旅先 17

 スリーとともにゆっくりと近づきながら、妊婦は目の前に広がる惨状を睨んで盛大な舌打ちをした。


「ほんと使えない男ばっかり……」


 噴水広場で夫の死を無視したときと同じ侮蔑だ。

 スリーが語った彼女のの方法を思い出し、てふは奥歯を噛みしめる。そんな彼女が妊娠しているという事実をどう受けとめればよいのかわからない。


 はち切れんばかりの腹を背中に押しあてられ、スリーの全身は攣ったように硬直していた。凶器と反対の手で鳩尾みぞおちを圧迫され、上質なベスト生地が捻られて声なき悲鳴を上げている。顎は精いっぱい上がり、あてがわれたガラスの切っ先から逃れようと喉仏がひくついている。無意識に抑えられた呼吸の端々が時おり躓きながら逃げていく。エメラルドグリーンの瞳は恐怖で今にも破裂しそうだ。

 項垂れている場合ではない。てふの鼻腔から吸い込んだ空気には血の臭いがすっかり染み付いていた。


「ボーイフレンドを殺されたくなかったらそのバカを大人しくさせて」


 てふがものを言うのを牽制するように、カモミールは顎で門松を指す。拳の背で腹を加圧されたスリーが苦悶の声を上げたので、てふは前のめりに語りかけずにはいられなかった。


「あなたの狙いはわたしの血なんでしょう? ほしいならいくらでもあげるわ、だから」

「黙ってついてくるのよ、あんたたちふたりとも」

「わかった、言う通りにするから。スリーさんを離して」

「ついてこいって言ってんのよ! あんたバカなの? 武器を捨てて、早くして!」


 声を荒げたカモミールの、白いワンピースの裾が揺れた。苛立ちを隠せない呼吸が、すでに乾きかけた血生臭い空気の中に蒸気にも似た生気を満ち拡げる。

 獲物を持ち帰るのが彼女のやり方であり、死体の転がるこの場から一刻も早く遠ざかりたい心情も理解できる。だがカモミールの言葉は獲物を自分の安全圏に確保したいというより、持ち帰ることそのものに固執しているが故の焦燥を含むように思えた。

 もしかすると彼女も夫と同じように、食事を待っている誰かがいるのだろうか?

 だとすれば、彼女の守りたいものとはなんだ?


 いずれにせよ相手は興奮状態にある。なにが逆鱗に触れるかわからない。

 てふは跪いたまま、腹帯の武器をそっと抜いて遠くに投げた。紫の簪が血を纏いながら地面を転がっていくのを確認し、妊婦に頭を垂れて噛み砕くように声を発する。


「怖がらないで、カモミール、なにもしないわ」

「信じると思う? こんな派手にやったくせに! ああもう、三人もいたのに、なんでどいつもこいつも役に立たないのよ!」 


 髪を振り乱して惨劇の現場を見回し、まるでこどもの癇癪のように歯噛みをするカモミールの、ガラス片を握りしめる手が出血して震えている。治癒能力に長けたヴァンパイアといえど、肉体が傷つけば人と同じように痛みを感じる。全身を流れる真っ赤な血が彼女の興奮を扇動しているなら、他人が宥める術はない。


 門松は戦闘後も平気そうにしていたが確実に消耗しているだろう。レイヴンの応援はまだなのか、それどころか鴉の一匹も到着しないのはなぜだ。対話も戦闘も危ういならば言う通りに、しかし彼女についていった先になにがあるのか全く予想がつかない。どうしたらいい、ここで中途半端な言動をすれば傷つくのは自分ではなく人質だ、今この場での最適解はなんだ。

 わからない……わからない。

 しかしなにもしなければ自分、あるいは、スリーが死ぬのだ。恐怖がてふの筋肉を痺れさせる。



 破壊と死しかない光景の中に逃げ彷徨うてふの視界は――そのとき火箸を握ったままの手を捉えた。


 慌てて視線を移すと、血濡れの彼は棒立ちでカモミールを凝視していた。

 付着した血液が足もとの血溜まりと結託して彼の影を凝固させてしまったかのように、ぴくりとも動かない。脱力し垂れた手中の武器は警戒や闘争の表れではなく、単にそれを持っていること自体を忘れているように見える。

 

「ふうん、そこに入ってんのかあ……」


 その呟きはいつになく呆けていた。微動だにしない彼の喉仏だけがごくりと動く。

 

「そっかあ、中にいるから、寒くなんないのかあ……」


 口もとはだらしない弧を描き、血痕のこびりついた頬筋が弛緩して、感情のない黒目は臨月の腹だけを捉えている。まるで放心している夢遊病者、また幻惑に魅せられた中毒者のような……あるいは。


 その横顔に見覚えがあるという記憶の主張が、てふの心を凍りつかせる。

 織田家に来てはじめて鬼を屠った日。

 今と同じように血に濡れた幼い彼は、今と同じように恍惚の笑みを浮かべて、爛れた手で火箸を握っていたのだ。


 にちゃり、にちゃり、と、彼の靴が近づいてくる音にカモミールは顔を引き攣らせる。


「な、なんなのあんた、こいつがどうなってもいいの!」


 スリーの長身を突き出し、ガラスの切っ先と血の滲んだ喉元を少年の視界にまざまざと見せつける。

 しかし彼の目は一切の光を通さない。惚けた声が涎のように垂れた。

 

「いいなあ、いいなあ……そン中、すっげえ、あったかいんだろうなあ……」


 開いた瞳孔のその奥から、常闇が希望のように爛々と湧き出しているのをてふは見た。

 そこには妊婦も胎児も人質も、お嬢も、“門松”すらも存在しない。


 なぜ生きているのかという命題の答えがなぜ死ぬのかという命題の答えであるように、ただの闇とただの命のまえには他者や自我など惑うだけだ、ましてや絆や愛など。

 寒ければ死ぬ、生きるためには暖を取る、ただそれだけのこと。だからこそ彼は火を扱う道具を武器に選んだ。


 ――そんな彼が、に出会ってしまったなら。



 肌を駆け上がる戦慄にてふは感電した。混乱に停滞していた血が一瞬で激流となり神経の覚醒を促す。熱い心臓が壊れたように叫んでいる。

 てふのつま先は落雷のごとく血糊を跳ね、火箸を振りかぶる少年の前に出た。その瞬間、高圧の静電気のような空気がてふの肌を刺し、塞がったはずの頬の傷が裂けた。


 両手を広げて相対するてふに、少年は眉をぴくりと動かす。


「なにしてんの、お嬢」

「殺してはだめ」

「でも鬼だよ」


 少年は可笑しそうに口元を歪めて首を傾げるが、彼の放つ殺気の純度は先のヴァンパイアたちの比ではない。獲物を前に狩りを邪魔された動物がその対象を変更するのは野生の常だ。その目には今、腹のへこんだ童顔の女だけが映っている。


「オレ寒いのヤなんだ。わかるでしょ、お嬢」


 面には倦厭と敵意をうけ、背中には妊婦の怪訝な視線が突き刺さる。息が詰まりそうだ。

 だがたとえ息が出来なくても彼に触れなければならない。

 彼の言うように、彼のことが、てふにはわかるのだ。

 てふはゆっくりと近づき、少年に腕を伸ばす。光のない視線に捕縛された指先が痺れ、あかぎれのような痛みが迸ろうとも、構わなかった。

 

「わたしがそばにいるわ。鬼の血を浴びなくたっていい、わたしと眞がいれば、あなたはもう寒くなんてならない」


 少年の顔から笑みが消えた。

 てふは火箸にそっと手を添えて宥める。頑なに握られた指先はてふに促され、一本、また一本と解けていく。

 彼の表情は強張っていた。迫る手のひらを拒むように、あるいは感情を探すように、瞬きを繰り返して視線を震わせる。彼のことをわかった気になることこそが驕慢なのかもしれないとてふは思った。


 血に戯れるこの少年に、血よりもあたたかいものがこの世にはあると教えなければならない。

 極寒から拾い、人の名を与えて生かしたのなら、これ以上修羅に還してはいけない。これ以上凍えさせてはいけない。

 たとえそれが人の域を超えた驕りだとしても。

 わたしは“門松”を守りたい。

 わたしが“門松”を守るのだ。

 

 そっと回した腕が触れた瞬間、彼のはだが泡立った。反射的に後退ろうとする体を抱き寄せ、筋肉の薄い胸に柔からかな乳房ごと心臓を押し当てる。鎖骨に頭を預け、糊のように固まった衣服と錆びた血の間にある皮膚のにおいを吸い込んだ。身体はひどく冷えていて、直に伝わる心音が彼の生命力をごくごくと飲み下しているようで、てふは腕に力を込めた。


 この鼓動が伝播するように。この体温を移すように。今ここに生きている感覚を共有するように。

 わたしは他になにをあげられるだろう。

 すべてを差し出せば、彼は人に成れるのだろうか。


「彼女を殺さないで。わたしのそばにいて、門松」


 囁きとともに涙が零れる。

 門松の吐いた息がか細く震えるのがわかって、てふは目を閉じた。

 彼の腕がてふを抱きしめ返すことはなかった。雪解けの垂水のような鼓動が服越しにこくこくと乳頭を叩いていた。てふはまた泣きそうになった。



「な、んなのよ、あんたたち、きもちわるい……」


 覇気を失った妊婦の声に呼ばれている気がして、てふは目を開ける。触れ合わせた自身の肌の温度を少年のものだと思い込む自分は、どれだけ甘いのだろうか。


 てふは抱擁を解き、かわりに少年の手を繋いだ。遠慮がちな指先に熱が下りてきたのを確かめて、視線を上げると門松の真顔に出会う。冬靄に曇ったひとみにはたしかにてふが映っていて、涙を押し殺して微笑みかけると、門松は戸惑うように睫毛を伏せた。


 カモミールは憮然とした表情でこちらを見つめていた。指先にかけがえのないぬくみを感じながら、てふは彼女に向かって深く息を吸い込んだ。


「わたしはだれも殺したくない。カモミール、あなたのことも」

「は……?」


 思いがけないてふの言葉にカモミールは眉を顰め、捕われたスリーの瞳も一層不安で揺れる。

 てふは妊婦を真摯に見つめた。


「今日まで必死に生きてきたんでしょう。食べるために、生きるために、明日の命を繋ぐために、そして今は守るべきもののために。純粋さを捨てて、狡猾に、女の身を犠牲にしてまで、あなたは戦ってきた。わたしはそれを蔑ろにしたくない」


 心の中身が詰まることなく言葉になる。

 しかしてふの声を真正面から受け止めたカモミールの表情は強張り、憤然と眉を寄せててふを見つめた。

 

「……あんた、いまなんて言った?」


 にわかに低くなった声に細い赤毛がじりじりと戦慄く。至近距離での歯軋りの音と剥き出しになった牙にスリーは息を呑んだ。


「帰る家もあって、たくさんの男を従えて守られて。そんなお嬢さんは知らないでしょ。どんな声で誘えばエモノがついてくるか、どうやって甘えれば隙を見せるのか、そんなこと考えたこともないくせに!」


 言い終わるが早いかカモミールは身を翻し、捕らえていたスリーの腹に拳を叩き込んだ。呻き声とともに倒れ込むスリーの脇腹を踏みつけて転がし、スリーは乾いた咳と胃液とを地面に吐き出す。てふは思わず門松の手を握りしめた。

 カモミールは燃える赤毛を振り乱し、大きな腹を抱えて叫ぶ。


「なにも犠牲になんかしない、これがあたしの生き方! あたしのためにパパが教えてくれた、ぜんぶぜんぶあたしが選んだ人生なのよ! それを犠牲、犠牲だなんて! 未通のガキが偉そうに言うんじゃないわよ!」


 ガラス片を掴む手から血が飛び散って彼女の白いワンピースに染みをつくる。てふにはそれが、シーツをはじめて汚した少女の無垢な出血に思えてならなかった。

 彼女の激昂は荊棘いばらのようにてふの心を突き刺す。

 怒りでも悲しみでも悔しさでも虚しさでもない。

 これは痛みだ。

 カモミールという女の、狂おしいまでの愛。


 後ろ手に重ねたぬくみが全身に融け、静脈を巡って心臓を潤す。その慰めに押し出された虚しさが眦から溢れていく。

 精いっぱい目に力を入れ、てふはカモミールを見つめたまま声を張った。


「そうよ、わたしはまだなにも知らない。だけど知らないでいることはできない。あなたの人生から目を逸らすことはできない。だってあなたの夫を殺してしまったんだもの」


 カモミールは目を見開いた。艷やかな唇がその名のかたちに震える。鮮やかな血が手のひらから凶器を滑らせる。

 噴水広場で眠る彼の姿をてふはあえて思い出す。殺したくない、そう言いながら殺した事実。彼女に愛がわからないのかと問うたかつての自分。

 なにもわかっていないのはわたしだ。

 だからこそ、向き合いたい。逃げたくない。彼女から、自分自身から。

 その決意が、詰まりそうになる声を押し出ていく。

 

「彼はあなたを愛してた。そしてあなたのお腹の子を愛してた。彼は家族と生きていたかった、しあわせな未来を守りたかった。きっとただそれだけだったのに」

「ミルズのことなんてどうでもいい、あ、あんな、利用されてることにも気づかないバカな男、どうだっていい!」


 捨てるように叫ぶカモミールの顔もまたくしゃくしゃに歪んでいた。目は充血し、耳を押さえて何度も何度も首を横に振る。大きな腹が彼女の重心を傾かせ、転がるスリーから足を退かせた。


 粉雪のごときてふの言葉がカモミールの激情を剥き出しにさせ、熔岩のごとき悲鳴はてふの心の氷瀑を溶かす。

 苦しい。それでも言わなければならない。

 

「愛することは決して悪じゃない。だからあなたたちは悪じゃない。愛を奪うことが罪なの、それを背負う覚悟がわたしにはない。だからわたしは、血を求めるあなたの手を拒むことはできない」

「い、意味わかんない、なにお高くとまってんのよ、殺されてもいいっていうの!」

「それでも!」


 狼狽える女を制することはできても、涙は制御できない。滲む妊婦の姿を見つめながら、てふは嗚咽の中から懸命に絞り出した。


「殺されてもわたし、ただ鬼というだけであなたを……“おかあさん”を殺せない……」



 ――おかあさん。


 少年の呟きをてふの背中は聴いた。



 カモミールは茫然と自分の膨らんだ腹を見つめ、それから浅い呼吸を繰り返しながらてふを睨んだ。

 

「き……もちわるい、きもちわるい、気持ち悪いっ! 甘ったれたこと言ってんじゃないわよ、な、なんであんたが泣くの! 意味わかんない、あんたたちみんな頭おかしいんじゃないの! 死ね、死ね! みんな死ねっ!!」


 うずくまるスリーにすら恐れを示し、直立するのも不安定なほどに錯乱する彼女の姿に、いたたまれずてふは俯く。


 同情することも愛情を語ることも、殺しておいて殺されてもいいと口走ることも、母親だから殺せないという言い分も、なんて自分勝手なのだろう。

 吐露するごとに流れ出した心の痼。“織田てふ”の人生の柱としなければならないはずのものが、自分自身の言葉によって抉られ、剥がれ落ち、紫の簪とともに鬼の血の海に身投げしていった。


 残ったものはてふという人間、てふという女。

他に何ももたない、身勝手で恥知らずでちっぽけな、わたしといういのち。

 逃げたくないと抉った心が、寒いと泣く。


 門松は大人しく手を離さないで呼吸をしていた。スリーも動けないでいる。

 てふに攻撃や時間稼ぎの意図はなかった。これ以上なにをしたいわけでもないし、取り乱したカモミールがなにをするのか、自分がどうなるのか、どうなるべきなのかもわからない。

 この期に及んで事態を他人に委ねようという自分は、結局なにも変わっていないのではないか。てふは唇を噛んだ。



「……カモミールの言う通りです。意味がわからない」


 久しぶりにきこえたその声はくぐもってはいたが、遠慮とは程遠い語気を孕んでいた。


 てふは顔を上げる。スリーは腹を押さえながらゆっくりと立ち上がった。全身に嫌悪を貼り付けたカモミールに対面しながらも、彼はてふに言葉を投げかける。


「誰が誰を愛していようと、家族がいようといまいと、人間の血を求めるヴァンパイアがぼくたちの敵であることは変わりありません。殺されてもいいなんてことは絶対にない。ましてや死にたいだなんて許されません」


 あれほど強張っていた背筋は体幹の安定を取り戻し、革靴の先が地面をしっかりと捉えている。

 スリーは腹を押さえた手を離し喉元に触れる。指先に付着した血液を封じ込めるように拳を握りしめ、左胸に押し当てる。てふは彼のからだにハンターの血が巡るのを感じた。

 玉石のような輝きと愚直さ――揺るぎない意志を宿した彼の目は、真っ直ぐにカモミールと向き合った。


「だけど誰かが死ななければこの戦いは終わらない。だったらそれは、てふ様じゃありません」



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