったく、あんなに安堵したことはなかったよ。

 それからサーカスのやって来るあの日まで、 彼の口からボニーの名前は出てこなかった。だからわたしは、彼が泣いていると思った理由を、曖昧なまま放っておいてしまったのだ。その後ろにどんな感情が隠れているのか知ろうともしないで。

 

 あれから何十年と生きてきて、逃げ出したくなるほど重苦しい状況を経験するたびに、「墓場」での出来事が脳裏をよぎっていった。時々、考えるんだ。彼に何を言ってやるべきだったのか、とね。満足のいく答えを得られたことは一度もないけれど。


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