part B

旅先 11


 てふは眦に力を入れた。食い意地が張っているという門松の表現が誤りであることは誰の目にも明らかだ。先刻襲ってきた男の言葉が、記憶の内側から壁を叩いて外に出たがっている――栄養のあるものを食べさせてあげたい。それは夫として、父親としての心からの願い。


 そんなカモミールはまだ少女ともいえるようなあどけなさを表情に残していた。その雰囲気を身近に感じたてふはスリーを見る。

 彼は奥歯をぐっと噛み締め、やや身を屈めて構えていた。敵を見据えるその目には緊張こそあれど、震えは微塵もなく、彼を警戒してかカモミールも足を止める。頼もしいと思っていいものかてふは迷った。


 カモミールは石段の上にちらりと視線を移し――

 顎で死体を示しながら、長い睫毛で撫でつけるように門松を見る。


「ミルズをやったのはあんた?」

「うん、そうだよ」


 胸を張る門松に、カモミールはあろうことか目を輝かせた。


「すごいわ、まるで眠ってるみたい。あんたやっぱりとっても強いのね! さあ行きましょ、隣の女のコもいっしょに!」


 門松は眉をハの字にしてえーっと抗議の声を上げる。


「ふたりっきりでお楽しみって言ったじゃん!」

「あんただってそんな素敵なガールフレンドがいるなんて言わなかったわよ」

「誤解だよォ、だってお嬢、処女だもん」

「ちょっと!」


 少年のストレートな暴露に顔を赤らめる間もなく、鼻腔を突く花燻が刺激シナプスとなりてふに警戒をもたらす。

 顔が上気しているのはカモミールの方だ。その瞳は野生のように細く弓を引き、てふだけを視界に捉えている。瑞々しい頬肉は持ち上がり、柔い喉を鳴らして、舌なめずりをする口元を爪の長い指先で弄る。

 

「ええ知ってる。あたしにはわかるわ。極上の甜血、その上ヴァージンだなんて! ああ、あなた本当に美味しそうね、そのキレイな首筋! ぐちゃぐちゃに噛んで味わい尽くしたい……ああだめだめ、うちまで我慢しなきゃ」


 撫ぜるどころか舐められている、薔薇の棘をまとった唾液たっぷりの舌に――蛇、先刻の男に感じたのと同じ感覚、いやもっと気味の悪いなにかが背筋を這っている。てふは思わず羽織の裾を握った。

 やや呆気にとられた様子の門松にむけてカモミールは甘ったるい声と視線を投げて寄越す。

 

「もちろんあんたも魅力的よ、ヤマトボーイ。ねぇお願い、あたしあんたが欲しいの。でも同じくらいそのコも欲しい。こんなのはしたないわ、贅沢だなんてわかってる、でも抑えられないの。どう? っていうのもなかなかアツくなるわよ」


 門松はてふに真剣なまなざしを向けた。


「お嬢、行こう!」

「ばか!」

「だってもう何人か寄って来てるよ」


 てふの思考は一瞬停止した。門松はさらりと口にしたが、それはまぎれもなく敵襲を意味する。

 

「ねぇ早く。横取りされたくないわ」


 カモミールが身を捩るたびに、膨らんだ腹を起点にワンピースのフレアがさらさらと揺れ、それがてふの冷静を奪ってゆく。相次ぐ敵襲、どうすればいい、いやそれよりも。

 彼女がミルズと呼んだ男の声が頭の中を駆け巡っている――僕の妻は妊娠中でね……


 その時、てふの視界を皺のないスーツベストの背中が遮った。


「行かせないぞ、カモミール。ハンターとしておまえを今ここで捕らえる」


 スリーの毅然とした声を受けてもなお、ヴァンパイアの女は艶やかな笑みを崩さない。


「なに、ストーカー? こわぁい顔。でもけっこうソソるかも」

「けだものめ。おまえの目的はなんだ? なぜ昼間から堂々と狩りをする?」

「あんたバカなの、食べなきゃ生きていけないでしょ」

「横取りと言ったな。やはり仲間どうし協力しているわけじゃないのか?」

「だとしてもあんたにバラすわけないじゃない。ほんとバカでガキなのね」


 スリーとカモミールの応酬のさなか、門松はてふに耳打ちした。


「お嬢どうすんの? ついてく? ここで殺す?」


 先程といいこの少年は重大事項を何事もないかのように言い放つので、てふはいちいち肝を冷やしていた。しかし今はそれがてふにいくぶんか緊張感と冷静さを取り戻させた。てふは腹帯の簪に手をかける。


「逃げるわ。合図したらスリーさんを連れて走って」


 スリーという名にげんなりしつつも、門松はあいと返事をした。

 当のスリーは仁王立ちのままカモミールに対峙している。彼の携帯する拳銃という武器は最も目立ち、また周囲を巻き込みやすいがゆえ、人の目の多いこの場では構えることができないのだろうとてふは推察した。しかし敵は目の前のヴァンパイアだけではないのだ。悠長なことはしていられない。


 焦るてふとは裏腹に、スリーはなおも声の牽制を続ける。


「もうすぐレイヴンの応援がここに来る。昼間じゃおまえも他のヴァンパイアも派手に動けないはずだ。観念するんだな」


 カモミールはお腹をさすった。目は笑ったままだ、しかし。


「あらそう。じゃあ今あんたを殺しちゃったほうが早いわね」


 血色の良い唇から鋭い牙が覗き、呼吸にあわせて彼女の細い赤毛が戦慄わなないた。てふは陽の傾いた晴天にありもしない雷雲を見る――殺気だ。

 てふは鳥肌を拭うように、咄嗟にスリーを押し退けて叫んだ。


「あなたの言う通りにするわ! その前に財布を返してくれない?」


 カモミールはきょとんとした表情で首を傾げ、すぐに、ああ、と言って開襟の胸元をまさぐった。下着の間から取り出したのはがま口に金の刺繍のちいさな小銭入れだ。喚き散らしたい気持ちを堪え、てふは一歩前に出る。


「わたしの大切なものなの。返して」


 カモミールはええ、どうぞ、と言って、その場で財布を手のひらに乗せて掲げてみせた。

 二歩目を踏み出せないてふに微笑みかける彼女は、まるでスラムの乞食に道楽でお小遣いをあげる舞台女優のようだ。


「どうしたの? だいじょうぶ、中身はちゃんと入ってるわよ」


 小馬鹿にしたような声が鼓膜を通り抜けていく。

 てふの足が重いのには理由があった。ひとつは、相手が自分を明確に獲物と狙っているヴァンパイアであるということ。そしてもうひとつは―カモミールを中央に据えた視界の隅に、あの男の座る石段を捉えていること。


 彼女はずっと彼を無視している。それどころか死んでいる彼を見て笑ったのだ。

 鴉がいるから近寄れないだけ、これはこちらの動揺を誘う演技なのだ、そう思いたかった。しかし目の前のヴァンパイアは悲しみに耐えているようにはとても見えない。

 生前の男の声、その表情は今となっては痛いほど優しく蘇る。俯いた先には紫の簪。彼の手を傷つけた。いずれ我が子を愛しく抱いたであろうその手のひら、あたたかいはずなのに、今は冷たい。

 カモミールが纏う彼と同じ花の香りが、てふをどうしようもなく感傷的にさせた。


「……彼もあなたの大切な人ではないの」


 思わず呟いていた。

 スリーの制止を振り払って、てふはもう一歩前に出る。意を決してまっすぐ前を見ると、またもきょとんとした顔のカモミールがとても幼い少女に思えて、てふは唇を噛んだ。


 カモミールは石段を見遣り、ああ、と表情を明るくする。


「ミルズのこと? もしかして悲しんでくれてるの? あなた優しいのね」

「あなたの……その子の父親でしょう。あなたのためにリスクを冒したのよ、なぜそんな……」


 カモミールは父親という単語を口内で反芻した。やがてくすくすと含み笑いを始めた彼女に、てふは自分の切なる思いが届いていないことを知る。

 殺すという単語を事もなげに発した門松のように、カモミールはあっけらかんとした口調で言った。


「だって、そんなの別に頼んでないもの」


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