旅先 4


 そのあとしばらく、スリーの語彙は「いえ! 結構です!」だけになった。

 てふが彼のぶんもジェラートを買おうとしたとき。気を利かせた店員がスプーンを二本くれたので、ひと匙食べますかと差し出したとき。ではせめて軽食スナックでもと提案したとき。

 大荷物のスリーを見て老婦人がベンチを譲ろうとしてくれても「いえ! 結構です!」とむきになった。


 噴水前の石段に腰をおちつけ、ジェラートを頬張ったてふが素直に美味しいと伝えると、彼はまだ赤い耳朶を触りながらようやく「良かったです」と言った。


 スリーを待たせ、てふは近くの屋台でスナックを買うことにした。――レトロな看板は白文字に赤の縁取りで “揚げバターbutterfry”。アップルパイよりも濃厚な、食べてもいないのに舌に残るようなバターと高温の揚げ油の香りがしていた。


「すみません、新しいのを作りますから、少しお待ち下さい」


 気弱そうな若い男性スタッフにそう言われたので、てふは代金だけ支払い、スリーを振り返った。


 スーツの少年は低い段差に長い脚を折りたたみ、揃えた膝小僧の上に割れ物の入った紙袋だけを抱えていた。他の荷物はトランクの上にまとめて、左腕でしっかりと抱き寄せている。

 目にはやや疲れの色が滲んでいるが、背筋はまっすぐ伸びている。てふの荷物を預かっているからか、はたまた空腹を堪えているからか、その硬い表情には努力がみられた。てふは申し訳ない気分になり――そこで唐突に、スリーとは真逆の、和装の連れがいることを思い出した。


 辺りを見回すが、門松のかの字も見当たらない。そういえばアップルパイの行列にもいなかったような気がする。てふが最初の場所を離れたから、いや、彼ならば人混みの中でてふを見つけるくらい造作もないことだろうから、いま合流していないということはまだどこかをほっつき歩いているのだ。


 一度ホテルに寄って身軽になってから彼を探すほうがいいかも知れない。できれば、スリーはそこで帰してあげたいのだが。そう思いながらスリーに声をかけようとして、てふはふと思い至る。

 そういえば門松の宿泊についてはなにも考えていなかった。そもそも兄は八咫からも護衛が来ていることをレイヴンに知らせてあるのだろうか。


「あの、ホテルはひと部屋ですか?」

「ええ、ワンフロア一室のみのデラックスルームをご用意しております。ベッドはクイーンサイズですのでゆったりお寛ぎいただけるかと」

「……」


 シスコン兄貴の詰めが甘いことはもちろん腹立たしいが、それよりもてふは自分で予約した宿へ早々にキャンセルの電話をしてしまったことを激しく後悔した。


 遠くに放り投げた視線は、金髪の若い女がコットンキャンディを彼氏に口移しで食べさせ、そのまま濃厚な口づけフレンチキスに突入する嫌がらせのような場面を拾い上げる。

 こんなものをスリーに見せるわけにはいかないという謎の使命感に駆られたてふは、顎先を上げている端正な横顔に出会った。

 やや西に動いた太陽のもと、空高く旋回する黒鳥。決して艶光りして目立つことなく、昼を吸収しながら飛ぶ漆黒の陰を捉える翠の眼には、再び緊張が宿っていた。


 てふはまた唐突に思い出した。

 自分は自由気ままで楽しい一人旅を目的にこの街へ来た。純粋に、織田てふというひとりの女性としてのプライベートを過ごしている。

 だがスリーは“スリー”としてここに来たわけではない。てふの荷物持ちでも、ましてやボーイフレンドでもない。

 彼は護衛なのだ。レイヴン――人間の敵であるヴァンパイアと戦う組織の一員として、ここにいる。


 袴のプリーツを崩さないよう整えながら、てふはスリーの隣に座りなおす。


「スリーさんはなぜその年でレイヴンに?」


 スリーはくっきりとした二重瞼をぱちりとさせる。てふに見つめられても、その瞳は揺らがなかった。


「自分の……シュナイダー家は“クロウ”の家系で、兄も姉もハンターです。代々王室憲兵団の要職に就き、裏組織であるレイヴンと表社会との連携を担っているんです。だから自分もその道を」


 シュナイダー家。

 スリーの口から家柄の話が出たことに、てふはやや落胆した。


 体格こそ恵まれているが、男子としてもまだまだうぶなこの少年に、ハンターとして護衛任務が務まるほどの実力があるとは思えない。事実、マーケットを散策している時の彼が警戒サーチできていたのは、てふというに近づこうとする変態に対してだけだ。


 そんな未熟な彼はすでに、レイヴンという枠組みの中で生きることを運命づけられている。

 空が青いように、太陽が西へ傾くように、噴水が留まらないように、恋人たちの愛が熱いように、スリーもまたなんの疑問もなく当たり前にそうなっていくのだろう。ただ由緒あるシュナイダー家に生まれたというだけで。


 てふは俯く。露店にあった伝統模様の布生地。ひと目見て、惜しみなく使って羽織を縫ってみたいと思った。専門学校の洋裁コンクールで出すデザインに合うエキセントリックな生地を探すこと、それも今回の旅の目的だった。そのための資金もたくさん準備していた。

 ……ひとりでいたら買っていたかしら。

 季節外れの静電気のような痛みが胸から喉を駆けのぼり、唇から出ていった。

 

「約束された輝かしい人生なのね」


 ――瞬間、てふはしまったと思った。こんな返しは僻みか皮肉にしかきこえない。

 スリーが唇を噛み締めて自身の革靴に視線を落としていたので、てふは前のめりになった。


「ごめんなさい、失礼なこと言って……」

「いえ。自分は一家の恥です」

「え?」


 てふは聞き返そうとしたが、スリーがすうと大きく息を吸い込んだので思わず口をつぐんだ。スリーは呼吸を肩に逃がし、てふに向けて唇の端を上げてみせた。


「てふ様こそ名家のご令嬢だときいています。織田家は八咫の筆頭ハンターで、政府への影響力も絶大だと」


 てふは乾いた微笑みを浮かべた。


「本家はね。わたしのうちは分家だから、わりとのんびりやってますよ」


 言いながら、てふは他人事のような気になっていた。織田家に対するスリーの認識は概ね事実で、嬉しくも気恥ずかしくもない。だから笑うしか無いのだ。

 スリーは先程と同じように、なにか苦渋を抱えているような表情で俯いている。荷物から離れた両手はかたく握りしめられていた。

 てふがなにを言うべきか考えあぐねていると、躊躇いがちな声が足元の石段に置かれる。


「……てふ様は、ヴァンパイアを殺したことがあるんですか」


 てふは目を閉じた。

 鬼―ヴァンパイアを殺す。それは八咫の、織田家の使命だ。

 ――笑うしか無い。


「ないです。わたしはハンターではありませんから」

「えっ」


 驚いて顔を上げたスリーの目をまっすぐ捉える。先刻食べたジェラートの爽やかさを口の中に探し出して、てふは言った。


「わたし、クロウじゃないんです」


 

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