わたしだけの優しい響き

 何か間違ったことを言ってしまったような不安と罪悪感がフィアルの胸を巣食う。

 星空が広がる崖の上、二人の間には風も吹かず、遠くからはりんりんと虫の鳴き声が響いていた。

 森の中へ広がっている夜の闇のように、フィアルの胸の中に巣食った不安が膨れ上がっていく。

 二人は言葉を交わさないまま、視線だけを交差させ続けた。

 ただ、そんな気まずい静寂を打ち破ったのはシレイスで、そんな彼の言葉がより一層、ぽかんと穴をあけてしまったフィアルの胸の中へと落ちていく。

 彼は困ったように眉をひそめながらも、だけど、優しく笑っていた。


「フィアルは、フィアルだろ」


 否定するようにフィアルの右手には力が入る。

 握っているのは紅蓮の聖剣、紅き乙女たる世界を灼く者の証だ。

 違う、違うと胸の中で唱え続けても、彼がそう呼んでくれる名前がすとんと胸のうちに納まってしまう。


「わたしは……わたしはっ……!」


 己の使命を口にすることは決して許されない。と名乗って否定することもできやしない。

 自身の正体を明かしてしまえば、その時こそ本当に全てが終わってしまう。

 何千何万と続けてきた輪廻も、守ると誓って星に願った約束も、本当の意味で無に還る。


――わたしは、わたしだけど、フィアルだけど、紅き乙女だから。


 違う、違うと否定を続け、首を振れば紅い髪が視界の中で揺れている。

 震える右手にもう一度力を込めて、真っすぐとシレイスへ眼差しを向けて、ようやく言葉を紡ぐことができた。


「……あなたの知っている、フィアルは、もういないから」


 フィアルはそれだけ吐いて、彼が優しく向けてくれている藍色の瞳を見つめることが怖く俯いた。

 ぎゅっと瞳を閉じて、思い返そうと何度も見てきた紅い空を思い描いて――だけど、ぽんっと頭を撫でた優しい温もりが、そんなフィアルの想いを打ち砕いた。


『綺麗な色だね。どんな赤いモノよりも、綺麗だ』


 幼い頃、髪を優しく撫でてくれた小さな手。

 それとは変わって、今は大きくなった手。

 温もりはあの頃と変わらないのに、ごつごつと感じる手のうちには、日々の鍛錬で剣を握り続けているためだろうタコの跡も感じられる。


「何度だって言う、フィアルは、フィアルだよ」


 フィアルがそっと顔を上げれば、いつの間にか近づいてきたシレイスが、昔そうしてくれたように頭を撫でてくれた。

 真っすぐと見上げてしまう。

 その手をもう、振り払うことはできなくて。


「昔から何も変わらない。曲がったことが大嫌いで、正直すぎてなんでも顔に出る。困ったらすぐ笑う。そのくせ人に涙は見せなくて、いつも強がって、一人隠れて泣いていた」


 シレイスが優しく細めた目の奥で、藍色の瞳が光ったように見えた。

 彼の瞳には呆然と見上げている自分自身が――フィアルが映っている。


「でも、わたしは――」


 そう口走りそうになって、だけど、その続きの言葉を発することはできず、フィアルの顔はシレイスの胸の中へと沈んでいた。

 色褪せてしまっていた思い出が鮮明に湧き起こるようにして、懐かしい彼の香りがフィアルの中に広がった。

 彼の鼓動の音が聞こえる。どくんどくんと早鐘を打って、フィアル自身のそれと混ざり合う。

 ぎゅっと力いっぱい抱き締められて、すかさずふんわりと力は抜かれ、フィアルのことを気遣った、強すぎない優しさが全身を包んでくれる。


「いいんだ、話せないなら、無理に話さなくても」


 シレイスの言葉が頭の上から降り注ぐ。

 忘れられない罪悪感に堪えきれなくもなって、「でも」とフィアルが首を振れば、シレイスも首を横に振ったよう体を揺らす。


「だから、いいんだ、フィアル」


 そのひと言が、胸のうちにどろりとへばりついた重みを掬って取り除いてくれるようだった。


――わたしは、紅き乙女。世界を灼く宿命を背負って、この世界に終末をもたらす者。


 たとえシレイスに優しく続けても、フィアル自身それを否定することはできない。

 世界のために担った役割を捨てることは、きっと許されない。

 だけど、フィアルとしての想いがその邪魔をする。

 繰り返すことが決定付けられていたはずだったのに。

 何のためだとか、誰のためだとか、考えることももうないと思っていたのに。

 どうして、終わらせる。どうして、繰り返す。

 疑問を呈して、その疑問がより一層、いつか下した決心を迷わせる。


――わたしは紅き乙女。でも……フィアルなんだ。


 自分が誰なのか、それはずっと、ずっと長く繰り返してきた時の中、考えないようにしていたことだった。

 紅き乙女として役割を演じていればいい。そして、また次の終わりの時を迎えるため百年後まで眠るだけ。だから、何もかもから目をそらしていた。そこで生きていた感情も、覚えていた気持ちも、何もかも想いに蓋をして――。


「本当は、この遠征から帰ったら伝えようと思っていたんだ」


 フィアルは両肩を掴まれて、そうしてシレイスの腕の分だけ離れた距離の間で、二人の視線は交わった。

 揺れ動いた深緑色の瞳、真っすぐとした藍色の瞳。

 シレイスの左手がそっとフィアルの紅い髪を撫でる。いつにもなく真面目な顔をしているシレイスは、そうしてフィアルの心にまで優しく触れるかのようにして、続きの言葉を紡いだ。


「フィアル、俺は……きみのことが好きだから。俺は、フィアルに会えたから、フィアルがいてくれたから、今の俺になれたんだ。だから絶対騎士になると誓った。きみが暮らす国を守るため、きみがいてくれる世界を守れるように。もうきみを、悲しませたくはなかったから」


 フィアルとしての遠い記憶の中にある、世界が灼けるように紅蓮の炎が広がって、村が焼けていく記憶。

 大好きだった家族を失って、ひとりぼっちになって、泣いて喚いたところで世界は変わらなかった。だけど、その後連れて行かれた孤児院でフィアルは幼馴染の二人と出会った。

 それが、まだたった五歳のフィアルの世界を変えることになった出会いだ。

 フィアルにとってそうであったように、シレイスにとってもそうであったのだろう。

 家族を戦火で失った同じような境遇にいて、三人は平和を夢見て同じ星空を見上げた。

 いつか王国を守れる騎士になると誓ったシレイスに、そんなシレイスを待っていられる者として、フィアルは平和と安寧を祈るため修道女になる道を選んだ。リミーナはそんなフィアルについて来てくれた。


(わたしはここにいる――わたしはの者の無事を願う――)

(わたしは待っている――わたしはここで待っているから――)


 修道女に伝わる祈りの歌は、そんな想いを歌ったものでもある。

 それはかつて――紅き乙女が旅立つ若者へ送った言葉で、断ち斬れない輪廻の一つの名残として、この世界に落とされたモノでもあった。


 溢れ出す想いに、フィアルはついにこらえきれなくなって体を震わせた。

 そんなフィアルの全身を、再びぎゅっと、シレイスが優しく抱き締めてくれる。

 もう忘れようと思っていた想いを溶かすよう温もりが広がって、フィアルの頬を一筋の涙が伝って流れた。

 同時に、力が抜けたフィアルの右手から紅蓮の聖剣が地に落ちる。

 からりと響く音に、シレイスがもう一度ぎゅっと力を込めて、フィアルの顎を肩に乗せるよう軽く膝を曲げた。


「フィアル」


 首筋に感じる熱に、広がる彼の香り。耳元でを呼んでくれる彼の声も、堪らなく愛おしい。

 フィアルは震える唇で、その想いにこたえるよう優しい響きを綴った。


「……シレイス」

「やっと、いつもみたいに、名前を呼んでくれた」


 互いに耳元で囁けばシレイスも体を震わせた。だけど、互いに顔色は見えなくて、ぽたりぽたりと頬を流れるフィアルの涙がシレイスの肩を濡らしている。


「わたしも……好きだった。ずっと、ずっと」

「あぁ……ごめん、俺が素直になれなかった。かっこつけすぎた」


 耳元から広がる温もりが溶けるように全身へ広がっていく。

 二人の言葉は、二人の想いを溶かすように混ざり合う。


「違う、わたしこそ」

「いや俺こそ……って、これじゃいつもと変わらない」


 軽く笑う彼の声が、耳から全身に伝わってフィアルの中へ落ちていく。


――もっと早く素直になっていれば、違った今があったのだろうか。紅き乙女として目覚めてしまった、今が……。


 悔やんでも遅い、振り返っても歩いて来たはずの道は灼けてしまったようで何も見えない。ただ、フィアルは涙で滲んだ視界の先に、三人で見た夢を見て――決心をし、言葉を紡いだ。


「わたしには、やらなきゃいけないことが、あったんだ」


 それ以上のことは話せなくて。

 けれど、フィアルがそれだけ伝えれば、シレイスは「うん」とだけ返事をしてくれた。

 呑み込んだような間を置いて、シレイスは優しくこたえてくれる。


「……だから、そんな悲しい顔をしていたんだな。それがなんなのかは、話せないなら話さなくていい。けどきっとそれは、フィアルが嫌いな曲がったことだったんだろ」


 そうなのかもしれない――と、シレイスに言われて初めて気がついた。


 神は独断で人々の想いを踏みにじり、ルールを定めた。

 安寧のためだと語ったけれど、たった百年という時を繰り返し、人が百年より先に進めないように、全てを灼いて無に還す――悲しくも虚しい輪廻せかいを造った。

 それが、人が星の力に触れた罪に対する罰なのだと、フィアルもいつか聞いたことを思い出す。

 だけれど、もう人は十分すぎるほどに、その罪を償ったのではないだろうか。

 いつからか、繰り返したこの輪廻の意味すらもフィアルは忘れてしまっていた。考えることを止めていた。

 神はもう――この星にいないのに。


――世界を灼くことを止めてしまえば、一体この先の未来はどうなってしまうのだろう。


 フィアルがシレイスの背中に手を回してぎゅっと抱き締めれば、シレイスもまた同じだけの力の強さでフィアルのことを抱き締めてくれた。

 不安も焦燥も、虚しさも悲しみも痛みも、冷たいモノを何もかも奪ってゆく温かさがフィアルのことを包んでくれている。


「フィアルはフィアルだから。俺が知っているフィアルは今だってにいる。だからそんな……悲しい顔はもう、しないでくれ。させないように俺がいるから、フィアル」


 もう一度力強く抱き締められて、フィアルはぼやけた星空を映す瞳の中に、いつか見下ろした世界を思い描く。

 人々の繁栄の上に街並みが続いて、大地は緑に色づき、どこまでも続く果てしない海が深い蒼に染まる――あかに染まってしまう前の、綺麗な世界を。


――もしも、灼くことを止めたとしたら……世界は変わることができるのだろうか。


 たとえそれが、いずれ壊れてしまう関係だったとしても、いずれ灼かなければいけない世界の中の、ほんの一瞬だけの幸せだったとしても。

 今だけは、ただ今だけは――そう想ってフィアルは、その言葉へこたえるようにシレイスの背中へ回した両手をぎゅっと握り締めた。


 この手に掴んだモノを離したくはない。

 彼が呼んでくれる名前を、その響きを忘れたくはない。

 たとえそれが、世界のルールに反する許されないことだったとしても、今はこの温もりを感じていたい。

 紅き乙女として何千何万と繰り返した紅蓮の輪廻の中で、そこがフィアルの知っている一番温かい場所だから。




                      ――fin?




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恋する乙女は紅蓮の輪廻に繋がれて よるか @yoruka_kaku

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