旅情 3

 

 八咫の客人たちを乗せた車両を見送って、スリーは気が抜けたようだった。腹部をさするその仕草を見て、オリヴィアは無言でスリーを医務車両へと促す。緊張の面持ちでいた弟がようやっと交わす言葉を見つけた時、車はすでに発車したあとだった。

 オズワルドは頃合いを見計らい、立ち尽くすオリヴィアに歩み寄った。


「すまない、もっと早く助けに入るべきだった」

「いいえ。痛みを知らなければあの子はハンターとして強くなれないもの。粘ってくれてありがとう」


 遠ざかる排気瓦斯ガスの煙を見つめるオリヴィアの背筋は、今だぴんと張り詰めたままだ。オズワルドは眉尻を下げて微笑みかける。


「目付役とはいえ、弟がいたぶられるのを見ているのは辛かったろう。貴女こそよく耐えたね」


 オリヴィアはオズワルドを睨むように見た。目の縁にはうっすらと涙が溜まっている。

 手で顔を覆い、オリヴィアは長い息を吐く。少年の小さな手はしばし空を彷徨ったのち、彼女の丸まった背中にそっと着地した。

 オリヴィアは短い息を吐いて、長い指先で目元を拭う。


「あの子は立派なハンターになれるかしら」

「未来は彼が選び、自ら進んでゆく。そのために必要な翅を彼は今日、美しき蝶からもらったんだ」


 遠く去りゆく空を見つめながらも、オズワルドは自ら芝居がかっていることを確かめるように言葉を砕く。その様子にオリヴィアは安堵したように微笑んだ。

 

「相変わらずキザな人」

「そこがよかった?」


 わざとらしく首を傾け、頬に手のひらを添えて、少年はオリヴィアをじっと見つめる。オリヴィアは僅かに考えたのち、やや熱のこもった声で返した。


「“ハナ”は昔の恋人?」

「とんでもない、人妻には手も足も出せないよ。 私は万年片思いの哀れな負け犬なのさ」


 指揮棒よろしく杖を振り大袈裟に天を仰いでみせるオズワルドの嘆きは、オリヴィアの苦笑を誘った。


「意外と根に持つタイプなのね」

「まさか、喧嘩別れしたわけじゃない。半年経たずに結婚報告はさすがに堪えたけどね」


 軽快な口調のまま少年の視線が自身の左薬指にちらりと移ったのを察知して、オリヴィアは肩を竦めた。


「いいえ、根に持たれて当然だわ。あたしが悪いんだもの。妻になること、母になること、それに……そう、なにもかも諦められなかったから」

「私のためにあなたの人生を犠牲にする必要はない」

「言っていたわよね、人とヴァンパイアの関係に奇跡をもたらすのは愛だって。あなたは生き永らえて今ここにいる、それはかつてあなたに身も心も捧げた人がいたから……あたしはそうなれなかった」

「私は運が良かっただけだよ」

「そのクロウを愛してたんでしょう」

「でも死んだ。私が殺したんだ、そして私だけ生き残った」


 オズワルドは静かに目を細める。その小さな手は、きつく黒杖を握りしめていた。


「結局、私たちを繋ぐものは愛じゃない。血だ」


 諦めを含んだその口調に諭されるように、オリヴィアは口ごもる。訪れようとする沈黙をオズワルドは睫毛の先で払い、オリヴィアに笑いかけた。

 処理の完了した現場を後にし、路地を抜けて開けた道を水路沿いに連れ立って歩く。循環の悪い中腹は水門の桟橋アーチから流れてきた花びらのたまり場となり、孑孑ぼうふらがそこかしこに浮いていた。オズワルドはふっと息を吐いた。

 

「今回の任務は私が成り行きを見誤ったんだ。混血児ヤマトボーイがあそこまで派手にやるとは予想外だったし、八咫筆頭家のご令嬢とも剣呑な雰囲気になってしまった。始末書だけで済むといいんだけどなあ」


 言葉とは裏腹に、オズワルドは後ろ手に杖を振り子のように揺らしながら鼻歌でも歌うように顎先を上げる。オリヴィアは苦笑して言った。

 

「始末書はあたしが書くわ。弟の監督任務はもともとあたしの仕事だもの、責任はとらせて」

「強引に代わってくれと言ったのは私だ」

「気を使ってくれたんでしょう」


 そこでオズワルドがにやりと犬歯を覗かせたので、オリヴィアははっと息を呑む。杖を弾ませて三歩前に出た少年の、コートの裾が軽やかにはためく。

 

「さっき辺りをぐるりとしてきたが、他のヴァンパイアの気配がちらついていた。おそらくミルズのコミュニティの者だろう。あの現場を見ていたとすれば、いずれ報復に来るだろうね。赤子もろとも妊婦を惨殺したのハンターに」


 オリヴィアの足が止まる。橋を渡ろうと石段を先に行くオズワルドは彼女がついてこないことに気づき、振り返った。青い目に映る女性は唇を噛んでいた。


「だから任務を代わったの。最初から自分でやるつもりだったのね」


 怒りすら滲んだ苦渋の声をオズワルドはまたも睫毛で払い除ける。


「私はただ後輩の初任務が気になっただけだよ」

「どうして憎まれ役になろうとするの」

「妊婦殺しだなんて新人の初陣には酷だろう」

「それが仕事よ、あの子ができなくたってあたしが」

「貴女にはなおのことさせられない」

「あたしはハンターよ!」

「オリヴィア」


 その革靴は石段を跳ね、オリヴィアとの距離を一瞬で詰める。その手はまるで清廉の水面に触れるように、そっとオリヴィアの腹部に触れた。動揺を隠せない赤銅色の瞳を宥めるように、オズワルドは穏やかに微笑み、首を横に振る。


「すべて私のエゴなんだ。今回の任務を代わったことも、レイヴンにいることも、母親と赤ん坊を手にかけたことも、気高く美しいひとりの女性と別れたことだって。情なんてあたたかいものじゃない、ただの臆病な自己満足だよ。だからせめて格好をつけさせて」


 空色に見つめられて威勢を削がれたオリヴィアは、眉を寄せ、目頭に力を入れた。オズワルドが離れるであろうことを見越して、その前に彼の手ごと自身の下腹部を両手でおさえつける。少しだけ目を見開いたオズワルドを、オリヴィアの赤銅色のひとみが捕らえる。


「だからって、あなたがひとりで背負うことはないわ」


 絞り出された言葉を味わうように、そのまなざしを優しく断つように、オズワルドはゆっくりと瞬きをした。再び首を横に振り、彼は悲しそうに微笑んだ。


「私はひとりがいい」

 


 ――革靴が地面を蹴ったかと思うと、少年の体はオリヴィアの手をすり抜け、すでに橋の欄干の上にあった。黒い背中が綱渡りをするかのように歩を進め、中腹でぴたりと止まる。靴底が柵を踏み鳴らタップした音だけを残し、彼は向かいの街灯の上に屹立した。その視線はまっすぐ、寂れた住宅地のはるか先へと向けられている。目的を定めた鴉のごときその姿を、オリヴィアは眩しく見上げた。


「どこへ行くの?」


 オズワルドは声だけで返す。


「シドのところ」


 オリヴィアはなおも見つめる。


「殺すのね」


 オズワルドはオリヴィアを見た。

 

「必ず戻ると約束したんだ」


 オリヴィアは慈しみをこめた微笑みでオズワルドを見つめた。


「あなたのそういうところが好きだった」

 

 オズワルドは悲しげな微笑みを返した。

 わずかの揺らぎも曇りもない寛漠とした明けの空、しかしそれこそが彼という孤独の姿だった。


 黒杖がくうを切る音がして、次の瞬間には少年の姿はそこになかった。

 閑散とした街並み、物言わぬアスファルト、死んだように生きる屋根に切り取られた空が暮れてゆく。

 オリヴィアは息を吸い込んだ。黴と埃の中に、微かに血の匂いが混じっていた。


「さようなら、ヴァンパイアハンター」









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