旅先 15
唐突な台詞の下品さが、ナイーブな内省に浸っていたてふの顔を上げさせた。
門松はすでに呼吸も整い、まったくの素面だ。ふざけているわけではないとわかって、自分の貞操を軽んじられたというのにてふは無性に落ち着きを取り戻した。
スリーは門松を見つめたまま何度か瞬きをした。
「は……」
門松は変わらずにこにこしながら、スリーの呆けた頬を黒手袋の指先で軽く叩く。
「まさか初めてじゃないっしょ? 見ててやるからさ、ほらガンバって!」
「門松」
てふは感情を出さず一声で制した。
門松はふふんと鼻を鳴らし弾むように立ち上がる。肩掛けのジャケットがばさりとはためいた。
てふを見る目は、まるで探検の途中で発見した秘密の抜け道を得意げに教える少年のように無邪気そのものだ。
「カモミールちゃんも言ってましたよね。お嬢の血が狙われるのは処女だからだよ。だったら手っ取り早く捨てたらいいんス。うるさいあるじはいねぇし、ちょうどいい男もいるし、今が“ちぁんす”ですって。あ、これ使い方合ってます?」
自分で言った蛮ことばが面白かったのか、門松は含み笑いを浮かべる。
応援するように拳を握ってみせる彼の様子に、てふはあれほど昂っていた感情が凪ぐのを感じていた。
自分の尊厳を蔑ろにされたことによる悲しみや恥ずかしさ、スリーの未熟さに感じたような落胆や怒り。本来なら沸き起こるはずのものがてふの中には一切ない。それを不思議だとも思わないのは、てふが彼のことを最初から知っているからだ。
門松の口から出た言葉は真冬の海に落ちる鮮血のしずくだ。じんわりと広がり、しかし体内にあったときと同じ温度のまま溶けることなく、深い底の暗闇まで落ちてゆく。それは砂上の蛤を窒息させ、珊瑚を気絶させ、あるいは囮となって
――血は、ただ落ちるだけなのだ。あらゆる海の生物がどうなろうと、そこには悪意も野望も計略もない。
あるのはだたそうと生まれた命だけだ。
無頼の提案を真顔で受け取ったてふに対して、スリーは憤然と立ち上がり、門松の胸倉を掴む。
「てふ様に謝れ」
「お嬢に? なんで?」
「いいから謝れ!」
「だってホントのことじゃん。
「おまえ、なに言ってるか分かってるのか、そん……」
当事者のことをまるで気にも留めていない門松の言葉に、スリーの喉は続くはずの叱咤すら失った。引き攣った顔で息だけを吐くスリーに、門松は眉を上げて小首を傾げる。
「なにキレてんだよぉ。無能なボクちゃんでもお役に立てることがあるんだよ? 良かったじゃん」
「いい加減にっ……」
「あれっ、もしかしてボク、そっちも役立たずだったりする?」
とうとうスリーは拳で門松を殴った。
先刻の機敏な動きが嘘のように門松は衝撃をもろに受けとり、勢いのまま地面に尻餅をつく。イテテと言いつつ殴られた分だけ緩みきった頬は状況を面白がっているようにさえ見える。恋仲に不誠実な彼を前にした三人の女の子たちはみんなこんな気分だったのか、とてふは静かに思った。
スリーが顔を歪めてみぞおちを押さえる。カモミールから逃げる際の打撃がまだ効いているのだろうか。
屈めた背に手を添えると、じんわりとした人の温度がずいぶん懐かしく感じて、てふは再び目の奥がつんとした。
「痛みますか」
ぎこちなく問うと、スリーは眉間に苦悶を浮かべながらもてふをまっすぐ見た。やや早口に、はっきりとした口調で答える。
「すみません。だいじょうぶです。てふ様、宿へ避難しましょう、そこならレイヴンの警護があるので安全です。こんなところにいてはいけない」
あれほどカモミールを迎え討つことに執着していたスリーの口から避難という言葉が溢れたことに、てふは少し落ち込んだ。
もちろんスリーの言った通りにするのが最善策なのだが、自分の叱責が若い彼の真っ直ぐな気概を折ってしまったがゆえの代替案かもしれないと思うと自責の念がこみ上げる。
それでいいのか、本当に?
スリーにぶつけた自分の言葉が跳ね返ってくる。
ハンターは人殺し…カモミールの夫を殺したのは誰だ? その命の重みから逃げても良いのだろうか、そんなはずはない、いのちは尊いと言ったのは自分じゃないか、しかし。
脚を動かすことが出来ないてふに、スリーは焦りからか少し苛ついた口調で言う。
「どうしたんです、早く。敵にみつかる前に行きましょう」
「走れんの? もう抱えてやんないぞ、三番手ぇ」
「あなたは黙っててください!」
なおも挟まれる軽口にスリーは怒鳴った。
門松は後ろ手をついて脚を伸ばし、スリーを睨んであざとく下唇を突き出す。
「逆ギレかよぉ。モンちゃんこんなにがんばって働いてんのに、お嬢にちゅーもしてもらえねぇんだぞぉ。泣いちゃうぞぉ」
駄々っ子のような素振りに目も当てられないといった様子で、スリーはてふに詰め寄った。
「てふ様、なにか言ってください。これは女性蔑視です、てふ様への侮辱だ、こんな最低なやつがどうしててふ様のお傍にいるのですか」
そのきれいな瞳は怒りと遣る瀬無さを宿している。スリーに申し訳なくなり、てふは頭の中に答えを探した。
――門松の言動にてふが特段動揺しないのには理由がある。
彼がてふに処女を捨てろと言うのは、今回が初めてではないのだ。
男性である彼は当初、自分でそれを実行しようとした。忘れもしない三年前、寝所でてふを組み敷いたとき、当時まだ十代前半の門松はあどけなさしかない顔で言ったのだ。お嬢良かったね、これで鬼に襲われなくなるよ、と。
そのときばかりは兄の干渉が功を奏して未遂に終わり、門松は兄から言葉どおり半殺しにされて三ヶ月臥せった。それ以来兄の過保護が加速したのは言うまでもない。
その時をもって門松は織田眞を自身のヒエラルキーの頂点に据えたらしく、あるじに
それ以降、門松は暴挙には出ないものの、事あるごとに例の発言を所構わず口にした。
そのたびに周りの大人たちに叱られるのだが、それでも懲りないのは、彼がこの手段をお嬢を守るためにやるべきことだと信じて疑わないからだ。
操を失うことが女性にとってどういうことなのか、その行為がどういった意味を持つのか、少年は理解しない。男として自らてふを羽化させることも、あるじに怒られたからもうやらないだけだ。
そんな少年を兄は織田の屋敷に住まわせ、あまつさえてふの護衛として異国まで派遣している。
可哀想だからとか、高い能力を買っているとか、監視下においておきたいとか、そんな善意でも希望でも策略でもない。
それは兄の覚悟だ。
そして、てふ自身の決意。
あの冬の日。極寒の野生を、血のように流れるまま流れる少年をみつけた自分への、誓願だ。
――決意を思い出し、てふが強い眼差しを取り戻したその時。
門松は屋根のほうへ僅かに視線を移した。
そして肩を竦めて大仰に溜め息をつく。
「ほらぁ、もぉ、ボクちゃんがうだうだやってるからぁ」
その言葉の意味に気づいたてふとスリーは同時に門松の視線を追う。
赤茶の焦げて老朽化した煉瓦屋根の上、太陽の傾いた乾青の空を背景に、三人の男たちが濃い影を連れて立っていた。
「ミルズをやったのはどいつだ?」
顔面を視認する前に一人が問いかける。鉄錆を震わせるような
「男にモテでも嬉しくねぇよ」
コートの翻る音と共に黒衣のヴァンパイアたちが地面に降り立つ。目深に被ったフードの下から、燃える金の目が門松を睨みつけていた。
「そうか、小僧、おまえが……」
「殺すだけでは飽き足らず、人間どもの前に晒し者にするとは悪魔の所業だ」
「結婚式間近だったんだぞ! もうすぐ子どもも生まれて、アイツ幸せだって、家族を幸せにするんだって……」
三人の男たちは憤怒と悲愴をかき混ぜた形相で口々に呪詛を吐き、極まって涙する。彼らの顔が歪むたびに赤い唇からは鋭い犬歯がのぞいた。
てふの全身の毛穴はもはや知覚を放棄し、その下の細胞が必死に危機を訴えていた。
薔薇の香りを纏っていない分、それは真正面からこちらに届いてくる。広場の石段で対峙した男よりもくっきりと、大きな腹を抱えたカモミールよりも単純に、隠すことなく放たれる高純度の殺気だ。
左右の棟が迫り上がって光を塞ぎ、壁面に付着したどす黒い痕が影に呼応して動き出す、空中の黴や塵芥が自覚しない内に帯電して崩れ去る、そんな錯覚さえおこす。
てふは生唾を飲み下してスリーを見た。
カモミールに銃を向けた時のような焦りこそないものの、やはり彼は全身の筋肉を強張らせている。負傷しているとはいえ門松が察知した敵襲に姿が見えるまで気づかなかった彼は、言うまでもなく戦力外だ。
その様子を横目で捉えながら、門松は気だるげに立ち上がった。
普段と変わらないように見えるが、その身が放つ空気が変わったのをてふは察知する。
皮膚の下、肉と骨の隙間を刀の先でつうと撫でられているように内側から震える、抗えぬ性感にも似た危機感に魘われる。
――あるべきところへ戻ろうと、彼の血潮が歓喜している。
彼だけはこの戦場に馴染んでいる。
否、彼がここを狩り場に変えるのだ。
門松はスリーの肩をぽんと叩いて、顔面に爽やかな笑みを貼り付けてみせた。
「オマエ、もういいよ。おつかれ」
スリーは目を見開いてなにかを言いかけたが、すでに門松の意識は彼を外れていた。
「お嬢、広場戻っていいっスよ。あとやっとくんでぇ」
門松の声は平坦で、しかし仄かな高揚を含んでいた。門松は頭や手首の凝りを解しながらゆっくりと男たちの前に歩み出る。
自分もすでに彼の視界に入っていない。てふは無意識に身を抱く。心がこわいと感じる前にその名を呼んでいた。
「モンちゃん」
振り向いた少年の目は光を捉えた。
そして得意げに微笑む。
「わかってますよォ。名乗りのお作法でしょ?」
敵を見据え、肩にかけていたスリーのジャケットを剥ぎ取って捨てる。
露わになった背中には白い鞘袋。両端を持ち、軽く振って上下に抜き取ると、鞘ははらりと帯状にほどけて落ちた。
両の手に顕現するは大小ふたつの武器――細く鋭い漆黒の一本火箸と、先端に鈎のついた鈍色の火掻き棒だ。
その脊椎はひとつたりとも揺るがない。毒を自覚した血が髪の先から四肢の先まで張り詰めた糸のように駆け巡り、武器の尖端を漲り研磨する。蒸気のような冷気のような、猛りのような怜悧のような霊気が立ちのぼる。眼前の敵だけに集中し、殺すまで決して退くことはない。
この背中が“
図らずもてふは、ほんの束の間、その背中に見とれた。
黒の手袋が武器をきつく握る音。
門松は火掻き棒を下段に、逆手の火箸を上段に構える。
光の消えた双眸にはスリーのような高潔の瑕疵もてふのような苦悩の残穢も存在せず、ただ澄みきった黒漠の野性だけが揺らめく。
不敵につり上がった口元に八重歯がのぞいた。
「八咫剣戟流派“
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