フレコンバッグ

 コントラストを成すものは、まっくろい袋だった。あのとき、一度だけ愁香さんと会ったとき、部屋に散らかっていたぱんぱんのゴミ袋によく似ていた。それがちょうど夢のなかから抜け出したように、寂しい空地の端っこに転がっている。こんなに大きかっただろうか。しゃり、と音を立てながら、不明瞭な大地のうえに革靴を滑らせる。わずか二輌だけの電車のカタタンという走行音が消えると気が遠くなるぐらい静かだった。草は生えている。空は青い。そんなことが、やけに遠い。歩けば近づけるものは、まっくろい袋だった。何が入ってるんだろう。開けてみるつもりはなかったが、袋の肌に乱雑な手書きで刻まれているしろい数字とギリシア文字とアルファベットで、ありもしなかった悪戯心は一瞬で霧散する。「μSv」という臆病なスリーレターズは、恋の小説から拾ったことがあった。物質なら「Bq」じゃないのか。数字が大きいのか小さいのかは分からない。震災後に一人歩きを始めた「危なさ」の単位。放射能って、匂いもしないんだな。あのときの愁香さんの部屋の甘酸っぱい生活臭と相対化されれば、やはりアートだ。シュルレアリスムだ。そのくろい袋に触れてみて、ダリやゴッホやマルセルデュシャンのざらつきに触れたときと同じように、生身で知ったことを誰かに叱られてる。恋じゃない。

 果たして、翻弄されている。時間とか空間といったものが、津波になって今此処のわたしを浚っている。つまり、何時何処へ行けばいいか分からなかったのだ。いや、何時何処へ行けばいいか、という感覚が分からない。愁香さんの家の住所は調べてあった。が、それはスマホのメモ帳に記録されており、今は電源を入れることができない。全交流電源喪失。イソコン、動作せず。その時の気持ちは「寂しい」でいいのか。いきなり愁香さんに会いたくなった。そして、あのとき訊けなかったことを訊きたかった。恋は、浮気したわけではないのかもしれないな。そう思うのは「同情」だろうか。問われているのはわたしだった。答えるように、しっかりした足取りで踏みしめていく。砂地はだんだんと細かくなり、足音はきいきいと哭きはじめ、振り返れば判読できない筆記体のような足跡が残っているだろうけれど、前を向いて歩けば道は前へと作られる。下り坂に反し心理的には遡行となる歩みはやがて遮られた。目のまえに、巨大なしろい壁が立ちはだかっている。コンクリートだった。見渡せば、涅槃仏のように泰然と横たわる一面のコンクリート。越えなければならない。壁は、越えられなければならない。迷路は、壁に右手を付けたまま歩けば必ずいつかは出口に辿り着けるのだとナイーブな論理は教えている。あった。階段だ。それほど急というわけでもない、人間が登るために用意された不自然なアーキテクチャ。そうだ、階段は人間のためにある。壁もまた、人間が作ったものだ。ふたつのモチーフといつかの事故を重ねた自分に当惑する。腹の底でぐわんぐわんと揺さぶられる官能を調めながら階段を上がれば、僅か婉曲した壁に沿って思春期前の陰毛のように生え揃っていない緑地が拵えてあるのを見下ろすことができて、これはどうやら壁でないことを知る。壁でないなら、何だ。扉か? であれば、その向こうにあるのは。

 一番高いところに立てば、子どもの頃に食卓を賑わせた浅蜊の味噌汁のような、思い出せないぐらい懐かしい匂いが漂ってきた。愁香さんの半裸体、それも黒く茂る腋から漂っていたそれだった。愁香さん、と呟いて、塩気のある突風に目を細めれば、眼前の光景があのとき見つめた美しい下腹部と相似し、生唾を呑み込む。海だ。

 心許なくなってしまい、先ほどよりゆっくりと、堪えるように頼りない足取りで砂の散らばる階段を降りていく。尼崎にとって、海とは瀬戸内海だ。あまり海に行くことはなかったけれど、友だちに連れられて釣りに出かけることはあった。磯臭い軽バンに同乗して南を目指せば、魚釣り公園という突堤が濃い色の波間に伸び、友だちが当たりの悪いルアーに悪戦苦闘しているあいだ、ずっと湿った日陰でタオルを被りスマホのガチャに興じていたぐらい、海とは退屈で、凪いでおり、優しかった。しろい波がテトラポットを叩いて飛沫が弾け、唸るような低い声で轟音が響く。ここはそうじゃない。繋がっていない。階段を降りて処女の見えないところの肌のように繊細な砂を踵で掴み、振り返れば、壁だと思っていたものは大きな防潮堤に摺り替わっていた。わたしは今、福島に立っているのだとようやく実感する。津波によって侵された生と死の境界線を今越えた。あ、死んだ。それは奇妙に愛しかった。死にたい、と思うことは、年頃の女子学生がそう感じるのと同じぐらいには、よくあった。左手の甲にコンパスの針でちょっとした十字傷を付けてみたりすることも、年頃の女子高生なりに、よくあった。落ち着くのだ。その何時よりも、気持ちは落ち着いて、いたみに由来するそれは、愛しい、と、そう思えるぐらい、福島の海は恐ろしかった。

 映えるだろうか。リングに人差し指を通しても納まりの悪いスマホを片手に携えて革靴をしろく泡吹いた引き潮に晒されているとき、ふいの冷たさに脊髄を痺れさせながら閃いた。例えばこのラブラドライトの深い青色を背負い、インスタのリール動画を撮ってみればどうだろう。その発想は、都合よく不貞寝を始めたスマホによって裏切られる。分かってるじゃないか。下着みたいなマスクも、下手糞なダンスも、意味の分からないK―POPも、イージーに消費されるガジェットは、この海には、映えない。けれど、制服を着てきて良かった。たぶん絵になる。それは、映える、とは違う。わたしがもし福島の女子高生だったとしたら、二十四時間経っても消えないストーリーが非公開で追加されるだろう。ミュージックスタンプは終わらない波音で十分だ。もうひとつ、かけがえのないリアリティがあれば。バズりたい、と思うことは、いつだって承認欲求を契機としていたのに、わたしは今、ここに立っているわたしを、マイリー・サイラスにだって「いいね!」されたくない。

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