旅先 12
カモミールはうんざりしたように空を仰いで息を吐いた。
小銭入れを手中に握ったまま人差し指で腹をつつく。その指先には、割れないと分かっている水風船を手持ち無沙汰にいじっているような怠惰さえ感じられた。
「あたしが彼に言ったのは赤ちゃんがほしいってことだけよ。それを結婚だとか幸せな家庭とか、人間みたいに盛り上がっちゃってさ。ロマンチストってほんとバカみたい。でもこんなお腹じゃ満足に狩りもできないでしょ、使える駒は使わないとね」
カモミールの言葉には重みなどまるで無かった。“揚げバターって太るでしょ、あんなの食べるなんてバカみたい”、そんなティーンエイジャーたちの会話かと錯覚するほど。
信じたくない、しかし握りしめた手に食い込む爪の痛みが、これは現実だと訴える。腹の膨らんだ女も、死んだ男が父親であることも、殺したのが自分たちだということも。
こみ上げる悔しさが虚しさへ、そして怒りは行き場のない熱となって動脈を穿つ。てふは懸命にカモミールを見つめた。
「あなたは愛情がわからないの?」
カモミールは一瞬驚いたように真顔になったが、すぐに頬を緩めた。それは今まで見せたどの笑みよりも優しく、てふが彼女の中に探していた聖母の微睡みそのものだった。
てふを離れて自身の腹に落とした
カモミールは厳かに口を開く。
「わかるわよ、あなたよりもずっとね。心から愛してる……たったひとり、あたしのいちばん大切な絆なの。少しでも長く、いっしょに生きていたい。呪いなんかに負けられないの。だからこうして、自分で栄養のある血を探しにきたのよ」
それはてふが今までに聴いたどの言葉よりも芯の通った声だった。
カモミールは一歩前に足を出して、再び小銭入れを乗せた掌をすっと差しのべる。
「生きるために、あたしにはあなたが必要なの。まだ誰にも犯されてない綺麗で健康なあなたの血。ねえ、あたしたちの糧になって、おねがい」
縋るような目で見つめられ、てふの動揺は極限に達した。
――演技? どこからが、どこまでが?
――本心? 嘲笑、愛情……誰に対して?
わからない。カモミールというヴァンパイアが、カモミールという女が、カモミールという母親が、なにを思って自分を見つめているのかわからない。
生きるために人の血を求める彼女が悪なのか、護身のためにひとりの子の父親を殺す自分は善なのか。
――おそろしい。
目の前の女がヴァンパイアであることがおそろしい。目の前の女が母親であることがおそろしい。父であり夫である男を殺害した自分の罪が他ならぬ妻の無関心によって青空に散骨され舞い消えていく、それを安堵して眺めているのがおそろしい。得体のしれない愛、こんなにもわからないことだらけなのに、それらをいっさい無視して生きることがおそろしい。
てふの膝は今更になって震えていた。強く強く拍動する自身の心臓が奪った命を自覚させる。へこんだ腹に挿した紫の簪が自身の業を突きつける。
生きるための糧――カモミールと自分自身の命を天秤にかけるべきなのか。てふの頭は真っ白だった。
そんな状態を察してか、スリーは再びてふを隔てるようにカモミールに立ちはだかる。
「てふ様、下がってください」
締められたホルスターに右手が添えられているのを目撃し、てふは思わずスリーの腕を掴んだ。
翠の眼は振りむくことなく、また揺らぐこともなく、敵だけを見つめている。成長期真っ只中の薄い胴回りが盾になれるとは思えず、労働も戦場もまだ知らないその腕に射撃の妙が宿っているとも思えない。しかし彼はハンターとしてここに立っているのだ。
ならば、わたしは?
名家の令嬢、処女の贄血、織田の下手人、てふという女性。
わたしはなぜ、どんな人間として、今この場に立ちつくしているのか?
巡る葛藤に力を奪われた手はスリーの腕をぽろりと離れた。
嫌悪を隠そうとしないスリーの顔を眺めるカモミールの口元にはまたもとの嘲りが戻っていた。スリーの革靴がじりりと地面に圧を加える。
「おまえたちは自分が生きることしか考えてない。そのための犠牲にもなにも感じないんだ。おまえたちはただの野生生物だ」
「人のダンナ殺しといて、愛がどうとか憐れむあんたたちの方が自分勝手でイカれてるわよ」
前に出した手のひらをわざとらしく返し、カモミールは歌うように言い放つ。小銭入れは愚鈍な音を立てて彼女の足元に落ちた。兄を頼りに叫ぶ心の声に、てふは下ろした爪の先を袴に立て目を見開く。逃げるな、せめて逃げるな、てふ。
「黙れヴァンパイア、この悪魔め」
冷静だった声が一段低く怒気を孕んだかと思うと、スリーの左手はてふを後方へ押しやり、右手は拳銃を抜いて構えた。
カモミールは声を出して笑い、両手を広げて大きな腹を無防備に晒す。
「いいじゃない、ステキ! なかなかサマになってるわよボウヤ」
高らかな軽薄さがスリーの身体をさらに強張らせる。顎を引き奥歯を食いしばってカモミールを睨みながらも、平常とはいえないスリーの呼吸が肩越しにてふにも伝わる。肘を伸ばしきった両手は震え、目標を捉えられていない。
ざわめきが耳に入りてふははっとする。昼餉をとうに過ぎた噴水広場、まどろみと閑談の時間。あたりを見回し、集まった不思議そうな視線が次第に怪訝さを増していくことに気づく。それはそうだ、少年が妊婦に銃を向けている光景が日常のはずがない。
「どうぞ撃ってみなさいよ。人ひとり殺したこともないくせに」
カモミールは首を傾けてみせる。スリーの歯の間から荒い呼吸が漏れる。嫌悪と使命感に溢れていた凛々しい顔は今や焦燥と動揺に支配されている。呼吸を落ち着けることに必死で、状況を客観視する余裕などは皆無だ。
唐突に撃鉄をおこす音が耳に入り、てふの吸い込んだ息もまた引き攣る。どうしたらいい。どうすれば。てふもまた早鐘のような鼓動を抑えるのに精一杯だった。
カモミールは目を細め、くつくつと肩を震わせる。
「においでわかるのよ。戦って戦って生存競争に勝利した混ざりものの血、誰にも味わわせたことのない澄んだ美しい血、生きようという無垢な命の呼吸! だからこそ価値があるの。あんたの血は無味よ、無臭! ハンターだなんて笑わせるわ、あんた勝ったことも負けたこともない、それ以前に
カモミールの罵倒が苛立ちへと変化したその時、てふはスリーの指が堪えられず
三人が同時に息を吸い込み、吐き出して次の動作に移るまでのその刹那。
――すでにたったひとりは次の呼吸をはじめていた。
スリーの懐に入ったかと思うと腕を絡ませて両手をとり、銃口をカモミールの足元へと向けてスリーの指ごと引き金を引く。銃声が三発、その中の一発が小銭入れに命中してぼふんという爆裂音を併発し、濃い紫灰色の粉塵が舞い上がって小さな悲鳴ごとカモミールの姿を覆い隠す。それらが一瞬のうちに起こり、跳ねとんだ小銭と薬莢の落ちる音が半瞬遅れでやってきた。
門松は右手で拳銃を奪って薙いだ勢いのままスリーの顎先だけを掠めるように
横目でてふを見た彼の眼は無感情に、たったひとつの命令だけを訴えていた。
――逃げる。
てふはなにをすべきかようやく思い出した。脳内がクリアになった瞬間、無意識が息を吸い、ふ、と浅い息だけを残して反射的に深く屈み込む。
門松の背を視界の中心に、群衆のどよめきと煙を浴びた女の喚き声を鼓膜の外に捉えながら、てふはブーツの爪先をバネに全速力で踏み出した。
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