第3話

「お待ちどうさま。チョコレートケーキです。これ、ラスト一切れだったよ」

 マスターは何やら嬉しそうに微笑みながら手が差し出される。

 目の前に置かれたチョコレートケーキが乗ったお皿は本日最後の一切れということもあり、輝いて見えた。

 コーヒーを一口啜る。深い苦みが口内に広がり、頭の中をすっきりさせてくれる。

 チョコレートケーキの仄かな甘さと相まってさらに味が深まっていく。

「どうだ?詩絵、うまいか?」

 父――恭介きょうすけのその顔は自信に満ち溢れていた。

 確かに。これは納得の味だ。

「……美味しい」

 詩絵の呟きを聞き、マスターの顔がカウンターから覗く。にっこりと口角を上げた口元からは白い歯が見えた。

「こんなにも美味しそうに食べてくれる人はなかなかいないよ。黙々と食べる人が多いからね」

「僕もどちらかというと黙々と食べる方ですよ。でもつい声が出ちゃう」

 というと恭介も詩絵に続き、一口ずつ大事そうに食べる。

「それは嬉しいな。今日はこんな天気ですが加野さんは今日はどのような一日を?」

 詩絵と恭介は「とあるもの」が見る事ができる、とネット上で話題になっていた夕霧島に二人で観光旅行で来ていた。しかし、夕霧島は日帰り旅行ができないため、残念ながら母が家に残り、飼い犬の面倒を見てもらっている。

 次は母ともまたここ夕霧島に来てみたいものだ。

 そうですね――恭介は思案するように一度目を閉じた。

「――あいにくの天気ではありますが、せっかくですのでレンタカーを借りて島を一周してみたいと思います」

 詩絵と恭介の事前の話し合いで二日間の工程をある程度計画していた。

 「とあるもの」はある条件下で見ることができるため、夕霧島に行けば必ず見れるというわけではない。

 だが、ここ夕霧島には樹齢3000年を超える大樹や白猫と妖怪話等の古くから伝わる様々な伝承などもあるため、見どころは多い。

「いいですね。本当は天気が良い日に夕霧島の移り行く景色や――都会と比べてしまうと見劣りしてしまうかもしれませんが……街並みを見てほしいです。予報ではこの大雨もあと少しすれば晴れると言っております。ぜひとも私たち住民の誇りであるこの島をぜひご堪能してください。あ、そうだ――」

 マスターは何かを思い出したように間を置いた。

「いくつかある伝説の一つ、この島の名前の由来にもなっている夕霧島の奇跡を知っていますか?ここ夕霧島はよく台風が通る場所でたくさんの被害がでますが、運がいいとごく稀に……素晴らしい景色を見る事ができるんですよ。どうだろう……もしかしたら今日見れるかもしれない」

 マスターはひっきりなしに窓を叩く大粒の雨を見て遠い目をしていた。

 話しぶりからはなぜか夕霧島の由来でもある奇跡についてあまり詳細な説明はしてくれなかった。どちらかというとあえて言及は避けていたような気もする。

 詩絵たちもネットでも事前に調べて何となく分かったが投稿者も伏せている情報が多く、詳しくは知らない。もしかしたらマスターやここに住む島民、その奇跡にすでにあやかった人たちも共通して、その軌跡の光景を自分たちの目で見て感動を覚えてほしい、という彼らの気持ちなのかもしれない。

 詩絵と同じようなことを思ったのか、

「ええ。ぜひとも、その幸運に預かりたいものですね」

 そんな恭介の顔はまるで童心を思い出したかのような――高揚感あふれている表情をしていた。


 


「夕霧島の奇跡――ですか?」

 隆は詩絵の口から初めて聞く、島の話を聞いてつい足を止めてしまう。

「あ……!小長谷さん、肩が濡れちゃっています」

 詩絵に指摘され、「ああ、すみません」、と遅れて気づく隆はまだ呆然としている様子だった。

 詩絵と隆は強かった雨が和らいだタイミングで「喫茶 なごみ」を出ることにした。

 除湿が効いていた店内と違って外に出ると、温かみのある湿気が顔を包み込み、すぐに髪が湿ってしまうのが分かる。だが宿から出た時の大雨より随分マシな天気になっていた。

 二人とも次の目的地が一緒だったため歩いて目指すことにしたのだ。その道中、詩絵は過去に父親と一緒にここ夕霧島に来たことがある、という話を隆にしたのだった。

 詩絵にとって夕霧島は毎年一回は行くので何度目かの来訪になるが、父親と一緒に初めて「喫茶 なごみ」に行ったときに、マスターからその夕霧島の奇跡の話を聞いたとのことだった。

 だが、その日は結局、残念ながらその「幸運」は訪れなかった。

 その日以来、詩絵は毎年同じ時期に夕霧島を旅行先に指定していた。

 マスターの話ではその幸運はどうやら「台風」がキーワードになっているようだったが、旅行の日程が丸つぶれになってしまう可能性があるのにわざわざ台風が来るタイミングを狙って旅行に行く人は少ない。

 それでも詩絵は毎年行き続けたが、そんな幸運はそうそう現れなかった。

 だが、マスターからその話を聞いた詩絵はどうしてもこの目でみてみたい、そんな気持ちが高まるばかりだった。

 「加野さんのその行動力、恐れ入ります。それってかなり博打じゃないですか?」

 隆は詩絵の話を聞いて、自分もその幸運に預かってみたい、と思った。だが、詩絵と同じように毎年、このような時期に行こうと思うかと考えると、天秤はなかなか傾かなかった。

 まず隆は朝起きて雨がしきりに降る音を聞いて、なんて最悪な天気になってしまったのだろう、と思っていたのだから。

 晴れてしまってはだめ。詩絵にとってこの天気は待ち望んでいたものであるのだ。

 旅行先で雨を望む、なんて人は珍しいなんてものじゃない、希少だ。

 隆には詩絵のそれは希望や願いという言葉ははるか遠くにあり、それ以上の熱い情熱を感じていた。

 「自分でもどうしてこんなことをしているんだろう――と考えることはありますが、自分自身の中で明確な答えはまだ見つかっていません。一言で言うと好奇心なんだと思いますが、その好奇心を生む『何か』は分かっていません」

 詩絵の話を聞いて隆は何かひっかかるものを感じた。ふと思いついた感覚を言語化するのは難しかったが、紐解いていくきっかけになる話題はこれじゃないかという予想があった。

「加野さんは過去に何かに打ち込んだことはありますか?実は……僕はないんです。なぜなら僕は何をやっても結局上手くいかないから。諦めてしまうんです。でも結果が出る人に共通する部分は『諦めないこと』な気がします。それが何年か何十年か先だったとしても――彼らはそんなこと気にしないでしょうが」

 諦めないこと――か。その先にあるのはきっと達成感だろう。詩絵は隆の話から気が付くものがあった。

「確かにそうかもしれません。諦めてしまうと、たどり着けませんが諦めなければいつかたどり着くもの――それは達成感かもしれません。その過程は大変な道のりだったとしてもその先にあるものを掴むために私は行動しているかもしれませんね」

 何かに気づいた詩絵の顔はとても涼しかった。彼女が持っているような反骨精神の様なものが彼女自身を突き動かしているのだろうと隆は感じていた。

「どうやら雨が小雨になりましたね」

 詩絵の言葉に隆は空を見た。

 大粒の雨はいつの間にか霧状になっていた。

 灰色ががかった雲はどこか黄色味を帯びていた。もしかしたら――。

「……ついてきてください!」

 そう思った瞬間、隆は詩絵の手首を掴み駆け出していた。

「ちょっ、お……おお!?」

 詩絵のそんな驚いた声に目もくれず、隆はとある場所を目指して走る。

 隆は差していた傘も手放していた。

 隆の行動には詩絵はびっくりしたが詩絵もそんな隆を見て、君も今夢中になっているじゃないか、と密かに微笑んでいた。

 隆の足は速い。詩絵は負けじと何とか彼についていった。

 路地裏を抜けて傾斜のある小道を抜ける。しばらくすると隆の足が止まった。

 まるで陸上部かのような隆の疾走に何とかついていった詩絵は膝に手を置きすでに息を切らしていたが、足元にある雨上がりの水たまりが黄金色に染まっていたことに気づいて顔を上げた。

 霧状の雨が顔を濡らす。目元にかかった前髪をかき上げる。

 ここまで長い道のりだったが、『それ』はもうすでに目の前にあったのだった。

 夕陽が顔を出し温かみのあるオレンジ色の雲が浮かび上がっている、そんな場面に霧雨が降り注ぐという光景は不思議な感覚だった。とても神秘的でまるで二人を誘い込んでいるかのように迎え入れる。

 「これが夕霧の正体だ」

 そこに「奇跡」はあった。



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雨上がりの夢 - 夕霧島の奇跡 心桜 鶉 @shiou0uzura

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