第7話

「おかえりーっ」


 薫が家に帰ったとき、そんな声が聞こえたものだから、薫はとっさに顔をしかめた。靴を乱暴に脱ぎ散らかして、憂鬱でできた雲が心をどんより覆っていくのを感じながら、リビングへつながるドアを開ける。きちんと戸締まりして明かりも消したはずなのに、オレンジの電灯が漏れ出ていた。


「帰ってたの。母さんも、父さんも」

「あら。LINEはちゃんと入れたわよ。あなたが既読つけなかったんじゃない」

「出かけてたんだよ」

「女とか? おまえも隅には置けんなぁ」

「……父さんが思うような関係じゃないよ」


 焦げ茶色のダイニングテーブルには、アサヒの生ジョッキ缶や、キリンのクラシックラガーなどのビール缶が散乱して、ぷぅんと酒臭い匂いが充満していた。薫は思わず鼻をつまむ。無精髭をぼそぼそ生やした父は頬を赤くして、何が面白いのか腹を揺らして笑い、その反対側で母が細い体をテーブルに投げ出したままライチ味のほろよいを傾けている。そのせいか母の顔の下には何とも知れぬ水溜りがあった。

 薫はため息をついた。長時間労働のストレスを飛ばすために酒盛りするのは大変結構だが、絶対におれは片付けはしない、と心に決めて、二階にあがろうとした。


「千隼はぁ?」


 思わず足をとめた。

 ぺったりテーブルに頬をつけて笑っている母は、再度大声をあげた。


「千隼はどこにいるのお」

「何言ってんだよ、千隼は東京だろう?」


 父はまだ酒に溺れきってないようで、理性的な声で母をなだめていた。それに母が何かぼそぼそと返し、また酒をあおっている。

 薫は目を伏せ、母の言葉を振り払うように大股で階段をのぼった。




 階段をのぼってすぐ右の部屋は兄の自室だった。八年も歳が離れていて、幼いころはヒヨコのように兄について回ったのを覚えている。兄もそんな弟を邪険にせず、膝に乗せて兄の好きな音楽を聞かしてくれた。

 兄は洋楽……というよりアヴィーチーが好きだった。アヴィーチーはすごいんだ、楽しくなるような曲調なのに、和訳を見てみると深いんだ、ダンス・ミュージックって枠を超しているんだと潤んだ目で熱弁を振るい、おれは小遣いを貯めてアヴィーチーのCDを買うんだ、と楽しそうに語ったり、彼の訃報が全世界に発信されたときには家を飛び出して三日も帰ってこなかったりした。

 それから兄が帰ってきたのは雨の日のことで、傘もささずずぶ濡れになって、冷たい指でインターホンを押していた。しとしとと厳かに降る、天の涙のような雨だった。顔を真っ青にして、仕事も休んで兄の消息に気を揉んでいた両親は、兄が帰ってきたとなるとすっ飛んで迎え、


 ――どこへ行っていたの、何をしていたの。


 と口泡を飛ばして訊くと、


 ――漫喫でずっとアヴィーチーの曲を聞いていた。


 と、淡々と言っていた。絶望が骨の髄に染み込んだような姿で、吹奏楽部でチューバを吹いていた、あんなに大きかった背中が、二回りも縮んだように見えたものだ。


(……懐かしいな)


 兄、千隼の部屋に入るのは久々だった。薫は後ろ手に、なるべく音を立てないようドアをしめ、部屋を見渡す。兄がいなくなった部屋はむごいほどがらんとしていて、家具たちがまるで光を失ったように黙然と佇んでいた。

 壁に貼ってあったポスターの跡。その手前の勉強机は鉛筆やシャーペンで落書きした跡がこすれて黒くなっていた。勉強机についてきた本棚は空っぽだが、本来は中古のCDがぎっちり詰まっていた。ベッドがあった跡、ゴミ箱、好きなバンドのTシャツばっかりが入っていたクローゼット……。

 薫は夢を見ているような心地で一歩ずつ電灯をつけた部屋を進む。

 昔は、薫をよく部屋に入れてくれては、漫画を交換し合ったり、高校やら大学やらに受かったときはまずお互いの部屋に飛び込んだりした。千隼はバケツのポップコーンが好きで、それを買っては薫を部屋に呼び、ネットフリックスで一緒に映画を見してくれた。


(高校生までは、あんなにバイトして、お金貯めてはクラブに行って、最前列を陣取って、DJと盛りあがってきたなんて、めちゃくちゃ汗かいて言ってたのに……)


 なんだかかなしくなって、薫は遺品のような勉強机をなで、その下に潜り込んだ。暗くて狭くて落ち着く、兄弟の隠れ場所。

 ほんとうにできた兄だった。それがいつしか、大学生の千隼にとって、クラブハウスは音楽を爆音で聞いて魂の叫びを放つ場所ではなく、ただのナンパスポットと化してしまった。薫を部屋には入れてくれなくなり、入れば眦を吊り上げて怒鳴ってきた。引き出しにはコンドームがしまってあって、夜な夜な薫がいるというのに臆面もなく喘ぎ声が聞こえることがあった。

 結局、兄は長年夢見てきた音楽関係の仕事ではなく、広告代理店に就職して、さっさと引きあげるように東京へ引っ越してしまった。


 ――何だよ、これ。


 大きな真っ黒のスーツケースを片手に、千隼は薫の渡したものをつまんだ。値踏みするようにじろじろながめていた。


 ――餞別。ブルートゥースイヤホン。ほしいって言ってたでしょ。

 ――デザインのセンスはいいけど、おまえが買ったのか。

 ――……そうだけど。


 千隼は鼻を鳴らして、スーツケースに乱暴に詰め込むと、剣呑な目つきで薫をにらんだ。


 ――性能よくないだろ、これ。もうちょいもの選べよ。


 それが、松坂兄弟の最後の会話だった。……それ以降、大晦日にも、お正月にも、お盆にも帰ってきていない。千隼に言わせれば「仕事が忙しくてそんな暇ない」のだそうだ。


 ふと、薫は(兄さんの〈祝福〉ってどんなだろう)と思った。もちろん、千隼は〈祝福〉をアヴィーチーに注いでいただろう。海を越えて、遠い異国の地で息をしていわた、何千万人にも愛されたDJに。しかし、その〈祝福〉のいずれもが、彼を救えなかった。アヴィーチーは自殺したのだ。

 真っ白な天井を、勉強机の下からながめる。

 愛を視れる。可視化できる。

 薫が喉から手が出るほどほしいその能力は、アヴィーチーには必要ないのかもしれない。むしろ、ゴタゴタとうるさいくらいに飾ったクリスマスツリーみたいな自分の姿……美しいはずの〈祝福〉たち……に、プレッシャーを感じたかもしれない。もしかしたら、死期を早めたのかもしれない。薫はアヴィーチーに詳しくなく、千隼に聞いたら「アヴィーチーはプレッシャーに圧死したんじゃなく、平和のない心に絶望して死んだんだ」と鼻で笑いそうだが、それが真実かは誰にもわからない。死人に口はない。


(……〈祝福〉なんて、ただの飾りなのかもしれない)


 一瞬、そう思って、薫はため息をついて顔を覆った。薄暗い勉強机の下で、膝を抱いてうずくまる。

 たとえそうだとしても、薫は〈祝福〉を見たかった。

 愛の証を目で確かめたかったのだ。

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