震災文学の草稿

 JR常磐線をゆっくりと北上した。特急ひたちのほうが早いし、もっというと伊丹から仙台に飛べば五時間もかからずに着くのだが、「飛行機と雷は世界一嫌い」という点を差し引いたとしても、十分に逡巡する時間を取って福島には行きたかった。北に向かうにつれ心なしか弱くなった気がする遮光カーテン越しの陽光に包まれてぼんやり「福島の妹」こと愁香さんのことを考える。水戸駅を出た頃、スマホのバッテリーはまだコマひとつ残っており、春子がさいごにラインをくれた。写真には見覚えのある小さな女の子と、春子を一回り若くしたぐらいのお姉さんが鏡に映したような笑顔を揃えている。いわく、わたしと愁香さんの写真、とのことだった。春子はそれ以上、何も言わず、そうこうしているうちにスマホは電源が落ちてしまったので、写真で何を伝えたかったのか、ふたりは本当に笑っていたのかも見返せない。そうか、わたしと愁香さんは、会ったことがあったのか。

 わたしの風貌からすれば、それはちょうど東日本大震災があった時期のはずだ。わたしは福島に行ったことがないし、たぶん愁香さんが尼崎に避難してきていたんだろうと考えれば、ご時世のストーリーとしてそんなに違和感がない。何でまた福島に戻ったのかまでは想像できないけど。今回の旅の目的は「恋を連れ戻すこと」に他ならないが、そのためには愁香さんといろんな話をしたり、それ以外の関わりを持たないといけないことは違いなくて、わたしたちの思い出も、パズルを埋めるための大事なピースになり得るんじゃないか。

 誰かが窓を開けた。懐かしい匂いが流れ込んでくる。涼しい風に身を任せているうち、わたしは微睡んで、あったのかなかったのか分からないことを思い出していた。

 例えば学校の課題で震災について調べるものがあったとする。恋に尋ねれば、きっと彼は軽薄に「そんなん愁香に訊けばいいじゃん」と欠伸を噛み殺すはずだ。そう言われて、わたしはひどく緊張したと思う。親戚らしい親戚は他にいなかったし、家族以外の大人との付き合いは知れたもので、ましてや「震災について尋ねる」ことがいかにナーバスかは子どもにだって分かる。だから、春子には言わなかった。しょうもないゲーム感覚の万引きで警察に捕まり、身元を引き受けてもらったときだって春子はわたしを叱らず、帰り道にはコンビニで一番美味しいアイスを食べさせてくれた。そんな春子ですら、わたしがもし愁香さんに会って、震災がどんなものだったか明け透けに尋ねれば、わたしには何も言わないまま、きっと落胆するだろう。春子に怒られたり泣かれたりするのよりも、落胆されるのがわたしは一番堪える。にも関わらず、わたしは自転車の立ち漕ぎで左門殿川沿いの砂利道を滑り下りた。例えば、学校の課題を口実にして、愁香さんに会いたかった、というのはどうだろうか。子ども染みた悪戯心とは別に、わたしが愁香さんに惹きつけられてしまう、得もしれない因縁がわたしたちの間にはあった、とまで考えるのは、恋が手慰みで書いた出来の悪いミステリーの読み過ぎかもしれない。

 感応式赤信号の長い国道二号線を渡れば、日雇いの労働者でかつては賑わっていた飲み屋街の脇に瓦葺きの二階建てアパートが傾いており、いやに意匠の凝ったフェンスが赤茶色に錆び付いたベランダを見上げれば、乱雑に干してある下着がとんでもなく派手で声を失った(というわたしの妄想である)。灰色のケーブルがだらしなく飛び出したチャイムを鳴らしても音沙汰がないが、尼崎のこういう物件で後付けのチャイムが壊れていることは珍しくないし、友だちの家に入るようにやたら重い鉄扉を力いっぱい開ければ、奥から酒の甘ったるい匂いと、地獄の釜を開けたような鼾が漂ってきた。

「愁香さん……?」

 恐る恐る呼びかけるも、声は薄暗がりに吸い込まれた。何故か市指定じゃないまっくろいゴミ袋が並ぶ細い廊下を髪の毛混じりのホコリ玉を避けつつ爪先立ちで歩けば、リビングに通じる扉が開けっ放しになっており、脚がひとつ骨折したローテーブルのうえにも床のうえにもボウリングができそうなぐらいアサヒのビール瓶が並んでいた。穴だらけの襖の隙間から隣の和室をそっと覗くと、上半身は裸、下半身は黒いレースの下着一枚というあられもない姿の愁香さんが仰向けになっていた。鼾が響くたび、ロングストロークで肋の浮いたお腹が上下する。ひどく汚くて口で息をしたくなるほど臭い部屋なのに、愁香さんの半裸体は綺麗で、傍にしゃがみ込み、俄に形よく起立した立派な乳首に見惚れてしまった。起こすと悪いような気がして、本来の用事も忘れ、星模様をした型板ガラスの窓を開けて空気を入れ換えてみたり、ビール瓶に水を吸わせて濯いだのち黄色のケースに片付けてみたり、シンクに山積みになっている茶碗に固まった米粒を亀の子束子で刮ぎ落としてみたり。自室を片付けるのは死ぬほど嫌いなのに、そうしているときのわたしは嫌いじゃない。卍形に畳が敷かれた四畳半の和室の端っこには、脱ぎ散らかした服が漆喰の剥けた壁に寄りかかる形で山積みになっており、正座してそれを畳んでいくと、ごついゼムクリップで右上端を留められた原稿用紙の束のうえを紙魚が逃げていった。これはまさか、まだデビューしていなかった頃の恋が書いた初めての「震災文学」の草稿なんじゃないか。唾を呑み込めば、心臓の辺りがひりつく。この頃、恋はどんな小説を書いていたのか、すごく気になって開こうとすれば、

「恋にいちゃん……」

 と呻く色っぽい声が背後からして、わたしははっと今に帰ってくる。ずいぶん長く寝ていたのか、車内から乗客は消えており、車輪がゆっくりと鉄路の継ぎ目を食む音だけが響く。もうすぐ目的地の駅に着きそうだった。

 ずいぶんリアルな夢だったな。まだ胸が上下している。スマホの電源ボタンを落ち着かない親指で長押ししてみるも、ウンともスンともいわなかったけれど、あの写真のわたしと愁香さんはやっぱり笑っていたような気がする。何の根拠もないけど、愁香さんは話せば笑ってくれるような気がして、わたしは前向きな心持ちで学生靴の両足を揃え段差のある電車を勢いよく飛び降りた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る