旅先 6


 スリーが遠慮することなく意思を表明したことがてふには嬉しかった。

 彼はハンターを単なる家業とは捉えていないのだ。境遇を重ねて彼の内面にまで親近感を抱いていた自分は、まるで勝手に失恋したようで滑稽だった。てふが兄や母に影響を受けたように、スリーにもまた、人生を前向きに決意させる身近な存在がいるのだろう。

 てふは背筋を伸ばして微笑む。


「スリーさんのお兄様やお姉様は、さぞご立派なハンターなのでしょうね」


 スリーの瞳が揺れた。微笑みが返ってこないことにてふはまたぎょっとする。スリーは引き結んだ唇を舐めてから、遠くの空へ感情のない視線をやった。


「兄は亡くなりました」


 てふは反射的に身を乗り出した。


「すみません、わたしまた失礼なことを」

「いえ」


 被せるような強い否定。だがスリーの背中は力なく丸まり、膝の上でかたく組んだ手にはぽつぽつと声が落ちる。


「二年前に心不全で。医者もレイヴンも、ヴァンパイアによる事件性はなく人間なら誰にでも起こり得る不幸な突然死だと言いました。だけどぼくには、やつらが兄さんの心臓を止めたんじゃないかと思えてならない……いえ、そう思いたいだけです。あんなに強くて優しい人が、あんなに突然いなくなるなんて」


 声に徐々に募る苦渋の熱を感じ、彼の表情をそっと伺うことすらてふには憚られた。

 隣の少し高い位置にある肩がわずかに震えていても、自分にはそこに触れる資格がない。―うんざり、そう吐き出したこの唇を引き剥がして燃やしてしまいたい。

 てふはぎゅっと目をつぶって俯いた。押し出すように声を出す。


「ほんとうにごめんなさい。無神経だったわ」

「てふ様が謝ることなんてなにもないです……人はいつか死ぬものですから」


 重いはずのその言葉が、石段を転がり落ちていく。


「そのは、ぼくたちが決めることじゃない。だから、身勝手に人に死をもたらすヴァンパイアは悪です」


 スリーは親指の付け根で乱暴に目をこすった。呼吸を整え、ぎこちなくてふに笑いかける。そんな彼に失言をおそれて言葉が出てこない自分は卑怯だ。てふはいたたまれない気分になった。

 スリーは膝の上の紙袋を抱え直し、やや仰け反って空を見上げた。青が青であるかを確かめるように巡廻するあの影はいなくなっていた。

 再びてふを見たスリーは、眉尻を下げて口角を上げる、精一杯のユニークな表情をつくってみせた。てふは息を吸うのが苦しくなった。


「それに自分には姉がそばにいて、兄と変わらずハンターとしての威厳を示してくれています。自分がレイヴンに籍を置かせてもらっているのも、姉が家名を出して人事にかけあってくれたからで。自分も兄や姉、シュナイダー家に守られてばかりなんです。そんな不甲斐ない自分を奮い立たせるため、今回の任務を志願しました」


 弱さを語る言葉とは裏腹に、その声には彼らしい愚直な力強さが宿っていた。それは混じり気のない彼自身の、翠玉のごとき決意だ。


 ただの人間であるてふの中に輝く玉石はない。それを悪いとは思わない。だがスリーを前にすれば、自分の心がいかに曇っているかが浮き彫りになる。女優帽を被り、サングラスをかけ、ピンヒールを鳴らし、肩で風を切って都会を颯爽と歩く八頭身のスレンダーな美女に目を奪われるような―絶対に届かない、届く必要もないとわかっているからこそ抱く羨望あこがれに似ていた。


 打ちのめされるのがかくも清々しいとは。てふはむしろ安堵して、詰めていた息をおおきく吐き出した。


「スリーさんはほんとうに一生懸命ですね。私なんかの護衛には勿体ないわ」

「いえっ、そんな……あ、すみません、尾行しろって言われてたのに、こんなつまらない身の上話を……」


 目を合わせて気恥ずかしくなったのか、スリーは口ごもった。その視線を掬い上げるように覗き込み、また赤みのさした頬にてふは目を細めた。


「つまらなくなんかないです。スリーさんを見ていればよくわかるわ。シュナイダー家は誇り高いハンターの一族なんだって」


 スリーは口を半開きにして固まっている。てふはにっこり笑ってみせた。


「尾行じゃ落ち着かないので、隣で守ってください。わたしひとりじゃホテルの場所もわからないし」


 スリーはまたも真っ赤になって視線を泳がせ、それでも最後にはこくりと頷いた。結局のところ年の差という点だけでもってこの少年を扱う側にいる自分は、やはり卑怯なのだとてふは思った。



 ――織田家にて、てふが進路を告げた時。

 母は紫の簪を手に、織田の女に代々受け継がれる魂とはなんなのかを語った。てふは母に、簪は命を奪うものじゃない、かかさまはいちどでもわたしの髪を結ってくれたことがあったかと叫んだ。その時てふは初めて母の涙を見た。

 ひどいことを言った自覚はある。それでも自分は間違っていないと今でも思う。謝ってしまえば、自分の選択が正しくないと認めることになる気がしていた。


 人はいつか死ぬもの―人間だろうとクロウだろうと、ハンターであろうとなかろうと、死は平等にやって来る。

 その時に後悔しない生き方を、いま自分はしていると言えるのだろうか?

 そして、ヴァンパイアもまた……


 ――身勝手に人に死をもたらすヴァンパイアは悪。

 若きハンターから放たれたその確固たる矜持は、なぜか硝子の楔となっててふの胸に突き刺さっていた。



 その時。


 弾ける油の香ばしさ、こっくりと粘度のあるバターの香り、そして大輪の盛りを主張するような強烈な芳香。

 密度の濃い三種類が唐突に鼻腔に攻め入り、てふは思わず顔を顰めた。と同時に、てふの頭上に人影が落ちる。


 デッキシューズにジーンズ、麻のシャツジャケットの裾、白いインナー、短く刈り上げたアッシュグレーの髪。見知らぬ男性がてふを見下ろしていた。


「お嬢さん、どうぞ」


 彼は手を差し出して愛想よく微笑む。握られているのはブーケ様に丸められた厚紙だ。油取り紙キッチンペーパーを隔てた中に粉砂糖をまぶしたボール状のフライドスナックが折り重なった雪だるまのようにごろごろと入っており、上には溶けかけたホイップクリームの山。先のふたつの香薫はここから、そしてもうひとつはこの男が全身に纏う薔薇の香水ローズ・パフュームだった。


 男はにこやかな笑みのまま、半身になって噴水脇を見やる。そこには年季の入った赤と白の看板を掲げた屋台があり、人だかりの隙間からエプロン姿の店員がそわそわと身を乗り出してこちらを見ていた。


「おふたりがあまりに仲睦まじいので、彼が出来立てを渡せず困っていましたよ。行列ができてしまったので、代わりにお届けに」


 そうだ、あの屋台でスナックを買ったのだった。てふはスリーと顔を見合わる。スリーは困ったように瞬きをした。

 これを受け取るべきかてふも困惑していた。ホイップクリームを含めたトッピングはいくつか勧められたが、よくわからなかったのでプレーンを購入したはずだ。

 躊躇するてふたちに男は空いた方の腕を大袈裟に広げてみせる。


「僕も妻との初デートがここでしてね。あのときの気持ちを思い出しました。これはそのお礼です」


 男はウインクをして、石段を三つ降り、さながら花束ブーケを贈るかのように姿勢を低くする。胡散臭い、とてふは思ったものの、これは受け取る以外の選択肢がない状況だ。

 ありがとうございますと言って受け取ると、スリーがすぐさま顔を寄せて匂いを嗅いだ。その様子に余裕のある笑みを浮かべる男に、てふもまた愛想笑いを返す。

 手の中にあるほわほわとした熱、立ち上る湯気にじゅんわりと溶けたバターの香り…のはずが、しかし空気に乗って流れてくる華やかな薔薇の香りによって、てふの鼻腔は麻痺してしまっていた。―


「冷めないうちに召し上がっては? 出来立てがいちばん美味いんですよ」

「ええ、ありがとう」


 てふは自身の微笑が愛想から警戒へと変わるのを男に悟られないよう、はだけていた羽織を肩に掛け直した。

 ――ごくふつうの青年だ、香水がすこしきつい以外は。

 薔薇の香水という選択にもてふは違和感を覚えた。男性の清潔感、性的魅力の増長、いずれの目的にも最適とは言いがたい。

 薔薇の香りに別の目的があるとすれば、てふには思い当たる節はひとつしかなかった。

 

 ――美しいがゆえのその自己顕示欲は他のあらゆる細微な気配を蔑ろにし、またそれらを感じようとする繊細な五感や野性の第六感をも嫉妬する。獰猛で狡猾な者たちがその愚かさに紛れ込んでしまえば…それはつまり、ハンターが闘いに負けるということだ。それはつまり、人間が死ぬということだ。

 だから八咫もレイヴンも、もちろん織田家でも、決して薔薇を育てない。


 首筋の産毛がぶわりと危機感を訴える。スリーは険しい顔のまま、スナックと男を交互に見て首を捻っている。

 男は背筋を伸ばした。三段下に立つ彼とは同じくらいの目線のはずだが、てふは見下ろされている気分になった。男の唇がことさらつり上がって浮かぶ。

 

「いやあ、じつに濃厚な香りですね。匂いを嗅いでいるだけでお腹が空いてきますよ。とろけるように甘く芳醇、瑞々しく華やかで、天使のエロスのように混じり気のない、赤く赤く熟れた果実のとろける蜜のようだ……」


 男の唇からスルスルと出てくる語彙にてふははっきりと違和感を覚えた。

 ここには油っこいバターの香りか、きつい薔薇の匂いしかないはずだ。まるで蛇が林檎の木に絡みつくかのような、そんな甘ったるい表現は…


 ――甜血。

 

 全身の毛が逆立つ感覚に抗うことなく、てふは勢いよく立ち上がった。頭がぶつかりそうになったスリーは慌てて仰け反り、てふが地面に落としたスナックに動揺する。

 彼は気づいていない。てふは充満する薔薇の香りを薙ぎ払うように手を伸ばし、スリーの腕を掴もうとした。


 しかしそのときにはすでに、男は首を傾けててふに顔を近づけていた。彼の囁きを間近で浴びたてふの頸動脈は戦慄した。



「今すぐ喰らいつきたいくらいだ」



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