旅先 19

 少年に意識を向ける前に門松がしなだれ掛かってきて、てふは咄嗟に身を固くした。

 しかし様子がおかしい。彼のからだにはてふを押し倒そうという意志がないどころかふらついているのだ。いつの間にか髪紐が解けていて、血のせいで艶めいた黒髪がふっとてふの頬を撫でる。頭を預けられる直前に見た虚ろな目はてふを捉えず、瞼がわずかに痙攣していた。

 糸が切れたように脱力した門松の体重を支えきれず、てふはよろけて共に地面に崩折れる。

 

「門松、ねえ、どうしたの、モンちゃんっ!」


 体勢をととのえ、ぐったりとした体を抱える。呼びかけても揺すっても返事はなく、門松はかたく目を閉じたままだ。

 その後頭部を覗き込んで、てふははっとする。頸部に大きな針のようなものが突き刺さっているのだ。


 倒れた門松の背後から現れたのは、こちらに向けられたままの銃口、そしてそれを構える長身の女性だ。その鋭い視線に捉えられ、てふは絶句する。


「ご心配なく、麻酔銃です」


 女性はてふに向かって淡白に言い放つと、銃を腿のホルスターに戻す。そして地面に投げられたままのスリーの拳銃を革靴の先で蹴り上げて拾い、周囲に向けて構えた。

 隙のないその姿にてふははっとする。彼女はスリーと同じ色のスーツを着ている……対ヴァンパイア組織“レイヴン”のものだ。

 少年に気を取られて銃声にも気づかなかった。いや、むしろそのための派手な襲来だったのか。

 女性は周囲へ警戒の視線を配りながら言った。


「対ヴァンパイア用の鎮静剤が効くなんて。あなたの言ったとおりだったわね、オズワルド」


 ああ、という少年の返答が思いがけず頭上からきこえて、てふはぎょっとする。

 彼はいつの間にか至近距離に佇んでいた。

 ぼさぼさの黒髪、丈の長いコート、ダークグレーのベスト、小さな革靴ローファー。スリーや女性の制服ネクタイとは異なり、襟元には真っ赤なリボンタイが映えている。そして後ろ手に携えるのは、少年らしからぬ老成さと艶やかさをたたえた漆黒の杖だ。


 彼はてふの前面にしゃがみこみ、てふの腕の中でぐったりとした門松を眺める。


「昔から“混血児”は血を見ると昂ってしまう子が少なくないんだ。彼は少々なようだからね、手荒な真似をさせてもらった。微熱や倦怠感は出るだろうけど、早ければ一日で回復するさ」


 少年の小さな手が伸び、門松の顔にかかった髪を指の背で払い除ける。そこにある熱を確かめるように、指先がじっくりと額に触れた。少年の掌の温度を感じたのか、門松の呼吸が眠るように落ち着いていくのを、てふは腕に感じた。


 自身もいくばくか安堵を得たものの、てふはいまだ働かない頭を必死に動かす。

 レイヴン、ということは彼らはスリーの仲間だ、敵ではない。しかし麻酔とはいえ門松を撃ったのはあの女性、これ以上派手な戦闘をされては困るから大人しくさせたということか。敵意はないとみていいのだろうか。

 いやそれよりも、ヴァンパイア。ハンターといえどクロウにそのような血液を察知する能力はないはず。

 この少年はいったい何者なのだろう?

 

「怪我はしてないかい……ああ」


 視線を移した少年は、正面からてふの顔をみとめたとたん、感嘆の溜息にも似た笑みをこぼして目を伏せる。


「なんてこった、巻き込まれ体質は変わらないな、ハナ」


 少年を見つめたてふは、その瞳に吸い込まれる感覚をおぼえた。

 ――青空。

 昼へ夜へ、明日へ、その先へとどこまでも続いていくような、早朝はじまりの決意のような、爽やかでいて深く、まばゆい、青の瞳。


 門松を離れた指先がてふの頬に触れる。親指の腹がそこにある傷跡を、そこに滲むてふの血を、やさしくなぞる。

 少年は懐かしむように目を細めた。


「あとは任せてくれるかな、お嬢さんマドモアゼル


 てふの反応を待たず少年は立ち上がった。翼のようにコートが翻り、嘴のように黒杖が血溜まりを裂いていく。その背中をてふは視線で追うことしかできなかった。



「やあ、とんだピンチじゃないか!」

「……いつからいたんですか、オズ」


 少年に手を貸してもらい、スリーは上体を起こした。腹部を庇いながら少年を見上げるスリーの目は潤んでいるようだった。

 歯を見せて笑う少年の、歯列の中にある二本の犬歯がいやに尖っているような気がした。てふが注視する前に少年は先ほどと同じようにしゃがみ、スリーの顔を覗き込む。


「わりと序盤から。きみ、ハンターより交渉人ネゴシエイターの素質があるんじゃないか? でも憶測で挑発するなんてらしくないな」


 楽しそうに言いながらも、ヘアセットの乱れたスリーの頭を撫でる少年の手つきは、門松やてふにやったのと同じような慈しみを含んでいるようだ。

 年の頃はスリーとそう変わらないはず、むしろ体格はずっと小柄なのに、てふは少年の振る舞いに兄を重ねた。あの眼鏡顔を脳裏に思い浮かべれば涙腺がちくちくする。今すぐ、おにいちゃんに会いたい。

 スリーは目元と口元をむずむずさせて俯いた。そのようすに少年はふっと微笑を洩らし、スリーの頭をぽんぽんと叩いて再び立ち上がった。


「カモミールの言った通り、クロウの血は薬にはならない。ヴァンパイアと人間は結ばれない運命なんだよ。猛毒の融和とはすなわち破滅、どちらかが生きどちらかは死ぬ。決して例外はない……だけど、もしも奇跡があるとするなら、それをもたらすのは血ではないんだ」


 それは、と言葉を続けざまに、少年は破損した棟の壁に視線を投げる。


「愛だよ」


 放射状にひびの入った煉瓦の壁に尻餅をつくような形で背中をめり込ませているヴァンパイアの妊婦。くっきりと靴底の跡がついた大きな腹は血まみれで、その真ん中に風穴とでも言うかのような小さな刺突疵が確認できる。加えて、折れたマッチのように投げ出された脚の付け根からも夥しい血が流れ出し、白いワンピースは鮮やかに染め上げられていた。


 少年はレイヴンの女性にアイコンタクトを送ると、ひとりゆっくりとカモミールに近づく。

 杖の先端が光っているのは黒のもつ艶やかさなどではないとてふは気づいた。先の攻撃で少年は蹴りと同時に、あるいはそれより早くに――妊婦の腹を刺し貫いていたのだ。


 カモミールは吐血した。生命力を奮起させるように大きく唸って身を震わせるが、腹から下を動かすことが出来ないようだ。必死に胸や首をよじり、目を剥く。震える指先が腹をさするたびに赤く濡れた。


「ああ……ああっ……あたしの赤ちゃん……」


 その声は絶望に戦慄き、てふは門松を強く抱き寄せる。スリーも思わず顔をそらした。

 カモミールは血沫を飛ばし髪を振り乱して少年に絶叫した。


「このクソガキ、なんてことしてくれたのよ!!」

「胎児でもひとりのヴァンパイアだからね。お悔やみ申し上げるよ、カモミール」


 微笑みすら浮かべ、スリーを茶化したのとまったく変わらない少年の口調に、カモミールの激昂が苛烈する。血を失って白さの際立った顔に青い血管が太く浮き出る。


「ふざけないで! あたしがどんな思いで今までっ……ああそんな、せっかくここまで育ったのに、あと少しだったのに! あんたのせいでぜんぶぶち壊しよ!」

「シドに会ってきたんだ」


 少年が涼しげな視線のまま放ったその名に、カモミールは息を呑む。やがて呼吸は獣のように荒ぶり、瞳は怒りと不安で揺れ、拳で血を叩いて前に出ようとする。


「あんた、なにをっ、パパになにしたのよ!」

「穏やかな会話を。彼は貴女の計画をすべてお見通しだったよ。心から悔やんでいた。貴女はなにも悪くない、間違ったのは自分だと」

「違う、ちがう! あたしたちはなにも間違ってない、悪いのは人間よ、クロウよ、あんたたちハンターよ!」

「そして心から死にたがってた。殺されたいと私に縋ったよ……


 カモミールの見開いた目からは再び血が流れた。絶叫が壊れかけた棟を揺らし、陽の傾いた空を裂いて、血溜まりを震わせる。


「クソ野郎、よくも、よくも!! 許さない、許さない、殺してやる、殺してやる、こ……」


 女の断末魔は無慈悲に遮られた。

 呼吸の狭間に間合いを詰め切った少年の、対ヴァンパイア武器の先が女の左胸を壁に縫い止めたのだ。

 少年は膝をつき、女の耳元に唇を寄せる。


「ねえ、カモミール。そのお腹の子……もしもミルズとの子でないとしたら、貴女はどうしたかな」



 ――そのとき彼女が呟いた返答は、てふには聞き取れなかった。


 少年は抱きしめるように身を寄せ、杖を捩じるようにして一層深く突き立てる。女の口から呪いの言葉のかわりに大量の血が溢れた。

 赤毛に顔を埋め、少年は目を閉じて囁く。

 

「シドからの伝言だ、“カモミール”」


 女の目から涙がこぼれた。


「“愛してる。心から”」


 少年がゆっくりと杖を抜くと、血と脂が糸を引いた。傷口から月経のような血塊がこぽりと溢れたが、それきりだった。

 少年は立ち上がって離れる。

 妊婦は座ったまま、目を見開いたまま、もう動かなかった。



 てふは頬に濡れた感触をおぼえ、触れてみると、透明な液体が指についた。

 その手でてふは門松の顔に触れる。

 血で固まった髪。血で汚れた肌。伏せた睫毛。薄い耳朶。乾燥した唇。鼻が膨らむ。呼吸をしている。ぱたぱたと頬に落ちた透明な雫が赤茶色に滲んで垂れていく。


 ――血が流れれば、死ぬというのに。

 血を流さねば、生きてゆけない。



 彼の左胸に手を添えた。

 冷えた服の下から、雪が夜の土をこんこんと踏みしめるように、てふの掌をたしかに叩く。


 てふは門松に縋りついて泣いた。

 心臓の鼓動を、これほど恨んだことはなかった。

 人のぬくもりを、これほど愛しいと思ったことはなかった。

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