誰がための鎮魂歌
目的はただ一つ。
フィアルは宙を蹴って空を翔け続けた。
それも紅き乙女として目覚めた力の影響で、常人には成せない事象ですらフィアルにしたらなんてこともない。
宙を蹴る度に風を切って、流れる紅い髪が星空の下に煌いた。
――朝に遠征へと発った騎士団はおそらく国境付近まで向かったはず。移動だけで二日は使うことになる。この夜更けともなれば、どこか途中でテントを張ってキャンプをしている頃合いでしょう。
空を翔けるフィアルは、人の足の数十倍の速度でその距離を進むことができる。あっという間に追いつくことができるだろう。
――終わらせる。こんな痛みは灼いてしまえばいい。どうせ全て灼くのだから。
そんな迷いを断ち切ったフィアルの想いを表すかのようにして、空を翔けている彼女の体が一瞬、紅い光に包まれる。
伸ばした右手に強く握るは紅蓮の聖剣、柄頭から垂れる鎖に埋め込まれた紅い宝石が流星の如くきらりと輝いた。
フィアルが纏っていたのはいつもの白い部屋着だったはずなのに、その上半身を純白の鎧が覆っている。紅蓮の聖剣を握る手から腕にかけては黒いガントレットに覆われて、風に靡いているのは背面部が長く設計されたフィッシュテール調の紅色のロングスカート。先ほどまで裸足だった足には、太ももまである黒いブーツが履かされていた。
夜空を翔けるフィアルの服装は、紅き乙女としての正装へ変わった。
肌寒さを少し感じてはいたけれど――それももうない。
キリリと前を見つめる渇いた深緑色の瞳には暗い光が宿って、力強く行く先を見据えている。
王都テレシアルから離れて野と森を過ぎ、山を越え、そうして翔けること数十分。フィアルは進む森の中に、多くの人の気配を感知した。
ぼんやりと明かりも灯っている。この辺りに人が住む場所はないはずだ――と考えて、そこが騎士団のキャンプ地なのだと悟った。
鬱蒼とした森の入口、近くには切り立つ崖もあり高低差も激しい場所だ。
そんな場所に大きな篝火が焚かれていて、夜番のためだろう数人の兵士が欠伸を噛み殺して座っていた。
フィアルは近くにある大きな木の上から、決して悟られないようにと、気配を最小限に呼吸も浅くし様子をうかがう。
テントが無数に並び立つ。そのうちのどれかにシレイスも寝泊まりしているはずだ。
一つ一つ探すのも面倒で、どうせ灼いてしまう世界、全て灼いてしまってもいい――とまで考えた。シレイスにだけは己の刃で止めを刺せばいい話だろう、と。
だが、フィアルにはそうすることはできなかった。
――せめて最後に、ひと言くらい。言えなかったお別れの言葉くらい、許される。
それはフィアルとしての甘えであったのだろうか。胸に抱えた癒えない痛みを逃がすようにそう考えて、フィアルはジッと木の上で時を待っていた。
時間が時間だというのに出て行ったり戻ってきたり、テントには人の出入りが割とある。
フィアルが並び立つテントを見つめていると、その中の一つから見慣れた顔をした青年が出てきた。大きな欠伸をこぼして、赤茶色の髪には寝癖もついている。フィアルが見間違うはずもなく、シレイスだ。
フィアルが両目を見開いてその行方を追うと、テントから出たシレイスは森の中へと進んでいき、キャンプ地より離れはじめた。
用を足しに行くにしては遠すぎる――フィアルは疑問に思いながらも、気づかれないように木の上を跳び移り、後を追った。
シレイスがそうして向かったのは森の先、切り立った崖の上だ。
地殻変動の影響か、大地が上下にずれたような印象を覚える場所だった。進んできた森も途切れているため、眼下には広大な森が敷き詰められて、眼前には一面、雲一つない星空が広がっている。
夜空にくっきりと浮かぶ丸い月が眩しいほどの月明かりを放っていて、シレイスはどこか満足気にそんな空を見上げていた。
――何を想っているんだろう。
その想いはわからなかったけれど、こうしてシレイスが人から離れてくれたならちょうどいい――と考え、フィアルは木の上から音も立てずに飛び降りて、その背後へと近づいた。
フィアルの姿が月明かりの下に照らされる。両手で紅蓮の聖剣を握って下段に構えたまま、そっと足音も立てないようにもう一歩を踏み出した。
しかしそうした途端、シレイスはまるでそうして人が寄って来るのをわかっていたかのようにして振り返る。
フィアルと同じ月明かりの下に照らされるシレイスは一度柔らかく微笑んだ。それからいつも通り朗らかに笑って、白い歯を見せる口元で言葉を紡ぐ。
「やっぱり、フィアルか」
フィアルは肩から力が抜けてしまい、呆然と深緑色の瞳を見開いてしまった。
「どうして……」
「ん? なんか、そんな気がしたんだよ」
今やフィアルの格好は普段のものとは違う。
身に纏う純白の鎧も、手にしている紅蓮の聖剣も、シレイスからしたらひと目して異様に映るだろう。だと言うのにシレイスは、目の前に姿を現したフィアルのことを『フィアル』だと呼んでくれた。
「俺がおまえを……フィアルを、見間違うはずがないだろ」
そう言って笑うシレイスの顔を見ていると、情に
フィアルはギリッと奥歯を噛み締めて、紅蓮の聖剣を握った手に力を込めた。
シレイスは丸腰だ。シャツにズボンだけ、鎧すら身につけていない。騎士見習いとしてあまりにも不用心な格好に、きっと彼の師匠がこの姿を見たら怒ることだろう。
ひと思いに斬りかかってしまえばいい。紅き乙女として剣の扱いには衰えもない。
だが、フィアルは一歩を踏み出すことができなくて、代わりに言葉が口を衝いた。
「どうして、ここに来るって」
「俺について来てくれるのは、フィアルくらいしかいないからな」
シレイスは幼い頃の話でも思い出すかのように笑う。
フィアルがこうして追って来ることを予感して、わざとテントから離れ、人から遠ざかったかのような言い方だった。
「そんなこと、ないでしょ」
「いや、フィアルが来るなら追って来ると思った」
「だからどうして、わたしが来るって、思ったの」
「……そう、想ったから。夢に見ただなんて言ったら、信じてくれるのか?」
笑うことはなく、真っすぐとした視線を外すことなくシレイスは言う。
それも紅き乙女の目覚めの影響なのか、フィアルには理解ができなかった。
視線をシレイスの顔から外すことができないまま、フィアルは首を横に振る。
「……あり得ない」
「まあ、ここのところフィアルの様子がずっとおかしいってリミーナに聞いてたしな。この前だって、おまえの様子はおかしかった」
先日街中で会った時のことを言っているのだろう。
フィアルが自分自身おかしかったなんて話は、ずっと自覚があることでもあった。
「だからって」
あり得ないだろう――こうして剣を構え目の前に現れたことを、すんなりと受け入れているなんて。
夢に見るというのならこちらのほうが夢だ。フィアルはそう思ってしまった。そう思ってしまいたかった。
「俺にはわかるよ。何年おまえと、一緒にいると思ってるんだ」
だとしても、まさかフィアルが自分を殺しにきたとは思ってもいないのだろう。屈託のない笑顔を浮かべるシレイスに、フィアルは剣を握る手と腕に力を込めて一歩を踏み出した。
だが、シレイスは怯んだ様子もなく右手のひらをそっと前に出す。
「俺にはフィアルに何があったかなんてわからない。だけどさ、だから、教えてくれ。なんでおまえは……そんな悲しい顔をして、剣を握っているんだ」
シレイスはそう言いながらも優しく笑っている。
フィアルはまた足を止めてしまった。紅蓮の聖剣を構えた腕からは力が抜けていく感覚がある。
彼の言葉は温かい。
冷めきってしまった暗い心も照らしてくれる炎のように温かい。
じわりじわりと伝わる熱が蝕むように広がって、紅き乙女として固めた決心が揺らいでいく。
そうして甘く溶かされてしまう。温かすぎて、心地よすぎて、それを知ってしまったら、もう――。
だから、断ち切るためにも大きく首を振る。
フィアルの紅髪が月明かりの中を踊るように舞って、そうして決心を固めなおし開いた深緑色の瞳は、真っすぐとシレイスのことを貫いた。
震える足でもう一歩を踏み出して、両手で構えた紅蓮の聖剣を頭上へ振り上げる。
フィアルがそこまですれば、シレイスも身構えたように半歩下がった。
彼は慌てたように腰に右手を添えたが、そうしたときに初めて剣を携えていないことに気づいたのか、ハッとしたように顔を上げる。
「わたしは……あなたを殺しにきたの」
フィアルとして溢れ出す想いを殺して、ようやく搾り切った言葉が口から飛び出した。
「……何かの冗談だろ」
そう言ってシレイスは笑うけれど、その目は笑っていない。
真っすぐと向き合った二人。こうして刃を挟んで対峙してしまえば、今やフィアルの想いはシレイスにまで届いているようだ。
「冗談に、見えるの」
「フィアルは、冗談が嫌いだろ」
「だから……本気だよ」
残り一歩の距離、近づいて剣を振り下ろせば全てが終わる。
フィアルは呼吸を止めて、決意を固め一歩を踏み出した。
シレイスも騎士の見習いだ。命の取り合いの場においての間合いもわかっていただろう。
だけど、彼は一歩も退かなかった。
そうして近づくフィアルよりも一瞬速く動いて、視線を外さずゆっくりと両腕を開き、逆にフィアルへと飛び込んできた。
フィアルは愕然としてしまう。
虚を突かれた一瞬、両腕で紅蓮の聖剣を振り上げたままに、フィアルはぎゅっと力強い温もりに抱き締められた。
「どうして……」
こぼれ落ちる言葉と同時に、肩からは力が抜けてしまった。
だらりと垂れる右手には紅蓮の聖剣を握り締めたままに、フィアルは呆然とした眼差しでシレイスの肩越しに星空を見た。
「だから、そんな悲しい顔して剣なんて、握るなって」
耳元で囁かれる彼の言葉は、やはり甘い熱のように全身へ響き渡っていく。
力が抜けたフィアルの体は、シレイスに包み込まれるように抱き寄せられる。
力強いのにフィアルのことを思ったような力加減で優しく。懐かしい彼の香りに混じって、男らしい汗の匂いが鼻孔をくすぐった。
「そんな思いつめた顔までして……フィアルに人を斬らせるなんて、そんなことさせられるはずがないだろ。だからいくらおまえの頼みだからって、殺されてやるわけにはいかない」
そう名前を呼ばれて、そう言葉をかけられて。
フィアルはシレイスの体越しに握り締めた左手を上げ、ゆっくりとその手を開いた。
黒いガントレットがはめられた手は、幾度となく虚無を掴んだ拳だ。
シレイスの言葉は優しい。優しすぎる――そんなものはもう、わたしには相応しくないのに。
「フィアル、どうしたんだよ」
優しく名前を呼ばれて――フィアルはそれを否定するように、二人の間へねじ込んだ左手で力いっぱいにシレイスを突き飛ばした。
そうすることで腕は解かれて、二人の間には数歩分、また距離が生まれる。
「わたしはもう、あなたの知っているフィアルじゃない!」
フィアルは俯いて叫んでしまった。
強く否定する言葉として、己自身固めた決意を忘れないために。
やんわりと感じていた熱を拒絶するように吐き出した言葉は、思っていたよりも大きな声となって飛び出した。
そう言い放ってしまったのは己自身だというのに、酷く胸が痛い。
――また、やってしまった。
数日前に振り払った手のことを思い返してフィアルが顔を上げると、彼は想いを呑み込むよう閉じた口元に力を込めた。藍色の瞳は優しさの中に哀れみを落として、同情するように揺れている。
幼い頃にも見たことがないような初めて見るシレイスの顔に、フィアルのほうが動揺してしまう。
だけど、その藍色の瞳はフィアルのことを真っすぐと見つめていて、フィアルはもう、揺れる瞳をそらすことができなかった。それ以上、言葉を発することもできなかった。
シレイスも、言葉を返そうとはしなかった。
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