第11話 大黒柱、折れる

あかねさん、大丈夫ですか?」


 一週間後、大使との面談の場で、西園寺さいおんじは真っ先にそう聞いてきた。


「大丈夫って?」

「ご実家のこと……だいぶニュースになってて。僕の我儘で引き込んでしまったようなものですから、無理にこちらに付き合っていただく必要はないんですよ」


 茜は改めて、西園寺の顔を見つめた。遠ざけようとして言っている様子はない。心底、案じてくれている表情だった。


 茜はそれを確認した後、しっかりとうなずく。


「心配してくれてありがとう。でも、行くわよ」


 西園寺の車の中で、茜はぽつぽつと語った。


「本来は私も製薬会社に関わるはずだったんだけどね……私、理系の授業がさっぱり分からなくて。だったら必要ないお飾りが一人増えるより専門家を雇った方が、って言って断ったのよ」


 そもそも茜はさっさと嫁に行くつもりだったので、家業にあまり食いこみたくなかったというのもある。しかしそんな気概はいつのまにか立ち消え、細々とした仕事をするようになっていったのだった。


「だから、会社で今何が起こってるかなんて全く分からない。誰が敵なのか味方なのか、見分けなんかつかない。だったら私は、自分で決めて自分で選んだ仕事をするわ」


 本当は西園寺に千春がやろうとしていることを全て打ち明けて、助けてくれと言いたい気分だ。だが、それをした時点で己の負けだということも、茜は悟っている。


 だから平気そうな顔をして、西園寺に向き直った。


「今はとりあえず放置ってとこね。だから私に聞いても、ニュース以上の情報は出てこないわよ」

「放置、ですか」

「そう。最低限どうなっているかは、蒲田かわたが教えてくれるし。どれだけかかるか分からないけど、いつかは終わるでしょう」


 茜が断言したのを見て、西園寺はうなずく。


「分かりました。お節介かもしれませんが、僕にできることがあれば言って下さい」

「……そのまま、いてくれればいいわ」

「え、なんて?」

「何でもないわ。もうすぐ着くわよ」


 茜の言葉に反応するように、車が止まる。窓から、こちらに向かって手を振っているベアトリーチェの姿が見えた。


「お二人とも、本日はありがとうございます。ご案内いたします」


 彼女に連れられてやってきた大使館は、一棟丸ごとの建物ではなく、オフィスビルの一室だった。


 やってきた大使に、茜と西園寺はそろって礼をした。


「ダヴィッド・トラーゼと申します。本日は私のためにご足労いただき、感謝しておりますよ」


 大使の喉から出てきた声は柔らかく、言葉は心地よく響いた。栗色の巻き毛の下で、大きくて少し垂れた目が笑っている。まず西園寺が大使と握手を交わした。


「こちらこそお会いできて光栄です。お互いの国の魅力を、存分に共有し合える時間にするよう、頑張ります」


 茜も挨拶し、自分より頭ひとつ大きなダヴィッド大使と握手をする。最初にダヴィッド大使から、自国のPRが短時間行われた。


「当初は珍しいオレンジワインでしたが、今は都内のレストランでも取り扱ってくださるようになりました。色々な料理に合いますので、是非ご賞味を」

「ワインには目がないので、教えてくださって助かります」

「おや、いける口でしたか。それでしたら、帰りに一本差し上げますのでお持ち帰りください。今日の和菓子のお礼ということで。……では、そろそろ肝心の和菓子を見せていただこうかな」


 ダヴィッド大使の言葉にうなずき、茜は持ってきた和菓子の包装を解いてみせた。中から出てきた和菓子を見た途端、大使は目を輝かせる。


「これは美味しそうだ。どれからいただけばいいのかな?」

「厳密に決まっているわけではないですが、葡萄のお菓子が一番さっぱりしていますので……できればその丸いお菓子からどうぞ」


 ダヴィッド大使は微笑みながら、言われた通りにした。


「うん、これは美味しい。葡萄の果汁を使った干錦玉ほしきんぎょくかな?」


 一言でずばり当てられて、茜と西園寺は驚愕した。


「どうしました?」

「い、いえ。まさかその菓子名まで当てられるとは思っていなくて。日本人でも知らない人はいるかと……」


 西園寺の言葉を聞いて、ダヴィッド大使は楽しそうに笑った。


「私は昔、日本の商社にいましてね。何年も生活するうちに、和食や和菓子にも慣れました。今はお餅や餡も平気なんですよ」

「そうでしたか」


 茜には西園寺の考えていることが、ありありと分かった。やっぱり柏餅も持ってくれば良かった、と思っているに違いない。


「でも、考え方は悪くないと思いますよ。私だって実家に帰るときは、洋菓子や駄菓子をお土産にしますからね。では、次のお菓子を」


 バームクーヘンわらび餅も、チーズ餡パンもダヴィッド大使はぺろりと平らげた。そして水を飲んでから、口を開く。


「いや、実に美味しかった。これが売っていたら、ぜひお土産に母国へ持って帰りたいですよ」

「もったいないお言葉、ありがとうございます。これからも努力して参りますので、よろしくお願いします」


 茜と西園寺はそろって頭を下げた。大使の言葉はもちろん、この場を設定したベアトリーチェが満足そうに微笑んでいるのもまた、二人にとっては嬉しい。


「是非、実際に我が国に来ていただきたいな。まだまだ、ご紹介したいものがたくさんあります。そのために必要なことがありましたら、協力しますから」

「はい、いつかきっと。綺麗な国だと伺っていますので」


 茜たちは腰を浮かせ、いったん解散の空気が流れた。しかしそれを切り裂くように、大使の声が響く。


「あなたは神月こうづきさんと言いましたね。気を悪くされたら申し訳ないのですが──もしや、あの渦中の神月製薬のご関係者ですか」


 茜は一瞬身構えたが、ダヴィッド大使の声に含むものはなさそうだった。茜はため息をついてから答える。


「はい……とんでもないことで。まだ誰がやったかは分かりませんが、さぞ呆れておいででしょう」

「いいえ、そんなことは。次々事件が起こって、お疲れでしょう。ご家族をいたわってさしあげてください。事態を漠然としか知りませんので、これ以上のことは言えないのですが」

「お気持ちだけで十分です。とにかく、健康被害だけは出さないように各部門、努力して参ります」


 助けて欲しい、という気持ちはあったが、茜はそれを押し殺した。なんでもない、という顔をしてみせる。


 しかしダヴィッド大使は疑うように、わずかに眉間に皺を寄せる。見透かされたことを悟った茜は、息を吐いた。


「いえ……本当のことを言うと、何も力になれない自分が情けなく、悔しいという気持ちは確かにあります」


 茜は自分と会社との関わりを簡潔に語る。ダヴィッド大使もベアトリーチェも、黙って茜の話を聞いてくれていた。


「なので、私は見ているしかできないんです。ここから会社を立て直すのも大変でしょうし、何かしたいんですけれど……結局できることはなくて」


 ダヴィッド大使はその言葉を聞いて、ふと考え込んだ。


「個人的に相談されたと思ってお答えしましょう。これからの言葉に、公的な意味は一切ありませんのでそのつもりで」


 大使に見据えられて、茜はうなずく。


「確かに、その状況だとあなたの家はうまくはめられたように見えます。しかし、人がやる工作に全く痕跡を残さないことは不可能。あなたも独自に、密告者やその手勢がどんな人物か探ってみてはどうでしょうか」


 茜は思わず首をかしげた。


「……青二才の私には、荷が重いことのように思えますが」

「落ち着いて考えてみてください。情報は現代において大きな武器です。知っていると知らないの間には、とても大きな溝がある。私がSNSをやっているのもそのためですよ。至急なんとかできるような魔法は存在しないでしょうが、うまい方法がきっとあります」


 まだよく分からない茜に、ダヴィッド大使は重ねて言う。


「お父様がしっかり束ねておられるため、家内は団結していると思います。不祥事は誤魔化さず事にあたれば、きっと乗り越えられる。しかし悪意を持つ人物を見つけなければ、同じ事の繰り返しです。違いますか?」

「はい……私なりに、知り合いはいますが……それを活用すれば、勝機があるとお思いですか?」


 ダヴィッド大使はそれを聞いてうなずいた。


「できますよ。あなたには力がある」


 その言葉は、不思議と茜のしかめていた顔をほどいた。


 どんな壁も、超える手段はあるはずだ。それを見つけるまで、相手の思惑に流されて、自分を見失うようなことだけは絶対にしない。茜がプロジェクトを成功させることが、向こうに一番こたえるのは間違いないのだから。


「ありがとうございました。この件が解決したら、必ずご報告にあがります」


 茜は深く一礼する。見ると、横の西園寺も同じくらい深い礼をしていた。




「お嬢様、お帰りなさいませ。お仕事はいかがでしたか?」

「大使が良い方でね、終始和やかだったわ。西園寺くんも喜んでた」

「それはようございました。お茶を入れましょうか」

「お願いするわ」


 茜は仕事着のままソファに腰を下ろし、少し襟元をゆるめる。


 部屋はまだ空で、他の家族の姿は見えなかった。聞けば陸斗りくとは今空港に着いたところで、こちらに向かっているという。


「お父様はまだ戻ってないのね……一応、ニュースで第三者委員会が組織されたっていうのは聞いたんだけど」

「はい。こちらにも詳しい動向は届いておりません。もうすぐ定時連絡をくださることになっていますから、その時分かるでしょう。それまでゆっくりお休みください」


 忙しくて、頻繁に電話に触ることもできないのだろう。それだけ話が進んでいるのなら良いことだ。茜も最初はそう思っていたが、予定時間を一時間過ぎても連絡がないと、さすがに心配になってきた。


「どうしたのかしら」


 蒲田の携帯にも陸斗にも知らせがない。一応茜の携帯も確認してみたが、着信の類いは一切なかった。


「電波障害か何か? 工場は町から離れたところにある場合も多いし」

「それにしてもおかしいですね。大事な連絡を欠かされたことは、一度もなかったのですが……これは、こちらから人を向かわせた方がよいのかもしれません。電話で陸斗様とも相談してみます」


 蒲田はそう言って部屋を出ていった。茜はテレビのニュースをチェックしてみたが、目立った動きは報道されていない。


 しばしニュースを見てから振りかえると、困惑した顔の蒲田が立っていた。どうした、と言う茜の問いに、一瞬口ごもってから彼はこう答える。


「旦那様が会社から姿を消した、と報告がありました。今、人員を割いて探しているようですが……」


 茜は思わず持っていた茶碗を取り落としそうになった。


 普段なら、仕事のどさくさに紛れて買い物をしてくることもある。しかし会社の危機である今このときに、そんな能天気なことをするとは思えなかった。


「……私も何かの間違いだと信じております。旦那様に限って、そんなことはありえません」


 顔をしかめる蒲田に、茜はかける言葉がなかった。


 それから事態を明らかにしようと、多くの神月家関係者が動いた。徳三とくぞうと面識がある人間には全て話を聞き、増員を入れて探した。それにもかかわらず、数時間徳三の行方は知れなかった。


 車をすっ飛ばして家まで駆けつけてきた陸斗も困惑し、どうしていいか分からない様子だった。


「……あの時以来だな、こんな状況は」


 陸斗が言わんとすることは茜にも分かった。たまきが事故で死んだとき。その時、情報が錯綜してさっぱり状況が分からなかった。兄は最悪の状況も覚悟しておけ、と暗に告げているのだ。


「どんな状況? 理解できないわよ」


 茜はそんなことにはならない、という意をこめて言い返す。陸斗はわずかに眉間に皺を寄せただけだった。


 結局ただ経過を見守るしかできず、時刻が夜中にさしかかった時──青い顔をした蒲田が室内に戻ってきた。


「お嬢様。旦那様が、市内の大学病院に救急搬送されたという報告が入りました」


 茜は体内から、急激に血液が失われていくような感覚をおぼえた。やはり、陸斗の言うことの方が正しかったということか。必死に自分が立てた理論を守ろうとした感情が逆撫でされ、茜は思わず叫んでいた。


「どういうこと? ちゃんと確認した話なの!? そんな、本当か嘘か分からない話を聞かせないでよ!!」


 さらに食い下がろうとした時、後ろから急に体を引き戻される。それで茜の頭が、少し冷えた。


「茜。気持ちは分かるが、落ち着け。今まで蒲田がいい加減なことを言ったことがあったか」

「……ごめんなさい。失礼な物言いだった」


 逆上してしまった自分を恥じ、茜は蒲田に謝罪した。そして改めて向き直る。


「急な事故なの?」

「いえ。出先で急に胸を押さえて苦しみ出され、通りすがりの方が呼んでくださった救急車で搬送されていました。幸い旦那様が名刺を所持されていたため、素性が分かってかかりつけ医のいる大学病院へ運ばれたそうです。必要な処置を終えるまで時間がかかり、今の連絡になったと……」


 蒲田の説明を聞いて、茜は息を吐いた。


「実際の病状は?」

「いえ、それはまだ。しかし、ご家族には至急お越し願いたい、とのことでした。すでに運転手には連絡してあります」


 それを聞くやいなや、茜は陸斗と一緒に家を飛び出した。車中の人となっても、窓をたたく冷たい雨が不吉の前触れのように思えて、茜の心臓はずっと激しく鳴っていた。


「……どうかお父様を救ってください、お母様」


 理不尽な運命に倒れた母に祈りながら、茜は病院までの時間をやり過ごした。




 親切に対応してくれた病院受付への礼もそこそこに言われた病室へ行ってみると、難しい顔をした神月家の主治医が立っていた。慌てて茜たちは彼のもとへ駆け寄る。悄然としたその顔を見て、茜は最悪の事態を予想した。


 とうとう間が持たなくなって、最初に陸斗が切り出した。


「父は……死んだのですか」

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