旅先 18

 

 思いがけない人質の反旗にカモミールは慄き、半歩後退る。スリーは血のついた両の掌を掲げて投降の意を表しながらも、はっきりとした口調で語りかけた。


「カモミール、おまえの目的はヴァンパイアの呪いの克服なんだろう。そのために栄養価が高いといわれる血液を求めている。胎児と混血児に並ぶ滋養強壮の代表格、それは純潔の女性だ。てふ様は美味とされる甜血も持ち合わせている、だから狙いを定めたんだ。違うか?」

「だったらなんなのよ……」

「教えてやる、それは無駄なんだ。呪いによる死は処女や甜血ごときで避けられない」


 スリーの堅実な語り口はカモミールの興奮をいくらか鎮めたが、それでも彼女の心は揺れ動いている。彼女に呼吸の間を置かせず畳み掛けるスリーは、てふが最初に会ったときのような緊張と頑固さの中に、果敢という大樹が佇んでいるようだった。


「だが可能性はゼロじゃない。劇薬となるものは他にあるんだよ。体内にうまく取り込めば限りなく不老不死に近づくことができる血が」


 自らの心臓を拳で叩き、スリーは高らかに宣誓する。


「ぼくの血だ。すなわちヴァンパイアに対抗する血、おまえたちにとっての毒であるクロウの血液だ!」


 カモミールは弾かれたように首を振った。


「それは迷信よ!」

「いいや、おまえは知っていて望みを賭けているはずだ。だからてふ様だけでなく彼も連れて行こうとしているんだろう」


 スリーが指し示した門松をカモミールは忌々しそうに一瞥し、歯茎を見せて舌打ちする。


「そいつの血は特別なのよ、あんたなんかよりずっと!」

「その通り、彼は強いクロウだ。ぼくなんて足元にも及ばないほど優秀なハンターだ。たとえ人として空っぽでも……」


 語尾が心なしか震えた。血の昂りを抑えるかのように呼吸が浅くなり、鼻の穴が膨らむ。肩に力が入る。たまらず項垂れる。

 そんなスリーの姿に、てふは先刻の自分を見た。

 忌憚なく自身の現実をただ見つめ、声に出すことで逃げ道を断つ。言霊、すなわち自戒、猛省、諦念、そしてそこから生まれる決意。

 冷や汗が背筋を流れ、口をついて出た。

 

「スリーさん、なに考えてるの、やめて」

 

 てふの呼びかけをスリーははじめて無視した。

 同じではない、言いたいことだけ言って判断を敵に投げた自分とは違う。彼は言葉通りのことをしようとしているのだ。


 スリーは意を決したように顔を上げ、カモミールだけを視界に入れる。抱擁せんとばかりに腕を広げ、痛むはずの腹部をさらけ出し、訴える。


「妊娠中のあなたの体では彼のような強すぎるクロウのどくと戦えない、お腹の子だって。必死になって手に入れた血液でふたりとも死んでしまっては意味がないだろう。だから弱いクロウが必要なんだ。ぼくは弱い、ハンターとしてなんの役にも立たない、でもだからこそあなたたち二人の生きる糧になれる」


 彼の揺るぎない視線は静謐な生命の糸のようだ。ぴんと張ったそれはすでにカモミールへと繋がっていて、彼自身が手繰り寄せている。

 しかし力強いことばとは裏腹に、スリーの声や顔からは徐々に自信が喪失し、代わりに心の奥に追いやっていたはずの恐れが目に見えて膨れ上がっていた。眉尻が沈み、エメラルドの瞳は波打ち、奥歯がカチカチと音を立てる。


 思わず駆け寄ろうとするてふの手が強い力で引き止められた。振り向くと門松はてふを飛び越えてスリーを眺めていた。

 白けた無表情、その眼はさながら、狩りの享樂に鹿と豹の戦いを傍観する獅子のごとくだ。彼が戦いの前にスリーの拳銃を奪っていたことを思い出し、てふはぞっとした。


 自分へ向けられた提案の意図をはかりかねているのか、カモミールも戸惑いを隠しきれないようだ。膨らんだ腹を庇うように抱えてじりじりと後退り、虚勢ともとれる覇気は言葉にならず息とともに吐き出される。しかしその視線はスリーから離れることはない。

 スリーは目を閉じていちど深く呼吸する。再び開いた口から放たれた声は緻潔で厳かな響きを含んでいた。


「クロウを食って生き延びたヴァンパイアがいるんだ。かつて“囚人ヨカナーン”と呼ばれ、かのレイヴンとヴァンパイアの直接戦争を二度も超えた奇跡の存在」

「そ……の話、知ってるわよ、でもそれは伝説でしょ」

「いいや、今も実在している。命の犠牲を背負い、子どもの姿のまま、たったひとり変わらないままで、人間とヴァンパイアのすべてを見つめ続ける彼の姿を、ぼくはすぐそばで見てきた」


 カモミールに話しながらも、スリーのまなざしは遠く言葉の指す人物へと思いを馳せているようだった。ヨカナーンという言葉の響きをてふははじめて耳にしたが、カモミールには馴染みがあったようで、ごくりとつばを飲む。

 そんな彼女へスリーは距離を詰める。半身になって、てふと門松も視界に入れながら、スリーはひたむきなを心を紡いだ。


「ぼくは環境に恵まれた人間だから、あなたの生き方の是非を問うことはできない。でも生きたいという気持ちは理解できる。守りたいって気持ちはぼくにもあるんだ……赤ん坊に母親あなたが必要なように、彼はてふ様を必要としてる。ともに生きていくんだ、だからふたりをあなたに食わせるわけにはいかない。てふ様の守りたいものがぼくの守るものだ。だって、ぼくはてふ様の護衛だから」

 

 黙ってきいていたカモミールの表情はみるみる内に上気し、額や眼球を青々とした血管が支配する。

 なにが彼女の逆鱗に触れたのか、図りかねるてふの視線は刹那、カモミールと交わった。


 ――その瞬間、てふは吸った息ごと肺を焼き切られたような閃痛を感じた。

 目の前のスリーでも血まみれの門松でもなく、カモミールの憎悪は他でもない自分に向けられているのだ。

 自分という器の中にある、咲いたことのない蕾、満たされたことのない盃を、器ごと縊り殺そうとしている。


 悍ましい視線はすぐに外れた。スリーがとうとうカモミールの前に両膝をついたのだ。

 

「誰を利用してでも呪いを克服したいんだろう、その子といっしょに生きていきたいんだろう、カモミール! だったら迷うな、今ここで決断するんだ!」


 声の震えを押し切るように放たれた宣言。

 その姿はまるで、断頭台ギロチンのまえで皇女に首を差し出す敗戦国の兵士のよう。カモミールを見上げるその目は、かつて自身の誇りをてふに語ったときとすこしも違わない。それは彼の行動に言葉以上の意味がないことを如実に表していた。


 カモミールはわなわなと震えながらスリーを見下していたが、突如糸が切れたようにその場にへたり込んだ。

 手で顔を覆って項垂れるその姿は泣き崩れているようにも見える。大きな腹がつかえるようなその体制に、スリーは思わず前のめりになって手を伸ばした。


 しかし、臨月の腹を小刻みに揺らすのは、彼女の含み笑いだった。

 

「あたしがだれと生きていくって? ……どいつもこいつも甘ったれのくせに、あたしに一丁前に人生を語るのね。でも、そう。ええ、いいわ、あんたの自己犠牲認めてあげる」


 諦めたような嘲るような言葉の隙間からのぞいた笑みは、いやに穏やかだ。

 カモミールは屈んだ少年の頭をそっと抱き寄せ、慈しむように頬ずりをする。ぎゅっと目を瞑ったスリーの耳元を悪魔のような吐息が舐めた。


「処女なんて他にいくらでもいるものね」


 スリーがその言葉を咀嚼する間もなく、カモミールは胸ぐらをつかんで長身をその場に引き倒す。一瞬で組み伏せられたスリーの背に妊婦の腹が重石のようにのしかかった。

 カモミールは馬乗りのままスリーの髪を鷲掴みにして顔を上げさせ、てふに向かって殊更に唇を吊り上げた。


スリーこのコを食うならあんたは要らない。あんたを食うならこの子は要らない。だから、ねえ、あんたが選んでよ」


 その表情は、見世物の処刑を楽しむ悪女そのものだった。カモミールはてふに門松を見るよう促し、嘲笑とともに吐き捨てた。



「この子を殺されたくなかったら、あんた、今ここでそいつに犯されて孕んでよ」


 

 ――一瞬、視界が真っ白になった。


 暴れようとするスリーにさらに体重をかけ、カモミールは卑屈な笑みに顔を歪める。


「ほんとにバカなボウヤね! 戦えないなら逃げればよかったのに、自分から人質になるなんて!」


 スリーの唇が半開きのまま震え、背中にのしかかったぬくもりは彼の覇気を瞬く間に消失させた。

 てふの頭の中を後悔だけが駆け巡る。先の自分の行動、安易な自己満足。それはスリーの解放どころか、まだ幼い彼に負わせてはならない使命感を植えつけてしまったのだ。

 しかしもう遅い。スリーは再び囚われ、今、その命の手綱を握るのはカモミールではない。


 なにをしろと言った?

 わたしが、だれに、なにをさせろと?


 繋いだ手のひらの柔い感触に、てふは少年を認識する。

 きょとんとした表情でてふを見つめている彼は、なにを言われたのか理解しているのだろうか。


 動けないてふに、カモミールは嬉々と狂乱の混ざった毒酒のような叫びを浴びせる。


「どうしたのヤマトガール、あたしから目を逸らさないんでしょ、だったら愛する人のためにあんたのはじめてを犠牲にしてよ。ねえあんたが愛してるのはどっちの男なの? バカなガキふたり手玉にとって楽しい? あんたもあたしと同じじゃない、だったら分かるはずだわ! 見せてよあんたの愛情、いのちが尊いってこと教えてよ、愛が尊いって教えてよ、生きてていいんだってあたしに教えてよ!」

 

 赤毛を揺らし、唾と嘲笑を飛ばす。高揚と悲壮に歪んだ唇、剥き出しの牙、そして頬を伝う真っ赤なしずく。


 カモミールは血の涙を流していた。

 これは、慟哭なのだ。

 彼女といういのちの叫び。

 

 真正面から叩きつけられたてふの心は粉々に砕け、気づけばぼろぼろと泣いていた。

 自分のせいで兄が怪我をしたときのように。母に叱られたとき、髪を結ってくれなかった母を責めたときのように。

 零れる涙のひと粒ひと粒が針となって刺さる、立っている感覚もぼやける。


 まるでこどもだ。

 蝶どころか、わたしは蛹ですらない。

 一度どろどろに溶けてしまわなければ、生まれ変われないのだろうか。



「お嬢、なんで泣いてんの?」


 あっけらかんとしたその声は事態の重みをつゆほども感じていない。

 門松は繋いだてふの手を大きく揺らし、歯を見せてころころと笑った。


「泣くことねぇじゃん。お嬢は鬼に食われなくなるし、カモミールちゃんもそれで満足するんすよね? 一石三鳥っス」

「ち、ちがう……」

「三で合ってるよォ、だってオレもなるんだもん」


 弾むはずの語尾が、てふの頭を撫でるように落ちた。力を抜いて細めた目、最低限の弧を描く唇。乾いたはずの血の跡が艷を添える。

 そのおとなびた微笑は、てふにはじめて門松を男だと意識させた。

 なにも分かっていないのはわたしだけ。そんな現実を突きつけられ、涙がすうと引いていく。


 だが彼は理解してはいない。

 てふが自分の貞操を守ればスリーは殺され、てふは甜血の処女として食われる。逆を選べば食われるのはスリーだが、てふは女としてかけがえのない犠牲を払う。つまり、これは取引ではないのだ。

 頬を拭うカモミールに向けてスリーは青ざめた顔で声を張り上げる。


「カモミール、ぼくを殺せ、早く殺せっ!」


 その後頭部を血のついた手が掴み、地面に押し付ける。カモミールは道化の化粧を崩したかのような顔で吐き捨てた。


「あんたが死んだって終わらないのよ。あの子に選ばせてあげるの。あんたの命か自分の命か、どっちを殺してどっちをあたしにくれるのか。せっかくだからあんたもよく見てなさい、あんたの弱くて無責任な言動のせいで、大事な女がめちゃくちゃにされるのをね!」


 スリーの表情は絶望そのものだった。

 反論はおろかカモミールを睨むこともできず、冷たい地面に力なく頬を擦り付ける。荒い鼻息だけが地を這った。


 呆然とするてふの手を握る指先がふいに蠢き、指を絡めるように繋ぎ直した。

 はじめての恋人のような汗ばむ緊張を、その黒い手袋はもたない。

 破壊された建物、撒き散らされた血肉、血溜まり、死体。それらを背景にした少年の笑みもまた、付着した血のように乾いていた。


「お嬢が決められないならオレが決めてあげるね」


 繋いだ手を引かれ、抱き寄せられる。再び吸い込んだ血の生臭さよりも、耳元で囁く声がてふを硬直させた。


「お嬢はだれも殺さないよ。だってオレがあとであるじに殺されるだけだから」


 髪につけたリボンが外される。頭蓋骨の形を確かめるように髪を撫でた指先が、耳の後ろから輪郭をなぞって首筋を滑る。肌の上をうごめく百足のような寒気がてふの呼吸をさらに乱す。


 三年前に同じことをされた日とは全く異なる涙が、てふの頬を濡らした。

 あのときはまだ自分も純朴だった。弟のように思っていた少年に男を見ることへの困惑があった。未知の快楽、未知の痛みへの恐怖があった。操を失うことへの拒絶があった。


 今、てふの心を掻き乱すのはそのいずれでもない。

 スリーの解放と自分の貞操、比べるまでもないことだ。

 それに知らない男ではない。

 だからこのまま委ねてもいいとさえ思っている自分がいる。


 しかし、このまま委ねてはならないのだ。

 カモミールが男を誑かすための手段として選んだその行為は、また彼が暖をとる程度にしか思っていないその行為は、愛し合うということだと示さなければならないからだ。

 愛し合い、新しい命を授かるということは、神聖なことだと示さなければならないからだ。

 生きることは尊い、いのちは尊いのだということを、示さなければならないからだ。


 カモミールに。

 そしてなによりも、目の前の彼に。


 それなのに。

 彼のあるじが許さなかったことを、今ここで、人質スリーのためにさせるというのか。

 殺さないという自身の生き様を守るために、犠牲にしようというのか。


 そこに、彼という人への愛はあるといえるか?


 わたしは、彼を愛しているのか?



 涙の切れ間に消えそうな声で呼んだその名を、彼は嬉しそうに聴いた。

 そして震える肩を抱き、口説くように顔を傾けててふを見つめる。


「怖いんすね、お嬢」


 手袋をした両手が、てふの頬をそっと包みこんだ。ふたつの親指がてふの目尻をなぞり、溜まった涙を拭う。そこに不自然に込められた力を感じて、瞬きをしたらまた涙がこぼれた。

 ふだんの彼からは想像もつかない、繭のように柔らかな視線がてふを包み込む。


「じゃあ見ないようにしてあげる。見えなきゃなんにも怖くない、お嬢はただあったかいのだけ感じてて。ねぇ、お嬢のこと、オレが守ってあげるね」


 門松は微笑んだ。

 兄とは違う、スリーとも違う、てふの知る誰よりもおさなくて、痛いほどに純情な、雪のような笑顔。

 彼はいつくしむということをすでに知っているのだろうか。

 あるいはわたしが、まだ知らないだけなのか。

 悄然と開けたてふの両目に、血も乾いた親指が迫った。



 ――その時だった。




「見えないからこそ怖いこともある」



 日の傾いた空に慈訓のごとき声が響く。

 呼応するように錆棟の壁が軋み、煉瓦を強く跳ねる革あるいは風の音が地上の耳に届いたとき、鴉の羽のごとき人影がふわりとカモミールの背後に落ちる。


「だから怖くても眼を開けるのが強さだ」



 振り返るより早くカモミールの肌が敵襲を判断する、その判断のための一瞬こそが隙だった。

 影がカモミールの襟首を掴んで背後へ引き、体勢を崩した身重の体を凄まじい力で棟の方へと跳ね飛ばした。

 轟音が響き渡り、粉塵が敵の姿を覆い隠す。



 振り返り、てふは瞠目する。

 這いつくばった体制のまま呆然とするスリーがそこに残されていた。その傍らに。

 夜いろに光る杖を携えた黒ずくめの少年が佇んでいた。





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