2001年5月7日 深夜

 ――いい勝負だったけど、相川さんでも勝てなかったか。

 白鳥駅公園の脇に車を停め、愛車の中で勝負を見守っていた俊介は、大沼駅に向かって走って行くスカイラインを横目にそんな事を思った。

 タイムにして1秒、正確に言えば1秒半くらいの差だ。だがこの1秒がどれだけ大きいものか、走り屋ならば誰でも知っている。

 悔しいだろうな、と思う。良い勝負だっただけに尚更だ。

 しかし俊介には次の戦いが、ヒロシの乗るエボⅦとのレースが目の前に迫っていた。あまり同情している時間はなかった。

 反省するところがあるならば、後でやればいい。

 編集者が近づいてきて、S15のウインドウをノックした。開けると編集者は、

「次、エキシビジョンマッチの準備は出来てるかい」

「はい、いつでも行けます」

「よし、なら次はヒロシ君にも声をかけるから、スタートラインに並んでて」

 促されて俊介は車を動かし、スタートラインの位置までやってきた。

 石灰で引いただけの白線は、5回のレースによって原型が辛うじて見える程度に薄まっていた。

 ――今度こそ俺は……。

 胸の中で思う。自分の限界を見せつけてくれたヒロシを倒すことで、自分が走り続ける理由を、証明してみせる。

 拳を握って胸に当てた。第一戦目のような緊張感も高揚感もない。ヒロシとの戦いは、今までの自分の走り屋としての在り方を問う一戦だ。これで負けるようならば、車に乗るのは趣味だと割りきって、一線を退くべきだとすら思う。

 エボⅦの音がすぐ横で聞こえてきて、俊介は横を見た。

 スカイブルーのランサーエボリューションⅦが隣に並んでいた。アイドリングしたままヒロシがこちらを見ている。俊介も見返した。

 内地に出稼ぎに行ったことで、一回り大きくなった弟分。大きくなった分だけ、2年間変わらなかった自分が小さく見えたのだろう。

「悪かったな。幻滅させる走りをして」

 おそらくはヒロシには届かない言葉を呟いた。

「お前のおかげで、目が覚めたよ。だから」

 俊介は正面に向き直り、ハンドルを握りしめた。言葉は所詮、言葉でしかない。走り屋が気持ちを伝えるのならば、もっと適した方法がある。

「お前に勝つよ」

 2台の前に編集者が割って入ってきた、ウインドウ越しなので良く聞こえないが、どうやら最新車であるエボⅦの性能を確かめるために、エキシビジョンマッチが行われるという内容だ。おそらくはDVD録画用の説明台詞なのだろう。

 他のドライバーたちも車から降りてきて、こちらの様子を見ている。

 編集者はひと通り喋り終わったあと、スタートラインの前に立って、旗を上げた。

 呼吸を整えると深くバケットシートに体重を預け、俊介はハンドルを握りしめた。右脚をアクセルベダルに乗せて、軽くアクセルを吹かせる。

 ヒロシの車も同様に、アクセルを吹かせて待機している。

「スリー、ツー、ワン……」

 俊介の意識が極限まで集中される。スタートダッシュの一瞬を逃せば、エボⅦに引き離されてしまう。

「スタート!」

 旗が振り下ろされるのと、スカイブルーの車とブリリアントブルーの車が飛び出るのはほぼ同時だった。2台の車が巻き起こした突風に吹かれ、旗が大きくはためく。

 俊介はアクセルを踏みしめ、エンジンの回転数を耳で確認しながら2速にシフトアップさせた。さらに3速へ。シフトレバーを握る左手と、クラッチを踏む左足は完全に連動している。

 最初の直線は4速まで引き上げて、出来るだけエボⅦに肉薄していなければならない。

 ヒロシも同じように速度を上げながら走っていた。スタートダッシュは共に完璧に決まったと言える。

 そして以前がそうであったように、少しだけエボⅦが先行した。純粋な直線勝負ではやはりあちらの方に分がある。しかし俊介はもう、車の性能には驚かなかった。

 走らせているのは人間なのだ。どんなに高性能な車であろうとも、テクニックで劣っていればその性能を生かし切れないだ。

 最初のCの字カーブに突入。

 先に突っ込んだのはエボⅦ。無謀とも言える速度で突入しながらも、強力なブレーキ性能を活かし、難なく曲がりきる。一方、俊介はいつもはドリフトで抜けていたが、ブレーキで速度を落とし、ギアも3速にして丁寧に曲がっていく。

 ドリフトは派手でギャラリー受けも良いし、俊介の気持ちも乗る。だが、コーナリングはブレーキングで丁寧に曲がったほうがタイヤへの負担は少ないのだ。約11kmという距離を考えれば、序盤はタイヤを温存していた方が良い。

 ――一つ一つを丁寧に!

 俊介は自分に言い聞かせた。派手なドリフトは必要ない。丁寧に、正確に、理想とするライディングコースをなぞって走ればいい。

 エボⅦの性能に自分の走りを惑わされては行けない。

 俊介は力強く前方を走るスカイブルーの車を見据えた。

 この大沼半周コースは、上空から見れば蛇がのたうち回っているようにも見えるコースだ。カーブとも直線とも言えない第三の道が多く、独特の速度で走る必要がある。

 エボⅦの強みである直進性能の高さとコーナリングの立ち上がり早さを、この第三の道では最大限に引き出すのには熟練の技が必要となる。

 今のところヒロシは、車の性能で強引にコーナリングを曲がり、短い直線でこちらとの距離を離しているいるだけなのだ。道なりに走っているのではなく、無理やり走破していると言ってもいい。

 そんな乱暴な走りでは、走り屋とはとても言えない。

 一つ目のコーナリングのすぐ次も、左に曲がるカーブ。

 ハンドルを左に切り、右脚で軽く何度もブレーキを踏むポンピングブレーキで速度を落とす。体重を左側に寄せ、横Gに負けないように踏ん張りながら、小刻みにハンドルを切って微調整する。

 抜け出たところで今度は右へのカーブ。速度はそのまま維持したままコーナリングに突入し、半分を過ぎたところからアクセルを踏んで速度を上げる。

 青い車のテールライトが見えた。が、すぐにカーブに差し掛かり光の尾を残して消えていく。

 思えば以前はこの時点で、エボⅦの性能に飲み込まれてしまった。

 だが今の俊介は違った。冷静かつ大胆に、ハンドルを捌く。

 走った年季が違うのだ。晴れた日も、雨が降って路面の状態が悪い日にも、父親と喧嘩して憂さ晴らしのように走った日も。

 消費したガソリンの量とすり減らしたタイヤの数だけ、俊介は多くの思い出をこの大沼と共に過ごした。夢の中ですら大沼を走った日もある。

 コースの全体図を頭の中で思い浮かべ、距離を縮める道筋と、そのための準備をするための道筋を決める。一つや二つ直線で差を付けられようが、万全の状態でコーナリングに挑めば必ず追いつける。先ほど相川がやった戦法だ。

 三つ目のコーナーを曲がり切り、弧を描くように曲がっている直線に踊り出たとき、ヒロシの車は眼前に見えた。思った通りそんなに距離を離されていない。

 シフトを上げ四速にして追走する。しばらくは直線が続く。ここで距離を詰めなければならない。

 エンジンが唸りを上げ、マフラーから音が爆ぜる。

 大沼を覆う湿った空気をその車体で押し切って、S15がエボⅦのすぐ後ろまで食らいついた。エンジンの回転数を常に意識し、流れるようにシフトチェンジを繰り返してきた俊介の愛車には完全にスピードが乗っていた。

 一方、強力なブレーキと四駆という足回りでコーナーを周り、立ち上がりをターボ性能にものを言わせていたエボⅦは、瞬間時速そのものは俊介を上回るものの、全体的なスピードは劣っているという相反する走りだった。

 エボⅦには強力なターボが付いているが、構造的にターボラグが必ず起きる。俊介はそのターボラグが起きているうちに、距離を詰めているのだ。

 バックミラー越しにS15が食らいついてくるのを確認して、ヒロシの身体に戦慄が走った。

「……前とは全然違う走りじゃないッスか」

 先日、俊介の目を見たときに感じたものの正体は、これだったのだ。

 2年前に一緒に走っていた時とは、まるで違う、別人にも思える走り方。相川の走りに似ているがコピーではない。背後にいる時の凄みが違う。

 強力なプレッシャーが運転席を超えて、背中に突き刺さる。

 攻撃的ではあるが暴力的な走りではない。勝つためのセオリーを詰め込んだ、まるでプロのレーサーがそうであるように、徹底的に無駄を排した勝つための走りだ。

 明らかに進化していた。

 速見俊介という男は、この2年間惰眠を貪っていたわけではなかったようだ。

「それでこそ!」

 ヒロシは口を笑みの形に歪めた。

「俺の憧れた人ッス!」


 ※


「速見が変わった……いや、化けた?」

「いや違う」

 大沼駅で堀井と落ち合った相川は、ともにモニターを見ながら呟きあった。

「違うんだ。アレが腐る前の、本来の速見俊介の走り方なんだ」

 プロのレーサーになりたい、そう言ったあの日から、俊介の走り方は少しずつだか変わっていた。ドリフトも使わず、ブレーキングを中心に丁寧に走ることを心がけ、少しでもタイムを縮めようとしていた。

 普通の走り屋とは違う、一つ上のものを目指した走りだ。

 楽しく走れれば良い、そんな仲間たちの中に居ても、一人でも速くなることにこだわり続けたのが俊介だ。

 それは日々が織りなす、父親との確執や、上手に行かなかった就職活動、プロレーサーにはもうなれないとう暗澹あんたんたる思い――様々な膿に塗れて淀んでしまったが、今ここに来て目を覚ましたのだ。

「あれが速見……」

 堀井が素人目に見ても分かるほどの変化だった。冷徹な機械のように、だが誰にも負けない情熱を込めて、エボⅦと対峙しているその姿は、走り屋という領分を超えているように見えた。あれはレーサーだ。速さの限界に挑む挑戦者の姿だ。

「だから俺は、速見に期待した。俺を越せるのはアイツだと確信したから」

 相川は身体が震えた。その瞬間に立ち会っている実感があった。握りこぶしを作り、手に汗を握りモニターを見つめている。

 エボⅦが先行しているように見えるが、それは逆だ。俊介によって、先行させられているのだ。

 おそらく俊介が一度でも前に出たならば、もはやエボⅦは追いつけないだろう。だからこそ、ヒロシは必死になって前を走っているにすぎない。


 ※


 コースは中盤に差し掛かり、緩い曲線を描いた直線が連続するコースに入った。

 性能差でエボⅦが前に出るが、すぐ後ろにはS15がいる。

 急激なブレーキの使いすぎて、エボⅦのタイヤは温まりすぎていた。地面を掴むグリップ力が低下して、ストレートに入っても本来の性能を発揮できずにいる。

 一方、丁寧に走っていた俊介の愛車には、まだタイヤに余裕があった。

「これが狙いだったのか」

 舌を打ち、ヒロシは強引な走りをしていたことに気付き始めた。

 車の性能だけで勝てる相手ではないのだ。速見俊介という男は。

 だからこそ憧れた。一緒に走る事を夢見た。

 先日、無様なミスでS15が事故を起こした時、落胆の気持ちしかなかった。だから心の中で俊介を過小評価してしまった。過小評価していたが故に、車の性能に任せた乱暴な走りをしていたのだ。

 気がついた時はもう遅かった。

 速見俊介の本気は、明らかに自分より早い。

 今、先頭に立てているのは、俊介がこちらを攻めるタイミングを待っているだけに過ぎない。いずれ牙を剥いて襲い掛かってくるだろう。

「でも俺だって! 意地があるんスよ!」

 18歳で函館を離れ、誰も知らない土地で、誰も頼れるものがいない会社で働くのは、不安や孤独にただ耐える毎日だった。

 車を買うという目標があったので、他の同僚のように酒やタバコも飲まず、女がいる飲み屋にも行かず、必要最小限の出費以外は全て貯金に回した。

 その様子を見られて、人付き合いが悪いとも、金に汚いとも言われたこともある。だがそれでも夢の為だと耐えた。しかしヒロシも人の子だ。寂しさのあまり枕を涙で濡らす夜があったのは一度や二度ではない。自分の惨めさに泣きながら食事をしたこともある。

 夢の為に頑張ろうとした。だが、仕事の苦しさに何度も逃げ出そうかと思ったこともある。夜逃げを考えたことすらある。だが、新車を欲しいという気持ちだけで2年間の契約期間を終えたのだ。

 その成果がランサーエボリューションⅦだ。陰で何度も涙を流し、自分の青春を捧げた結晶だ。

 ヒロシは胸を張って故郷に錦を飾りたいだけだった。

 俺はこんなにすごい車を買ったぞ、と。

 だが今の俊介の速さに比べると、自分の苦労が随分と小さかったもののように思えてならない。

 それだけは嫌だった。自分の過ごした時間が間違いだと思いたくはなかった。

「俺は認められたかっただけなんだ、シュンさんに!」

 また一緒に走ろうと言ってもらいたかった。

 また肩を組んで馬鹿話して笑っていたかった。

 なのに久しぶりに会った俊介には、悪態を吐いてしまった。大きいと思っていた背中が小さく見えて、寂しくなったから。

 自分は嫌われてもいいと思った。それでも俊介には目標で居て欲しかった。

 ハンドルを握る手に力を込める。

 しばらく直線が続くので出来るだけ距離を引き離したい。だがスピードを出しすぎればコーナーでの減速も大きくなり、そこをS15は突いて来るだろう。

 このままスピードを上げるべきか、それとも減速して曲がるべきか。

 僅かな迷いがヒロシの判断を遅らせた。

 アクセルペダルを踏む足が少し緩んだ瞬間、ブリリアントブルーの車は攻めてきた。

 今まで後ろにべったりくっついていたはずが、ふいにバックミラーから姿を消した。次の瞬間、S15は真横に居た。

 ウインドウ越しに俊介の顔も見える。

 俊介は迷いもなく、ただ前だけを見つめていた。

 ヒロシはアクセルペダルを全力で踏んだ。

 多少強引にでも差を付けなければならない。

 コーナリング突入、俊介よりも一瞬遅めにブレーキを踏み、身体にかかるGに耐えるために歯を食いしばり、身体に力を込める。曲がりきったところでアクセルをベタ踏み、再加速。ターボが本領を発揮させるまでのわずかな時間を待つ。

 その合間を縫うようにS15もコーナーを抜けてきた。

 二つの車が横一直線になったところで、エボⅦのターボがパワーを発揮して、S15を頭ひとつ分突き抜ける。

 額に汗が浮かんでいるのを感じて、左手の甲で振り払った。

 油断できない。少しの隙も見せられない。でなければこんなに緊張することもない。前を走っている方が緊張するなんて。

 額の汗はまだまだ止まらない。頬を伝わり顎からしたり落ち、着ているシャツにシミを作る。

「まだだっ! まだ負けない」

 ハイビームが照らす暗い道に向かって、ヒロシは叫んだ。


 ※


 ヒロシの走りに変化が出てきたのは、誰よりも一緒に走っている俊介に伝わってきた。

 カーブも前ほど突っ込まなくなったし、直線でも以前のような直進性能の高さを感じない。

 タイヤが温まりすぎているのだろう。あれだけブレーキ任せの走りになればそうなるのは分かっていた。

 淡々と俊介は、自分が走るべきライディングコースをなぞって走る。

 エンジンの回転数を見て、ギアチェンジを繰り返しながら、乗っているスピードを落とさないように意識する。

 勝負をするとこはすでに決めた。

 返しのコースで追い抜くのだ。

 まもなく折り返し地点にたどり着く。一時停車してから進行方向を変えるというまどろっこしい方法では勝負にはならないので、強制的に車を180度方向転換させるスピンターンを使う。

 頭ひとつ分、先を進んでいるエボⅦがさらに速度をました。こちらよりも先にスピンターンをするつもりなのだろう。

 衝突事故を避けるために、俊介の車もわずかに速度を落とした。

 折り返し地点に、ギャラリーが待っているのが見える。

 彼らは勝負どころであるここを見るために、ずっと待っていたのだろう。

 そして折り返し地点に到着すると、エボⅦはドリフトするかのように車体を横にさせると、そのままスピンする要領で頭をこちらに向けてきた。エボⅦのハイビームがこちらの顔を掠めて、通り過ぎていく。

 次は俊介が折り返す番だ。ハンドルを左に切って、クラッチを蹴ってスピンターン。スキール音と共にタイヤ痕から白い煙を立ち上らせて、車は半円を描くように動いて180度回転。

 すると――

「頑張れ! シュン!」

 エンジンとマフラーが爆音を響かせている中、不思議なことに馴染みのある声が耳に届いた。

「負けて帰ってきたら許さねえからな! そんなしょっぺえこと俺が許さねえからな」

 ――ショウだ。

 口元に笑みが浮かんだ。ショウはここで応援してくれていたのだ。おそらくは大沼駅のモニター前でも、相川が、堀井が、声を限りに応援してくれているはずだ。

 そう思った瞬間、四肢に力が巡ってきた。

「勝つさ」

 短く答えて、俊介は緩めていた口元を引き締めて、先ほどエボⅦが駆け抜けていったコースを見据えた。ここからが反撃の時だ。

 元々俊介は、半周コースは返しのコースの方が早かったのだ。勝負をかけるのなら、ここしかないと最初から決めていた。

 アクセルを踏み、ギアを上げ車の速度を上げていく。

 前面から押し付けられるGに負けないようにハンドルをしっかり握り、運転席に背中を預けて追走を再開する。

 ――ここからは全て5速だ。

 それは以前の俊介には出来ないことだった。安全マージンを取り、落とせるコーナーは四速に落とすようにして走っていた。だが今ならば出来る、という自信があった。

 アクセルを踏むと、応えるようにエンジンがいななった。

 ――頼むぜ、イチゴー。俺の、愛車

 そこから俊介の快進撃が始まった。

 スピンターンのときに2秒ほど差が付いていたが、俊介の車は猛追を見せて、すぐにエボⅦのテールライトが見える距離にまで近づいた。

 タイヤの消耗の激しいエボⅦは序盤とは違い、強引なコーナーリングもせずに確実なグリップ走法で走っていた。

 一方、これまでタイヤを気遣って走っていた俊介にはその心配はない。思い切り走ることが出来るのだ。

 スピードを上げて距離を詰める。怯えたようにエボⅦが逃げる。だがじりじりと距離を詰めていくS15からは逃げられない。

 やがてスカイブルーの車と、ブリリアントブルーの車は完全に並んだ。

 俊介がちらりと相手の運転席に視線を送ると、怯えた表情のヒロシが居た。

 ――そうだよな。車の性能的に、負けるなんて考えないもんな、と俊介は思った。

 だが実際、最新の高性能車であるはずのランサーエボリューションⅦは、S15に圧倒されていた。

 そう、車の性能がいいから速いのではない。

 どんな車でも、人が、速く走らせるのだ。

「これで終わりだ、ヒロシ」

 コーナーに入り、俊介は封印していたドリフトを開始した。

 タイヤがアスファルトに焼き付き、白煙が立ち上る。

 1秒遅れて、エボⅦもコーナーを抜けてきた。

 だがこの時点で勝負はあった。

 コーナーごとに差は開いていき、エボⅦ自慢のターボによる直進性能を持ってもS15を捉えることは出来なくなっていた。


 ※


「おい、エボⅦ相手に3秒差つけてるぞ、あのイチゴー。プロとやった時本気じゃなかったのかよ!」

 半分悲鳴の混じった声で、札幌チームの男が声を上げた。

「本気だったと思うよ。本気の種類が違うだけで」

 相川が腕時計を見ながら答える。

「今の俊介は、走り屋としての自分の全てをかけて走ってるんだ。そりゃあ今までで一番速いさ」

「相川さん、時計見てどうしたんですか」

 堀井が覗きこむと、相川は顔を上げた。今にも泣き出しそうな、だが嬉しそうな笑顔を浮かべている。

「タイムを計っていたのさ。シュンのベストタイムは7分と少しだ。だけどこのまま行けば、6分を切るかもしれない」

「すごいことなんですか?」

「すごいさ。平均時速95キロで走ったとしても、半周コースは6分50秒はかかる。ということは、今のシュンの平均時速は――110キロから120キロ相当だ。俺なんかよっぽど速いよ。やっぱり俺よりも上手くなってたんだなぁ、シュンは」

 堀井は掛ける言葉が見つからず、ただただモニターを見つめていた。


 ※


 すでにエボⅦは追い抜いた。

 だが俊介はまだ限界を目指して走っていた。自分の限界を、相川が作ったベストタイムを超える為に。

 不思議と集中力が冴えている。コーナリングでGに耐えるために体力を使うので疲れているはずなのだが、疲労感もない。あるのはただ、高揚感。

「超えるんだ俺は」

 小さく呟いた。

 何のために走っているのか。走ってどこに行きたいのか、その答えを確かめに。

 最後のCの字カーブを難なく抜け、最後の直線に辿り着いた。

 クラッチを踏み、ギアを六速に入れる。アクセルを踏んだところで――

 ふいに、俊介の横に誰かが走っているのを感じた。

 慌てて横を向く。

 そして俊介の時間は止まった。

 そこにはなんということはない普通のセダンに乗った親子の姿があった。

 父親と優しそうな母親、子供はウインドウに両手を付けてどこか見ている。

 ――ああ、これは俺だ。

 俊介は思った。幸せだった頃の幻影だ。

 ブリリアントブルーの水平線を見て、幸せそうにしている俺の顔。

 でもこれは過去だ。もう何をやっても戻ることの出来ない過去なんだ。

 俺は車が楽しいという事を思い出した。

 イチゴーとならどこまでだって行ける。

 だから、父さん、母さん。

 俺は行くんだ。

 幸せだった頃を象徴する色を超えて、ブリリアントブルーの向こう側に。

 新しい道を探しに。

 止まった時が動き出した。

 俊介は思い切りアクセルを踏みしめたまま、ハンドルを握り、前方を見据えた。

 遠くにあるはずのゴールラインが、何故か近く見えた。


 ※


 一夜の祭りは終わった。

 編集者たちはチームの皆をホテルに返すと、機材やモニターを片付けて早々に退散してしまった。これからは編集作業に明け暮れるのだろう。

 集まっていたギャラリーたちも、編集者たちに合わせて戻っていった。

 大沼公園に、再び静けさが戻ってきたのだ。

 その静けさの中、ブリリアントブルーの車から降りた俊介は、無言のまま空を見上げていた。最後に見たのは幻だったのだろうか、未だ分からず夢心地だ。

 そこへランサーエボリューションⅦに乗ってきたヒロシがやってきた。ヒロシは車を降りると、俊介の前に立ち、深々と頭を下げた。

「シュンさんすいませんでした。生意気なこと言って調子に乗って。一発殴ってください」

「いや、ヒロシのお陰で俺は目が覚めたよ。お礼したいのはこっちだよ」

「でもそれじゃ俺の気が済まないッス。どうかお願いします」

「おう、じゃあ俺が代わりにぶん殴っとくか」

 S15の後部座席に乗っていたショウが、指の骨を鳴らしながらやってきた。目つきを見ると割りと本気のようだ。

 俊介は彼の前に立つと、その握り拳を手で抑えて、穏やかな声で行った。

「ショウ、もういいんだよ。本当にいいんだ」

「シュンさん……」

「それよりも、ヒロシお前は本当にすごい車買ったな。今度また一緒に走ろう」

 俯いていたヒロシの目から、涙が溢れてきた。

「本当ですか? また俺なんかと走ってくれるんスか」

「当たり前だろう。仲間じゃないか」

 俊介が優しく声をかけると、ヒロシは声を上げて泣き始めた。

「四駆の乗り方、まだ良くわかってないだろ。また相川さんに教えてもらおう。そうすれば、もっと速くなれる」

「はい、俺頑張るッス」

 手の甲で涙を拭うヒロシ。落ちついたようなので俊介は、携帯電話を取り出して相川を呼び出した。すぐに反応があった。

「はい、シュンです。ヒロシとはもう仲直りしました。明日にでもまた一緒に走ります。

――え? 俺のタイム、相川さんを超えていたんですか」

 その言葉にショックを受け、俊介はしばらく呆然とした。

 打倒相川は目標であった。だがヒロシとの戦いでそれを超えてしまったとは思いもしなかった。

「そうですか。じゃあ俺、次の目標探さないとダメですね、はは。それで堀井は? 無事に家に帰れたんですね。なら俺達も全員帰ります」

 俊介は携帯を折りたたむと、ポケットに入れた。そこに居るショウとヒロシに告げる。

「堀井も家に帰ったらしい。今日はこれで解散だな」

「そうだな。面白い勝負だったぜ」

「はい、次こそは車の性能に頼らない走りしますよ」

 次々と返事が帰ってくるのを、俊介は微笑んで聞いていた。

 この調子ならばきっと大丈夫だろう。

 俊介は夜空を見上げた。父親に告げたことを実行する時が来たのだろう。

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