旅先 8

 

 押さえつけられた布越しに男がはっと息を吸ったのと、その心臓へと門松の右手が武器をもう一押ししたのは同時だった。

 男は背後を見ることも、吸った息を吐き出すことも叶わなかった。見開かれた瞳孔が震え、やがて睫毛は脱力する。男の体が僅かに痙攣し、宙を掻いた腕がだらりと垂れた。


 門松はすかさず両腕で男の脇から横隔膜の下を支え、男の体が崩れ落ちるのを防ぐ。まるで酔っ払っいを介抱するかのような手つきで、てふのトランクケースに腕をもたれかかるようにして男を座らせた。項垂れる首の位置を調整し、着ていた外套を毛布ブランケットのようにふわりとかけると、男の上半身――武器がほとんど埋まるように根本まで突き刺さり、赤く染まった左胸はさり気なく隠される。

 しゃがみこむ門松の背には赤い組紐で括りつけられた白布の鞘袋が露わになっていた。


「あい、“お昼寝”完了〜」

 

 門松のだらしなく伸びる語尾はいつもの調子そのものだ。

 てふは唾を飲み込んで乾いた口内を潤す。


「て、てふ様、こ、これはいったい……どういう……」


 くぐもった声に振り返ると、スリーは男を凝視して青ざめていた。

 一瞬の決着に状況が掴めないでいるのだろう、そして門松の昼寝という言葉が彼を余計に混乱させている。てふはふっと息をついて、スリーの視線を追った。


「昼寝というのは、昼間に鬼を殺すこと、または死体そのものを意味する八咫の隠語です。だからだいじょうぶ、もう死んでますよ」


 座って目を閉じた男は、まだ頬や唇の血色もよく、言葉のとおりまるでトランクケースを抱えて眠っているだけのように見える。とたんにてふは、冷静な自分の語り口が恐ろしくなった。

 思わず合掌しそうになり、てふは下ろした手をかたく握りしめる。紫の簪はまだそこにあった。今更ながら脹脛が痙攣していた。


 ヴァンパイアはこの世ならざる怪物ではない。伝記伝説のように、日光を浴びて浄化されたり、透明化して壁をすり抜けたり、死者を蘇らせたりする能力は一切ない。彼らは人間と同じく生身の肉体をもち、今を生きる存在である。つまり彼らが死ねば、そこには

 よって日陰の存在であるハンターにとって、昼間の人目につく場所での戦闘は基本的にご法度である。種の生存を賭けた死闘だとしても、事情を知らない一般人の目に触れればそれはとして映ってしまうからだ。

 周囲にそれと気づかれず決着をつけ、処理班が到着するまで死体を偽装する。そんな高度な実力がなければ、“昼寝”を完了させることはできない。


 まるで引力に流れ従うかのような一連の作業だった。加えて門松のほんとうの戦闘武器は、いまだ布套に包まれ彼に背負われたままだ。

 てふは血の乾いた簪を布でくるみ、再び腰帯の結び目へ隠す。長い息を吐き出して空を仰ぐと、羽を広げた黒鳥が飛来するのが見えた。


 ――昼間の戦闘はハンターだけでなくふだん人間社会に身を潜めているヴァンパイアにとってもデメリットが大きい。こんな風に大胆に接触して狩りを行うのは、ヴァンパイアが集団を形成しているか、生き血を求めるのによほど切迫した理由があるかのどちらかしかない。


 てふは男の言葉を思い出す。身重の妻がいると言っていた。

 ……夫を亡くし、お腹に子どもを抱えて、ヴァンパイアの妻はどう生きていくのだろう。


「お嬢、ケガしたの」


 ふと声をかけられ、顔を上げたてふの頬を黒い指先がなぞる。真顔になった門松の黒目がじっと傷を見つめるので、てふは明るく微笑んでみせた。


「切れただけ、平気よ。お昼寝とはさすがね、モンちゃん」


 少し背伸びをして腕を伸ばすと、門松は自ら撫でられようと頭を下げる。その顔にいつもの緊張感のない笑みが戻り、てふは安心した。こんな少年に我が身を守らせておいて、死んだヴァンパイアの家族を慮る資格など自分にはないと思った。



 鴉が舞い降り、トランクケースの上にとまった。石段を蹴る爪のカリカリという音が男の周りを徘徊し、揃えた羽根は艶やかに、尾羽を逞しく振り、鋭い嘴の先で気配を探る。瞑らでいて鋭い黒目が男をつぶさに観察していた。

 上空に見ていた時よりも重量感のあるその体躯に驚きつつ、てふは隣に立つ長身痩躯の少年に話しかけた。


「スリーさん、これはレイヴンの鴉ですね。処理班に来ていただくよう手配を……」


 続きを言いかけて、てふは諦める。全く反応しないどころか、スリーの目はいまだ足元の死体に捕われていた。てふは小刻みに震えるスリーの腕をしっかりと掴んで揺さぶった。


「スリーさん」

「あ……はい……」


 スリーは我に返ったようにてふを見て、そしてまた固まってしまった。エメラルドグリーンの瞳は潤み、視線は留まるところを探しているかのように彷徨う。

 敵襲とわかって武器を構える反射神経もなく、おまけに死体を前にしてこの様相だ。おそらく彼はハンターとして護衛任務が務まるどころか、レイヴンの所属だと名乗れるほどの実力すら伴っていない。

 

 どうしたものかと頭を抱えるてふをよそに、門松はことさらにやついた笑みを浮かべながら、ヴァンパイアの死体を大袈裟に跨いでスリーの視界を妨げた。


「カレシぃ、どしたん? ビビっちゃった?」


 滅多に会わない従兄弟どうしが酒の席で再会した時のような馴れ馴れしさで、門松は引き攣ったスリーの頬をぺちぺちと叩く。スリーにこれ以上表情筋を失わせてはいけないと、てふは慌てて門松を引き剥がした。


「ばかっ! ホワイトレイヴンのかたよ、失礼なことやめて」

「だってちゅーしてたじゃん〜」


 てふははっとした。そういえば件の謝罪がまだだ。

 門松の白々しい視線を忌々しく思いながらも、スリーに深々と頭を下げる。


「スリーさんごめんなさい。公衆の面前でいきなりあんなことを」

「いえ……」


 やはりスリーはそれ以上言葉が出てこない。しかし気まずい沈黙をフォローできるほどてふにも余裕がなかった。

 異国では挨拶というから、スリーも初めてではないはずだ。そう、あれは単に口と口を合わせただけ、深い意味はない。そう言い聞かせれば言い聞かせるほど、自分のしたことがいかに破廉恥だったかを思い知り、恥ずかしさがこみ上げる。


 必死で平静を装うてふを遠慮がちに見て、スリーはぽつりと言葉を発した。


「あの……ぼくの方こそ、動揺してしまって……機転が利かず、申し訳ありません」


 てふがなにか言わなければと口を開きかけたその時、鴉が低い声でくうと啼いた。トランクケースの上で爪先を揃え、顎を上げて、すこし西へと移動した空の支配者に敬礼する。そして一声、長く高らかな啼き声は招集の合図サイレンのようだった。


 広場の何人かがこちらに注目したので、てふは思わずトランクケースの前に身を乗り出す。スリーはゆっくりと、死体の一段上に腰を下ろした。

「レイヴンの鴉は不吉を躾けられています。誰も近寄りません……じきに処理班が来ます」


 その声音は落ち着きを取り戻していた。

 スリーは唇を噛んで、眠るように死んでいる男を眺める。澄んだ虹彩の揺れるのは誰に対する怒りか、あるいは苦渋か。てふはつくづく自分が情けなく思った。

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