旅情 2
レイヴン支舎医務室にて目覚めた門松はにこりともしなかった。
採血用の注射を目にした彼は全力で暴れ、レイヴンの医療班四名を蹴り飛ばした。二度目の鎮静剤を打たれる前にてふがなんとか宥め、着替えと清拭消毒のためシャワー室に運び込んだものの、彼はてふ以外の人間が触れることを断固として拒否した。その後の処置の間もてふの腕の中から出ようとせず、震えながら周囲を睨みつけていた。
レイヴンにいる限り彼が平常を取り戻すことはない。そう悟ったのか、当初はしきりに精密検査を提案していた医師は八咫の薬師に宛てて一筆をしたためた。
もう一度発熱すればそれで鎮静剤の作用は終わりですからご安心を、と抑揚のない声で言い、医師は億劫そうな視線を頓服薬とともに寄越した。
警護には別の男性二名と女性一名がついた。
ホテルはスリーの説明通りワンフロア貸切となっており、フロント従業員もクロウだという。
てふは男性ハンターを東と西のフロア出入り口に、女性ハンターを部屋のドアの前で待機させた。
部屋に入るなり門松は無言のままベッドに倒れこみ、そのまま寝てしまった。
しばらくして呼吸に変化があり、苦しそうに何度も寝返りを打つ。薬を飲ませたものの熱は下がらず、門松はしだいに魘されるようになった。
微熱程度などと言っていたあの黒衣の少年は大ホラ吹きだ。
門松の顔面は蒼白で、汗の滲む額や首筋には青い血管が蚯蚓のように浮き出ている。歯を食いしばり、時折なにかを払うように顔を左右に振るせいで、冷水を含ませた
彼の中に流れる
てふは門松の汗を拭きながら、その顔をただ見つめることしかできなかった。
――門松がクロウであると同時に鬼の血をひいていると判明したのは、彼が織田家に来てはじめて鬼を屠ったあとのことだった。
つまり混血児とは生まれながらにして鬼との生存競争に勝利した稀有なる人間であり、そのため鬼にとって滋養強壮の血に連ねられるのだ。
肝心なのは、彼らが鬼ではなく人間だということ。
門松のように鬼の性質が身体能力に色濃く反映されることもあるが、混血児は雑食、つまり一般的な人間の食生活によって肉体活動を維持する。血に過敏になることはあれど、生命維持の唯一の食糧として血を求める鬼とは生物として決定的に異なるのだ。
そして、突然変異に近いクロウの性質は、混血であることと関わりがない。
門松もまた先天性のクロウではなく、人生のある時期に突如として性質が発現する後天性であることがわかっている。
それらは偶然なのか――否。
必然だとてふにはわかっていた。
血に惹かれるのは混血であるから……そうでなければ、寒さから身を守る術を失い、震えながら死んでいったことだろう。
鬼を殺すのはクロウであるから……そうでなければ、潜在的に血に惹かれるまま、人々を見境なく手にかける殺人者になっていただろう。
彼の生き方には天が与えた理由がある。
血が彼を人の世に生かし、血が彼を人の世から守るのだ。――
苦しむ門松を前に、レイヴンは本当に鎮静剤を打ったのかと疑心暗鬼になるが、それは自身の非力を棚上げしているにすぎない。
警護のハンターにはなにかあったらすぐに呼ぶようにと念をおされたが、てふははじめから部屋に他人を入れるつもりはなかった。
レイヴンの医療班に囲まれる中、てふにしがみつき、視線だけで威嚇をする門松の姿は、人に怯える野良そのものだった。これ以上彼を不安にさせたくはない。
けれど、これ以上自分になにができるわけでもない。自身の無力に抗うように、てふは幾度も清布を冷水に浸し直した。
混血児の存在が希少なのには他にも理由がある。古来より異種族との交わりは禁忌であり、女は穢れとして罰せられ、赤子は忌み子として処分されるのだ。また行為に同意がない場合も多く、傷つけられた女が腹の子共々命を投げることも少なくない。
混血児は生来、母親の存在を感じることができない命運にあるのだろうか。
それはつまり、与えられるべき愛を持たずに生まれるということ。それはつまり、愛の存在を知るきっかけがないということだ。
おかあさんなんていない、と言い切った門松の屈託のない笑顔が悲しく思えて、てふは門松の手を握った。彼の愛用する黒い手袋はてふにすら外すことができず、手にはめたまま薬液に浸して消毒したのだった。
彼の素手を握ってやることができるのは母親だけなのだろう。
自分は、こうして手袋越しに触れて、彼が握り返してくれるのを待つしかない。
――あかちゃん、あったかい?
そんな呟きとともに感じた、弱くて強い指先の力を思い出す。
母を求めるのは赤ん坊の本能だ。
愛を求めるのは人間の本能だ。
だから、彼はきっと求めている。
それを得ることができたなら、彼はきっと、あの赤い血の海から陸に上がることができる。
彼はもういちど、人として生まれることができるのだ。
だが、彼に、母親はいない。
黒い指先にてふは祈るように両手を重ねた。
門松の呼吸が次第に落ち着いていく。やがてその寝顔はスリーの腕に抱えられたときのような穏やかさを取り戻した。
てふは長い息を吐き出す。この街に来てからの出来事が走馬灯のように脳裏を駆け巡る……長い一日だった。
気を抜いた瞬間、唐突に
門松の汗か、それとも自分の体臭だろうか。門松の介抱を最優先にしていたため、
門松が回復するまでは離れられない。けれど本音を言えば、一度からだを洗い清めてさっぱりしたい。そうしなければ気持ちを切り替えられない気がした。
体を拭いて、髪を洗って、熱めのお湯に浸かってひと息ついて、そして……
ありもしない蒸気に瞼を撫でられ、てふはいつの間にか微睡みに落ちた。
――ふいに手を強く握り返されて、てふは我に返った。
門松の目が開いている。熱のせいか潤んだ視線はてふを飛び越え、なにかを探すように宙を彷徨っていた。
荒い呼吸の合間、赤紫いろの乾いた唇が震える。
「あるじ……あるじ、どこ……」
うわ言のように呟きながら身を
門松の闇雲に藻掻く手が、自分を抱きしめる女にたどり着く。しがみつき、切れ切れの息で訴えた。
「おじょう、オレ、ここ、もうやだ。いたくない。あるじのとこ、かえりたい」
上擦った声が門松の切迫した胸中を表す。焦点の合わない目がかろうじててふを視界に入れていた。
倫理観が欠如しているとはいえ、門松は痛覚や恐怖の感情が麻痺しているわけではない。麻酔銃による攻撃、つまり“得体の知れないなにかに突然首を刺された”その時点ですでに、彼にとっては恐るべき事態なのだ。
てふは居た堪れなくなって、門松の体をきつく抱きしめた。
「うん、帰ろうモンちゃん、いっしょに帰ろう」
てふがどんな言葉をかけても、どれほど抱きしめても、震えは止まらない。その唇はあるじ、と繰り返している。
危機に瀕した門松が頼るもの、その命の拠り所とは、てふの腕の中ではない。それは当然のことだが、現実として突きつけられると一抹の寂しさを感じる。
こんな自分に彼を救うことなどできるのだろうか?
「さむい、さむい……寒いよ、お嬢……」
喘息かと思うほど乱れる呼吸が、泣いているのかと思うほどか細い声が、こちらまで不安にさせる。
哀れに
近すぎる。
そう思ったときには、吸い込んだ息ごと唇を塞がれていた。
――なにをされているのか認識するまでに、てふの脳内の酸素はほとんど枯渇していた。
反射的に奥へと逃れようとする舌を、出ていこうとする息を、同じもので防がれる。逸らそうとする顔を黒い指先が固定する。耳の奥で粘度が絡まる音が響く。生麩のように柔らかい唇がなんども角度を変えて食む。薄目を開ければそこにきつく閉ざされた
まるで、顎歯で篭城し、舌という針と唾液という糸を以て、そこにある温度を縫い留めるかのように。
昼間、噴水広場で見た恋人たち。
彼らと同じことをしているというのに、羞恥のひとつも湧いてこないことが不思議だった。
彼らのような男女の欲情的干渉ではない。スリーの不意を奪ったてふのままごととも違う。
これは彼の呼吸だ。
まるで赤子が母の乳房に吸いつくように。
必死に命を乞うている。
寒いのはいやだ、死ぬのはいやだ、そんな切なる願い。
愛おしさが指先に宿る。肌に貼りついた髪を払い除け、両手で頬を包み込み、離れないように自ら顎を引き寄せる。項を撫でてやると彼の眉間から苦痛が消えていく。
呼吸のあいまに上擦った息を交わし、一瞬の恥ずかしさはすぐに舌の付け根へと押し戻される。否応なしに下腹部へと這っていき、柘榴の実が咲くような震盪を血管の内壁に覚え、無意識のうちに腿の内側に力が入る。
彼の手が下に降りてこないことをもどかしく思ってしまう理由はなんだろうか。ぬるい体温の交わりを心地よく思うのは、それ以上の熱をからだに求めてしまうのは、投げやりな理性か、はしたない欲深さか、それとも。
ぬくもりのその奥に、あつく滾る血の鼓動がある。
彼が、こうして生きている。
それがなによりもてふを安堵させた。
名残惜しげに唇が離れていく。
門松はゆっくりと瞬きをした。睫毛の先がてふの鼻の頭を掠め、湿度を孕んで乱れた呼吸が重なる。杏のように熟れた頬、今にも閉じてしまいそうな蕩けた眼、きっと自分も。
自分と違って手馴れているはずの彼が自分とおなじ顔をしている、それは熱のせいだとわかっているはずなのに、こんなにもむず痒い。
今更ながら、今更だから、羞恥が一気にこみ上げてきた。
俯きがちになるてふの視線を掬い上げるように、門松が覗き込む。
真っ暗やみのまん中にはてふだけがいる。
彼はにっこりと、歯を見せて笑った。
血みどろの戦闘も、高熱の苦しみも、長い長い接吻も、哀れなひとみも、すべてが夢だったかのような、無邪気な笑顔だ。
「えへへ。お嬢、顔あかい〜」
純粋、ということばのほんとうの意味を、てふは今初めて知ったような気がした。
あれやこれやと思考を巡らせていた自分がますます恥ずかしくなり、大袈裟に顔を逸らす。なにか言わないと示しがつかない。
「モンちゃんもまっ赤よ」
つっけんどんに言うと、彼は尚更にっこりと目を細める。
「うん。お嬢、あったかいから」
言うなり門松はゆるりと脱力し、てふに体を預けた。反射的に抱き留めると嬉しそうに微笑むが、その手はてふを抱きしめ返すまでにしばし遠慮の弧を描いていた。
頬が胸に擦り寄せられ、てふはさらに身を固くする。薄く開いた門松の目はとろりとしていて、そこからなにをするでもなく、ただてふの心臓の鼓動に耳を澄ませていた。門松はゆっくりと瞬きをした。
「お腹の中って、こんなかんじなのかなぁ」
やがて睫毛が重量に負ける。門松はやすらかに微笑み、寝言のように呟いた。
「きっと、お嬢がオレのオカアサンだね」
――あの雪の日の彼を思い出す。
てふは恐怖した。
こんなにも近くで生きていることを感じているはずの彼が、あんなにも遠くなった日の死の影を纏っている。
それは発熱がもたらす悪寒のせいか。それとも、中途半端に彼を抱くこの身の温度のせいか。
抱きしめる腕に力が入る。
この少年を離してはいけないと思った。
ヴァンパイアの妊婦とその夫、呪いに倒れた父親。だれがだれを愛していたのか、なんのためになにを犠牲にしてなにを得たのか、それらはすべて正しかったのか。
てふには答えを出せないけれど、ひとつだけわかることがある。
愛されていたのだ、彼女のお腹の子は。きっと、必ず。
生きることは愛すること。
愛なき命などないと証明したい。
母や兄、織田家に、レイヴンのハンターに、ヴァンパイアたちに、そして誰よりも、腕の中の少年に。
互いの視線を手繰り寄せ、どちらからともなく再び重なった唇は、しかしすぐに離れた。
門松は乾いたままの唇を舐める。赤みの引かない頬をもちりと弛ませて、てふの耳元で囁いた。
「あるじにはないしょ、ね」
産毛をくすぐる吐息の熱さに、血流が触発されて艶めく。
てふがごくりとつばを飲んだとき、健やかな寝息が聞こえてきた。
眠る少年は、かつて少女のてふが添い寝をしていた頃の名もなき男児のように幼く見えた。
恥ずかしさはいつだって遅れてやって来る。てふは抱きしめた彼の肩に顔を埋めた。
寝汗が冷えるとまた寒がるだろうから、せめてその分だけ自分の体温を移してやらねば。そう言い聞かせることで、
それにあながち自惚れでもないという認識もあった。あるじにはないしょ、ということは、あるじに怒られるようなことをした自覚が門松にあるということだ。
門松がてふに求めていることなどとうに分かりきっている。それこそ、あるじに怒られるからしないだけで。わからないから、オカアサンという言葉を使っているだけで。
彼にとってそれは生殖のための手段ではないし、愛の比喩表現でもない。明確な人のからだの温度。生命の本能的な躍動、巡る血の昂り、いのちのぬくもり、生きているという証明に過ぎないはず……
――お嬢は誰も殺さないよ。だってオレがあとであるじに殺されるだけだから。
――お嬢のこと、オレが守ってあげるね。
ヴァンパイアの要求通りにてふを犯そうとしたあの時、門松が語りかけたことを今再び噛みしめる。口にした本人すら自覚していないであろうその言葉の意味するものに気づいたとき、感激でてふの涙腺は大きく戦慄いた。
彼の心は人であることを手放していない。
彼の心は、まだ愛を知ることができる。
わたしがそう信じる限り、彼は。きっと、必ず。
だれの母親でもない自分が、だれの
その答えが心の中にほのかに灯った。
哀れみを捨てきれない今のてふに成せることではない。
けれどいつか、てふが成さねばならないことが確かにあるのだ。
こぼれ落ちる前に目元を拭い、てふは今いちど、門松を強く強く抱きしめた。
この涙は、誰にもないしょだ。
この感情は、兄に知られてはならない。
この使命は、門松に知られてはならない。
この決意は、わたしだけのもの。
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