旅先 7


 その瞬間てふは咄嗟に身を翻して屈み込み、勢いのまま隣のスリーをほとんど突き飛ばすように押し出した。ドミノ倒しになったトランクケースと上に乗せていた荷物――当然スリーの膝にある紙袋も―が一斉に石段に放り出され、てふの思惑通り派手な音がする。その中にぱりんというちいさな音を捉えて、てふの鼓膜は項垂れた。紙袋の中の割れ物は、母の土産にと買った手鏡だ。

 広場にいる人々の視線を背中に感じ、てふは得心する。状況的には、だがこれでいい。わたしは女優だ、てふはそう思うことにした。

 青空の位置にてふを見るスリーは目をまん丸にして口をぱくぱくさせているが、てふは屈み込んで頬を寄せる。


「えっ、えっ、あの、てふさま」

「敵よ」


 耳元で囁くとスリーは一瞬強張ったものの、てふが馬乗りになったままネクタイを引っ張ったことで再び狼狽える。しかし少年が赤面しようが動揺しようが構っていられない。わたしは女優だ、てふは心の中で唱えた。

 てふは起こしたスリーの上体になだれ掛かり、呆気にとられた端正な顔を両手で固定する。息を吸い込んで止め、目を閉じる。首を伸ばして、唇と思われる箇所に自身のそれを押し当てる。顔の傾きが足りず先に鼻の頭が当たり、そして胡麻豆腐のようなもちりと柔らかい感触が触れたとき、スリーの呼吸もまた停止した。


 うまくできている自信はなかったが、沸き起こる歓声――特に例のカップルの大きな冷やかし声を浴びて、てふはいささか安心した。

 すぐさま唇を離して男を見る。彼はカップルやその他観衆と同じような反応をしていたが、その笑みは下世話な期待というより勝者の情けだった。


 てふはスリーの胸に頭を預ける。直に伝わる鼓動は織田家の朝の点呼並みに速く、塞ぎ込んでいた鼓膜を叩き起こす。てふはスリーの顔を見ないまま、明確に演技とわかる笑みを顔面に貼り付けて、男に言った。


「お楽しみなの、ごめんなさい」

「なるほど。妬けますね」


 男は顎を撫で、道を開けた。てふは呆然とするスリーを立たせ、たくさんの視線を感じながらゆっくりと石段を降りる。

 通り過ぎる一瞬、鼻から脳へと侵そうとする薔薇の香りに奥歯を強く噛み、てふは笑顔で牽制した。男は柔らかな瞬きで応えた。


 いちばん下まで降りた二人に、落ちた荷物を拾ってくれた何人かが駆け寄ってくる。人々は一様に茶化したような笑顔で、てふとスリーには祝福の声を、また階上にいる男には肩を叩いて慰めの言葉を掛けた。

 てふは終始笑顔で対応しながらも、階上から背中に刺さる鋭い視線に神経を集中させていた。彼がなにを見ているのかわかる、ならば。

 背中で蝶結びにした帯の結び目に手をのばし、そこに隠した護身武器をこれ見よがしに覗かせる。

 ――紫の簪。織田分家の子女が持つ伝統の対ヴァンパイア武器だ。


 多くの視線が外れ、荷物もまとまったところで、てふはようやく男に向き直った。いまだ石段の上に留まり、てふたちをはっきりと見下ろしている男の目からは、先程の余裕が消えていた。その手に拾われたものを見て、てふはしまったと思った。

 

「あの……」

「後で謝るわ」


 隣の少年がどんな顔をしているか見なくてもわかるのでてふは無視した。スリーの律儀な手は荷物とトランクを手放していない、つまり女優でいるのはここまでだということだ。てふは背中の簪に手をかけた。

 石段を経ててふと男は微笑みを交わし合う。

 男は右手の紙袋を見つめて肩を竦めた。


「いくらお互いに夢中でも、荷物はちゃんと持っておくべきですよ。ここは治安が良いとはいえ、観光客を狙った引ったくりも出ますから」

「ご忠告ありがとう。そこに置いてください」

「大切なものなのでしょう? 婚約指輪かな」

「置いて」


 男が紙袋を雑に揺らしたので、はからずも語気が強まる。笑みの崩れたてふに男はやや驚いた表情を浮かべ、


「そんなに怖い顔をしないで。僕には最愛の妻がいます、若い二人の仲を裂くような無粋はしませんよ」


 その時、男のことさらに吊り上げた唇の端に鋭い犬歯が覗くのを、てふははっきりと捉えた。


「たが甜血乙女ハニー・ヴァージンは別だ」


 言い終わらないうちに男は紙袋を放り投げた。咄嗟に土踏まずに力を入れるてふとは反対に、スリーの視線が空中を追う―てふの視覚は男が十段以上ある段差を一歩で踏み越える残像、そして次の瞬きで眼前に振りかぶった彼の姿を捉える。嗅覚が薔薇の香りの動く方向を察知し、聴覚が男の呼吸にたしかな殺意を聴く。てふの直感は迷いなく、踏み込んでスリーの前に出る。後ろ手に簪を抜く勢いそのままに上体をバネにして腕を薙ぎ、男の手刀を防いだ。羽織の裾が空気を裂く音が遅れてやってきた。


 弾かれた反動で男は石段の上まで距離をとった。てふは少しよろけてスリーに背中をぶつけたものの、すぐに立て直す。くしゃっ、と遠くで紙袋の地面にぶつかる音がした。

 男の左手は中指の間からまるで運命線に沿うように裂傷ができ、薔薇のような赤い血が手首まで垂れていた。

 対しててふの手首は、攻撃を受け止めた衝撃でびりびりと痙攣する。乱れた空気を浮遊する薔薇が促すように右頬を撫でて、てふはそこに違和感を感じる。触れると指先に赤い線がついた。男が舌なめずりをしたのでてふは舌打ちをしたい気分だった。


「て、てふ様、血が」

「かすっただけよ」


 引き攣った声を遮断する。痛みはない、切られたのではなく切れただけだろう。

 この状況が広場の人々にはどう映っているのだろうか。初々しい観光客のカップルが粘着質の男にしつこく絡まれている、まだその範囲内であってくれと切に願い、てふは鮮血の付着した簪を胸の前で構えた。

 男は舌を慰めるように、自身の傷を舐めて言う。


「その簪……きみはハンターなのかい?」

「違うわ」


 ハンターという単語にあからさまな反応をしてしまったてふに、男は慈しむような笑みをこぼした。


「そうだよね。そんなにも芳醇で澄み渡った血が人殺しのはずがない。きみはまだ誰も殺していないんだね、そしてまだ誰にもその身を……ああお嬢さん、お楽しみだなんて、フフ、きみはそんな悪いことばはまだ知らないはずだ。そうだろう少年、男としてきみを尊敬するよ」

「セクハラはやめて」


 顎先を上げる男にてふは苛ついて吐き捨てた。男の足は石段から動いていないはずなのに、じりじりと距離を詰められている気がして、踏ん張っているはずのブーツの爪先がじりじりと外側を向く。

 背後の呼吸が震えているのを感じ、てふは男を睨む眦に力を入れた。しっかりしろ、織田てふ。


 男はふふふと笑った。その口元を隠す手は血が乾き、そこにあるはずの傷はすでに塞がっている。


「ところで僕の妻は妊娠中でね。生まれてくる子のためにすこしでも栄養のある美味しいものを食べさせてあげたい。だから今晩のメインディッシュはきみにしようと思うんだ」


 男の落ち着いた無遠慮なことばにてふは唇を噛みしめる。

 白昼堂々、こんな人の目のある中で接触されるなんて。これ以上の非日常は避けたいが相手は隠すつもりなどないらしい、そして自分にはハンデがある。どうする。どうする。


 男は緩んだ口元のまま目を細めて、明確にふたりを睥睨した。


「ボーイフレンドはレイヴンの制服だね。震えているけどだいじょうぶかい? ああ、どうか無理をしないで。僕も穏便に済ませたいんだ。心配しないで、ここでは殺さないよ、この広場がそういう場所じゃないことくらい弁えている。郊外まで行こう、そこなら治安が悪いから」


 無言のスリーをちらと見て、てふは見なければよかったと思った。てふの想像していた通り、いやそれ以上に蒼白だ。

 そんなふたりを見て、男は今までにない満面の笑みを浮かべた。鋭く尖った二本の犬歯がはじめて存在感をあらわし、てふの呼吸も思わず震える。

 男は悠々と石段を降りてくる。


「お嬢さん、念のためきみににおいをつけマーキングしてもいいかな? 安心して、“血の契約”まではしないよ。噛んでしまったらきみを自信がないからね。今ですら妻のためと思わなけりゃ理性が保てないほど…ほんとうに罪な血だ……ああすまない、バターフライを食べ損ねたね。買ってあげよう、食事は最大のお楽しみ…」

 


 ――男の声は最後まできこえず、その足は石段を降りきる前に止まった。



 てふも、男自身も驚いて目を見開き、そのあとで、男の口元が布で覆われていることに気づく。



「いいなァ、


 男の口を塞いだのは黒い手袋を嵌めた左手だった。

 男の背後、石段の上からおぶさるように寄りかかる真っ黒な影。その細い腕が抱擁よりも冷たく、羽交い締めよりも優しく、男の両脇から回り込んでいた。


「オレも混ぜてよ、おにーさん」

 

 語尾を弾ませて、門松はあざとく男の肩に顎を乗せる。

 その右手にはなにかが握られていた。抱きしめているように見えるが、それは男の左胸に根本まで深々と刺さっていた。

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