旅先 5


 “クロウ”。

 それはヴァンパイアに対抗する特別な血を持つ人間のことだ。


 ヴァンパイアは常人を遥かに凌ぐ身体能力をもつが、クロウはヴァンパイアと互角に渡り合うことのできる潜在能力を秘めている。その才を開花させ、猛毒となるその血で造った武器でもってヴァンパイアを殺すことができる者だけが、ハンターとして活動しているのだ。


 クロウの発現は突然変異のようなものだが、名家と言われる家系は代々クロウの血統を繋いでいる。倭国のクロウの中でも、織田家はとくに歴史ある系譜だ。

 シュナイダー家もそうなのだろう。怪訝そうな顔のスリーにてふは言った。


「織田分家の女にクロウはいません。別の性質が遺伝するから」

「別の性質?」


 ヴァンパイアという呼称に慣れないてふは、ゆっくりと話すことを意識する。


「ヴァンパイアを寄せ付ける“甜血てんけつ”の性質です。わたしたちは“贄血にえち”と呼んでいますが」


 ヴァンパイアにとってえも言われぬ甘く芳醇な香りがするということからその名がつけられた“甜血”。だが血の匂いや味などわからない人間にとっては、その血を持つ者はただ鬼を呼ぶ不吉な存在である。

 自分だけが狙われるならまだいいが、多くの場合贄となるのは自分だけではない。そしてたとえ自分が襲われても、本人自身に敵を殺す決定的なちからはない――そんな自虐と自戒を込めて、織田家ではこの性質を“贄血”と呼んでいる。

 

「ではご家業は……」

「兄の眞に任せています。織田家はもとから長男の世襲ですし」


 淡々と答えるてふに、スリーは畳み掛けるように早口になる。


「レイヴンではクロウでなくても相応の戦闘能力を備えてさえいればハンターになることができます。それなのに、てふ様は八咫に加わらないのですか」

「ええ。女ですから、こんな体格では戦力外です」

「それは昔の価値観です。今は女性にも門戸が開かれているはず、自分の姉もシュナイダー家を背負ってハンターをしています。てふ様も織田家の血筋ならば、ヴァンパイアを斃す一助となることが使命ではないのですか」


 スリーが思いがけず土足で踏み込んできたので、てふは思わず口ごもった。

 彼の表情は真剣そのもので、性急に答えを探しているようだった。だからその態度や発言に不愉快な感情を抱いたわけではない。

 スリーの言葉は、てふの心の隅に長年こびりついているしこりを的確に突いていたのだ。


 女の身でハンターが過酷だということは、八咫だけでなくレイヴンでも昔から言われていることだ。それは単に男尊女卑的な価値観によるものではない――ヴァンパイアは人の体を持つ獣だからである。

 そして倭国には女性が家を守るという価値観がある。とくに織田家に生まれたなら、強く濃いクロウの血を継いでいくことこそが最大の使命であるといえる。


 だがてふの母は、クロウの婿養子をとって家庭に入るまで、下手人ハンターとして八咫に在籍していた。敵を寄せる血の性質を活かして自ら囮となり、部隊を率いて戦線に立っていたのだ。


 そんな母にとって、てふは生き写しだった。

 クロウの性質は稀に後天的に発現することもあるから、と、てふを兄と共に八咫の道場に通わせ続けた。

 てふは母を尊敬していたので、素直に従った。なにより、兄といっしょにをすることが楽しかった。


 幼き日を振り返り、今も昔もかわらない平和な兄の笑顔を思い出して、てふは不思議と穏やかな気持ちで言葉を紡いだ。


「わたしも兄とともに修練を積んできました。家族の血で作った対ヴァンパイア武器も常時携帯しています。でもそれはあくまでも護身用、逃げるためです」

「逃げる……」

「そう」


 スリーは納得できないというように眉を寄せた。自分と同じような悩みを抱えているのかと思ったが、どうやら彼はそうではないようだ。

 スリーはまっすぐてふを見つめる。澄んだ翠の目が、てふの黒目の網膜を透かして、てふの全身をくまなく流れる織田という血に語りかけるようだった。


「情けなくないのですか、敵を前にして逃げるだなんて」


 率直な言葉はてふの心を抉らなかった。てふを責めているのではない、その純粋な疑問は、むしろ心強くさえある。てふははじめて彼が頼もしく思えた。

 てふが顔を綻ばせたので、スリーはまた訝しげな顔をした。


「そうね、情けない……確かにクロウでなくても、家業に加わることはいかようにもできます。わたしの母は実際そうやって生きてきました。ヴァンパイアを斃すという織田の使命感のもとに」


 ――母の背中を思い出す。夫の血でつくった紫の簪を武器と携え、自ら子どもたちに戦いの稽古をつけた母。長らく男児に恵まれなかった織田分家で嫡子をもうけたことを誇らしげに話し、はやくに病に伏した父を、いつも安気な兄を、そしていつまでも戦いに出ないてふを、叱責する母。


 てふは明確に語気を強めた。


「でもわたしはそんなのうんざり」


 スリーから目を逸らし、てふは石段の先を見た。

 例のカップルは肩を抱き合っている。家族連れが噴水に触れて遊んでいる。若者は駆け出し、老人は散歩する。鳩が食べくずを啄む。よく晴れた休日の午後、ありふれた日常の光景。レイヴンが、八咫が、織田家が守っている世界。

 だが自分もまたその世界の一員であると思うことは、いけないことだろうか。


「殺すとか殺されるとか、そんなことばかり考えて生きていたくないの。好きなことを勉強して、オシャレをして、友達と笑い合ったり、ひとりで自由に旅をしたり…将来を思い描いたり。周りの女の子たちと変わらない生活がしたい」


 てふは自分に言い聞かせていた。

 スリーの声もまた地面に落ちた。


「てふ様は、織田の家がお嫌いなのですか」


 ――落胆。

 てふが先刻、自らの進む道を家業だからと口にしたスリーに感じたような。あるいは、てふが進学の意思を告げた時の母のような。

 スリーの言葉を受けて痛む胸、それは母にではない。若きハンターの少年の純粋さに対してだ。そう自分自身を励まして、てふはことさら微笑んでみせた。


「兄はもちろん、いつも誰かがわたしを守ってくれています。わたしは織田の娘だから。わたしのまわりには……いつも物騒な影と、武器の音と、だれかの血のにおいがある。ハンターではなくても、それは織田に生まれた者の宿命で、こうしてプライベートのない日常を送ることはむしろありがたいことなんです……でもだからといって、わたしは自分の人生まで諦めたくない」


 てふはそのままでいて、そう言った兄の声と自分の声は似ている。てふはそう思い込んだ。そうすれば、この恵まれた考え方が許されるような気がした。


 ――てふがはじめて単独で襲われたのは6つの時、庭先で遊んでいて、目付役が目を離した隙だった。撃退したのは兄だった。その時兄は眼球に鬼の血を浴び、視力が著しく落ちた。

 よくぞやったと褒め称える両親や八咫の面々を前に、兄は、織田眞は啖呵を切った。妹を八咫には入れない。僕が強くなるから、と、泣きじゃくるてふの頭を撫でて、目に包帯の巻かれた顔をくしゃくしゃにして笑った。


 父は息子の意志を尊重した。娘を想う父親心もあっただろう、てふを思い切り甘やかして育てた。洋裁学校に進みたいと言ったときも、二つ返事で背中を押してくれた。

 反対したのは母だけだった。

 

 てふは自分の両の手のひらを広げる。白く、瑞々しく、皺の少ない、苦労を知らないちいさな手。守るもののない、甘えた手。

 てふは強く強く握りしめた。そこにあるはずの使命という運命線を見なくて済むように。そこに屍の数を刻むことを拒絶するように。


「……時々思うんです。わたしの手は汚れていないけど、気づいていないだけで、本当は生まれたときから血で真っ赤なんじゃないかって。それがたまらなくおそろしいの」


 スリーはなにも言わなかった。どんな顔をしているのか見ることはてふにはできなかった。今、自分の拳から目を離してしまえば、織田家というものに飲み込まれそうだった。

 

 やがて、隣で息を吸い込む音がした。

 やや間があって、その声はてふだけにきこえた。


「自分は、ハンターは誇り高き仕事だと思います」


 自分に暗示をかけるかのような、小さくも力強い言霊。

 てふが顔を上げると、スリーはまっすぐすぎるくらい真っ直ぐに、てふを見つめていた。

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