旅先 10


 スリーは門松の奇行に呆れ返るかと思いきや、神妙な面持ちでてふを見た。


「離れたのは賢明かもしれません。カモミールはおもに旅行者の男性を狙い、女性であることを武器に夜の街に誘い出して殺すのです」

「はにーとらっぷじゃん、こわ」


 あんたが言うなという感情的な発言をなんとか制し、てふは門松を睨んだ。


「モンちゃん、まさかマーキングされてないでしょうね」


 素の状態でも緩やかな弧を描く門松の口角がやたらと鋭角になる。首筋を手で隠してにこにこする門松に、てふは盛大な溜め息をついた。


「昼間からあんたは……」

「オレなんもしてないっスよぉ! お嬢のこともしゃべってないし!」


 財布は諦めるしかなさそうだ。てふは落ちた羽織を肩にかけ直す。

 お気に入りを失くしたことよりも、八咫のハンターである兄からの贈り物をよりによって敵の手に渡してしまったという事実が許しがたかった。これは自分の甘さだ。


 今だ処理班の到着しない石段を見遣る。取り残されたてふの荷物トランクは動かない男に抱きかかえられて沈黙している。それらを取り囲む鴉はときおり薔薇の残り香を喰らうように口を開け、通行人を睨みつけていた。


「カモミールといいさっきの男といい、昼間から獲物を物色するなんて。よほど空腹なのか、あるいは……」


 スリーの言葉にてふは唇を噛む。考えられる理由などひとつしかない。


「……“贄血わたし”がいるから……」


 澄んだ目がすぐさまこちらを直視した。


「そんなことありません、てふ様のせいじゃない。きっとなにか理由があるんです」


 スリーの優しい声音にてふは微笑みを返そうとしたが、歯の隙間から息が漏れるだけだった。慰めようとしてくれているのだろうが、気休めにもならないのはてふが一番よく分かっている。


 甜血は人間でいうところの高級珍味にあたる。他にもいくつか滋養強壮といわれる血液があるといい、てふはそれにも該当している。―甜血乙女ハニーヴァージン、男の言った通り、ヴァンパイアにとってはまさに垂涎ものなのだ。

 頬の傷を指でなぞると、もともと滲む程度の出血はすでに固まっていた。てふは奥歯をつよく噛んだ。


 いずれにしても門松が目星をつけられマーキングされた以上、カモミールというヴァンパイアにはこちらの居所が割れている。てふは二人の少年に言った。


「とにかく、敵が集まってくる前にここから離れましょう」

「カモミールは単独で行動します、仲間を差し向けることはないはず。なにが狙いかわからない以上、むやみに動くと逆に危険です」

「でももうすでに一人殺してるのよ」

「カモミールにとって他人は囮です。同じヴァンパイアであっても。そうして今まで我々レイヴンを躱し、自分だけ生き延びてきた…狡猾な、いや、強かなヴァンパイアなのです」

「彼女の仲間じゃないとしても、あの男には家族がいるわ。身ごもった……奥さんが。その上他にもヴァンパイアがうろついているのだとしたら、きっともう呑気にお昼寝だなんて言ってられない」


 思わず言葉に熱がこもり、こみ上げる遣る瀬無さにてふは俯く。


 スリーが次を言う前に、門松がえーっと不満げな声を上げた。


「アップルパイは? カモミールちゃんはぁ?」

「どっちも諦めるの。人気ひとけのないところまで逃げるわよ」


 人目につかないところでなら、門松の援護を受けて自分でなんとか対処できるだろうと思いたい。てふが強張った表情で腰帯の簪を腹の位置へ挿し直すのを見て、門松も嫌々ながらジャケットがずり落ちないように袖口を結んだ。


 スリーも頷いた。広場のマーケットのほうへと鋭い視線を向ける。


「ええ、行きましょう。アップルトリップへ」


 てふは耳を疑った。


「スリーさん、わたしの話きいてました?」

「敵がすぐそこにいると分かっていて逃げるなど、ハンターとして言語道断です。これ以上被害を出さないためにも、今ここで捕らえるべきです」


 苛立ちが頭のてっぺんの毛細血管まで一気に駆け上がったのをてふは必死で抑えこんだ。


「あの、だって、スリーさん、武器使えます?」


 スリーは真剣な表情でホルスターに右手をかける。そこにあるのはたしかに拳銃だ、だが。


「てふ様、先程は不甲斐ない姿をお見せして申し訳ありませんでした。次こそしっかりと務めを果たします」

「でも……」


 誠実な言葉がどれほどまっすぐ鼓膜に届こうが、黒光りするその鉄の塊には鴉の嘴ほどの重みすらも感じられない。

 そんなことは口が裂けても言えないてふは代わりの言葉を探したが見つからず、スリーに主導権を明け渡した。スリーは欠伸をする門松を指す。


「マーキングしたということは、カモミールは彼を今夜の獲物に定めたということです。頼まれて大人しくアップルパイを待っているのもその証拠、だったらこちらから出向いてやればいい」


 その生真面目な語り口は少しの嘘も誤りもないように思われた。だからこそてふは違和感に気づいた。


「待って。モンちゃんがヴァンパイアの獲物だなんて、そんなの変よ。だって」


 ヴァンパイアは人間を襲い、その血液を生きる糧としている。だが彼らに対抗する力を持つ者は例外だ。なぜなら彼らの血は――


「彼はなのよ」


 ――その血は、ヴァンパイアにとって命を脅かす猛毒なのだから。



「おにいさぁん!」


 蜜をたたえた雌蕊のような、豊満な声。

 広場の方向へと顔を向けたとたん、嗅いだことのある花の香りが鼻腔を侵し、てふは一瞬目眩がした。


「ごめんなさぁい、アップルパイが売り切れちゃってぇ……」


 ゆったりと歩いてくるのは女だ。門松に向けて手を振る女だ。草原駆ける駿馬のごとく、艷やかな赤の漲る巻き毛の女だ。その名に似つかわしい、白い肌に若葉色のAラインワンピースを着た、そしてその名にはまるで似つかわしくない、毳立った花の香に身を潜めた女。

 

「なぁに、美味しそうなのが揃ってるじゃないの。ついてるわね」


 女の緩んだ口元からのぞく鋭い牙、その奥から、長い舌がべろりと垂れる。

 てふは太陽に目の奥を殴打されたような感覚に陥った。見たくなかった、そう網膜が叫んでいる。


 ――女の腹は、まるで宝の珠が入っているかのように大きく膨らんでいた。



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