第4話 従弟 1

『クリストファー、お前が次の伯爵だ』

『お嬢様より強くなるんだぞ』


 6歳の頃、父はしゃがみこんで、縋るように俺の腕を掴んだ。爪が食い込んで嫌に痛かったことを覚えている。

 紙とインクの匂いに満ち、分厚いカーテンで仕切られた薄暗い書斎は、いつだって俺を憂鬱にさせる。父は憎悪をむき出しにして醜く笑っていた。俺はしばらく伯爵邸に預けられ、この人とは会えなくなるのに。それなのに、初めて見た父の姿に戸惑う事しかできなかった。


 ──俺の無念を晴らしてくれ。

 父は言外にそう宣った。


 ルドビカ伯爵が内々で後継者を指名した。

 クリストファー・デア・ルグウィン。

 伯爵の実弟・ルグウィン子爵の長男だ。



 俺がルドビカ伯爵の後継者になれた理由は、大きく分けて2つ。1つ目は、傍系とはいえルドビカ伯爵家の血を濃く継いでいる魔術師であるため。2つ目は、伯爵の子がトリチェ様ただ1人であるためだった。


 女に爵位は継げず、また女の魔術師は妊娠・出産で魔力が変化する。貴族として子を産む責務があるトリチェ様は、魔術師として生きるのは難しい。だからこそ俺が後継者となり、教育を受けてきた。来る日も来る日も魔力切れを起こすまで魔術を行使し、後継者の座に噛り付いたのだ。


 伯爵邸に移り住んですぐの頃、魔術訓練が嫌で逃げ出したことがある。雨が降っていたせいで治りきっていない傷が痛んでしまい、集中力が続かず伯爵にこっぴどく叱られたのだ。伯爵邸の裏庭にある巨木のうろに入り、膝を抱えながら泣いていた。髪を切る余裕もなかったから、伸ばした黒髪がまとわりつく。


『だいじょうぶ?』


 やって来たのは、他ならぬ伯爵の娘だった。

 トリチェ・ルドビカ。

 伯爵が頑なに会わせてくれなかったから、俺たちは初対面だった。オパールグレーの長髪に、大きな深い紫色の瞳。重そうな令嬢然としたドレスは、普段彼女がどう扱われているのかを明示していた。


 伯爵とは似ても似つかない容姿だったが、全身から魔力が漲っている点だけは似通っている。思わず息をのむ。圧倒されたのだ。彼女は心配げな表情をしていたが、俺はどうやってこの子より強くなるか考える事で手いっぱいだった。


『あなた従弟のクリストファーでしょ? わたしは......』

『大丈夫じゃない。あんたの親のせいで毎日辛い』


 トリチェはびくりと肩を震わせた。伸ばしかけた腕が行き先を失い、地に落ちていく。顔を伏せて唇を嚙んでいた。可笑しくて仕方なかった。良いザマだ。ちょっとでも俺の苦しみを味わえばいい。そう思っていたのに。


『うん。お父様、怖いよね』


 憎々しげに言った彼女から目が離せない。

 陰った紫の瞳がいやに美しい。

 多分、一目惚れだった。


『私も魔術の訓練してるんだ。魔力が多すぎて危ないから』

『......そのままじゃ暴発するってことか?』

『うん。この前も歩いてただけなのに窓割っちゃった』

『はは、なんだそれ』

『笑い事じゃないよ! すっごい怒られたんだから!』


 俺が笑うと、トリチェも笑った。

 底抜けに明るい笑顔だった。

 伯爵は午前中に俺の訓練をし、昼食を挟んで彼女の魔術訓練をしているようだった。俺も午後は座学があった。交流を経て情報交換した俺は、翌日から自分の訓練が終わってすぐトリーの元へ駈け込むようになった。


 午前中、彼女は決まって、伯爵邸の2階にある私室にいた。魔術書を読んだり、刺繍をして過ごしていたと思う。俺は毎回魔術で四肢を強化して、むりやり屋敷の外壁をよじ登り、彼女の窓を叩いた。依然伯爵から紹介された仲ではなかったから、大っぴらに会うのがはばかられたのだ。


 コン・コッコ・コン。

 軽快なリズムで叩けば、それが合図になる。

 そっと窓が開いて、オパールグレーの髪が露になった。


『おはよ、トリー』

『おはよう、クリス』


 窓のへりに座って向き直ると、トリーはぎょっとした。視線を追うと、俺の腕に入った真一文字の傷が目に入る。ミミズ腫れを起こしたそれは、発動する魔術を誤った証だった。へたくそなやつしかできない傷。俺の頬は赤くなったが、トリーはどんどん青ざめていった。


『薬塗らなきゃ!』

『やだよ、しみるじゃん』

『我儘言わないの』


 薬棚に向かって走り出すトリーを見ながら、傷を押さえた。トリーは俺をバカにしない。分かっているが、恥ずかしくて仕方なかった。


『あ。トリー、回復術使ってくれよ。あれなら痛くないし、すぐ治るじゃん』

『......無理だよ。言ったでしょ、練習中なの』


 薬瓶を持って戻ってきたトリーは、唇を尖らせて呟いた。


『頼むよ、俺教わってもないからさ』


 頭を下げながら腕を差し出す。トリーは薬瓶を抱えたまま、うんうん唸っていた。どのくらい経っただろう。俺に引く気が無い事を察したのか、トリーがため息を吐く。


『しょうがないなぁ。失敗したらごめんね』

『やった。ありがとな!』

『どういたしまして』


 傷一つない小さな手が俺の腕に触れる。

 優しい手つきだった。俯いた彼女の瞳が、長いまつ毛で見え隠れする様が好きだった。風が吹くたびに俺たちの長髪が揺れて、混じり合うように溶けて。そうしている時間が、なによりも幸せだった。


 俺は魔術訓練がひと段落したら、ルグウィン子爵邸に移された。トリーとは公的には会ったことが無いまま、参加する社交場も徹底的に分けられた。彼女への淡い恋心を思い出すことが無くなる頃、俺は身内しか知らないルドビカ伯爵の後継者として、王立魔術学校の2年生になった。


『翌年の主席に伯爵位を与える』


 突然ルグウィン子爵邸に伯爵が訪れた。

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