旅先 16 

 “歳寒三友”とは、八咫の中でも優秀な下手人が修めることのできる剣戟流派である。

 剣戟とは便宜上の呼称であり、それは一般的な刀剣流派とは異なる。ひとおにに対する戦闘能力を三つの刀に見立て、総合的に評価する下手人の段位制度のようなものだ。

 修めた者は一刀流が梅、二刀流は竹、そして三刀流は松の字を、雅号に冠して名乗ることが出来る。てふの兄の眞は十五歳、十七歳と順当に会得し、二十二になった現在の名は“松宥しょうゆう”となっている。


 そして目の前の少年の名は、最初から“門松”だった。



 ――やすりをかけた赤錆に煮詰めた青魚の腑を刷り込んだような悪臭。

 喜びに打ち震えていたはずの煉瓦の棟は今、ぶちまけられた真っ赤な塗料ペンキから立ち上るぬるい湯気にあてられて完全に窒息していた。


 痣だらけの外階段には手すりの取れたパイプ柵の剣山に引っかかった男がくの字に半身を投げ出して絶命している。

 “歳寒三友”一ノ刀、武術――足場の悪い階段にあって、門松は灰しか掻けぬはずの鈎でパイプをも切断する一閃を放った。短い火箸で手脚の腱を裂き、そして鍼状暗器をまるで鮎の串打ちのごとくオの字に開けた男の軟口蓋から首の後ろまで突き刺した。男の上半身を回し蹴りで剥き出しになったパイプ柵に押し込んだときには、門松の目はすでに次の相手を捕捉していた。


 手すりを伝って穴の開いた心臓から垂れ流される糊のような血は簡素なアスファルトに溜まり池をつくり、すでにそこで息絶えている別の死体を溺れさせている。切断されたパイプと銀髪は泳ぎ、街灯の硝子片は色気づき、垂れた洗濯紐から落ちかかったシーツが沐浴に上気する。死体の胸部は棄てられた土嚢のようにぐずぐずに耕されている。

 “歳寒三友”ニノ刀、体術――自分より大柄な男を相手に、門松はわざと軽い連撃で生傷を負わせた。敵の連携による捕縛の危機を関節技で逃れたかと思えば、出血で動きの鈍る男の体勢をやわらで挫く。連撃は徐々に男の脂を抉り取っていき、飛び散る血汗が滝になる頃、その心臓に火掻き棒の鈎が氷斧ひょうふのように突き刺さった。門松は研ぎの甘い鈎先を肋骨に引っ掛けたまま曳き廻し、最後にはその細腕にありえないほどの力で砲丸投げのように壁に叩きつけた。壁にもアスファルトにも、まるで童のわんぱくな泥団子合戦のあとのように弾けた血痕のなかに、部位の特定できない細かな細胞が一面に撒き散らされている。


 ――酸の臭いがきつくなったのでてふが振り向くと、スリーが嘔吐していた。胃液のかわりにひどく乾燥した安堵がこみ上げて、てふは血の匂いに慣れている自分に落胆した。


 最後のひとりをもう一方の壁に追い詰める門松の、渋皮色の着物は濃い臙脂色に染まっている。殊更に緩む唇や頬は、まるで七五三の童子が紅をさしたように瑞々しい。

 ヴァンパイアの血だらけの右腕は顎部を掻こうと押し当てられる火掻き棒を肘の骨で押し返しつつ、左肩を壁に縫い留める火箸が胸へと降りようとするのを掌で必死に防いでいる。

 門松が壁へと前のめりになれば男も苦悶の声を上げて耐え、力は拮抗していた。


「悪魔め」


 男の締まった喉から無理やり絞り出した声は血痰が絡むせいで憎悪を増していた。薄ら笑いのまま首を傾げる門松を男は睨みつける。


「あの幼気いたいけな妊婦もこうして殺すのか。貴様らとなんら変わらぬ、愛に満ちた若い命を、貴様ら人間はかくも野蛮に奪うというのか」


 門松は顎先を上げて嘲笑した。


「オッサン、なに言ってんの?」


 返答の代わりに男は咆哮した。肩に刺さった火箸を掴み取り、右腕で火掻き棒を跳ね返す。両手の武器を手放してがら空きになった門松の胸へ首を伸ばした男はその皮膚に牙を立てんと口を大きく開けた。


 その瞬間、鈍い銃声とともに男の下顎部が弾け跳んだ。

 脱力した男の左胸をさらに二発の銃弾が射止め、その体は壁伝いに血溜まりの中で崩折れた。男の眼球だけがギョロギョロと蠢き、やがて光を失った。


 てふが目を凝らすと、門松の右手に握られているのは見覚えのある拳銃だった。振り返った先では、左肩のホルスターが空になっていることに気づいて愕然とするスリーがいる。

 いつ抜き取っていたのだろう。てふもスリー本人も気付かないうちに、門松は先の戦いを見据えていたのだ。

 “歳寒三友”三ノ刀、実戦値――自身の持つ武器や役割にとらわれない臨機応変な判断や適応力、応用力など、実戦経験そのものを指す。

 つまり松の字を冠する者は、それだけ多くの任務をこなし、それだけ多くの鬼を屠ってきたということだ。


 門松は銃を投げ捨て、至近距離で浴びた顔面の血飛沫を両手で塗りたくった。恍惚、それ以外に表す言葉のない表情で、彼は死体を起こしてまるで枕のように抱きしめ、頬を擦り寄せた。

 やがて飽きたのか死体も捨てて、門松は散らばった自分の武器を拾いながら、水遊びならぬ血遊びに興じはじめた。革靴で血溜まりを跳ね、目を輝かせて手のひらを浸し、まだ温いその感触に興奮しはだを奮わせる。


 その頬を染めているのは、はたして彼の皮膚の下を流れるたいおんか、それとも死んだ者のぬくもりか。



 てふは目を閉じて深呼吸をした。生臭い鉄の臭いを五臓六腑に沁みわたらせ、門松の五感を共有しようとする。

 全身に浴びたのはついさっきまで体の中を駆け巡っていた血潮。あたたかいのに肌を離れてしばらくすると冷たくなる。生きていたものが死んでいく。全身が蒸発しそうなほどにあつい興奮のあとには、ひどく寒いひとりぼっちの寂伐に囚われる。それはまるで麻薬中毒、あるいは愛のない性行為。そうか、だから彼は何人もの女の子を…。

 てふは経験のない感覚を夢想し、動悸に胸を押さえる。網膜に焼き付く凄惨な光景とみだらな想像とが今さら連れてきた吐き気を、横隔膜と舌の裏で押し戻した。

 

「てふ様、なぜ、こんなやつが……」


 スリーも口鼻を覆って何度も吐くのをこらえ、ようやっとてふに話しかけた。


 尻切れになろうと、彼の言わんとすることはてふにも分かった。“猿飛”が問題視したのもだ。

 そもそも対ヴァンパイア戦は心臓を仕留めることさえできれば勝負が決まるため、近接武器は刺突のできる形状のものを選ぶことが暗黙の条件である。

 であるならば、門松の武器は火箸だけで十分だ。鈎の角度も中途半端なうえろくに研がないままの火掻き棒などをわざわざ併用するのは、より効率的に敵を殺すためではない。

 よほど手に馴染んでいる、もしくは本人のなのだ。


 てふは記憶の中の彼を訪ねる。



 ――出会って間もない頃。てふたち織田の人間が家族揃っての所用のため家を空けた冬の夜、ひとり大人しく火鉢で暖をとっていた少年のもとに鬼が忍び込んだ。

 立ち昇る小火ぼやにてふたちが慌てて駆けつけたとき、座敷は天井まで血飛沫が届き、焼け焦げた畳の上で滅多刺しにされた鬼が死んでいた。座り込む少年は返り血を浴び、血濡れの焼け火箸と火掻き棒を素手で握っていた。張り付いた火箸によって自らの掌が爛れる臭いを嗅ぎながら、彼は火鉢をつついて笑っていた。


 てふの父は少年に下手人としての才能を見出だした。彼は火鉢のそばにいる他はてふや兄が声をかけなければ寝食を忘れるほど鍛錬に打ち込んだ。警戒心が強く、極度の寒がりで、てふの添い寝がなければ眠れない少年だった。


 そして彼が正式に八咫の一員となった日、織田本家本邸の最奥間にて行われた拝命式。

 それまで誰がどんな愛称で呼んでも反応しなかった彼は、“門松”の名に目を潤ませ、自身の血で作った火掻き棒を抱きしめたのだ。

 そこにはまるで野生の仔猫が親と慕うべき犬をみつけたかのような、危うさと無垢のぬくもりがあった。


 以降、彼の添い寝の相手はてふではなくなった。てふは幼心に、少年が自分の手を離れたことを寂しがった。同時に少年が門松としての新たな人生を歩んでいくことを前向きに捉えてもいた。


 今思えば、てふのそれはただの能天気だったのだ。

 


「わたしたちは人生を選べます。ハンターになることもならないこともできる。でもこの道にしか生きられない人間ひともいるのよ」


 吐き出した言葉の強さに、不安な内面を繕っているかのようでてふは自分自身にがっかりした。門松のことを言っているのに、彼を置き去りにしているような感覚が怖かった。


 てふをまっすぐ見つめるスリーの視線は不快感を隠そうとしていない。

 それが門松ではなく自分への非難なのだと気づき、てふはあえてスリーを見つめ返す。


「てふ様はこれをお認めになるのですか? こんな残虐非道な行為はハンターとして、いや人として許されない!」


 スリーの怒りがむしろ心地よいとさえ感じていた。てふは落ち着いた声音で言った。

「レイヴンの処理班に一報を入れてください」


 スリーはてふに向き直り、口元を押さえていた手を拳に変える。


「ハンターならもっと迅速に的確に殺すべきだ。てふ様なら、八咫筆頭の織田家の血筋なら、クロウでなくてもできるはずです」

「わたしはハンターじゃないの」

「そう言っていれば彼やお兄さんや他のハンターが殺してくれるからでしょう! 命は尊いのではなかったのですか、それなのにあなたは彼を肯定するんだ、自分が逃げるために! そんなのまちがってる、彼もあなたも間違ってる!!」


 言い切ってなおスリーの呼吸は乱れ、視線が納得のいく返答を待っていた。てふはゆっくりと瞬きをした。

 スリーの肩が震えるほどてふは冷静になる。スリーの額に筋が浮かぶほどてふの表情は消えていく。スリーの目が充血するほどてふの脈拍は落ち着いていく。

 彼の純粋な怒りは、まるで零下の清龍のたおやかな翼尾のようにてふの血管を凪いでいった。

 てふの心の奥で行き場なく蹲っていた蜷局をスリーが言葉にして吐き出してくれたのだ。


 いつだって、彼が正しく取り乱す様子を眺めることで、自分はまだ人としての正常を忘れていないのだと俯瞰することができる。門松だけでなく自分ももうすでに、たくさんのことが麻痺してしまっているのかもしれない。こうしてスリーの怒りに踏破されることで、わたしの生き方は間違っていない、門松の生き方は間違っていないと胸を張って言えない自分に諦めをつけることもまた、彼の言うような他力本願なのだ。


 こんなわたしは、笑うしかない。

 てふは一言だけ返した。


「仰るとおりです。スリーさん」


 スリーは唖然とした表情でてふを見た。熱量をあしらわれた彼が哀れに思えて、てふが伏せた目の先には腰帯に挿した紫の簪があった。

 ――織田家を守ってきた女の誇り。

 ……わたしには。

 ……それでも、わたしの生きかたは。


 この期に及んでなおも食い下がる自己肯定感にてふは心底呆れ、笑みがこぼれた。しゃがみ込み、門松が落としていったままの鞘帯と上着を手に取る。

 年季が入って薄汚れた白い布袋に対して、レイヴンのジャケットは今日初めて皺がついたと言わんばかりだ。

 丹念に折り畳みながらてふは呟いた。


「戦いに自分の血すら使えない、武器を持つ自覚もない。なのにヴァンパイアは倒すべき悪、でも殺したら残虐だなんて……カモミールの言った通りね、わたしたち人間は自分勝手な生き物だわ」


 てふの言葉に、スリーは勢いのまま吸い込んだ息を言葉にすることなく項垂れた。固く握った拳が震え、奥歯を噛み締める音がきこえてくるようだった。

 ない反論を探して地面を彷徨ったスリーの視線が血痕を避けたのを見て、てふは淡白に言い放った。


「レイヴンに連絡を」


 見開いたスリーの目は縁いっぱいに涙が溜まっていた。瞬きを堪えている健気な少年にてふは愛おしささえ感じた。


 やがて彼は目元を拭い、鼻を啜って無言のまま路地の奥のほうへと向かっていった。

 力なく窄まった少年の背中にてふは心のなかでごめんねと呟く。嫌味のつもりで言ったのではないが、きっと嫌味に聞こえてしまうのだろうという自覚はあったのだ。

 敵を殺すどころか家系伝統の対ヴァンパイア武器を扱うことも出来ず、あまつさえ奪われたことにも気付けない。そんな自分自身の未熟への怒りと悔しさが、スリーの背中には滲んでいた。

 だがそれは自分の生きる道を信じているからこそ、自分への希望だ。信念のないてふにはスリーが羨ましかった。

 

 ……織田家として下手人になる覚悟も、道を外れた少年を正しく導く覚悟もない。

 そんな自分がどうして立ち上がれるだろうか? どうしたら前に進めるだろうか? 


 脚に力が入らない。せめて眦に力を込め、血の池で戯れる少年を凝視した。

 あの頃からうんと成長し、あの頃よりうんと素直で貪欲になった門松の姿を、てふは戒めのように滲んだ視界に刻み付けた。



 てふの視線に気づいた門松は満足げなにこにこ顔とは裏腹に、にちゃにちゃという不快な音と足跡を連れて戻ってきた。

 てふの前にしゃがみ込み、さながら猫の毛づくろいのように、布帯を広げて頬や手袋に付着した血を拭う。強烈な生臭さがてふの鼻を突いた。髪は整髪料ポマードのように艷やかに固まり、着物や袴の飛沫が濃い赤茶色に変色している。


 拭き残しの跡がついた頬をポリポリと搔いて、門松は純朴なまなざしをてふに向けた。


「なぁなぁ、お嬢、ニンプってなに?」


 先のヴァンパイアの言葉が引っかかっていたようだ。てふは別段驚かなかったが、笑顔をつくるのには多少の無理を強いた。


「カモミールちゃんのこと。お腹に赤ちゃんがいるのよ」


 予想通り門松は納得しなかった。眉を寄せて唇を尖らせ、頓狂な声を上げる。


「ウッソだぁ、だってどっから入るんスかぁ」

「からだの中で新しいいのちが生まれるの」

「どうやって?」


 てふは月経時の膣のような圧迫痛を胸に感じた。心臓の拍動とともにやってくるこの寂寞が月の満ち欠けならば、自分ではどうすることもできない。

 てふは門松の両手をそっと握る。

 指先はすでに血が冷えていた。黒い手袋は猿飛だからつけているのではない、ましてや防寒対策でも……あの日目覚めた心のひずみを隠すための鎧だ。

 

 胸の痛みをことさらにこやかに笑って誤魔化す。てふはできるだけ分かりやすい言葉の選定に努め、ゆっくりと語りかけた。


「モンちゃんが女のコと一緒にいてと、そこに赤ちゃんが来てくれるのよ」


 門松はぎょっとした顔で自身の腹部を見遣る。


「じゃあオレのおなかにも来るのぉ? イヤだぁ」

「女の人だけよ。お腹の中はとってもあったかいの。だから赤ちゃんは安心して、外に出る準備をするの。赤ちゃんが寒くならないように、大切に、大切に守ってくれるのが、おかあさんなのよ」


 カモミールのことを思い出して段々と涙声になるのを、てふは必死で堪えた。

 彼女を殺そうとしておいて母子の絆を語る自分は門松より、いや悪魔よりももっと残酷だ。

 身を委ねるほど誰かを愛したことも、女としての熱情すらもたないくせに。いっそのこと、そうカモミールに蔑まれれば楽になれるのだろうか。


 門松の口角はずっと上がったまま、首は傾いたまま、眉尻だけが下がる。

 曇りなき眼はなにを感じているのだろう、まるで初めての世界を見る赤ん坊のような目だ。――痛い、痛い、そんな目で見ないで。


 てふの視線が揺らいだ時、門松はややくぐもった声で言った。


「あかちゃん、あったかい?」


 その時、彼の指先がてふの指を握った。

 微かな体温が血の跡とともにてふの指に移る。それは赤ん坊が差し出された指を反射的に握るときの、強くて弱い握力を思わせた。

 ――この指を、わたしは知っている。


 全身を血にまみれた彼はまさしく今生み落とされた赤子のようだ、そう思った瞬間、塞ぎ込んだてふの心に一縷の期待が月光のように射した。


 彼の境遇を思えば、常識外れなこの問答も無理はない。だが知らないのならば教えてやればいいのだ。赤ん坊はそうして育っていく、この少年だって。

 彼の体で唯一ヴァンパイアの血を浴びていない眼球が唯一、門松の本心を表す気がした。てふは思わず門松の痩せた肩を抱き、真摯に訴えかけた。


「そう。あったかいの。生きてるの。モンちゃんと同じよ」



 ……切なる願いをこめて覗き込んだ黒目には。

 己の拍動と本能だけを宿した美しい野生だけが据わっていた。

 触れているのはただの温度だ。口から出たのはただの言葉だ。その奥にある見えないものを、彼の眼は見ることができない。すべてを吸収する常闇の深淵には柔い月の光など平穏を乱す一矢にもならない。


 門松はぷうと頬を膨らませ、そして心底可笑しそうに破顔した。


「オレは違うっスよぉ、だってオカアサンなんて知らねぇもん。オレを拾ったのはお嬢とあるじだよ、忘れた?」


 弾む声が遠くきこえる。てふは思わず頭を垂れた。

 月蝕が瞬く間に潮を連れ去る。

 胸に残る痛みは自分ひとりの心臓の鼓動だけ。



 ――あの冬の日、橋の下で野良犬に包まって動かない子ども。

 犬はすでに死骸だったが彼はまだ息をしていた。このままでは凍死する、かわいそうだから連れて帰ろう、そう言っててふは兄に泣きついた。


 兄に背負われた子どもの細い腕が赤い半纏の下からこぼれたので、てふは繋いでいた兄の手を離した。

 伸びた爪に垢と血が溜まり、指紋も凍った細い指の先。思わず強く握りしめ、無邪気にも自分の手の温度を移そうとした。

 だいじょうぶ、うちはあったかいから。そう言って兄が笑ったので、無邪気にもだいじょうぶなのだと思った。


 足の裏を伝わる霜の感触。耳朶を叩く冬の空気。

 肩を抱き寄せてくれた兄のてのひら。

 曇天に吐き出した吐息。

 降り出したぼた雪。

 やがててふの指をそっと握り返した、赤子のように弱くて強い、いのちの拍動。


「忘れるわけないでしょ……」


 呟きとともにこぼれ落ちた涙は無傷の地面に次々と吸い込まれていく。震える手を、腹の簪へと伸ばす。

 ここに赤子を抱えたあのヴァンパイアなら、彼を納得させられただろうか。この簪を血と肉に濡らしていれば、彼は身を預けてくれたのだろうか。


 わたしではだめなのか。わたしでいてはだめなのだろうか。



 てふの手を簪ごと門松の手が覆った。

 

「お嬢、なんで泣いてんの? おなか痛いの?」


 不安げな声が自分に落とされようと、てふは顔を上げられなかった。とれない血の臭い、どす黒く汚れた刃、壊れた心。

 すっかり乾いた血まみれの指先が、冷えた温度だけが、ふたりを繋ぐ。

 あの日のように。

 これだけが絆なのかもしれない。そんな希望とも諦めともつかない結論に、どうしようもなくて泣けてくる。

 


 ――“門松”と名を得た少年が自分の手を離れたのではない。自分が手を離してしまったのだ。

 あるいは、最初から手を取るべきではなかった。

 修羅は修羅のまま、修羅に還すべきだったのかもしれない。

 

 だから、たとえ間違っているとしても、彼の生き方を肯定してやらねばならない。

 光通さぬ黒血の海に沈む彼がやがて溺れて死ぬまで、見届けなければならない。


 彼をみつけたのは、この人の世に生かしてしまったのは、他でもないわたしなのだから。

 彼のためになにもしてやれないわたしが、しかしわたしだけが、彼のためにできること。




「てふさま、すみません……」


 たとえ震えていようとも、その声に懐かしさを感じたてふは顔を上げる。



 路地の奥から現れたスリーの隣には妊婦が張り付いていた。

 燃える赤毛をもつ彼女は、鋭利に尖ったガラスの欠片をスリーの喉元に突きつけていた。

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