旅先 13

***


 ――脚力と俊敏性だけは鍛えた。


 織田家の家業を外れることになってから、父は筋力のないてふに逃げることに特化した鍛錬を集中して課した。そもそも織田の血が流れるてふの身体フィジカルには常人離れした機動力が宿っていたので、その潜在能力を開花させるのはさほど難儀ではなかった。

 接触される前に走る、察知される前に姿をくらます、少しの牽制で意表を突き、素早い身のこなしで追撃を躱す。単独で襲われたとしても、八咫の護衛にを引き継ぐまで逃げおおせること、それがてふの護身術だ。


 もちろん母の監視のもと、幼い頃から兄と同じ基礎修練もこなしていたし、ハンデ付きとはいえ手合わせ稽古でてふが兄に負けたことはなかった。

 スリーが言っていたように、八咫や猿飛にもなよやかな女人は在籍しており、女性ならではのしなやかさや知略甘言を戦いの場に活かして組織に貢献している。またレイヴンでは実力があれば十二歳の子どもでもハンターとして活躍していたという。


 つまりてふにも、下手人ハンターとしての務めを果たすことはじゅうぶんに可能なのだ。

 足りないのは敵を殺せるクロウの血、そして敵を殺すという覚悟だけ。


 ……てふが初めて見た母の涙は父の寝室にあった。

 ごめんなさい、あの子をクロウに産まなかった私が悪いの、と夫に泣き縋る母の背中を、今も鮮明に覚えている。

 また稽古を終えた夕刻、てふが軟膏を塗り包帯を巻いてあげたそのままの手足で、十四歳の兄ははじめての実戦へと出ていった。

 帰ってきた兄の眼鏡はひび割れ、蒼白の顔面には生傷と涙に濡れた跡があった。おにいちゃんと言いかけたてふに背中を向け、兄は返り血のついた掌を地面に突き立てて嘔吐した――



***



 逃走に成功したてふと門松は裏路地に行き着いていた。

 細い道の両側に聳える煉瓦の棟は太陽を遮り、細く切り取られた空を洗濯用の吊り紐ロープがさらに分断する。等間隔に並ぶ裏口扉には蔦科の植物が生い茂り、あるいはどす黒い血痕が付着し、または営業用の女のサインが記されている。剥き出しの水道管、電気の通っていない外灯ランプ、途中で手すりの取れた簡素な階段は錆にまみれ、吊り紐にはいつから掛けられているのかわからないぼろぼろの布たちが隙間風にへらへらと笑っている。塵箱ダストボックスからはみ出した黒い袋には蝿が集り、隅の壁から床にかけて吐瀉物が干からびている。大きな鼠が足元を走り抜けていった。


 広場のある市街地からさほど離れていないというのに、あまりの景色の変わりようだ。

 隙間風が鉄臭いような獣臭いような腐敗臭を運んできて、てふは思わず鼻を押さえる。しかし全速力で走ったあとの肺が酸素を求めていて、てふはなるべく早く呼吸を整えようと努めた。


 門松は到着するやいなや、ぐったりとしたスリーの体を地面に打ち捨てて尻餅をついた。脚を投げ出し、背負う刀帯とスリーのジャケットとを染みのついた煉瓦壁に擦り付ける。消耗した呼吸は彼の肩だけでなく胸全体を上下させている。


「おじょう、合図、おそすぎ、いくら、モンちゃんでも、男担いで、走んの、さすがに、きつぃスよ」


 言いつつも門松はいつものニヤケ顔で空を仰いでいた。猿飛の少年は骨の細い体に驚異的な身体能力を有しているが、体温調節にやや疎いようだ。呼吸の乱れ以外は汗一つ見られないどころか、肩掛けジャケットの袖を解いて毛布のようにくるまっている。

 鍛錬の賜物か、天賦の才か、あるいは。てふは額に浮かぶ汗を拭って言った。


「どうして撃ったの」

「ん? あー、財布? あのくすり、すげえ効果、あったっスね。さすがあるじ」


 門松はなぜか得意げに鼻を鳴らした。

 ――兄はただの小銭入れをプレゼントしてくれたわけではない。小銭で隠し金の刺繍で封じ込めたその中に忍ばせていたのは、クロウの血を煮詰めた灰を中心に数種を調合したヴァンパイア忌避薬だ。強い衝撃を加えると破裂して紫の煙幕をおこし、敵を怯ませることができる。

 その財布とはつまり秘密兵器おまもりだ。

 おつかいで門松に渡してしまったことをやはり後悔したてふだったが、財布を狙撃した彼の判断は理解できる。

 それよりも納得いかないことがあるのだ。


「そうじゃなくて。もし跳弾すればカモミールのお腹に当たってたかもしれないのよ。撃たなくたって……」


 門松はぽかんとした顔をしたのでてふは口を噤む。鴉より混じり気のない純黒の瞳が不思議そうに笑っていた。


「だってひとおにじゃん。あそこで殺せたらラッキーじゃないスか。太ってんのがうんこのツキっす」


 てふは唾を飲み込む。

 言い間違いはともかく、ハンターとしては冷静な発言なのかもしれない、しかし。

 直前まであれだけ“カモミールちゃん”に軟派な態度をとっていた少年のこの躊躇いのなさは、気持ちの切り替えというにはあまりにも極端だ。なにより彼はを理解していない。

 

 ――いいえ、そんなこと。

 ざわつく心にてふは目を瞑る。内耳の奥のいまだ速い起動に耳を澄ませ、自身を省みる。

 倫理観がどうであろうと、門松はあの場で逃げるという命令もくてきのための最善手を取ったまでだ。対して自分はこの体たらく、それを棚に上げて彼を批判するなんて。

 

 唇を噛むてふをよそに、門松はいつの間にか起き上がっていたスリーを鬱陶しそうに眺める。


「それにしても、お嬢、こいつ連れてきてどうすんの? 撃てねえし反応できねえし走れねぇし、ただの無能じゃん」

「こら、そんな言い方……」

「見習いなんです」

「えっ?」


 ぼそりと吐き出された声にてふがスリーを見ると、彼はみぞおちを押さえ軽く咳き込み、気まずそうに視線を逸らした。


「ぼ、ぼくはまだ、正式なハンターじゃない。自分の対ヴァンパイア武器も持っていないんです」

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