だらしない父

「夏美ぃー」

 聞いたことのない呼び声がして、何処かで聞いたことがあるような、第二次性徴を迎えていない少年特有の甲高い声だった。ふっと意識が今に帰ってきて、夏の福島にいることを内股が湿るプリーツスカートの中に思い出す。振り返れば、というのは、海の方角ではないのだが、声の懐は正確に分かって、それを見定めれば、がりがりに痩せた少年がよっぽど濃い影を連れてこちらに歩いてくるのが分かった。

 ちっちゃいな、小学校の中学年ぐらいだろうか。襟ぐりの延びた無地の白シャツに、同じぐらい色の薄い綿ポリ生地のクオーターパンツ。羨ましくなるぐらい肌理細やかな頬も透けて、焼け付くような陽射しに掠れた砂浜にも馴染み、仄暗い満ち潮にひとり取り残された知らない国のビー玉に似ている。

 声は思い出せなかった。が、何かを思い出そうとする。彼とは何処かで会ったことがあるような気がする。

「ん」

 と、彼は右手を差し出してきて、わたしはそれを確かめなくてはならなかったから、握った。冬の海にずっと浸していたんじゃないというぐらい冷たく、ほんの少し力を込めれば雪塊みたいに崩れそう。

 慌てて手を離すと、彼は歪に表情を曇らせる。いや、そんな顔をしたいのはわたしのほうだ。あるいは既にしていたのか。

「誰よ、あんた」

 と言ったつもりで、たぶん言葉にならなかった。口蓋の裏に滞っているのを腫れ物でも探るように舌先で確かめる。ちりちりと痛むような問いの答えはわたししか持っておらず、わたしは彼が誰なのかを知っていた。

 愁香さんには小学生の息子がひとりいることを知っていた。名前は冬馬という。年は十歳かそこら。震災の年に産まれた子、として覚えていた。ということは。

 わたしが愁香さんの元を訪れる件は、春子が既に恋に連絡していたという。ということは当然、愁香さんも知っている。何時の電車でわたしが到着するかも筒抜けだった。となれば、誰か、例えば愁香さんの息子の冬馬あたりがわたしを迎えに来ることになる。論理的じゃないか。悲しいぐらい論理的に、わたしは春子や、恋や、愁香さんの手の内を泳いでいたわけだ。わたしが恋を連れ戻しに行くことも、みな、全部知っていて、わたしのしたいようにさせてくれている。と当たり前のことに気づけば、悲しかった。わたしが恋を連れ戻すことはできない、と、春子が諦めているような気がして、悲しかった。

 冬馬は見るからに不機嫌で、彼だけは、大人の思惑の外にいるんだろうと思えば、ちょっと親近感が湧く。彼だけは、多分わたしと同じぐらいには悲しい。わたしが恋を連れ戻すとすれば、彼は、父親になってくれるかもしれない人を失う。連れ戻さなければ、失うのはわたしだ。彼とは不可分の同じものを分け合っている。そう思えば、彼にはちょっとだけ心を許してもいいかなと思う。

「わたし、恋が帰るっていうまで、福島を離れないから。夏休みが終わっても、秋が過ぎて、冬が終わっても、地球が何周回っても、ずっと福島にいるから」

 冬馬が彼らの家に案内してくれるまでの道すがら、わたしは海の向こうに届くぐらい声を張って、そんな不埒なことを宣言してみた。半分は嘘で、半分は本当だった。両手をきーんと広げてバランスを取る。落ちたら死ぬぐらい高く聳える防潮堤の上をしなやかに歩いていたのだ。右には海が弾けていて、左はうら寂しい更地が乾いている。見上げれば平手の庇で影を作った向こうに一面のサマーブルー。

「いいよ別に。連れて帰ってよ、あんなの」

 冬馬は語尾にアクセントを置き、つっけんどんに言う。嘘じゃないな。と、声色でそう感じた。彼が嘘をついているときは分かる。そんな気がする。

「いらないの? お父さん。いらないなら、わたしが持ってくけど」

 そこまで欲しくないけど取られたら嫌なおもちゃを奪い合うみたいにそう言ってみる。冬馬の歩く足取りが速くなった。分かりやすい。たぶん舌打ちをした。慣れていない。精一杯大人ぶっている。

「恋はあれだけど。ほら、名前のとおり、浮気性だけど。父親としては、そう悪くないよ。家事はするし、料理もかんたんなものならできるし、蹴っても殴っても怒らないし、年収も売れてるときならスシローで豪遊できるぐらいあるし。酒と女にだらしないところを除けば、悪くないよ」

 冬馬をからかうように追いかける。じゃりっ、じゃりっ、と、足音が気のない相槌みたいに逃げていく。速く歩くとき冬馬は足を引き摺るらしい。くたくたに藍色のゴム底が剥げたノーブランドのスポーツシューズ、踵を履き潰していて、焦げ茶色の靴ひもは息苦しそうな固結び。

「酒と女にだらしない男なんか、どうしようもねえよ」

 冬馬はポケットに手を突っ込んで振り返らないままぴしゃりと撥ね除ける。その通りだ。酒なんかにいちいち潰れてたら女も抱けない。わたしは自分より酒に強い男にしか抱かれたくない。愁香さんは違うんだろう。福島の人は酒に強い、と、恋の小説にあった。隠喩だとすれば、ふたりの溺れるような逢瀬がラインで貰ったハメ撮り動画みたいに乱れた映像で再生される。

「でもさあ、恋がだらしなくなかったら、あんた、この世にいないわけじゃん?」

 うっかりそう漏らすと、冬馬は振り向きざま、わたしの脛をおもいきり蹴った。たかが小学生男子の体重も乗っていないサッカーみたいな蹴りだ、効いてない、と宣いたいところではあるが、準備ができていない弁慶の泣き所に不意打ちで喰らうのは堪える。わたしが膝をついて悶絶しているうち、冬馬は「バーカ」と捨て台詞を吐き、防潮堤から階段を一段飛ばしで降りて行ってしまった。額の脂汗をブレザーの袖で拭いながら顔を上げると、黄土色の荒れ地に一軒だけ赤いスレート瓦の平屋が佇んでいる。津波の後に建てたんだろう、しかしよく聞く「復興」という言葉が歯から浮くぐらいまっさらな風景にはそぐわず、先の五輪の聖火リレーで喧伝された「復興」とは何だったのか。周りにはコンビニはおろか民家もない。傾いた石の鳥居が片足で堪えているだけだ。寂しい暮らしなんだな、と一瞬頑なだったはずの気持ちが緩んだが、そういう風に恋を誘ったに違いない、と、慌てて取り消す。取り消せないものもある。あるいは、取り消してもなお残り続けるものもある。被災地、という言葉に初めて体で触れた気がした。恋を連れ戻すのを諦めるつもりはないが、手段を選ばずに、とか思っていたのに、ちょっとは手段を考えよう、ぐらいは省みるようになった。冬馬はたぶん、わたしと半分血が繋がった弟なのだ。理屈と理屈でないものが、そう教えている。じゃあわたしは奪ったものと同じ大きさのそれを彼に与えなくてはならない。いや、返す、という言葉が、この文脈には似合う気がする。と、赤文字で慣れない推敲を認めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る