福島さん

 小学生のとき、「福島さん」という子がいた。肌が透けるぐらいしろく、頬がチークを付けてもいないのにほのかな紅色に染まり、すこし癖のある黒髪が大人びて、目鼻立ちが韓国の女優みたいにくっきりとした、すごく綺麗な子だった。わたしは女の子らしく、きらきらしたものが好きで、それは他の女子もそうだったと思うのだが、彼女と話してみたくて、けれど彼女はいつも子どもたちの喧噪から離れたところにいたし、休み時間も机に突っ伏して居眠りしていたから、話しかけられなかった。しばらくして、学年の子全員が体育館の冷たい床に正座させられた。福島から避難してきた彼女を「福島さん」と呼ぶのは「差別」だということらしかった。教頭の銃乱射事件みたいなお小言を聞きながら、今年赴任してきたその教頭は、尼崎出身ではなかったな、とぼんやり考えたりしたと思う。「福島さん」はその集会のあいだ、真っ赤な顔をした教頭のとなりにぽつんと立ち、スカートの裾を弄りながら、居心地わるそうなえくぼが現れるぐらい表情を引き締めていた。わたしたちがしたのが「差別」なら、その子にそんな顔をさせたことはなんなのかな。今でも分からない。わたしは今となっては「福島さん」の本当の名前を覚えていない。尼崎には尼崎の多様性があり、わたしたちはそのなかで、彼女を「福島さん」と呼び、福島のことを訊いてみたかった。何が好きかとか、誰が推しかとか、ショートケーキの苺は先に食べるのか後に食べるのかとか。そして、尼崎とか福島とか関係なく、手を繋いで不二家レストランに行き、鼻の頭に付いたクリームを笑いたかった。

 その件が象徴的だったのか、わたしはあまり福島のことを知らない。恋の小説のなかでだけつまみ食いし、彼は文壇の評価を信じるなら「リアルな福島」のことを書いてきたらしいけれど、時代も変わるだろうし、「震災文学」の価値が経年劣化した今、どのぐらいわたしは現在進行形の福島のことを知っているか分からない。知ろうともしなかったと思う。原発の事故は、学校で教えられた。視聴覚室の大きなスクリーンで観たのだけれど、みな「おー」と歓声を上げており、映画のキングコングがゴジラにワンパン喰らわすシーン程度の仰天しかなかったんじゃないか。授業のあとの感想ではほとんどの子が「水素爆発」を「水蒸気爆発」と書き間違えていた(わたしは恋の小説で予習してたから分かっていた)。さびしいことだな、というのは、今思ったのか、あの頃思ったのか。今となっては、「福島の妹」絡みの悪感情が先走り、わたしも素直に福島のことを思えない。

 唯一、福島の日本酒にだけは惹かれた。わたしは日本酒が大好きなのだ。そして、恋は甘っちょろいビールしか飲めない。彼がきっと頭で考えて書いたんだろう不器用な日本酒の描写はすんなりと受け入れることができて、金賞をもっとも多く取っているという福島のさまざまな銘酒、とりわけ「写楽」と「飛露喜」は飲んでみたいと思った。友だちのなかではわたしがいっとう酒に強い。駅前のナトリウム灯を囲む輪を作り飲み会していたとき、酔い潰そうとしてきたナンパ野郎をギルビーのウオッカのストレートで返り討ちにしたことは何度もある。春子へのお土産に買って帰ってもいいかもしれない。春子が好きなのはワインだが、芳醇な日本酒はワインに近い風味があるらしいし、恋を連れ戻したのち祝勝会として杯を交わすのは悪くない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る