第12話 天敵と助っ人

「一命はとりとめられました。もちろんまだ安静は必要ですが」


 医師の言った言葉が頭にしみこんできて、とりあえずあかねはほうっとため息をついた。酸素濃度が変わっていないのに、さっきより呼吸が楽にできる。陸斗りくとも肩の力を緩めた様子で、その場の空気が少し軽くなった。


 しかし、医師の表情は固く、銀縁の眼鏡の奥にある瞳が揺れている。茜がそれに気付いた時、彼は口火を切った。


「……ですが、入院の際に薬剤師が持参薬をチェックした際、妙なことに気付きまして。徳三とくぞう氏に、私が心臓の薬を処方していたことは皆様ご存じかと思いますが」


 茜と陸斗はうなずいた。深刻な病状ではないが徳三は不整脈の気があり、時々動悸があった時には薬を飲んでいた。


「その心臓の薬が、高い含有のものに変わっていたんです。不整脈の治療薬は取り過ぎたり合わなかったりすると、かえって心臓の調子を狂わせるものなんですが……誰かが意図的にすりかえたとすると、殺人未遂であるる可能性もあるのではと思っています」

「誰がそんなことを」


 徳三は無茶苦茶なこともするが、人に危害を加えられるほど恨まれているとは思えなかった。しかもこんな陰湿な手段で。


「まさか」


 千春ちはるのせいでは、という言葉を茜はかろうじて飲みこんだ。千春が徳三にやすやすと近づけたとは思えない。しかし、やりかねないという思いはいつまでも消えなかった。


「茜、どうした?」

「なんでもない。先生、話の腰を折って申し訳ありません」


 茜にうながされて、主治医は話を引き取った。


「……まだ警察には相談していませんが、どうなさいますか」

「もちろん、正式な捜査を要求します。血液検査の結果や、錠剤の現物がありましたら是非警察への提供をお願いしたい」

「分かりました。検査は少し時間がかかりますが、現物の確保は可能です。薬剤部に申しつけておきましょう。……入院中、徳三氏は確実に我々が守ります」

「よろしくお願いします」


 深々と頭を下げる陸斗の隣で、茜は自分がどうすればいいのか考えていた。そしてふと、一人の男の顔が思い浮かぶ。




 手は打った。しかし、週末までは普通に仕事をしなければならない。


 茜が眠い目をこすりながら出社すると、西園寺さいおんじから出来れば会いたいとメッセージが入った。なんだろうと首をかしげたが、とりあえず指定の場所に出向く。


 相変わらず西園寺の顔に動揺の色はなく、千春もまだ尻尾を見せていないようだった。


「用事って何?」


「一応、今後の和菓子プロジェクトの動きを説明しておこうと思って。アジア地区最大の、食品と飲料の展示会が一ヶ月後に東京で開催されます」


 それなら、茜も知人から聞いていて知っていた。日本を代表する展示会の一つで、実行委員には超有名企業が軒を連ねる。参加者は日本国内にとどまらず、昨年は世界から約六十カ国の参加があったという。


 商談目当てで接触してくる場合も多く、マイナーなメーカーが大手企業と繋がりをもったり、日本の食品を海外に輸出する良い足がかりになっていると聞いた。確かに、西園寺の最終目的と一致した展示会である。


「それなら知ってるけど、毎年三月開催じゃなかった?」

「今年はいつもの会場が改修工事だったようで、例外的に開催が遅れて六月になってしまったと聞きました。ということで、まだ終わってないんです」


 茜はその説明で一旦納得したが、思い直した。


「それにしたって良く間に合ったわね。こういうのって、申し込みは相当前に締め切るでしょ?」

「実は去年の段階から出展の申し込みはしてたし、会社も作って動かしてたんです。あとはバイヤーさんの目に適うものができるかだな、と思ってたんですが……神月こうづきさんと高峯たかみねさんの協力のおかげで、そっちもなんとかなりそうですし」


 今まで作った菓子の中から、何点か出してみたいと言われ、茜は許可した。高峯も嫌だとは言わないだろう。


「神月さん……お父様の具合はいかがですか? 良くなられてるといいんですが」

「生きてはいるんだけど、まだ全然動けない状態でね。予断を許さないと主治医に言われたわ」

「じゃあ、今は何をおいてもお父様優先ですね。大変でしょう」

「入院してるから、家族がやることはあまりないんだけどね。病人はただ寝てるだけで、面会もできないし」


 慰めてくれる西園寺に、茜は笑いかけた。


「作業は僕と、集まってくれたスタッフで進めます。気軽にスペースに入ってもらえるよう、レイアウトも華やかなものにしようと思ってます。他には、ホームページのリニューアルやSNSの開設も本格始動しました」


 そこまで話してから、西園寺は茜の方をちらっとうかがった。


「気を悪くしないでもらいたいんですが……もし良かったら、当日覗くだけでも来て下さい」

「構わないわよ、その時は案内よろしく。こっちこそ、身内のことで騒がせてごめんね」


 茜がうなずくと、西園寺は品の良い笑みを浮かべ、下のフロアに戻っていった。


 本来なら、二人で喜びながら出向くはずだった。頑張って商品をそろえ、アピールの方法を考え、協力して成功させるはずだった。それなのに、その機会を丸ごと奪われたことで、茜の怒りにいっそう火がつく。


 週末、会う相手にどの程度話していいのか迷っている部分はあった。しかし今、全てを明かしてやる決心がつく。──毒を食らわば皿まで、という言葉は、この時の茜にぴったりなものだった。




 この男と二人で会うことなどあり得ない。そう思っていた男と、茜は今、藤波ふじなみのレストランの個室で向かい合っている。そして、包み隠さず今までの事情を説明した。


「いや、私的な相談と言うから何かと思えば……お嬢さん面白いネタを持ってくるじゃないですか。こりゃ、つつきがいがありそうだ」


 そう言いながら面白そうにメモをとっているのは、「なんで?」とも言わずに飛びついてきた水沢みずさわだった。彼の目は、ゲスな喜びで輝いている。


「言っておくけど、下手をうったらあなたの存在ごと消されかねない相手ですよ。そこのところは、承知していると考えていいですか」


 茜がにらむと、水沢はわざとらしく肩をすくめてみせた。


「警告のつもりですか? あいにくブンヤってのは、ニュースになるなら他のことなんて怖くない人種なんですよ」


 あっさり笑いながら選択してみせる彼を空恐ろしく感じる気持ちはあったが、茜はうなずいてみせた。


 ──相手に対して容赦なく戦うのなら、この男は役に立つ。その変わりなさに、かえって安堵すらしていた。問題は裏切らないか、という一点なのだが。


「これからやってみようと思っていることはあるの?」

「親父さんの薬の管理をしてた奴に会いたいですが、できますかね。重要人物でしょ」

「蒲田に相談してみるわ。でも、もう姿を消してるかもしれないわよ」

「あちこち動くのは慣れてます。大丈夫、必ず痕跡を見つけてみせますよ。それと、他の関係者にも話を聞きたいんですが……屋敷のいろんなところに行っても怪しまれない方法ってありませんかねえ」

「なんとか手を打つわ」


 お世辞にも人が良さそうとは言えない風貌の水沢を見ながら、茜はため息をついた。


「そうなると、僕もしゃべり方をちょっと考えなきゃなあ」

「……なんになりすますにせよ、めったにないほど失礼な人間だと言っておくから大丈夫よ」


 茜がゴミを見るような目になっているのに気づき、水沢は爆笑した。


「そこまで言いますか。面白いお嬢さんだなあ」

「事実でしょ」

「じゃあゲスな人間として再度言っときますが、約束は守ってくださいよ。見つけ出したらうちの独占スクープと、僕個人への報奨金」

「あなたと違って約束は必ず守ります。心配しないでさっさと行ってらっしゃい」


 茜が犬を追い払うように手を振ると、水沢は軽い足取りで店を出ていった。茜は椅子に座り直して、もう一人の客を待つ。


「やあ、茜さん」


 現れた一橋ひとつばしは、趣味の良い濃鉄色のジャケットと、麻のスラックス姿だった。ベルトの金具にも細かい蔦の模様が入っていて、小物にも手を抜いていない。さっきの水沢が首の伸びたTシャツにくたびれたジーンズだったから、室内の空気までも入れ替わったように感じた。


「水沢は出て行きました?」

「ああ。見覚えのある顔が、あたふた走っていったよ。ずいぶん楽しそうにしてたなあ。こっちには気付いてないと思うから、安心して」


 しばらく茜は一橋の顔を見つめ、うなずいた。そして小さい声で言う。


「人の監視なんて頼まれるの初めてだな。じろじろ見ないようにするのが大変だったよ。今尾行してるのは、プロの探偵だから問題ないと思うけど」


 茜は一橋に、水沢の監視を依頼していた。こちらの予想通り動いてくれればそれでよし、裏切ったとなれば早々に舞台から退場いただく予定だ。


「……間違いがあってはなりませんので。もし向こうがより多くの報酬を提示した場合、あの男が転ばないなんて奇跡は期待してません」


 西園寺家が全てを承諾するとは限らないが、千春が動かせる予算と人員はかなりあると見て間違いない。水沢は口ぶりだけはいっぱしの記者だが、一生遊んで暮らせる金をやるとでも言われたらホイホイ乗ることなど容易に想像できた。


「……変な連中が襲ってくるかもしれません。道中は常に複数で行動なさった方が、身のためかと」


 一橋はそれを聞いてうなずく。


「ああ、陸斗からも気をつけるよう言われてるよ」

「付き合いの古い一橋さんなら、間違いないと兄が言っていました。大変な仕事を押しつけますが、よろしくお願いします」


 茜が頭を下げると、一橋は照れたように笑った。


「なんの、俺がやりたいからやってるのさ。父親を亡くしかけた二人に比べれば、何でもない。俺もおじさんには世話になったからね、手伝えることがあればまた申しつけてくれ」


 そう言ってくれる一橋に、茜は黙って頭を下げた。




 茜は屋敷に戻ってきた。これで大体の手配は終わったが、茜にはもう一つ考えなくてはならないことがあった。


「水沢がしばらく調査で屋敷に住んで、違和感をもたれにくい理由……ねえ」


 蒲田を交えて協議したが、結局使えそうな理由は一つしか思いつかなかった。


「こんなところに住めるようになるなんて、思いませんでしたよ」


 作戦開始の当日、水沢は相変わらず気の抜けた顔をしてやってきた。一応気を遣って新しいジャケットを着ているが、下半身がダメージジーンズに古いスニーカーなので全てが台無しである。


「君、そのとんでもない格好でお屋敷に入るつもりかね? どこの誰だ」


 当然、神月家の守衛は彼を呼び止める。すると水沢は、胸を張って自信たっぷりにこう答えた。


「ここの旦那様の隠し子で、ながれと言います! やっと家族と一緒に暮らせるようになって、嬉しいです!」

「なっ……何いっ!?」


 水沢が屈託なく言うと全員が目をむき、そして茜に本当かと問う視線を向けてくる。茜はため息をついてから、うなずいた。


「お父様が面会謝絶の状態だから、調査中ではあるけれどね。その可能性はあると言われているわ」


 その言葉を聞き、一同は驚愕で顔をひきつらせた。


「しばらく我が家で預かることになったから。みんな戸惑うと思うけど、最低限、食事と洗濯の世話くらいはしてあげて。後のことは自分でさせるから。この通りよ」


 茜が頭を下げると、一同はまだ固まっていたが、やがて諦めたように三々五々散っていった。


 しかし当然、不満と不安の波がなくなったわけではない。茜はその後、しばしば皆の元に足を運んで、水沢の評判を聞いてみた。


「……お嬢様、あの男、本当に実のご兄妹の可能性があるのですか? とても肉親とは思えないのですが……」

「行儀も悪いし、聞かなくていいことにやたらしつこいし。いくら場末で育っても、旦那様の子供があんな風になるなんて信じられません」

「若い給仕の中には、お尻を触られたという子までいるんですよ!」


 賑やかに茜の前で言う使用人たちに、茜は心の中で詫びるしかなかった。秘密の漏洩と、面倒なことになった場合の巻き添えを避けるため、本当のことは家中では陸斗と蒲田かわた植草うえくさしか知らない。


 それにしても、水沢のお坊ちゃまは期待していたより遥かにポンコツな出来だ。恐れていた事態──あまりにも不安が大きくなって、追い出さざるをえない──まで、そう遠くはない気がした。


「それでも、もうしばらく預かるわ。普通の人ならいいけど、あの性格でしょう? 始終見張っていないと、マスコミに何を言うか分からないし」


 茜は使用人たちの顔を見回した。


「さっきのセクハラのように、実害を受けた子がいたらすぐに報告して。どんな小さく思えることでもいいから、隠さないでね」


 茜は言って、なんとか使用人たちをなだめる。その夜蒲田と植草を呼び出して、ことの次第を報告した。


「……そうですか。どの子も今のところ黙々と仕事をしてくれていますが、不満は当然あるでしょう」


 蒲田が眉間に深い皺を刻んだ。植草も不安そうに茜を見る。


「お嬢様、これはもしかしたら失敗かもしれないという気がしてきましたよ、私」

「でも、これしかないでしょう。現に、『そう言われてみればそんな気も……』みたいな顔をしてた子もいたじゃない。仕事相手って言う方が無理があるし」

「とりあえず期間を区切りませんか。彼が調査を始めてもう二週間です。あと一週間たって何の成果も得られないようなら、一旦屋敷から退去いただいては」

「そうね」


 徳三を救いたいのは山々だが、それで家中が徹底的に壊れてしまっては意味がない。茜はその決定事項を告げるため、水沢に貸している部屋を訪れた。


「どうぞ」


 水沢はあっけなく茜を迎え入れる。この部屋に掃除の指示は出していないため、茜はゴミが散乱した部屋を想像していた。しかし室内にはもともとあった家具以外、目立った物が何もない。


「思ったより綺麗でびっくりしました? まあ、座ってくださいよ」


 水沢に思いを見透かされて、茜は一瞬うなだれた。その様子を見て、水沢が笑う。


「で、今日はなんの用です?」

「……あなたがここに来てから時間が経つから、どんなことを感じたか、つかんだことはあるのか聞こうと思って」


 茜はため息をついて椅子に座った。水沢はそうですね、と言いながら対面に腰掛ける。


「会社が破滅するかもしれんって時に、ここの人間はだいたい呑気だと思いましたね。屋台骨がご立派だとそうなるのかな」

「……呑気と言うならあなたもそうでしょう。いつまでもここにはいられないこと、分かっているの?」


 その言葉を聞いて、水沢は首を振った。妙に達観したようなその表情が気にかかって、茜は彼を見つめる。


「必要ありません。近いうちにここを出ます。聞くべきことは聞いたんで」


 茜は驚愕して小さく声をあげた。


「そんなに深いところまで調べてたの? いつの間に?」

「そりゃ、ネタのためなら何でもやりますよ。ブンヤの得意なとこですからね。企業秘密より、結果聞きたくないんですか?」


 茜はため息をついて、追求を諦めた。そして先を促す。


「いましたよ。思った通り、内部に食いこんでます」


 水沢は、それはそれは楽しそうな笑顔で──救いようのないことを言った。

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