Interval

旅路 2


 日の出から随分経った出窓はいまだ紺紫色のカーテンが閉め切られていた。安いパイプベッドを軋ませるほどの咳を男はもうすることができなかった。壁の向こうから女の乾燥した吐息が聞こえた。


「わたしを殺しに来たのだね」


 足音ひとつたてないまま部屋を訪れた少年に男は声をかけた。


「その身でハンターとは、きみもずいぶんな苦労があったことだろう」

「貴方ほどじゃあないよ」


 少年は首を傾けて、変声期を迎えたばかりのような声を発した。背の低いサイドテーブルの上で、木製の写真立ては脚が折れていた。

 黴と染みのついた天井、所々塗装の剥げた壁。写真立ての隣で乳白色の細い花瓶だけが立っていた。生けられた単花のブーケは中心の黄色も花弁の白も、物言わぬテーブルランプとともに心中していた。


 天井は静まり返り、隣の部屋からはふたつの無言が規則的に絶え間なくぶつかり合っている。

 少年は嘲笑とも羨望とも憐憫ともつかない視線をそちらへ投げた。短く息を吐いて、そしてまた大仰に吸い込んで言う。


「子を為すと寿命が縮む……ヴァンパイアに運命づけられた、生物として理不尽かつ致命的な呪いだ。そうしなければ人間よりはるかに長く、頑丈に、美しいままで生きていられるのに。それでも次へと命を繋ぐのはなぜだろう」


 綿のない枕には男の抜け落ちた白い毛髪が散らばっている。頭蓋骨が皮とざんばらの鬘を被っているだけの頭部だった。窪んだ眼窩にある眼はサイドテーブルを見ていたが、そこに光はない。


「愛、とでも言ってほしそうだな」


 首の骨をひとつだけ動かして少年へと顔を傾ける。男の微笑はしかし唇の重みにすら抗うことができない。


「ただの欲望だと?」


 少年が淑やかに放った一言と、壁向こうの呼吸ふたつが最高点に到達したのは同時だった。

 黒黴で汚れたカーテンの裾が震え、無関心な静寂が知らぬ顔で浸潤する。そこに少年ははあと溜め息を放った。


 男の声は咳よりも部屋の空気よりも乾き、そしてなにより穏やかだった。


「高尚な幻想はよしたまえ。これは生物に等しく与えられた種の生存本能だよ」


 少年の背中で組んだ両手の、十本の指は黒杖を握っていた。


「臆病な鴉が叶わない夢を見たっていいだろう」


 少年の諦めを含んだ声を、男の眼窩の窪みは懐古さえ宿して眺めた。

 そして肩を震わせ、スプリングのとうに失せたマットレスに背を沈める。


「どうした? 殺さないのかい」


 少年はサイドテーブルに近づき、倒れた写真立てを手に取る。蜘蛛の巣状のヒビが入ったフレームの中には色褪せた思い出が封じ込められている。少年は澄んだ青い瞳を細めた。


「いい写真だからね」

「ひどいやつだな、きみは」


 男は明確に笑った。少年も笑い返す。


「あんまり似ていないね」


 男は皮膚を吊って唇と眉を上げ、わずかに顎を引く。先の少年と同じような諦めが男のすべての反応を司っていた。

 少年は杖を後ろ手に携えたまま、もう片方の手にとった写真立てを胸の前に掲げて、ベッド脇の椅子に腰掛ける。


「その子を拾ったのは娘が死んだ一ヶ月後だった」


 男の仄暗い視線が、貼り直された写真の亀裂を慈しむようになぞる。少年は写真を毛布に置き、男が投げ出した紫痣だらけの手をそっと添わせた。


「思い出をきいても?」


 少年の問いに、あるいは痺れた指先が触れている思い出に、男の喉が燃えた。


「妻に先立たれ、娘は誤ってクロウの血を…。わたしに残されたものは妻を殺したのと同じ呪いだけだった。わたしはひとりになった。死に場所を探して彷徨っていた、こことは別の、もっと廃れた街だ。あれは十二月の橋の下だった」


 男の嗄れた声に頷くように、萼に残っていた花びらの残骸がぼろりと崩れおちる。死臭が漂っていた。


「野犬が三匹群がっていた。子どもが生きたまま四肢を食われていた。スラムではよくある風景だった。血の匂いで彼女が同族だとわかった瞬間、わたしは無我夢中で犬どもを屠っていた。喉笛を切り裂き、関節を捻り、肋骨を砕いて取り出した心臓を彼女に差し出した。まだ命が脈打っていた。彼女は本能を、生きる力を取り戻した。お互いにひとりでは冬を越せそうになかった、だから一緒にいることにした」


 語り始めこそ厳かだった男の口調は次第に上擦り、白い唇は潤い、頬骨が高くなる。


「彼女に初潮が来たとき、わたしもまた喀血が多くなった。幸せの中でわたしは失念していたのだ、彼女はそう遠くないうちに結局ひとりになるということを。父親として無責任なことはするまいと思った。生命維持の最も重要な要素、それは食事だ。だからわたしが教えねばならない。知恵も力もない少女が社会をたったひとりで生き抜いていくための、もっとも原始的な狩りの方法を……自分を父と慕う罪なき乙女を、わたしは女にしたのだ」


 少年は讃美歌を味わうかのように、なんども、なんども相槌を打っていた。

 言い終わった男の目には光るものがあった。爪が伸び垢の固まった指先が木のフレームを捉えようともがいているのを、青いまなざしは優しく見つめる。


「しあわせだったかい」

「しあわせ? つくづくきみはひどいことを訊く」


 少年はことさらにこやかに破顔した。その白い歯に並ぶ犬歯もまた鋭く尖っている。


「体が満たされても心が空っぽになることだってある。その逆も」


 少年の言葉に男は首を傾けて嘲笑を表した。


「きみの年でなにを知っているというのだ」

「いろいろあってハンターに行き着いたからね」


 男と少年はお互いを見つめて瞬きをした。沈黙は会話、視線は証人だ。少年の掌が男の干からびた手をとって、写真の笑顔へと添えた。


「孤独は寂しいよ。来たる生を、死を、誰だってひとりでは超えてゆけない。だからそばにいてほしいし、そばにいたいと思う。それを愛というんだ」


 祈りのような少年の言葉に、男は堰を切ったように肩を震わせる。


「わたしは間違った」

「いいえ、シド。決して」

「すべてわたしのせいだ、わたしが……」

「あなたと出会えたことは彼女のしあわせだ。彼女とあなたの人生を嘘にしないで」


 男の震える手が、写真の中の若き自分に爪を立てる。頬を濡らしたのは透明な血、額には青い憤怒が浮き出る。糸のような白髪は戦慄き、毛布越しに薄い胸板が膨らんだ。男は天井を凝視し、唾とともに臓物のような言葉を吐き捨てる。


「ああ、しあわせだったさ、満たされた! 蕾がわたしの腕の中で美しく開いてゆくのがわかった、まるで老いるわたしの生命力を吸い上げるかのように。それでよかった、わたしは枯れて彼女の生きる糧になりたかった。そして花は可憐な紋白蝶モンシロチョウとなり、鱗粉を纏って飛び立っていくことを望んだ。しかしあの子は飛んでいかなかった。いつまでも萎れた雄蕊にとどまった、愛してる、そう囁いて! ……わたしは他の蝶を待った。やって来たおおきな揚羽アゲハにあの子はついていった、だが結局戻ってきてしまう。愛してる、愛してる、その呪いがわたしたちを繋いでいた。わたしは彼女を包んで花弁を閉じた。そうするほかなかったのだ、あの子が凍えてしまわないように……」


 震える手はついに思い出を投げ出していたが、掠れた声は男にいくぶんか冷静さを取り戻させた。

 話したのと同じくらい時間をかけて呼吸を整え、男は再び口を開く。


「だから、わたしはきみを待ちわびていたのだよ。花でも蝶でもない、命の種を無慈悲に啄む嘴を」


 少年は答えのかわりに脚を組んで黒杖を前に抱えた。


「一刻も早く死にたい。死なねばならんのだ。娘のためにわたしができる唯一のことだ」


 男の額に浮かぶ玉のような汗を少年は眺め、やや呆れたように首を横に振った。男は頭をもたげることすらできない。


「この死にかけのために、あの子は恐ろしいことをしようとしている。わたしと同じ、いやそれ以上に罪深いことを……」

「狩りを?」

「ちがう、あの子は……


 少年はわずかに目を見開いた。

 やがて宙を仰ぎ、しばし考えたのち、観念したように頷く。


「……そうか」


 男の見開いた目は執念に燃えていた。言葉が少年に縋った。


「今ならまだ間に合う。ミルズがきっとあの子を導いてくれる」

「彼女の愛が選んだ犠牲だ。それを罪だと?」

「そんな犠牲などあってはならない」

「なぜ? ヴァンパイアは血の犠牲の上に生きている。彼女の選択は理屈が通っているように思えるけどね」

「生命の冒涜だ」


 少年は脚を解き、杖をついて、前のめりに男の顔を覗き込んだ。その微笑みは年齢にそぐわず、まるで床についた孫の寝息を確かめる祖父のようで、あるいは臨終を看取る教誨師のようでもあった。

 男の熱を掬い取るように、少年は優しく語りかけた。


「いいかいシド。ヴァンパイアの呪いは絶対だ、例外はない。つまり。彼女はそれを望んだ、つまりどういうことか、分かるかい」


 男はおお、と声を上げた。明かりのない部屋が枯れた嗚咽を無尽蔵に吸い込んでいった。

 少年は黒杖をベッドに立てかけた。白く関節も滑らかな丸っこい指が、土気色で皺だらけの骨ばった指をとり、写真に寄り添わせる。


「彼女が犠牲に選んだものは決して罪ではない。もちろん貴方も。生きていくことは、愛することは、罪じゃないんだ」


 胸の上で組んだ男の掌は写真をしっかりと抱きしめ、ゆっくりと上下した。呼吸、鼓動が、熱が、たしかにそこにあることを示していた。

 男は咽びながらなんども頷いた。見つめる少年のひとみは、カーテンの向こうに広がるであろう空と同じ色をしていた。


 やがて少年は男の毛布を整え、黒杖を携えて立ち上がった。


「行くのかい」

「ええ」

 

 少年のまなざしが導いたかのように、男の表情は晴れていた。少年は長い睫毛を伏せた。


「貴方がたを裁くことは私にはできない。選ぶことも、赦すことも、守ることも……救うことも。無慈悲に命を啄み奪う存在、それがハンターだから。だからせめて、貴方のことを知りたいと思った……これは私の懺悔なんだ」 


 男が首肯の代わりに瞬きをしたのをみて、少年は微笑みを残し、踵を返す。男の穏やかな声が小さな背中を押した。


「きみが背負うものが見えるよ。わたしには見える。きみの罪も、罰も、犠牲も、すべて……話せて良かった」


 少しの間のあとで少年は振り返る。そこにいる泣きぬれた男の顔はまぎれもなく父親の顔だった。

 幼い少年は眉を寄せ、唇の端に力を入れて、泣きそうな笑顔を零した。


「戻ってきておくれ。きみに殺されたい」

「ええ、必ず」



 ――挨拶を交わし、少年が出ていったきり空気は再び停止した。

 すえた汚物と腐敗の臭いが充満した寝床には、今にも切れてしまいそうな男の弱い鼓動だけが、しかしはっきりと鳴り響いている。

 


「ああ、カモミール。愛している、心から……」



 幽かな呟きとともに眦からこぼれた熱は、じわりと枕に沁みていった。

 白い花瓶の前にさいごの花びらが落ちた。

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