弟のxxxx

 使い古されてそうなスタッドレスタイヤがミシュランマンみたく積まれたカーポートに夏を盛りと生い茂る雑草は、細っこい轍がふたつ剥げ山吹色の泥水が滞留しており、愁香さんと恋は車で出かけているらしいと教えてくれた。家に着いたら約束通りまず春子に電話しようと思い、三和土を上がってすぐのトイレ脇に色褪せたタウンページとともに据えられたアナクロなダイヤル式の卓上電話を確かめたが、現状まだ収穫がないため、リビングの一角で女性セブンの置き場と化していたばかでかいマッサージチェアの不器用な肩揉みに長旅の疲れを癒やされつつ、どっと訪れた眠気を持て余すように汗だくの靴下を脱いだ足の指で二進数を数えるように体操し、寄る辺ない思案を巡らせる。愁香さんと冬馬が暮らす家は、ユニット工法の没個性な平屋で、そんなに広くなさそうだ。十畳程度のウナギの寝床といったリビングに現代風のビルドイン食洗機もあるカウンターキッチンが繋がっており、隣に洗面所とお風呂場といった水回り。その反対側の引き戸は開けっ放しで、カラフルな骨のようなワイヤーハンガーたちが力なく懸垂する鴨居の向こう、わずか四畳半の和室が障子を透かしたクリーム色の薄明かりのなかに褪せた藺草を現している。たぶんその隣にも部屋があって、こっちは六畳ぐらいだろうか。手狭な2LDKという、ずいぶんささやかな暮らしである。というのを観察したのは、恋がもしここに越してくれば過ごす部屋が用意されているか確かめたかったからで、結果、ほっとしたし、明らかに万年床と思われる脱皮したての掛け布団にまだ体温が残ってそうなほど生活臭のある和室のほうはひどく散らかっており、引っ越しをする様子も今のところない。散らかりっぷりは、ここに向かう途中の電車内でわたしが見た夢によく似ていた。部屋の風景は心の風景によく似ているという。ここに恋を受け入れる余白はない。と感じたのは、愁香さんの心象なのか、わたしの心象がそう望んだだけか。ふたつはそう遠くないんじゃないか、と、いんちきな合わせ鏡の楽観視で、思ったより早く帰れるかもしれないな、といきなり前向きな気持ちになったとたん喉の渇きを思い出し、冬馬が意外と慣れた手捌きで用意してくれた薄いカルピスを氷ごと口に含む。冬馬は宿題をするからと怒ったように言って和室の隣の部屋に引っ込んでしまった。愛想のないガキだ。もっとこう、姉との対面を泣きながら喜ぶぐらいの可愛さはないのか。とはいえ、小学生なわけだし、まだ毛も生えてない男子だし、ここは人生の酸いも甘いも噛み分けた大人の女性であるわたしのほうから手を差し伸べてやるのが姉の責務であろうよ、と、やたら寛大になった心のまま、氷を奥歯で噛み砕きながら、メルカトル図法でグリーンランドのだだっ広い世界地図が画鋲で留めてある扉を素足で蹴飛ばした。

 甘酸っぱい匂いに顔を顰めた。わたしには古風なところがあり、彼氏の部屋に入ったことはないけれど、男友だちの部屋にみなで集まり麻雀なんかに興じたことは何度かあり、手の平の皮が捲れた軟式グローブや、裏表逆のまま脱ぎっぱなしのジャージ下からむわっと立ち上るあの匂いに似ていて、思春期の男子の匂いというか、それを煮詰めたような、うら若い女子にとっては嫌な匂い。嫌なのにくんくん嗅いでしまう匂い。嫌であることを確かめるための匂い。確かめたのだ、「あ、そう、なるほどね」と。冬馬は学習机に向かい合う立派なブナ材の椅子に背中を屈めていて、背もたれの隙間から白桃みたいに小振りなお尻が窺えた。足元にはクオーターパンツと柔らかそうな白無地のブリーフがくしゃくしゃに丸まっている。思いのほか片付けられた机のうえには尻尾の飛び出したコープのボックスティッシュだけがちょこんと鎮座しており、冬馬の右手は股間に添えられ、左手にはティッシュのしろい薔薇が綻んで……。

「あ、そう、なるほどね」

 ぐらいは言ったかもしれない。

「あ、そう、右手でやるんだ」

 と言ったかもしれない。

「オカズはなあに」

 とぶしつけにも尋ねたのだったか。

 覚えていない。冬馬が壊れた自転車のブレーキみたく耳障りの悪い悲鳴を上げながらわたしに飛びかかってきたのだ。下半身はあっぱれ天を睨むシャチホコのように隆起したままで、穴に入ったウツボぐらい臆病な頭にはサーモンピンクの口がへの字に曲がり、海外の無修正のAVを英語学習と偽り視聴覚室で品評したbig black dickと比べれば、グロテスクというより女子高生なら通学鞄に飾りたいキモカワといった印象。本能というか、そっちに目線を奪われてしまい、不覚にも一瞬で冬馬に押し倒された。「夏っちゃんは格下が相手だと防御が疎かになる」と師範によく叱られたとおりうっかり受け身を忘れ、後頭部を床にしたたか打ちつけ、刹那お花畑が見えた。冬馬はどうしたらいいのか分からなかったんだろう、わたしの両腕を掴んだまま涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている。落ち着け。あとまずはパンツを履け。と言いたいところではあるが、言葉も耳に入らないぐらい混乱していそうだし、まずは彼の意識を飛ばしてやるのが先か。マウントを取られ、両腕もホールドされているが、首がフリーであれば使える護身術はストリート主体の流派だから装備している。禁止技に設定された甘っちょろい総合格闘系とは違うのだ。特に夜道で組み伏される恐れのある女子は覚えておいて損はない。わたしは道場で何度も練習したように、あるいはカラオケの個室でパパ活の相談が没交渉に終わったのち襲われたときのように、ダイエットなんていうナルシシズムでなく鍛え上げた腹筋と背筋に全神経を集中し、持ち上げた両脚を力点に、お尻を支点に梃子の原理で勢いをつけ、上半身を思い切り持ち上げた。何故かわたしはこの技が昔から大の得意だった。

「なじょだらっ!」

 かはっ、と息を切らしながら、冬馬が両膝を仔鹿のように震えさせて崩れ落ちる。頭突きは、片目に入れるか、鼻骨の根元に入れるのが有効だが、比較的安全な急所である顎を狙った。マウントが解かれれば、すぐに立ち上がり、流れで金的を入れるのがうち流ではあるけれど、身内にそれはさすがにまずかろう、コンマ数秒で標的を左側頭部に切り替える。

「っし!」

 声が出るぐらい、見事に右足の脛が決まった。道場でもなかなか再現できないぐらい華麗なヴァレリーキックだった。余韻に浸るのも束の間、冬馬が意識を失っていることに気づく。身に馴染んでいるまま、うっかり体重を乗せてしまったのだった。

「ちょっと冬馬、大丈夫!?」

 抱き起こそうとしていると、外からパカパカという歯切れの悪い車のエンジン音が近づいてきた。愁香さんと恋が帰ってきたらしい。まずい。力なく倒れた冬馬を引きずってベッドのうえに運び、布団を被せて、床に散った鼻血を唾を湿らせたティッシュで拭い、保健室で松葉崩しの実演をしてくれた露出狂の友人ですらもうちょっとマシにやるぐらい粗雑な証拠隠滅を図る。心臓がばくばくした。尼崎で悪いことは散々やり尽くしたと思っていたが、これはとびっきりだな。とびっきりの悪事だ。

 夜、春子に電話をした。愁香さんは思ったよりいい人で、恋とはそこそこの言い争いをして、収穫はなかったけれど、話したいことはたくさんあった。電話のさいご、「わたし、まだ帰らないよ」と宣言する。恋を連れ帰さないといけないし、愁香さんのことはもっと知りたいし、冬馬には、分かってもらわないといけない気がする。わたしのことも、彼のことも。そしてふたりで、未来の置き場所を決めるのだ。愁香さんと恋は同じ部屋で寝るみたいで、どうかと思ったけれど、わたしの布団は冬馬の部屋、それもベッドのすぐ傍に敷かれたから、何でもないような気がする。部屋の外からは薄いカーテンを透かしてほんのりとあおい光が漏れていた。覗き込めば、窓の向こうに、「わあ」という嘆声が漏れる。見渡すかぎりの星空が啓けていて、何もない地面がもえている。何にもないと思ってた。そうじゃないと知った。ここにはきっと「津波のあとの福島」があるのだ。何よりも、わたしはそのことを分かりたいと思った。そしてできれば、「津波のあとでない福島」を見つけたい。それは「津波のまえの福島」でもない。過去でもない、未来でもない、現在ですらない。時間というものをおよそ失った三次元に、きっと、わたしとか、冬馬とか、愁香さんとか、恋とか、春子が存在してる。そう思えば、全ては解決されなくてもいいのかもしれない。要はわたしの心の問題で、わたし以外、それは全部分かって、わたしだけが分かってない。それぞれの心の問題を。それぞれ包み込んでくれる福島が今は愛おしかった。ぐずぐずと泣く冬馬だけが喧しくて、隣のベッドを蹴りつけ、「早く寝てよ!」と叱れば、きょうだいみたいだ、くつくつ布団のなかで笑う。

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