福島に来た理由

 町で一番大きいホテルのレストランに、持っている中ではフォーマルな制服の皺を無理矢理整えて、わたしは何を話せばいいかを考えていた。考えること自体、不誠実なことかもしれない、と、悩み、思考を切り、でもホテルのエントランスで真っ直ぐに立ちやがて来る人を待つ春子の背中を見れば気持ちは揺らぎ、落ち着かない。まっくろいジャパンタクシーが、止まった。後部のドアが開いた瞬間、頭を大きく下げる春子に気づき、わたしはタクシーから降りてくる姿を見定める。駅前の募金で顔を合わせ、僅かに「がんばってください」ぐらいの言葉を交わしたこともあっただろう。尼崎で、心臓手術を受けるはずだった男児の母である。募金は集まったものの、アメリカ渡航前に体調が悪化し、手術を受ける前に亡くなったことは、ニュースで遺影となった写真を抱えながら柔らかい口調で生前の様子を語る姿と共に覚えていた。「残念だな」ぐらいのことは思ったかもしれないけれど、わたしは高校生のおこづかいとして常識的な額しか募金していなかったし、大物YouTuberがその子の元を訪れると一気に募金が数億円入った吃驚もあり、ほんの少しの嫌な感情のほうが大きかったかもしれない。微かに残っていたその感情が、あったと気づくぐらい今は大きく広がり、その正体を見定めようとする。

 レストランには先に春子が入ってきた。春子はわたしの耳元で、

「勝手なことしてごめんね。でも、嫌だったら断ってくれていいし、それに、素直に夏美の気持ちを話してくれたらいいから」

 と早口で囁き、追ってレストランに入ってきた小母さんを迎え入れる。わたしも慌てて立ち上がり、春子に倣った後、数秒待って顔を上げると、穏やかな面持ちがそこにあった。あ、わたしはこの人を信じてもいい。そう直感した。

「三億円の件なんですけど」

 座るなり、注文をするよりも先に、小母さんは本題を切り出してきた。すっかり身に馴染んだ尼崎の人らしい、気風の良さだった。

「早いほうがいいと思うんですよ。私たちが遅かったとは思わないけど、結局、手術を受けるより前に体調が悪化して、もっと早ければよかった、という後悔はずっとあったし。それもあって、手術費用をなるべく早くお渡しできる方を探していたんです。冬馬くんも、いま体調が落ちてると聞いてますし、どこかで必ずまた回復してくると信じて、そのときにすぐ手術できるよう、手続きを始めたほうがいいと思います。私たちもできるかぎりお手伝いをしますし、お金のことは心配しなくてもいいんで。心臓手術は順番待ちもあるから、とにかく時間勝負というか」

 話が早い。気圧される。

 春子がわたしのほうを見遣り、頷いて、言葉を促そうとした。緊迫した雰囲気を察したのか、注文を取りに来たウェイターさんが丁寧な会釈を残して去っていった。

「えーと……」

 何を言えばいいんだ。

「あの、まずは、そうですね、ありがとうございます。あ、といっても、お金をいただきます、とかそういうことじゃなくって。あまりに大金なので、さすがに申し訳なさすぎるというか」

 と絞り出すと、言葉を被せるように、

「気にしなくていいのよ! 別に冬馬くんが特別ってことじゃなくって、心臓手術を受ける子で、すぐにお金をお渡しできる子がいれば、変な話だけれど、誰でもいいわけだから。特に冬馬くんは急を要してるわけだし。どちらにとってもいい話だと思うの。この件は、事務局内にもすでに通して、合意も取ってあるし、もともと支援者の方々にも『いただいたお金は心臓手術を受ける他の子に渡します』とは表明してあるから、なにも障害はないの。お金をお渡ししたあとに、ホームページでみなさんにご報告すれば、それだけで良いから」

 と言われ、誰でもいいのか、と思えば、それこそ変な話、ぐさ、と来る。続く言葉を言えないでいた。テーブルの下で、春子がわたしの手を握った。それは熱いぐらいで、わたしの手がひどく冷えていたのだと知る。

「結局のところ、夏美の気持ちの話、ということよね?」

 と言われた。わたしは、大きく頷いた。

「わたしは……」

 結局のところ、わたしの気持ちの話だと思えば、言葉にならなかったかもしれないけれど、言いたいことはあった。たぶん、すごくいっぱい、あった。

「冬馬が元気になれば、すごく嬉しいです。わたしの弟だし、それでなくても、わたしはたぶん冬馬のことがすごく好き、なんだと思う。けど、それは、みんな同じというか」

 ふっと息を吐いた。目の前に座る小母さんの、驚いたような表情が印象的だった。彼女は今度は口を挟まず、わたしの目をじっと見て、話を聞いてくれた。

「福島に来て、わたしは、すごくたくさんの人の命がここで失われたんだと知って、いまも、苦しんでるんだって知って、わたしは、わたしたちが、こんなふうに、イージーに、三億円なんていう大金をいただいて、幸せになっていいのかな。誰がそのことを許してくれる? 津波で亡くなった人たち、原発事故に影響を受けて自ら命を絶ったひとたち、心臓手術を受けられずに死んだ彼のことも、ほかにも心臓手術を待っている子どもたちのことも、たくさんの、きっと三億円があれば助かるだろう人たちのこと、すべてを踏みにじって、わたしたちが、救われるんだろうということは……」

 そこまで分かって、わたしはやっと分かった。ああわたしはこの三億円を、受け取りたくない、受け取れないんだなって。

 断ろう、と、思って、言葉を継ごうとした瞬間。

「ごめーん! おそくなって!」

 底抜けに明るい声が静寂を切り裂いた。レストランに入ってきたのは、愁香さんだった。

「春子ー! ひさしぶりー! 元気してた? ごめんね、遅くなって。ドラマがいいところでさ。あと、恋なんかさっさと連れて帰っちゃってよ。はっはっは。あれ、夏美、どうしたの、辛気くさい顔して。飲んでないの? あんなに酒好きなのに? あ、すいませーん」

 愁香さんはウェイターさんを呼び止めると、手早くビールの中ジョッキを四つ注文した。なんなんだ、このテンションは。しかも急いで出てきたのか、ブラジャーしてないじゃん。

「あ、このたびは、冬馬の心臓手術の費用をいただけるとのこと、助かります。ありがたく頂戴いたします」

 作り笑顔が貼りついた小母さんの姿に気づくと、愁香さんは大袈裟に頭を下げた。

「ちょっと、お母さん!」

 咄嗟に声を荒げる。

「なに考えてんの? 勝手に話進めないでよ。いまわたしが話してんじゃん。三億円だよ。お母さんの買ったしょうもない健康器具の話してんじゃないんだよ。だいたいいつもそう。身勝手。恋が福島に来たのも、けっきょくはお母さんのせいじゃん。それでわたしも追いかけてくるはめになってさ、それはそれでよかったけど。元はといえば、お母さんとか冬馬のこととか、わたしに話してくれてたらよかったじゃん。なんでこっちきていまさらドッキリしないといけないんだよ。わたし、もう高校生だよ。大学入って、人生もほぼ決まって、ふうやれやれってときに、じつはほかにお母さんと弟がいて、福島でひもじく暮らしてますとか、いまさら知らされるってなんの罰ゲームよ。だいたい……」

「はいカンパーイ!」

 ビールジョッキが運ばれてきて、愁香さんがわたしのに勢いよくぶつけてくると、泡が弾け飛んだ。潰してやる。愁香さんと先を争うようにジョッキを煽った。言いたいことを全部ぶちまけた。冬馬のことも、愁香さんのことも、春子のことも、恋のことも、わたしの人生のことも、何が一番大事かってことも、全部、自分で考えた。わたしが決めるんだ。だから、勝手であっていいんだ。酔った頭で、ふらふらになりながら、トイレでげえげえ唸りながらそう考えた。千鳥足で席に戻ると、愁香さんはテーブルにつっぷして寝ており、彼女の飲み残したビールを一気に飲み干すと、空のジョッキを机に叩きつけ、こう宣言した。

「三億円、ありがたく頂戴します」

 素面の時にまた返事ちょうだい、と笑われた。酔いが醒めても決して変わらないだろう。わたしの中に確かにある。この福島に来た理由だ。

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