旅先 20


 スリーはすでに大粒の涙をこぼしていた。

 かつかつというヒールの音が彼の目の前で止まる。レイヴンの制服を着た女性は銃をスリーの左肩のホルスターに乱暴に戻し、そのまま仁王立ちで睥睨する。


「どういうことか説明しなさい」


 怜悧な声、鷹のような眼光に射られたスリーはビクリと肩を震わせる。鼻をすすり、必死で呼吸を整えて涙を止めようとするが、喉が攣ってどうすることもできない。

 スリーがしゃくり上げるたびに、ガラスの破片で傷つけられた喉元がてらてらと光る。女性はふうと息をつき、再び口を開いた。


「そうね、あなたに釈明の余地はない、だって闘いにすらなっていなかったもの。ヴァンパイアに膝をついて自分を食えだなんて、シュナイダー家にあるまじき醜態だわ」

「す、すみ、ませ……」


 嗚咽の合間になんとか呟いたものの、間髪入れずスリーの頬に女性の平手が直撃する。鈍く重い音に弾かれて黒衣の少年が視線を向ける。

 頬を押さえながら歯を食いしばるスリーの姿に、てふの胸にも痛みが伝播した。

 女性はしゃがみこんでスリーの胸ぐらを掴んだ。呼気がかかるほど至近距離で怒りの形相をつきつけられ、スリーは息を呑む。


「自分の命を差し出すだけではなにも守れないのよ。非力で死ぬのはあなただけじゃない、あなたの守るべき人も死ぬの! だからハンターは非力でいてはいけないのよ!」


 女性の叱咤が自分にも向いているように感じ、てふは腕の中で眠る門松を見つめた。もし麻酔銃ではなかったらと考えると途端に恐怖がこみ上げる。

 ――お嬢のこと、オレが守ってあげるね。そう言って笑った門松を思い出す。

 彼に比べたら自分の言動は自己犠牲とはいわない、箱入り娘の幼稚な我が儘だ。


 スリーの顔は湿った包装紙のようにくしゃくしゃだった。

 女性の手が震えているのを見た少年は口元をやわらかく緩めた。杖の先をコツコツと地面に打ちつけて雨粒を落とすように血を払いながら、二人に近づく。彼を睨み見た女性は意識して眉間に皺をよせているようだった。


「それでも、自分の命を差し出すなんて誰にでもできることじゃない。彼は立派だったよ」


 少年は穏やかに言い、嗚咽するスリーにまなざしを促す。女性は長い息を吐き、自身を納得させるようになんども頷いた。


「ええ、分かってる、だから悪いのはあたしよ。この任務をだいじな弟に任せたあたしが間違ってたの」


 言いながら女性はスリーをきつく抱きしめた。

 その胸に頭を預け、スリーは声を上げる。


「ごめんなさい、ねえさん、ごめんなさい」


 途切れ途切れのことばが溶けてしまわないように、手のひらが互いの体温を掻き抱く。

 そんな二人の姿に目を細める少年の眉尻は、どこか寂しげに垂れていた。



 小さな革靴の先が所在なく彷徨い、血を避けて跳ね、やがててふのもとへと行き着く。

 てふは彼を見上げた。

 彼が後ろで手を組んでいるのは杖を隠したいからだとてふは思った。彼が立っているのはてふと妊婦を挟む直線上だ。


 ――彼に抱くこの激情がお門違いなのだと分かっている。自分たちが今生きていられるのは、紛れもなく彼のおかげなのだから。

 しかしてふと門松を見下ろす彼の表情が、そして脳内に蘇る悲痛な声が、どうしたっててふを沸点へと導く。


 ――あたしの赤ちゃん。

 ――せっかくここまで育ったのに。

 ――いままでどんな思いで……


「なぜお腹を刺したの」


 抑えられない。


「必要があった? あなた母親の気持ちを考えたことある? なぜあんな残酷なことができるの!」


 門松を抱きしめたまま、てふは叫んでいた。

 心臓さえ貫けば死ぬヴァンパイアの妊婦の、あえて腹を刺したということは、先に胎児を殺そうという明確な意志のあらわれだ。

 わかっている、母体が先だろうと胎児が先だろうとどのみち奪う命はふたつ。わかっている、殺さなければ殺されていた。わかっている。わかっている。

 それでも、瞬間の母の気持ちを思うと、忸怩たる思いが胸を責め苛む。


 それなのに、この少年はどうしてそんなに穏やかな目をしていられる?

 遠く空の果て、天の入り口までをも見据えるような、まるでなにもかも受け入れているかのような、そんな澄み渡った青。

 命を奪った感触が残っているはずなのに。

 その手は、たしかに赤に濡れたはずなのに。

 どうしてそんなに平然としていられる?


 少年は再びしゃがみ込み、てふに視線を合わせる。ふっ、と息を吐いたのがわざとだとてふは思った。彼はやや胡乱げな視線でてふを眺め、にやりと唇の端を吊ってみせた。


「見えていないほうがよかったかな?」


 嘲笑、そう脊椎で判断したときには、てふは少年の頬を思い切り叩いていた。

 スリーの食らったビンタよりも痛快で乾いた音がして、少年の上体がぐらつく。てふは思わず手を引っ込めて門松を抱え直す。彼の身体はじわりと発熱しているようだった。


 少年は唸りながら頬をさするが、泰然とした微笑は変わらない。嘲りだと思ったのは自分の昂った感情のせいなのかもしれないが、だとしても茶化してあしらうだなんて人間性を疑う。

 こんな少年でもハンターなのだ。

 こんな少年に助けられたなんて。

 歯噛みするてふに女性の声が飛んだ。


「誤解があります、織田さま」


 スリーの背をさすりながら、女性は赤銅色のひとみをてふに向ける。鋭くも厚情を含んだ真摯な視線、スリーとよく似ているとてふは思った。

 

「子孫を残せば寿命が縮むというヴァンパイアの呪いはご存知でしょう。つまりカモミールは自分の父親のために栄誉価の高い獲物を探していたのです。ヴァンパイアにとって滋養強壮となる人間の血は三種類ある――混血児に純血の女性、そしてもうひとつは、です」


 頭の後ろを鈍器で殴られたかのように、頭蓋が揺さぶられる感覚。

 なにが言いたい?

 てふは目をつぶって、門松の体温だけに縋りついた。拒絶してしまいたいのに、開け放したままの鼓膜から残酷な言葉が入ってくる。

 

「カモミールは父親を愛していました。すべては父を呪いから救い、これからも共に生きていきたい、その一心だった。あなたがたを襲ったのも……おそらく自分の妊娠すらも。だから彼女は赤ん坊のことを……」

「憶測よ。そんなの、あんまりだわ」


 耐えきれずに言い放った声は怒りに震えていた。自分やカモミールと同じ女という種類の人間にそれを語られるということが、残酷さを増すように思えた。

 女性は押し黙り、スリーが鼻をすする。


 レイヴンがカモミールについてどの程度調査をしていたのか、誰が誰をどれほど想っていたのか、それが事実なのかどうか、今となってははわからない。死んでしまった今となっては、どうだっていい。


 少年が言ったではないか。

『奇跡を起こすのは血ではなく愛だ』と。


 カモミールは生きていた。

 愛は、たしかにここにあったのだから。


 それを奪ったのは。


 怒っていなければ自分を保てない気がした。

 泣くな、卑怯者。てふは唇を噛み締めた。

 


「オリヴィア」


 落ち着いた声音に呼ばれ、女性は少年を見た。

 少年はやわらかな微笑みを絶やさない。


「私が胎児と母親を殺したのは事実だ。ひたむきな愛を無慈悲に絶ったのも私。だから私は責められるべきだよ」

「ヴァンパイアは敵よ。やらなければやられる、あちらの事情までこちらが背負う必要はないわ」

「目的がなんであれ、その身に呪いが降りかかるとわかった上で自ら子を宿した彼女の決意を否定することは私にはできない」


 彼の口調はゆったりとしていて、まるで我が子に言って聞かせる父親のようだった。女性は眉を寄せたまま、少年の動向を目で追う。

 少年は再び妊婦の遺体に近づいた。開いたままの瞼をそっと閉じさせ、投げ出された手を腹の上で組ませる。彼が開けた穴は母の手によって塞がれた。

 

「母の愛は尊い、だけど命の重みがみな等しいように、愛もまた比べられるものではないんだ。愛は血であり生命そのもの。それを奪うことはすべからく罪だよ。たとえそれが生きるため、愛するためだとしても」


 遺体を見つめるその姿に、懺悔や苦悩は宿らない。

 音の出ない鍵盤をひとつひとつ叩くような静寂の安寧と、水面に蜘蛛が糸を織るような危うい神秘を、あわせて含むかのような声。


 てふは束の間、息をしていることを忘れた。

 あんなに残酷なことをした少年がそれを語ることに、悔しさすら感じた。

 愛、その言葉は少年の口から出るたびに重さを増し、てふの心に安らかな戦慄をもたらすのだ。


 ――血。

 ――命。

 ……愛。


 人もヴァンパイアも、ハンターも、誰も彼もが罪人だと言うのか。


 元も子もない、けれど間違いだとも言い切れない。


 血に戯れる門松の姿を思い出す。

 命の尊さを知らなければ死の悲しみもわからない。愛を知らなければ罪の意識もない。

 それはつまり、知っているならば、悲しみや罪の意識を抱えるということだ。

 つまり、この少年は。


「……答えて。なぜ殺したの」


 振り返った空いろの瞳をてふはまっすぐ見つめる。

 濁りも曇りも揺らぎもない瞳、それは果たして生きていると言えるのだろうか。

 てふの問いに、少年はやはり柔和に微笑んで答えた。


「私はヴァンパイアハンターだから」


 その時、てふは彼のひとみの奥に、滾々と溢れ流れるる泉脈を見た。


 彼の全身を包む黒は、スリーたち姉弟レイヴンの制服と似て非なるものだ。

 重厚な死神のようで、風まかせに流離う鴉の羽のようでもある。

 貫いた妊婦の赤い血をも飲み込んでしまう黒杖の輝きとは、すなわち生の潔癖なのだろうか、それとも死の抱擁なのだろうか。

 彼は闇から出てきたのか、闇に帰るのか、彼自身が闇なのか。


 そのいずれでもない。

 最初からなに色でもなかったような、あるいは、累々混じってついになに色でもなくなったような。

 清と濁、生と死、相反する曖昧な境界ふちにたったひとりで立っている。


 そんな彼が人の形をとるために選んだ色。

 人という生物のもつすべての色の中で、最も鮮やかで美しい色。

 


 てふが少年の瞳に呆然と囚われていると、女性に促されたスリーが寄ってきた。

 ごしごしと顔を拭い、大きく呼吸する。揃えた指をぴんと伸ばし、鼻声だがはっきりと、スリーはてふに姉を引き合わせる。

 

「ご紹介が遅れてすみません。こちらはレイヴン所属のハンターで姉のオリヴィア・シュナイダーです。あちらの彼はぼくの部署の先輩で、名前は……」

「オズワルド・メイヤードだ、よろしく!」


 スリーの紹介を待たず、少年はスキップせんばかりの勢いで飛んで来て、さながらダンスを申し込むかのごとくてふの前に片膝をついた。

 今の今まで静謐な雰囲気を醸し出していたはずの彼が満面の笑みで差し出した手には緊張感のかけらも残っていないどころか、どこか芝居がかった滑稽さすら感じる。

 この切り替えの早さはなんなのだろう。どこまでも茶化されているのか?

 ……いや、彼に対する違和感は今唐突にやってきたものではない。

 てふは握手をするかわりに門松を抱き寄せた。


「“ハナ”、といったわね」


 それは先刻、初めて対面した際に彼がてふに向かって何気なく口にした名前だ。


「織田ハナはわたしの高祖母よ。あなたは何者なの?」



 少年の笑みがほんの僅か強張ったのをてふは見逃さなかった。


 織田分家の子女が甜血の性質を持つようになったのは高祖母の代、つまり今から八十年以上も前のことだ。以降、織田の血を絶やさぬよう女は二十歳はたち前後には結婚して跡取りを産むことが慣わしとなり、てふが生まれたときは曾祖母も存命だった。

 とはいえ高祖母、ましてや若い頃の顔など、てふすら知るはずもない。初対面のレイヴンのハンターが、なぜてふを見てその名を呼ぶことができるのだろうか。


 彼には他にも不可解な点がいくつもある。

 外見にそぐわぬ大人びた態度。

 門松を混血だと見抜いたこと。

 カモミールヴァンパイアの境遇を理解し同情しているかのような会話。

 そして、孤高ともいえるその青いまなざし。

 とても一介のハンターとは思えない。

 織田家になんらかの関わりがあるのだとしたら、知らないわけには……


 スリーはなにか言いたげだったが、姉に制されて押し黙った。

 てふの怪訝な視線を受けとめた少年は、やがてふ、と声に出して笑った。

 先ほどと同じく流すつもりか。問いただそうと思ったてふだったが、門松が小さく唸ったのでその機を逸した。

 そうして許してしまった少年の破顔は、てふが引っ張り出したなけなしの織田という緊張感をあっさりと掃き出してしまった。

 

「私は何者でもないよ。しがないレイヴンの雇われハンター、殺すしか脳のない男だ。だから恋には不器用でね。その昔、優しく勇敢で紫の簪がよく似合う少女に秒速で失恋したこともある」


 そう語る少年が差し出した掌には、いつの間に拾っていたのか、てふが投げた織田家伝統の武器があった。

 てふが恐る恐る受け取ると、少年はわざわざゆっくりとまばたきをして上目遣いを寄越した。思わず身構えるてふに、彼はいたずらっぽくウィンクをしてみせた。


「貴女にもそんな予感がするから、これきりにしておくよ」


 ――笑う彼、オズワルドの口元には、牙のごとき犬歯がたしかに存在していた。



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