第8話

 最近、一色夕里がうすくなっているような気がする。


 あの日の黒い〈祝福〉事件以来、薫はコンビニに行っていなかった。「合わせる顔がなかった」というのが一番の理由なのに、席が近くだとどうしても顔を合わせることとなる。目が合うたび、夕里はぎこちない笑みを返してくれたが、薫は気まずそうに目をそらすだけだった。謝ることもできず、話すことすらなく、やたら声がでかいが面白い授業をする英語の先生だけを楽しみに学校へ通う。


 夕里は薫の前の席だったから、視線を感じさせないように、俯瞰しながら夕里をながめていた。それで気づいたのだ。

 ――夕里はたまに透明になる。

 窓から差し込む透明な日光に、溶けるように、微睡むようにうすくなって、また霞が人間の姿を取っているみたいにするっと戻ると、ノートに何か熱心に書き込む。そしてまた、輪郭が曖昧になって、ぼんやりと色素がうすくなり、存在が霞が散るようになくなっていく……と思ったら、しゃんと背筋を伸ばした夕里が突然現れる。


 最初はあんまりにも動転して、授業がまったく手につかず、凝視するように夕里を観察したり、指を伸ばしてちょんと背中をつつこうとしたら、うすくなっている間は実体がなく、触れられないということが判明したりした。

 薫はぞっとした。……いつか、夕里がふっとなくなって消えてしまう日が来るのだろうか。しかし、どうしてこんなことになっているのだろう?


(ひとならざるものに、なろうとしてんのかな……)


 ベージュ色のカーテンがはためいて、それが夕里を貫通するときがある。黒く豊かな髪がなびかずに霧散し、また戻って、ひとのかたちを織る。黒板にチョークをすべらせる数学教師。白い蛍光灯。黒い制服を着た夕里。


「大丈夫?」


 そしてとうとう、薫は夕里に話しかけた。

 夕里は家から持ってきたお弁当を食べていた。ハンバーグと鮭ご飯と、きんぴらごぼうがあるお弁当。きょとんとした顔で薫を見上げている。


「何が?」

「……一色、たまにうすくなってる。輪郭がぼやけるっていうか……」

「あぁ」


 夕里は納得したように頷いて、花がほころぶように笑った。


「最近、たまにあるの」

「大丈夫なの?」

「……わからないわ」


 さあっと風が吹く外を、夕里は窓越しに見る。


「でも、呼ばれている気がするの」

「誰に?」

「誰かに。……でも、人間でもない気がするの」


 ふしぎね、と夕里は儚げにため息をついた。

 やはり、夕里はひとじゃないものに成ろうとしているのではないだろうか。芋虫が蛹になって、蝶になろうとしているかのように……夕里へ進化を促し、そして人類から夕里を奪う。


(一色は、何になるんだろう)


 精霊だろうか。神だろうか。それともひとのかたちをした〈祝福〉になって、守護霊のように誰かに取り憑いたりするのだろうか。誰かに、何かに。

 お弁当をくるんでいた布をほどいて、箸でご飯を食べている夕里は、ただの高校生の少女にしか見えなくて、俗世的で、これから神聖なものに成ろうとする人間には見えなかった。

 長いまつ毛が影を落としている。頬にご飯を詰め込んで、おいしそうに夕里は食べている。



「一色?」


 識は眉をひそめ、何かを言おうとして……「あぁ」と、つっかえていたものが取れたような顔をした。


「一色ね、はいはい。知ってる知ってる。おれらのクラスのひとでしょ」

「それ以外誰がいるの」


 六限が終わった帰り道を、識といっしょにたどっていると、識は肩をすくめた。

 帰り道にあるけやきの道は緑陰に守られていて、夏場でもすずしかった。もうすぐ八月になる昨今では、セミがあちこちでジーワジーワと鳴いて、汗がアスファルトに染みをつくり、強い日光が刺すように降っている。


「や、一瞬思い出せなかったんだよな」

「一色を? 嘘でしょ。識は美人だけはぜったい忘れないのに」

「マジでそれだけには自信あんだけど、思い出せなかった。まぁ影薄いひとだしな」


 識がそう言って片付け、そういやどこそこのブランドの新作がと話し始めた。

 薫は適当に相槌を打ちつつも、背筋に冷や汗が流れていた。……識が夕里を忘れている? まさか。コンビニで初めて見かけたときは、識がまっさきに気づいたのに。


(記憶がなくなっているのは、一色がもうすぐ消えるから?)


 ただの偶然ならばいい。識が暑さにやられているだけならば、杞憂で済む。

 でも、薫はいやな予感がとまらなかった。目尻が引き攣り、指先が冷たくなる。……夕里が名実ともに消えてしまう。そんなことは避けなければ。


――嫌よ!


 雷鳴のように、脳天に夕里のかつての叫びが蘇った。


――もう嫌。松坂くん、気づいてる? あなたから黒い〈祝福〉がわたしに降ってきているの。


 心臓が凍りついた。識に愛想笑いができなくて、突然真顔になった薫を、識はふしぎそうにながめている。


――あなたはどうして、いつも孤独そうな顔をしているの……。


(……おれは、孤独なのか?)


 たくさんの〈祝福〉にあふれていると聞き、何度も〈祝福〉のある世界を見た。世界は愛にあふれている。優しくて綺麗な気持ちになれる世界。夕里は、あの世界を見れるからあんなに優しくたおやかで在れるのだ。そう思っていた。


(おれは、恒久的に〈祝福〉が見れなければ、ずっと孤独でさみしいままなのか)


 だから、あれほど〈祝福〉のある世界を望んでいたのだろうか。

 しかし……と、薫は首を振る。薫は友達がたくさんいる。識もいるし、学校にだって行けば友達もいる。大人数でダラッと遊びに行くことも多々ある。多分、友達は夕里以上にいるはずだ。ずっとひとりでいる夕里。窓辺に座って、ふしぎちゃんと言われながら絵を描く夕里。


(……孤独なのは一色のほうだ)


 でも、夕里はそうは感じさせなかった。

 なぜだろう。薫はなぜあんなにも〈祝福〉のある世界を望み、愛は足りているのに愛の証を望んでいるのだろう。


(……わからない……)


 わからないまま終わるのは嫌だった。

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