第5話  最終章 真実の門に立つ者、あらゆる希望を捨てよ

 最終章 真実の門に立つ者、あらゆる希望を捨てよ


 むかしむかし、ある国に、一人の悪い王様がいました。王様は、一人の女の子をいじめていたからです。女の子が炎に触ったらあつい思いをさせ、氷に触ったらつめたい思いをさせました。その度に女の子は泣いてしまいます。そんな王様を、国の民はよく思っていませんでした。

 ですけれど、本当は違ったのです。王様は女の子が大怪我をする前に、あぶないぞと、教えていただけだったのです。

 そこへ、一人の女性が現れました。彼女は女の子を守るため、痛い思いをさせるのではなく、避けることを考えついたのです。炎には触らない。氷には触らない。これなら女の子は怪我をしませんし、痛い思いをすることもありません。

 国の民は女性を歓迎し、女王様にしました。そして女の子を痛めつける悪い王様は追い出され、一人ぼっちになってしまいましたとさ。


 私は真っ暗な世界を走っていた。不気味な世界を一人っきりで。でも、こんなことはあり得ない。私は確かに自分の部屋で寝ていたのだから。そう、だからこれは現実ではない。

 これは夢だ。

 黒い世界を私は走る。もう何度目になるかも分からない悪夢を永遠と見続ける。

 開ける。駄目。

 開ける。違う。

 開ける。ここでもない。

 見つからない少女を何度も探して、助けを求める彼女を何度も救えなかった。

 これはなに? いじめられていた私の心が生んだ世界? それとも別のものなの?

 今日も彼女は救えない。無数の扉は墓標のように立ったまま、私は黒い世界に立ち尽くす。

 でも、諦めない。ここで救えなくても。きっと助けてあげる。

「助けて……、タスケ、テ……」

「ええ、助けてあげる。必ず」

 私は黒い世界を見上げながら宣言するように呟いた。そして言葉を言い終わった後、扉の裏から白うさぎが現れる。

「やあ、ご機嫌ようアリス。一緒にワンダーランドへ行こう。ついに、――その時だ」

 瞬間、私の意識が遠ざかる。眠りに落ちていくように。抵抗に意味はない。何度も試したけれど無駄だった。ただ、私は抗うように思い続けていた。

 助けてあげる、必ず。

「あなたを、助けてあげるから……」

 黒い世界は悠然と、存在しながらも遠くへと消えていった。


 朝、目が覚める。カーテン越しの日差しと小鳥たちの小さな会話、そして、目の前の女の子の息遣いを感じながら、私は朝を迎えていた。

 上体だけを起こして久遠を見下ろしてみる。安らかな寝息を立てて寝ている顔は見ていて愛らしい。けれど。私は久遠の肩に手を伸ばした。

「久遠、起きて。朝よ」

「う~ん……、もう朝ですか?」

 肩をゆすり久遠の口から寝むたそうな声が出る。目を擦りながらゆっくりと体を起こし白い髪がさらりと肩から落ちる。そして私を見ると、にっこりと笑った。

「おはようございます、アリスさん」

「ええ、おはよう」

 彼女の笑顔、透き通った綺麗な笑みで朝の挨拶を受ける。いつもとは違う特別な光景に私の胸は浮ついてしまう。このまま二人で遊びに行けたらどれだけ楽しいだろう。

 でも、それはまた今度。どれだけ望んでもやらなければならないことがある。目的を履き違えてはならない。

「行こう、久遠。私の夢はまだ終わっていないから」

 久遠は私の言葉に「はい」と、笑顔のままで元気に答えてくれた。


 私たちは学生服に着替え、母校である小学校に着いていた。そこにある懐かしい校舎を見上げ思わず声が出る。

「うわ~」

「ここがアリスさんが通われていた小学校なのですね」

「うん、懐かしい。何年ぶり? 三年かな、ぜんぜん変わってない」

 私は目を輝かせて正門の向こう側をのぞき込む。正門を通った奥にある、三階建ての白い、ちょっと汚れの目立つ校舎。さらに奥には校庭があって広いグラウンドがある。人気はなく静かだが、そこはかつての思い出が補完してくれる。思い出そのものとも言える場所に、アルバムとはまた違った感慨深さがある。

 昼休憩は外で遊ぶのが決まりで、みんなで縄跳びしたのを思い出す。それは確か小学二年生の頃だと思うけど。

「どうですかアリスさん、何か思い出しましたか?」

「うん、思い出したは思い出したんだけど……」

 横から聞いてくる久遠に答えつつ学校を見渡す。頭の中で再生される懐かしい記憶はあった。校庭では運動会をしたし、体育館では演劇をした。どれも楽しい思い出だ。でも、私の表情は線香花火のように明るさを消す。

「肝心の記憶は思い出せてないかも。頭痛はないし、異変も起きてない」

「そうですわね。アリスさんからの説明ですと、記憶を思い出そうとすると黒い世界が現れるはずですので、それが出現していないということはまだ思い出せていないということですわね」

 久遠の説明通り、私は肝心の記憶を思い出していない。だから世界はこのままなんだと思う。

 今度は裏門に回ってみる。空は快晴の青空だが、裏門の敷地には青葉に変わった桜が並び、校舎が日差しを遮りここ一帯は日陰になっていた。私は辺りを見渡すが、特に利用する機会もなかった裏門だからか、別段思い出すことはなかった。

「うーん」

「駄目ですか?」

「ごめんね久遠、ちょっと駄目みたい」

 心配そうに訪ねてくる久遠に申し訳なく謝る。せっかくつき合ってくれているのにこのままでは徒労に終わってしまう。

 さて、どうしようか。私は渋面になるも再び校舎を見上げる。

「…………」

 暗い日陰に立つ校舎。無人の学校は廃墟にも似た雰囲気を伴って眼前に聳えている。なんだろうか。それが、特別な感じとして私に伝わってくる。そう思った。

 ここに私が忘れている重大な記憶がある。直感がするのだ。それをもう少しで思い出せると感じてる。私は食い入るように見つめ続けた。けれどこれ以上は。掴めそうで掴めない。

 私は苦戦する。そこへ、久遠が提案を持ちかけてきた。

「アリスさん、いっそのこと、入ってしまいませんか?」

「え? もしかして、学校に?」

「はい」

 久遠のアクティブな発言。私は少し驚いてしまう。どうしようか。そりゃ、入って見れば他にも思い出せるかもしれないけど。

「でも、勝手に忍び込むのはまずいんじゃ」

「なにを言っているのですか。それは確かにいけないことですけれど、こんな状況で、それを気にしている場合ではないはずです」

「そ、それもそうね」

 私が躊躇っていると久遠は私の肩をつかみ顔を寄せてきた。私は驚きながらうんうんと顔を縦に振る。なんか久遠、私よりも乗り気。というか。

「もしかして久遠、楽しんでない?」

「そ、そんなことありませんわ~……」

 あ、この子絶対楽しんでる。目が泳いでる、そして好奇心に輝いてる。

「わ、わたくしのことはいいんです。では行きますよ。アリスさんは見張っていてくださいね。よっ」

 久遠は私から離れると、左右を確認してから裏門を登り始めた。てっぺんに手を掛け体を乗せる。勢いのある久遠の行動には驚かれっぱなしだ。そんな風に思っていると、久遠が足を持ち上げ門に乗せた。その際にスカートがめくれ、白の下着が見えてしまう。

「ちょっと久遠、パンツ、パンツ見えてるわよッ」

「し、仕方がありませんわ!」

 久遠が焦り始める。どうやら恥じらいはあるらしい。そんなこんなで無事久遠は渡り終え向こう側へと着地した。

「アリスさん、早くこちらへ」

「いや、やっぱり私は~」

「私が見張ってますから」

 うー。

 久遠の説得に促されるままに私も門に手を掛ける。誰もいないか左右を念入りにチェックして。そして意を決しえいと門を登り向こう側へと降りた。地面に両足を揃えて着地する。

「っと」

 なんとか学校へと入れたみたい。背後を確認しても誰もいない。セーフ。

「アリスさん、それでは今度は校舎の中に入ってみましょう」

「え?」

 が、ホッとしていた私にまたも久遠が衝撃発言をしてきた。驚いて久遠を見るが目をメラメラと燃やしている。

「いや、さすがにそれはまずいんじゃない?」

 そんな久遠とは違い私は二の足を踏んでしまう。黒い世界の悪夢を終わらせたとは思う。でも校舎に入るっているのは、抵抗感が強い。

「大丈夫です! 私がついてます!」

「いや、ついてますって」

 久遠は両腕を胸の前で折り曲げ自信満々に言う。そんな久遠は輝いていた。こんなにやる気に燃えている彼女は見たことがない。

「ささっ、行きましょうアリスさん」

「行くって、そもそもどうやって入るのよ? って、待ってよ久遠~!」

 一人で歩き始めてしまう背中を慌てて追いかける。私のためにこうも頑張ってくれるのは嬉しいけれど、ちょっと強引なんだから。

 私は久遠の横に並び彼女に従って歩いていく。周りに人がいないかおどおどしながら歩く私とは違って久遠の足並みは迷いがない。真っ直ぐと歩く姿勢はたくましいなと思ってしまう。

「さ、こっちですわアリスさん」

 私の手を引き、陽気すら感じさせる声色には「はあ」と感嘆すら覚える。

 そして久遠の先導のまま私たちは校舎の角を曲がり、一番近くの玄関口に来ていた。しかし両開きの鉄扉は当然のごとく閉まっていて入れない。これではどうしようもないが、そこで、ふと別の疑問が浮かび上がった。

「ねえ久遠、どうしてここに入り口があるって分かったの?」

 そういえばと思い出す。久遠に引かれて歩いて来たけれど、この扉は角を曲がった先にあった。要は、裏門の位置からは見えないはずなのに。

 久遠に質問してみるが、久遠は答えず扉を見ている。するとスカートのポケットに手を入れ、そこから大きめの鍵を取り出したのだ。

「え? もしかしてその鍵って」

「さ、こっちですわアリスさん」

 私の質問には答えず久遠は鍵穴に鍵を入れる。鍵は見事に一致しがちゃりと重い音を立てて開いた。

「さ、こっちですわアリスさん」

「で、でも久遠。どうしたのその鍵? なんで久遠がここの鍵を持ってるの?」

 なにがなんだか分からない。目の前にいる久遠が手品師に見える。いったい私はなんのトリックを見せられているの?

 私はけっこう真剣な態度で久遠に聞くのだが、またしも久遠は答えてくれなかった。校舎の中に入ろうと視線を中に向け急かすばかりで。

「さ、こっちですわアリスさん」

「それよりも答えてよ久遠、どうして久遠が鍵を持ってるの?」

「さ、こっちですわアリスさん」

「だから」

「さ、こっちですわアリスさん」

「……久遠?」

 そこで、私はようやく久遠の異変に気づいた。久遠の顔が私ではなく扉の奥に向いていたからかもしれない。横顔だけではよく分からなかったから。

 彼女の瞳は、なにも見ていなかった。前を向いているだけで焦点が合っていない。眩しいほどの笑顔はけれどメッキのように見えてきて、急に私の背筋が寒くなる。嫌な予感が、全身に充ちる。

「ねえ久遠、私の質問に答えて! 私を見て!」

「さ、こっちですわアリスさん」

 久遠は私の言うことに耳を貸さない。そればかりか、私の腕を掴み強引に玄関へと入り始めた。

「久遠、待って。痛い!」

 私の腕が締め付けられる。強いなんてものじゃない、痛い。久遠の力、ううん、女性とはとても思えない。

 私は久遠に引きずられるように玄関へと入った。大きな靴箱が並びそれぞれの上履きがしまわれている。玄関の先はT字になっていて、薄暗い玄関を廊下の窓が微かに照らしている。

「離して、久遠! お願いだから離して!」

「あ」

 玄関のちょうど真ん中で久遠は立ち止まり手を離してくれた。私は久遠から一端離れ、すぐに腕をさする。そこには久遠に握られた跡がくっきりと浮かんでいた。

「久遠、どうしちゃったの?」

 私の前、後ろ姿を向ける久遠の表情は分からない。なにを考えているのかも。

 久遠は立ったままじっとしていたが、しばらくしてから、ぽつりと呟いた。

「声を、聞きましたの。ここへ来るように、囁く声を……」

「声? でも、そんなの私には聞こえなかったけど」

 声どころかここに来るまで誰にも会っていない。影すら見なかった。辺りに耳を澄ましてみても声は聞こえない。

「ねえ久遠、さっきからどうしたの。なんか今の久遠ヘンだよ」

「……思い出しましたわ」

「え?」

 静かな声でいわれた言葉は聞き逃しそうだったが、私は確かに聞き取った。思い出した? え、久遠が?

「思い出したって、なにを? え、久遠も、もしかしてここの生徒だったとか?」

 そんなことを忘れているものなのか否定的な思いはあるけれど、久遠の言葉はそうとしか思えなくて。 

 私の質問に久遠は答えてくれない。私に振り向いてくれるが、しかしゆっくりと顔を横に振りながら後ろに下がっていく。まるで私を恐れるような、もしくは何かに怯えているような表情で。

「私は、そんな……、そんな……」

 とても怯えてる。細い体の震えが尋常じゃない。地面を見つめたまま体を抱きしめ、なにかを呟いてばかりだ。

「く、久遠? どうしたの? ねえ。どうして離れるのよ」

 後退していく久遠に近づくために私は足を出そうとする。

「来ては駄目ですわ!」

「!」

 しかし、久遠の強烈な言葉に出掛かった一歩が止まった。久遠は両腕で自分を抱きしたまま、体の震えに耐えている。

 そんな異常な状態で、久遠は私を見つめる。その際の表情が、絶望を知ったように青ざめている。

「アリスさん、私は……、知らなかったんです……」

「なにを? 教えて久遠、なにを知らなかったの? なにを思い出したの?」

「私は、本当に知らなかった。今まで、今の今まで。でも……」

 なに? なにがどうなってるの? なんでそんなに怯えてるの? なにを思い出したの? まるで分からない。急なことに、なにがなんだか。

 混乱する私を見つめ、久遠の瞳に涙が浮かび始める。薄暗い中で光る一滴が、久遠の頬を流れ落ちた。

「ごめんなさい……」

「久遠!?」

「あ、あああああ!」

 途端、久遠の悲鳴が玄関に広がった。身を捻らせ激痛にもがいている。私は急いで駆け寄ろうとするが、さらに異変が起こった。

 玄関の扉が独りでにバタンと閉まる。さらには窓から差し込む日差しがなくなり、空が暗黒に包まれる。校庭も影に覆われ漆黒と化した。そして、

『助け、て。ザッ、ザー……、タス――ザッ――ケ、テ……』

「そんな!」

 久遠の悲鳴に混じって小女の声が聞こえ始める。黒い世界の出現。よりにもよってこのタイミングで?

「久遠!」

 久遠は今も苦しんでいる。私は止まっていた足を動かし久遠に近づく。しかし、そんな私を強い目つきで久遠が見てきた。

「近づいては駄目です!」

「でも!」

 制止を求める久遠の叫び声。その瞬間、久遠の悲鳴が一段と高くなった。

 久遠が体を丸める。リボンが解け白い髪を振り乱し、体を抱きしめて、

「ああああああああああ!」

 最も大きな久遠の悲鳴を最後に、一瞬で、体が、――潰れた。

「えっ」

 全身がビー玉ほどの大きさにまで縮まり空間に浮遊している。私はあまりの驚愕に声がひきつり、何も言えなかった。

 すると縮んだ久遠の体、そこから腕と足が生え出した。みるみると体を作り、膨らんでいく。最後に顔が現れ、廊下に立った。

「そんな……」

 そこに現れた人物。それを目にした瞬間、驚愕は衝撃となって私を襲った。

 何故なら。それは、それは、その正体は。

「やあ、ご機嫌ようアリス。ワンダーランドの入り口へようこそ」

「白、うさぎ……!」

 そこにいたのは、悪夢の最後に必ず現れる、あの白うさぎだった。外見は小学生ほどの男の子。黒のタキシードにシルクハットを被り、うさぎの耳と足をしている。帽子に片手を当ててお辞儀をした後、笑顔と共に両手を広げた。

「いやー、こうして会うのは初めてだねアリス。ようやく会えた。いつも夢の中でしか会えなかったのは寂しかったよ。そしてこうして会えたことに、僕は今興奮を禁じ得ない。観測者、黒木アリス。世界を観測し創造する存在。君に出会えて光栄だよ、アリス」

「どうして、ここに……」

 衝撃が頭を貫く。白うさぎの登場に酩酊感すら覚える。どうしてここにいるのか。目眩に体がふらつきそう。

「ああ、不思議だろう? でも簡単な話さ。ここは黒い世界。メモリーの影響により生まれた、表層世界と深層世界が融合した特異点。だからこうして僕はここにいられるんだ、深層世界の住人でありながらね」

 白うさぎは得意気に語る。浮かべる微笑は夢の時と変わらない。

 それよりも、私は気にするべきことを口にした。

「久遠は? 久遠はどこ?」

「おや、おしゃべりは嫌いかい? それとも年下が好みじゃない? それなら」

「久遠はどこ!?」

 私の大声が廊下に広がる。

 ここに白うさぎがいる。その目的。気になる点はいくらでもある。でもどうでも良かった。

「教えて白うさぎ! ここにいた女の子はどうしたの? どうなったの? 私の友達なの、教えて白うさぎ!」

 私は頼み込んだ。何よりも気になるのはそれだから。

 久遠はどこに行ったの? さきほどまでいた久遠は偽物? なら本当の久遠はどこ? いつすり替わっていたの?

 私の質問に、けれど白うさぎは両手を上げて顔を振った。

「まったくアリスはせっかちだなあ。でもうれしいよ、君が折紙久遠を大切に思ってくれて」

 そう言う白うさぎは陽気で、何気ない様子のままだった。

「だって、僕が久遠だ」

「うそ」

「いいや、僕が折紙久遠その人さ。彼女はもう一人の僕だ。表層世界用のね。折り紙、いい名前だろ? 一枚の紙からいくつにも姿を変える。ワンダーランドでは特徴を名前にするのが通例でね、我ながらよくできてる」

 私の頭が冷静さを欠いていく。白うさぎが久遠? 久遠が白うさぎだった? まさか、そんなのあり得ない。

「嘘よ! だって久遠は、久遠は。ずっと一緒だったもの。入学して一緒のクラスになってから、何ヶ月も前から!」

 白うさぎの言葉は嘘だ。自分にそう言い聞かせて、私は必死に否定する。あの優しくて、品があって、強い女の子。久遠が偽物だったなんて、そんなことはないと。

「お前が久遠なわけない!」

 前に出かかる体を必死に抑えて、私は叫んだ。

「はじめまして、わたくしは折紙久遠といいますの」

「え」

 そこで、聞こえてきた声に表情がハッとなる。白うさぎの声は男の子のものではなかった。それは朝によく合う澄んだ声で。

「よろしくお願いします。その、よろしければお友達になりませんか? せっかくのお隣同士ですもの」

 それは私と久遠が初めて出会った時の言葉だった。私は唖然としてしまって、言い返す気力すら失っていた。

「どうだい、初対面の挨拶を二度受けた気分は」

「そんな……」

 白うさぎが誇ったような笑みを作る。私はその場に立ち尽くし握っていた拳を解いた。感情が、すーと引いていく。

 何年もずっと見続けている黒い悪夢。そこに現れる白うさぎが、ついに、現実世界にまで現れた。

「あなたの、目的は何……?」

 私は辛うじて聞く。力の抜けた声を出すが、それを聞いた白うさぎは口元をニヤリと曲げた。

「僕の目的だって? 忘れてしまったのかいアリス? もう何度も何度も、何年も前から言っているじゃないか」

 白うさぎが姿勢を正す。朗らかな声で、両手を広げて、大仰な仕草で私に告げる。

「ワンダーランドへと行こう! 僕は不思議な国への案内人。君を招待しようアリス。観測者の君がワンダーランドへと来れば、そこで体験する心の動きは深層世界へとフィードバックされ世界そのものを変えるだろう。意識世界は一新され新たな世界を構築する。どうだい、面白そうだろう? 楽しみだろう? わくわくするだろう? 僕はそれを見たいんだ! 新世界の誕生を!」

 白うさぎは天井に向かい声を響かせる。本気なのか冗談なのか。演じるように言う彼の真意は分からない。

「けれど僕だけでは不可能だった。だから協力してもらったのさ、彼らに」

「彼ら?」

「さあ、来るがいい。約束を果たそう。母親はここだ!」

 白うさぎの大きな呼びかけに応じるように彼の背後の空間が歪んだ。波紋が伝わる水面のように。同時に頭を激痛が走る。悪寒が込み上げる。狂おしいほどの吐き気と狂おしいほどの目眩を伴って。寒気が走り、心は凍り、身動き取れない。そして、

「オオオオオオン!」

 恐怖が絶頂に達する時、それは歪んだ空間から現れた。

「あっ」

 メモリー。全身に触手を持つ化け物。廊下すらその巨体では狭く、胴体を横にして顔だけを私に向けている。頭を天井にこすり付け、赤い一つの目、大きな口を開き雄叫びを上げる。その度に体は竦み息が止まる。恐怖に、呼吸が出来ない。

「アリス、君はいけない子だ。せっかくの我が子をこんな姿に変えてしまって。見てごらん、このおぞましい姿を。不気味な姿を。君がこうしてしまったんだよ、アリス?」

 白うさぎは謳うように言う。目の前の恐怖を、私の罪と罰を見せつけるように。

 もう何度目にもなるこの感覚を、けれど味わう度に初めてのように私は震える。

「あ、あ……」

 全身は硬直し、戦慄は思考することを許さない。指先と唇が意思を離れて震えている。

 怖い。怖い。これが怖い、何よりも。この目が怖い。この声が怖い。あらゆるものが怖い。血の色をした赤い瞳に闇と同じ姿をして、私に見せつけるのだ。恐怖を。

 駄目だ、このままでは。このままでは駄目だ。そう思うのに頭が上手く働かない。一人ではないと信じていた、その心の支えすら裏切られ、私は一人で怯える。駄目だ、このままでは、私……。

 すると白うさぎが手を翳し、興奮した様子で言ってきた。

「さあアリス! この扉を通るんだ、ワンダーランドが君を待っている!」

 私の隣、廊下の横に突如扉が現れた。薄闇の校内で一際目立つ純白の扉が。

「黒い世界にずっといたくはないだろう? このままだとメモリーに襲われちゃう。すぐだ、すぐ殺されちゃうよアリス。殺されるのは嫌だろう? だからさあアリス! 急いで急いで!」

「私は……」

 白うさぎが急かす。ぴょんぴょんと地面を跳ねて、早く早くと扉の前で手招きする。

 メモリーが這って来る。いくつもの触手を用いてほふく前進のように、みるみると、大きな顔を私に近づける。

 このままでは私は狂ってしまう、恐怖に思考を焼き切られ、精神を破壊されて。逃げ場はない、この扉しか。この扉を通って逃げないと、どの道殺される。

 私は動く。多大な恐怖の中必死な思いで動かした。けれどそれは足ではなく、口だった。

「だ、駄目よ……、だめ」

 震えていてうまく喋れない。呂律が回らない。平衡感覚もなくなり自分が立っているのかも不確かな状態で、けれど私は話し続けた。

「だめよ、だって、あなた言ったもの。私がワンダーランドに行けば、世界が変わるって。そんなのは、だめ」

 立っていられなくなり、私はその場に崩れた。けれど、喋り続ける。浮かんだ思いが私にはあったから。

「それはきっと、たいへんな、ことだから……」

 私が深層世界に行ったら具体的にどうなるのか、それは分からない。でも世界が変わるというのなら、そこにも住人がいるのなら、起こるのは混乱だ。そんなのは出来ない。すでに、表層世界は変わってしまった。なのに、さらなる変化を起こすことなんて、出来ない。

 息が苦しい。肺が動いてくれない。死にそう。けれど、私は白うさぎを見上げた。

「そうか」

 私の答えに、白うさぎが呟いた、ピンと立てていたうさぎの耳を垂らして。残念そうに。けれど目は諦めておらず、ぎらりと光っていた。

 その表情が、途端に冷静になった声が、怖かった。

「どうやら恐怖が足りないようだ。逃げ出したくなるほどの」

 そう言うとメモリーが叫んだ。肌に感じるほどの息が吹きかかり体がぐらりと揺れる。頭を殴られるほどの悪臭が周囲に満ちて、光り輝く赤い目が殺意を飛ばしてくる。そして、私にいくつもの触手を伸ばしてきた。

「いいぞメモリー、触れてみるといい。たとえ君のメタテレパシーに耐えれても、直に触れてしまえば精神は今度こそ破壊される。いいね~、発狂した観測者か、それも見物じゃないか。表層世界は年中ハロウィンさ!」

 白うさぎが笑う。メモリーは触手を伸ばす。何本も伸びて、私を取り込もうとしてくる。近づく。近づく。長い舌のような動きで。もう目の前に触手の先端がある。逃げないと。早く立ち上がって逃げないと。そう思うのに、体が、動いてくれない。

「あ……」

 体も心も恐怖に屈して、迫る触手を眺め続ける。

 もう、駄目だった。

「忘却されしメモリー、クトゥルー」

「え?」

「ばかな!?」

 もう駄目だと、そう思った。しかしその直後に聞こえてきた声に、全身の硬直が解ける。

「母親を前にして興奮しているな」

 それは傲慢に。冷厳に。声は侮蔑すら含めて黒い世界に響く。

「しかし、遊びは終わりだ」

 瞬間、廊下の窓が割れ人影が私の前に入り込んできた。ガラスの破片に混じり、純白のコートを翻して。黒い世界に颯爽と白が登場する。それだけで、

「ホワイトぉお!」

 私の心は、彼の名前を叫んでいた。

「待たせたな」

 ホワイトが、そこにいた。大きな背中を見せて、顔だけを私に向ける。さらさらの銀髪の奥から青い瞳が見える。もう会えないかもしれないと思った。もし会えたらなんて言おうか、いろいろ用意もしていた。だけど、何も言えない。気持ちが溢れてしまって。私の胸は一杯で、ただ、ホワイトを見るだけ精一杯だった。

「馬鹿な、どうやって僕の迷彩結界を」

「二度も俺に同じ手が通用すると思うなよ、白うさぎ」

 ホワイトが白うさぎを見下ろす。冷厳な視線が刺し貫くほどの威圧を伴って、驚いている白うさぎに注がれる。

 そこでホワイトは白うさぎではなく、振り返ることなく私に聞いてきた。

「アリス、走れるか」

「え?」

「遅い」

 突然の質問に答えられなくて、つい聞き返してしまった。そんな私を遅いと叱咤しながら、

「ちょっと」

 ホワイトは振り返り、私を抱き上げた。がっしりと私の身体を支えて、そのまま走り出す。白うさぎとメモリーから逃げ出した。あそこにいるのは良くない、メタテレパシーの影響を受けてしまう。理由は分かる。ホワイトは正しいと分かる。だけど。

「なんでいつも、あなたは強引なのよッ」

「黙ってろ」

 私は拗ねた声でもがいてみせるがホワイトの筋肉質な腕はびくともしない。そんな力強さが懐かしくて、私はあの時を思い出す。彼に抱かれる感触を覚えてる。そこでホワイトが言ってくれた言葉も。

「お前を守るためだ」

 ホワイトは廊下を疾走しながら、そう言ってくれた。守ると。初めて出会った時と同じ。

そして私はホワイトに抱えられ、メモリーたちから逃げ出した。

 白うさぎたちから離れ私たちは二階廊下の突き当たりで止まる。階段と特別教室の前で、ホワイトはゆっくりと私を下ろしてくれた。

「あ、ありがとう……」

 私は躊躇いがちに、けれどお礼だけはちゃんと言っておく。けれど彼は無言。相変わらず無愛想。でも、これが彼。私が知っているいつもの彼だ。

「ほ、ホワイト」

 私は触れてはいけないような、そんな危機感を持ちながら彼に声をかけた。私の危機にこうして彼は駆け付けてくれた。助けに来てくれた。だけどそれが、なんだか悪いことのように思えて。

「どうして」

 ホワイト。見上げる彼はいつも無愛想で冷たくて。何を考えているのか分からない。なのに彼は私を守ってくれる、本当は優しい人。

「どうして、助けに来てくれたの?」

 私は彼になにもしていない。それどころか、私は彼にひどいことを言ってしまった。せっかく助けに来てくれたのに、彼のことを考えず。そんなの誰だって嫌なはずなのに。なのに。

「助けに来てくれたあなたに、私はひどいこと言ったのに。なのに……」

 私は嫌な人間だ。それが自分でも分かる。彼を傷つけるなんて、私にそんな資格ないのに。

「なんで? どうして? どうしてあなたは私を助けてくれるの?」

 私は彼に嫌われても仕方がない。そんな私を、けれど助けてくれるあなたのあり方に、私は泣きそうだった。

 彼に泣いてる顔なんて見られたくなくて、私はホワイトの服を掴んで額を当てた。

「答えてよ、どうして私を助けてくれるのか。そりゃ、……私は可愛いけど、でもあなたになにもしてない。助けてもらう理由なんて、なんにもない! 私は……」

 あなたに助けてもらうばかりで、何も出来なくて、ひどいこともして。なのに私は、

「あなたに、何も、してあげられない……」

 服を掴む両手に力が入る。

「知りたいか」

 そこで、彼が口を開いた。

「当然よ」

「……何故だ」

「だって」

 私は言う。彼に聞きたいこと、それを。ずっとずっと、胸にあったもやもやを。

「私はあなたに感謝したいのよ! でも理由が分からないんじゃ、素直に出来ないじゃない。あなたに本当の気持ちで言えない。こんなにも、あなたは私を助けてくれるのに、私は、あなたのことを知らないのよ? 何ひとつッ」

 それが悔しくて、私の瞼の裏から涙が落ちる。我慢しようとしても、目の端から零れてしまう。

「アリス」

「え」

 すると、ホワイトの両腕が優しく私の背中に回された。そしてそっと抱き寄せられて、私とホワイトは触れ合った。廊下に伸びる二人の影が重なる。私は彼の胸に顔を覆われ何も見えない。でも、彼を一番近くで感じていた。

「泣くな、お前が泣くところは見たくない。ワンダーランドに雨が降る」

 彼の声は温かった。声だけじゃない、私を抱き締める両腕も。

「俺はな、アリス。お前が生まれるのと同時に生まれたんだ。守るために」

「同時に?」

「ああ」

 彼は独白のように語る。彼の告白はどこか儚くて、触れたら消えてしまう粉雪のよう。けれど私の胸に舞い降り積もっていく、そこに込められている、あなたの気持ちをちゃんと感じてる。

 彼が、話してくれた。あんなに聞いても答えてくれなかったのに。

「俺は――」

 どうして私を守ってくれるのか。その問いに、ようやくあなたは答えてくれた。

「お前の、防衛本能だ」

 その時の、ホワイトの顔を見ることは出来なかった。いったいどんな気持ちで私に告げているのか、今何を考えているのかは、やはり分からない。でも、声からはちゃんと伝わってくる。

「知識でもない。心でもない。本能、無意識世界の住人だ。お前を守るために、俺は生まれてきたんだ」

 そこに込められた、あなたの決意。私の胸に届いてる。

 失われた記憶が怪物となって実体化する意識世界なら、他のものが実体化してもおかしくない。知識も、心も、本能も。そして彼は知識でも心でもなかった。防衛本能が実体化した人。だから私を守ってくれる。彼は、私を守ろうとする本能そのものだったんだ。

「だから泣くな。お前を傷つけるもの全て、俺が取り除いてやる」

 理解と納得が胸を透き通る。固い疑問が崩れ、私の胸の内が晴れていく。

「そう、だったんだ」

 彼が私の防衛本能なら、きっと守ってくれたのは今回だけじゃないだろう。それこそ生まれた時から、彼は私を守ってくれていたに違いない。ずっとずっと、私のそばで。

 私は知らなかった。そこにいたのに、私を守っていてくれていたのに。

 この世界には特別なことで溢れてる。それを私が知らないだけで。あなたも、そうだったのね。

「ねえ、ホワイト」

 私は顔を横にして、頬を彼の胸に当てた。

「以前、私が三人の男に絡まれた時、あの時助けてくれた人も、あなただったの?」

 私の問いに、しかし彼は無言。でもそれだけで十分だった。彼は私に嘘をつかないから。

「……そっか」

 私の表情が少しだけ明るくなる。なんだか嬉しかったから。言葉では、うまく説明出来ないけれど。

 私はホワイトの腕から抜け出した。正面に立って、彼の顔がちゃんと見える位置で私は見つめる。

「ホワイト」

「?」

 そこにいるホワイトは、いつもより少しだけ優しい気がした。廊下に立つ彼。鋭い瞳はちょっとだけ柔らかで、薄い表情は冷淡だけど儚さがある。そんな彼を、身近に感じる。

「この一言で足りるかは分からない。ううん、きっと足らない。私は何度もあなたに言わなくちゃ駄目だと思う。でも、時間がないから、一言で言うね」

 私は片手を胸に当てて、そこにある思いを乗せて。

 ホワイトに、真っ直ぐに言った。

「今までありがとう、私を守ってくれて」

 私が育っていく上で、いくつもの危険があっただろう。それを人知れず守ってくれたあなたへ、私はようやく言えた。形式上のお礼じゃない。あなたを知って、理解して、私は初めてあなたに感謝できた。ありがとうと、今度こそ正面から言えた。

「…………」

 ホワイトは黙ったまま、私の感謝を聞いていた。ずっと私を見ながら。そんな彼が「ふん」と小さく呟いて、背中を見せてしまった。

「別に、俺は礼が欲しくてしているわけではない。それが役目なだけだ」

 そう言う彼はやっぱりいつもの彼で無愛想。露悪的というか、人の感謝を素直に受け取らない人。

 でも、振り返るその瞬間、彼の目が光った気がして、私はつい聞いてしまった。

「ホワイト、今、泣いてた?」

「阿呆。本能に心があるか、俺に涙はない」

「そう、よね」

 背中越しにそう言われ頷いてしまう。ホワイトは防衛本能だ、そんなものに心があるはずがない。そう思って、だけどすぐに別の思いが過る。

「え、ならなんで怒ったりする――」

「オオオオオン!」

 の、と言い終える前だった。

 薄暗い廊下に響き渡るメモリーの叫び声。振り向けば、私たちとは反対側の階段からメモリーが上がってきた。暗闇に赤い目が一つ浮かんでいる。三つの教室を挟んだ向かい側に、触手を使いメモリーが這ってきた。

 恐怖が全身に広がるのを感じる。これを認識した途端、スイッチが入ったように恐怖が湧き上がる。手足が震え、寒気が走る。身体が上手く動かない。

 でも、今は一人じゃない。私には、私を守ってくれる彼がいる。

「ホワイトッ!」

「分かっている」

 メモリーの接近にホワイトが動く。私を守るため、率先して前に歩み私の前に立った。メモリーはすでに教室一つ分先にいる。廊下に詰まった異物のように、空間を埋め尽くす無数の触手が暴れている。

 けれどホワイトは前に立つ。平然と見上げ、敵を睨む。

「忘れ去られたメモリー、クトゥルー」

 ホワイトが名を明かす。目の前にいる怪物の名前。後ろ姿のホワイトの表情は分からない。でも、彼の言葉にいつも以上の熱を感じた。熱意は言葉となって、私の胸にも響く。

「『アリス』に害なすものならば、俺はなんであろうが排除する」

 メモリー、クトゥルーを前にホワイトは宣言する。私に恐怖を与える怪物を前にして怯えも見せず。

 私を守るために。私を助けるために。脅威を取り除くため、防衛本能、ホワイトは冷淡な口を動かした。

「使うぞ、世界の意思を知るといい」

 そして続ける、彼は言葉を紡ぎ始めた。瞬間。

「おっとぉ! それはさせられないねえ!」

「白うさぎ!?」

「っく!?」

 突如ホワイトの両隣に扉が現れた。同時に開かれた扉は別の空間に繋がっており、そこから白うさぎが現れホワイトに抱きついたのだ。体当たりのようにしてホワイトを捕まえ、二人は反対側の扉へと入ってしまった。ホワイトがなんとか片手を伸ばし扉に掴まっているが、抱き付く白うさぎが邪魔をしている。

「アリスちゃんから離れろこの真っ白シロ助ヤロウ、僕とキャラ被ってんだよ!」

「貴様が離れろ白うさぎっ!」

「ホワイト!」

 扉の先は暗闇で、しかも重力が扉の奥からきているのかホワイトは横にぶら下がっていた。そんな状態で白うさぎを引き剥がそうとしている。私は急いで廊下の横に掴まった。扉の引力に引っ張られ髪が扉に向かって垂れる。助けに行きたいけど、でも駄目。これ以上近づいたら私まで落ちそう!

「アリス、聞け!」

「え?」

 ホワイトは表情を苦く曲げて私を見ていた。必死に掴む片手を今も引き剥がそうと白うさぎが叩いている。

「必ず助けに行く。それまで走れ! 俺が助けに来るのを信じて、今は逃げろ!」

「ホワイトぉお!」

 そう言い残しホワイトは白うさぎと共に扉の奥へと消えてしまった。扉は閉まり消えてしまう。

「そんな」

 嘘でしょ。ホワイトが消えた。扉があった場所には虚空があるだけでなんの痕跡もない。

 さきほどまであった安心感が消えていく。もう大丈夫だと、どこかで安堵し緩んでいた心が引き締まる。そんな、そんな、逃げろって言ったって。

「オオオオオン!」

「あっ」

 恐怖を伴い、狂気へ誘うメモリーの声が上げられる。母親を、呼ぶように。けれど私はますます恐怖に染まり、呑み込まれていく。

 恐怖が形をもった怪物、メモリー。叫ぶ、叫ぶ。全身から生えたエメラルドグリーンの触手を蠢かせ。暗闇に浮かぶ赤い瞳が、濡れた血のような輝きを放ち私を見てくる。猛烈な熱情を感じる。メモリーは求めているんだ、心の底から、何ものにも替え難いほどに。

 私を殺してでも。私の記憶になりたいと。

 身動きが取れないのに、体の震えが止まらない。恐怖は思考を阻害し身も心も縛り上げる。

「あ、あ……」

 涙が知らず零れる。瞬きも出来ない瞳から、ぽつりぽつりと落ちていく。

 怖い、怖い、怖い! 恐怖が、狂気が、戦慄が、私を壊しにくる耐えられない。

 この恐怖に耐える術など人にあるはずがない。だからこれは運。正気を保っていられるか、それは運命によって決められると言っても過言ではない。

 私が正気を保っていられるか。今、運命がサイコロを投げる。

 私は、

 私は、

 私は、

 私は、

 私は、

 ――私は、駄目。私はこれに、耐えられない。

「いやああああああ!」

 絶叫した。あれほど喉を通らなかった声が出る。けれどそれは悲鳴だった。感情が剥き出しの、声とも音とも区別しがたいそれ。

 恐怖が全身に充ちる。喉元まで来ていたのがついに頭まで沈め口を塞ぐ。息ができない、溺れる! 私は暴れた、もがいた。水中から出るために。ここから出るために。でも出れない。

 私は両手に力を入れた。思いっきり締め付け離さない。なに? 私はいまなにを締め付けてるの? 分からない。ただ息が苦しい。私はこの苦しみから逃れる一心で両手に力を入れていく。早く、早く、もっともっと力を。なのに、ますます苦しみが増えていく。それがさらに私を追い込み混乱を加速させていく。パニックだった。

 意識が、霞む。身体が前に傾く。重力に引かれて、私はそのまま、――倒れる。

『必ず助けに行く。それまで走れ! 俺が助けに来るのを信じて、今は逃げろ!』

 瞬間だった。もう恐怖を感じることもない、廃人のような私の頭に浮かんだ言葉があった。地面がみるみると私に近づく、刹那。脳裏を過る、彼の声。

「あ」

 私の目に、光が灯る。半壊された精神に辛うじて残されていた意思が、私の意識を繋ぎ止める。

 そうだ、私はホワイトに言われたんだ。逃げろと。信じろと。なら私は彼を信じて逃げなくてはならない。必ず助けに来ると、彼は言ってくれたのだから。

 すぐ近くには未だメモリー、私に恐怖を与える怪物がいる。これには絶対に勝てない。メタテレパシーは根源的な恐怖を与えてくる。私は恐怖に呑まれて死ぬだけだ。

 でも、そんなことは許されない。

 ここで私の精神が削られて死ぬことが、さながらTRPGのように決められていたとしても。それがルールで、運命だとしても。

 私はまだやれる。私の精神が尽きようと。

 そんなことは、許されない。なら――

 

 やり直しだ。


 運命なんて、


 覆してやる!


 この恐怖に耐える術など人にあるはずがない。だからこれは運。正気を保っていられるか、それは運命によって決められると言っても過言ではない。

 私が正気を保っていられるか。今、運命がサイコロを投げる。

 私は、

 私は、

 私は、

 私は、

 私は、

 ――私は、大丈夫。まだ大丈夫。

 私は一歩を踏み出し、倒れかける体を支えた。そして、眼前にいるメモリーを見上げる。

 いじめられていた時、私はなにも出来なかった。それは今もそう。私は戦えない、そんな力はない。一人では、なにも出来ないままだ。

「こ、怖くなんかない! お前なんか、こ、こ、怖いもんか!」

 体は震えていた。声も上手く出せない。

「そうよ! 私は無力な小娘よ。お前を倒すことなんか出来ない」

 今にも気を失いそうなほど、胸が締め付けられる。

「だけど、だけど、私にだって出来ることがあるわ!」

 たとえ無力でも。敵を倒せないとしても。

 いじめられていた記憶の敵に、私は言う。

 いじめられていた時、私はなにもしなかった。でも、出来なかったんじゃない。なにも、自分からしようと思わなかっただけだ。諦めていたんだ、私は。たった一人で怯えて、黒い世界に、閉じこもっていただけだったんだ!

 でも、今は違う。私は違う。昔と変わらず無力なままでも。

 それでも、私は!

「私は、諦めない!」

 なにも出来ないからこそ、私は諦めない。逃げることと諦めないこと。それだけが、私に出来ることなんだから。

「捕まえてみなさい! 私はお前なんかに掴まったりしない。私は、諦めたりなんか、しないんだからね!」

 私は、行動した。

 走った。身体を反転させ廊下に足を叩き付ける。動けないと思っていた体は動いてる。恐怖に体も心も屈していない。腕を振って、スカートの裾を翻して、私は逃れるために、廊下を全力で走り出した。

 背後にはメモリーの気配を感じる。だけど、怖くない、怖くない。私は怖くない。

 足が震えても、奥歯ががちがちと震えても、気づけば頬を涙が伝っていても。

「うっ、うう、うっ」

 怖くない、怖くない、怖くない。怖くなんか。

「私は、怖くなんか、ないものッ……!」

 嗚咽に震える声で、私は叫んだ。

「オオオオオン」

 メモリーの絶叫とも言える大声が恐怖を刺激する。ドドド、と地鳴りを鳴らし猛然と駆け寄ってくる。すぐに追いつかれる。

 私はすぐに階段に駆け込んだ。あの巨体ではそうそう上り下りは出来ないはず。私は階段前まで走り、下を目指して地面を蹴った。身体が宙を浮いて前に出る。同時に、メモリーの触手が私の頭上をかすめた。あぶない。ひやりと心を撫でるがなんとか踊り場に着地して、すぐに走り出した。メモリーはゆっくりながらも降りてきている、急がないと!

 一階を目指して私は走る。校舎の中では逃げ場が限られてる。まずは校舎の外に出よう。そう考え階段を降りていく。螺旋の半分を走り抜け、私は階段を下り終えた。

「え?」

 しかし、階段を下り終えたそこは、二階だった。まだ階段には続きがある。あれ。もしかしたら私がいたのは二階じゃなくて三階だった?

 考えていても仕方がない。私は階段を下りる。急げ急げと自分を急かして。そして階段を下り終えた、が。

「え!?」 

 そこは、二階のままだった。私はまだまだ続く階段を降りていく。なにこれ、なにこれ、なにこれ、なにこれ、どうして終わりがないの!?

 いくら階段を下りてもいっこうに一階に辿り着けない。私は一度立ち止まり廊下から窓を見てみた。ここはいったい何階なのか。しかし、そこから見えたのは二階と同じ景色だった。階段を下りているはずなのに、変わってない。

「どうなってるのよ!?」

 あり得ない現象に戸惑うが、私は階段を下りるのを諦めた。こうなったら廊下を走るしかない。そう意を決め廊下に出る。が、

「うそ!」

 目の前の廊下は、百メートルほども続いていた。遠近法で一番奥の教室がかすみ小さく見える。当然だがこの学校はこんなにも大きくない。三つのクラスが並ぶだけのはずなのに。

 空間が歪んでいる。けれどそれもそのはずだ、ここは黒い世界。夢と同じく、この場所は異界なんだ。常識は通じない。

 私は走った。もたもたしていられない。今もメモリーが追ってきている!

 廊下を半分ほど走る。足の裏から伝わる確かな感触。走っているという実感がある。けれどトリックアートのような道に本当に近づいているのか不安になってくる。

 すると背後からメモリーがやって来た。階段を下りてきたのだ。大声は窓を揺らし巨体に廊下全体が震えている。早く向こう側へと行き階段を駆け抜けないと。

 私は全力で足を動かし続ける。メモリーに追われていてもやる気は折れない。そう、私は逃げなければならないのだから。

 決意は揺れることなく私は足を動かし続ける。しかし、前の教室の扉が開かれ、小型のメモリーが現れた。

「しまっ――」

 全身に電撃が走る。挟まれた! どうする? ここは一本道の廊下、おまけに前後をメモリーに封じられた。走る刹那に行動を決めなくてはならない。急いで私、すぐに決めるのよアリス! 逃げ切るためには、どうすればいいのか。そこで、私は直感で思いついた。

 三つの選択肢が私に迫る。みるみると近づいてく。背後に迫るメモリーの音もさきほどより大きい。もう十メートルもない。

 どうする。どうする。前のメモリーはもう五メートルもない。腕が届きそう。私は、

 ――引き返す。

 ――前を通る。

 ――教室に入る。

 私は走り続ける中で一旦足を止め、行くべき先を模索する。ここで生き残るためにはどれを選べばいいのか。

 すぐ前には小型のメモリーが迫っている。今からじゃどうしようも出来ない。なら引き返そうかとするが途中でやめた。引き返しても大型のメモリーが待ち受けている。それだと教室しか残っていないが、でも、行っても追い詰められるだけで、逃げられないんじゃ?

 そんな。心中で、私は悲嘆した。

 どれを選んでも殺される。選択肢があるようで、逃げ道がない。

 絶望が、背後から私の肩を掴んだ。前も後ろもメモリーに挟まれて、頼みのホワイトもまだ、来てくれない。選択肢がどれも外れな以上、希望はない。

 バッドエンド。生き延びる可能性、その扉が、ゆっくりと閉じていく。

 待って! それでいいの?

 私はそう思ってしまって、だけど、寸前で思考する。

 諦めるの? 本当に? ここで全てを投げ捨ててしまっていいの? それでいいの、アリス?

 この絶望的な状況で、なお、私は――

 選択肢が私に迫る。みるみると近づいてく。背後に迫るメモリーの音もさきほどより大きい。もう八メートルもない。

 どうする。どうする。前のメモリーはもう四メートルもない。腕が届きそう。私は、

 ――諦めない。

 ――諦めない。

 ――諦めない。

「っく!」

 諦めそうだった。もう駄目だって。でも諦めたりしないわ。ここで諦めたら私、今までなんのために頑張ってきたのよ!

 力強い息遣いを漏らして私は教室へと逃げ込んだ。行き止まりで逃げ場はない。いえ、いいえ、そんなことない。窓がある。そこから飛び降りればいい。この黒い世界で飛び降りればどうなるか、それは分からないけど、それでも。たとえ足が折れたら引き摺ってでも。もし立てなくなったら這ってでも、私は最後まで逃げてやる。

 扉を通り窓際まで走る。窓枠に手をかけて下を覗いてみる。

「うっ」

 そこから見える景色に、覚悟が揺らめきそうだった。最悪だ。どういうわけか地面が遠い。五階分はある。見渡すだけなら二階の景色なのに、下を見た途端距離感が歪む。どうする? この距離感がそのままなら、飛び降りたら死んでしまう。

 そこで叫び声が聞こえ振り向くと、小型のメモリーが扉にやってきた。私を追い詰めた余裕からか、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。恐怖を与えるように、一歩、一歩、また一歩と、邪魔な机を強引に退かし、私に近づく。これ以上は駄目だ、はやく飛び降りないと。

 意を決めて、これしかないと私は飛び降りようとした、瞬間だった――

「オオオオオオン!」

「ギャアアオウ!?」

「え?」

 後から追いついた大型のメモリーが轟音を立てて扉の前に来ていた。大きい体では入れず触手を何本も侵入させるが、しかし、触手は小型のメモリーを捕まえていたのだ。

「ギャアアオウ!」

 どういうことか分からない。だが、大型のメモリーは捕まえた小型を引き寄せると、なんと食べ始めたのだ。大きな口を開け、丸呑みしようとしている。

 どういうこと? 分からない。でもこれはチャンスだ、今のうちに別の入口から出られる!

 私は争う二体のメモリーを余所に別の入口から脱出する。大型は食べることに夢中で私に気づいてない。

 私は廊下を走った。力の限り腕を振るい、足を伸ばした。

 ホワイトは小型は記憶の切れ端と言っていたけれど、それが何か関係あるのだろうか。思い出の詰まったこの学校だからこそ、記憶と記憶が繋がった? それが仲間を食べるということなの?

 推測でしかないけれど、私は走っている最中に考えていた。でも事実として大型は小型を倒してくれた。私ではどうやっても倒せない敵を。

 長い廊下をようやく渡りきり、私は反対側の階段へと来ていた。すぐに階段を上ろうとするが、しかし廊下の突き当たりから物音が聞こえてきた。見てみるとそこは理科室だ。テーブルの他にはフラスコなどの備品が並んでいる。その一角に、小型のメモリーがいたのだ。教室奥に置いてある人体模型に何やら興奮した様子でつついたりしている。何してるんだろう。でも。

 そこで閃く。私は直感に賭けて理科室の扉を開けた。普通に逃げていては必ず追いつかれる。なら、足止めだ。

「こら! こっち来なさいそこの!」

 私は大声で背中を向けるメモリーに呼びかけた。私自身を囮にして。それはもはや命がけの賭けだったけど、でもリスクを恐れてはいられない!

 私はメモリーに声をかけた。けど、メモリーは相変わらず人体模型と遊んでいる。え、どういうこと? ちょっと待って、なによこいつ、私を襲う化け物のくせして反応しないとか、失礼なんじゃなの!?

「ちょっと! こっち向きなさいよ!」

「ギャオウ! ギャオウ!」

「おい!」

 こっちが必死に声をかけてるのに見向きもしない。私は頭に来て棚に置いてあったビーカーを手に取った。

「無視すんなぁあ!」

 それを思いっきり投げつけてやる。ビーカーはメモリーに命中しパリンと割れた。それでようやくメモリーが私に振り向く。ヤバい、なんか怒ってる!

「ギャアアオウ!」

 メモリーの叫び声がいつもより荒い。長い腕を大きく振り回して走ってきた!

 私は急いで理科室から出て階段に足を掛ける。早く逃げないと。しかし背後で大きな音に驚き振り向くと、闘牛さながらの勢いで扉を破壊して出てきたメモリーが私を見上げていた。そのまま腕を伸ばし私の足首を掴もうとしてくる。まずい、捕まる!

「オオオオン!」

 その時だった。角になって見えない廊下の死角から十数本の触手が伸びた。それらは小型メモリーを捕まえる。そのまま小型メモリーを引っ張っていったのだ。廊下に手を引っかけ抵抗するのも虚しく、小型メモリーは触手に引っ張られて死角に消えてしまった。直後襲われる悲鳴が鳴り響く。

「うわ……」

 ホラーだ。自分が優勢だと思ったら突然の死。血の気が退く現場を目撃してしまった。ううん、そうじゃない。早く私も逃げないと!

 私は気を取り直し階段を上り始めた。茫然となんかしていられない。今度は私がああなるかもしれないのに。

 私は階段を上り終え廊下に出る。三階の教室。廊下はやはり長い。それでも走らないと。

 私は走った。背後に感じる恐怖に急かされて。殺される。殺される。怪物は私を追っている。死ぬ。死ぬ。足を少しでも止めてしまったら。だから走る。だから逃げる。生きるために。負けないために。

 廊下は依然と長いままだ。先はまだ遠い。このまま渡りきるよりも先に大型のメモリーに追いつかれたら。走る速度はメモリーの方が早い。一本道のここでは逃げ切れない。私は考える。このまま走り続けるか、それとも隠れるべきなのか。

 二つの選択肢が私に迫る。みるみると近づいてく。背後に迫るメモリーの気配を感じる。もう考えている余裕はない。

 どうする。どうする。もうそこまで来ている。すぐにでも現れそう。私は、

 ――走り続ける。

 ――教室に隠れる。

 私は走った。生きるために。だが、振り向き背後にメモリーが来ていないことを確かめてから、私は教室へと逃げ込んだ。

 扉を急いで閉める。壁に背を預け自分を落ち着ける。大丈夫、メモリーはいなかった。ばれてない。そのはず。内側から聞こえてくる脈動がバクバクと音を立てている。荒い呼吸をなんとか整えて、私は息を潜ませる。

 メモリーは来ているだろうか。それともまだ? 期待と不安が胸の中で鬩ぎ合う。心が乱れる。駄目、余計なことは考えちゃ。

 身が縮まる思いだった。いつメモリーが襲いにくるのか。いつになったらホワイトは来てくれるのか。最悪の予想はいつも頭にへばりついて離れない。走っていた足が、疲労とは別に震え出す。

 早く、早く来て。

 私は目を瞑り、祈るように願った。この状況から一刻も早く解放されたい。強く強く、私は願った。

 そして瞼をそっと開いてみる。心臓のリズムはまだ激しいままだけど、呼吸はだいぶ落ち着いてくれた。気分も、うん、パニックにはなっていない。私は異変が起こっていないだろうかと教室を見渡してみた。そこには小型のメモリーどころか無人の静けさが佇むだけで、私を除けば誰もいない。机が並び窓からは暗闇ながらも校庭と敷地を囲う桜の木が見える。

「…………あれ」

 その時だった。その風景。懐かしさを覚える見慣れた場所だと思ってしまう。ううん、教室なんてどれも似たような作りだし、だからそう思うのかもしれないけど……、でも。

「ここ、もしかして」

 見覚えがある。この机の配置。そして窓から見下ろす学校と街の景色。ここからしか見えない街並みを、私は覚えている。

 まさか。もしかしてと思いながらも、私はある種の確信を抱きながら黒板に目を向けてみた。

「三年、二組……」

 私の表情が緊張で固まっていく。身体が、強張る。そこに書かれていたのは三年二組の文字。

 トラウマの記憶、いじめの現場。

 ここは、私がいじめられていた教室だった。


 空は闇に閉ざされ地上は影と化し、異形が跋扈する異界、黒い世界にて、ホワイトは白うさぎに転送され体育館の中へとやってきていた。彼ら以外には誰もいない。広い室内の中央で二人は向かい合い、ホワイトは冷厳に、対して白うさぎは飄々とした態度で頭を掻いていた。

「あ~あ~、まったく。このお節介め。せっかく立てた僕の計画が君のせいで台無しだよ。もう少しでアリスちゃんをワンダーランドへ迎えられるところだったのに。どうしてくれるんだよ」

「計画、か」

 肩を竦めて言う白うさぎを睨みながらホワイトは呟く。両手をポケットに入れたまま、糸を引っ張ったような緊張のまま対峙する。

「観測者には表層世界と深層世界の行き来は不可能だ。そこには次元の壁が存在する。もし移動をするのなら、壁に穴を開けるしかないが、なるほど、それでメモリーか」

 ホワイトの表情は変わらない。冷淡に、氷でできたような顔はそのままだ。しかしこの時だけは鼻を鳴らし、白うさぎの狂気を認めていた。

「深層世界の住人、メモリーが表層世界に浮上すれば当然そこには穴があく。さらにメモリーはアリスの一部、本人であるアリスも使用可能というわけか」

「そういうこと」

 ホワイトの指摘に白うさぎは上機嫌に笑みを浮かべる。どこか酷悪で、嗜虐な色を滴らせ。

「いやー、苦労したよ。数年間も夢に出てきてはアリスちゃんになんとか思い出してもらおうと頑張ったんだけれどねー。最終的には僕が直接表層世界に出てアリスちゃんに記憶を思い出してもらった。うん、ここまでは順調だったよ。だけど」

 白うさぎは経緯について気楽に話すが、途中で顔を曇らせた。

「予想外だった。まさか記憶を取り戻そうとするだけで防衛本能が機能するなんて。ちょっと過保護過ぎるんじゃないかいホワイト?」

 白うさぎは露骨に顰め面を作り、ジト目でホワイトを見上げる。

「そりゃあ? 僕の計画は君がいなければ始まらなかったよ? なにせメモリーを作った張本人が君なんだから。防衛による忘却。アリスちゃんの精神衛生上確かにいじめられていたという記憶は辛い。しかしだ、普通いじめられたくらいで記憶喪失なんてしないんだけどね、君って親ばかな方?」

 白うさぎの嘲った話し方。対してホワイトは無言。

「防衛本能、観測者の守護神、世界の仕組みたる本能の一部にして無意識世界の住人。あー、君がアリスちゃんを守るのは理解できるよ。なにせ君は防衛本能。しかしだ、それでも僕には納得出来ないね」

 そう言うと白うさぎは両手を上げて顔を振っていた。ホワイトの行動を、ホワイトの存在意義を知りながら白うさぎは苦笑する。

「だって、君は捨てられたんだよ? ワンダーランドから追放されたのに」

 白うさぎの語る内容はホワイトのことだった。この状況では悠長な世間話。けれどなお言わずにはいられないと、それは大きな疑問であり感心だった。

 ホワイト。アリスの危機に駆けつけ守り続けてきた彼。その正体は防衛本能ではあったが、もう一つの彼の顔。彼がワンダーランドでなんと呼ばれていたのか。

 かつては本能ながらワンダーランドに君臨し、世界の秩序に努めた統治者。

 白うさぎは、かつてのホワイトの名を言った。

「ワンダーランドを総べる、白の王」

 白の王。その名で呼ばれ、しかしホワイトは身じろぎ一つしなかった。不動のまま立ち続け、白うさぎを鋭い眼光で捉えている。

「君はかつてワンダーランドの王だった。そこでアリスちゃんを守り続けていた。たった一人で、その苦労を褒められることも本人に知られることもなく。アリスちゃんが赤ん坊のころから君は守っていたっていうのに。アリスちゃんもひどいよねー。そんな君をずっと知らなかったんだ。そればかりか」

「黙れ」

 ホワイトの口が白うさぎの台詞を遮る。彼にしては感情的な声だった。怒りの念が端から漏れ、ナイフのように尖った制止をしかし白うさぎは嬉々として受け止めている。ホワイトの感情の高ぶりに興奮し、表情を歪める。

「ハッハハハ! アリスちゃんに正体を明かしたんだってホワイト? 母親を前にして我慢できなくなったのかい? ああ、それも分かるよ。なにせようやく見てくれたんだ、ずっと守ってきたあの人に。アリスちゃんにありがとうと言ってもらえた時は泣くほど嬉しかっただろう?」

 白うさぎは謳う。言葉ではホワイトを称えながらも嘲りを含めて。

「君は頑張った、白の王。ワンダーランドの住民から嫌われようと一途にアリスちゃんを守っていた。君は正しかったよ、褒められるべきだ。しかしアリスちゃんの成長とともに理性が発達すると、彼女を守るのは本能ではなく理性へと変わった。今やワンダーランドを支配しているのは理性の神である赤の女王だ。深層世界の王だった君は王位を剥奪されて追放された。誰に感謝されることもなく」

 かつてまだホワイトが白の王と呼ばれていた頃、それはまだアリスが幼かった頃だった。幼いアリスを守るため、ホワイトは常にアリスの傍で彼女を守った。

 痛覚という、防衛本能の一部をもちいて。

 熱い物に触れれば熱を与えて危険だと教えた。冷たい物に触れれば冷たさを与えて怪我を防いだ。そうしてホワイトはアリスのために、そのためだけに守っていたのだ。

「辛かっただろう、後悔しているかい?」

 けれど、周りの理解は得られなかった。

 赤の女王となる理性の神が支持を増やしていく一方で、ホワイトは嫌われていた。痛みを与える悪い王であると。

 その行いは、ただ守るため。助けるために。それだけだったはずなのに。

 けれどホワイトは全てを失った。地位も名誉もない。守ってきた当人の、ありがとうの一言さえ。それでも。

「後悔はない」

 ホワイトは、今でもアリスを守っている。己の行いに、不信も後悔も抱かずに。意志は変わらない。王であった時から何一つ。気高き志と共に。

「俺は防衛本能。あいつを守る、それだけだ」

 ホワイトは言い切った。揺れることのない決意を言葉に込めて。

「アリスをどうするつもりだ?」

「どうするかだって? 分かってるはずだ」

 ホワイトは白うさぎに鋭い視線を送るが白うさぎは笑ったまま。さらには両手を広げ、広い体育館に大声を響かせた。

「世界の革新! それが見たい!」

 白うさぎの瞳は輝いている。狂気でしかないその行為を語る口は無垢な少年のよう。純粋すぎる故に狂っている。

「世界を変えてお前になんの得がある?」

「得? そんなものは関係ない。僕はただ知りたいだけさ。それだけなんだ、単純だろう?」

「そんな理由で多くの犠牲を生むつもりか」

「ああ、構わない。むしろ」

 白うさぎの双眸が大きく見開かれる。欲望と興奮に彩られ、言葉に宿る熱情は常軌を逸している。まるで酒に浮かれた酔漢か欲情した暴漢のように、邪悪な雰囲気をまき散らす。

「それが見たい」

「なるほど。白うさぎ。そういえばお前の正体は、『好奇心』だったな。いや」

 アリスとメモリーを引き合わせ、世界の改変を行なおうとした白うさぎ。その動機も目的もただ見たいから。損得はなく、一見他者には理解できないその心理。好奇心。

 どこから生まれるのかも分からない不条理なそのあり方を、しかし、好奇心に宿った真名をホワイトは納得と確信を以て口にした。

 その名を無貌の王。その名を暗黒神。その名を闇に潜むもの。またの名を――

「這い寄る混沌、ニャルラトホテプ」

 瞬間だった。白うさぎは今までとは別の笑い声を響かせながら体が膨らんでいった。巨大化していくにつれ体が影に浸食されていく。足はなくなり胴体が地面から生え、巨人の上半身が、土を盛り上げたような形で現れた。

 その巨体、影絵のような黒い体は体育館の天井に届くほど。細い両腕をゆらゆらと揺らし、首のない顔には二つの目が浮かび上がった。

「ハッハハハ! ソウダ、好奇心ダヨ白ノ王」

 口のない顔から声が出る。いくつもの声が重なったような、独特な重低音が室内に広がった。

「私ハタダ楽シミタイダケダ。他ノ者タチガ慌テフタメク様ニ胸ガ踊ル。故ニ壊ソウ。混沌ト、狂気ニ満チタ素晴ラシキ新世界ダ。オ前モ興味ガ湧クダロウ、白ノ王?」

「分かりかねるな」

 ニャルラトホテプの視線、それは狂気以外のなにものでもない。魔性を帯びたその視線はメタテレパシーを遥かに凌駕する精神攻撃を持っている。彼は深層世界の中でも最上位の邪神だ。

 好奇心は時に猫をも殺す。このことわざの通り、好奇心には興奮と同時に危険が混ざっている。下手をすれば死に追いやる心の麻薬。それがニャルラトホテプという人格であり、混沌と狂気を振り撒いている。

「私ハ支配シナイ。王ニモナラナイ。タダ混沌ヲ生ムノミ」

 ニャルラトホテプが上体を曲げてホワイトを見下ろす。山のような巨体はホワイトの頭上を覆い尽くす。

「私ハ、誰ニモ止メラレナイ」

 言葉の後、ニャルラトホテプの全身からいくつもの手が伸びた。それらは鞭のようにしなり、地面を、壁を、窓ガラスを破壊し体育館中を蹂躙した。無数の腕が生み出す空気の乱れに強風が吹き破片が宙を舞う。圧倒的な力を誇示し、己の強靭さを見せつける。世界の革新、好奇心に突き動かされる暗黒の邪神が、混沌の誕生を歓迎している。

 しかし、ホワイトは言った。

「いや、ここで終わりだ」

「計画ハ進ンデイルノニ?」

「関係ない」

「何故ダ?」

「俺が倒す」

「倒スダト?」

 ホワイトは見上げる。そこにいる強大な敵を前にしてしかし怯えも見せず。

「好奇心。這い寄る混沌ニャルラトホテプ。故に、人ではお前を殺せないだろう」

 ニャルラトホテプはアリスの好奇心が実体化した存在だ。故に、誰も彼を殺せない。

「しかし、遊びは終わりだ」

 それでも、彼は諦めていなかった。ニャルラトホテプを前にしても、倒せると確信しているのだ、彼、ホワイトは。

「アリスに害なすものならば、俺はなんであろうが排除する」

 這い寄る混沌、ニャルラトホテプを前にホワイトは宣言する。世界すら変えようとする邪神を倒さんと、ホワイトは冷淡な口を動かした。

「使うぞ、世界の意思を知るといい」

 そして続ける、彼は言葉を紡ぎ始めた。瞬間。

 世界が、軋んだ。

「螺旋に組み込まれた歯車よ、何故回る。それほどまでに生きたいか。生きる意味も知らぬのに」

 彼が言葉を紡ぐ度、黒い世界が捻じれ、そこから眩い光が溢れ出す。そして、ホワイトは片手を突き出した。

「生にしがみ付く哀れな者よ、ならば与えてやろう。生きること。それは痛みを知ること。踊れ、お前は今生きている。歓喜しながら泣き叫べ。


 これが欲しかったんだろうッ!?」

 

 ホワイトの呼び声に応じるように白い光は焔に変わり、炎は像を作り出す。

「こい、熱傷の痛みを教えてやれ。クトゥグア!」

 ホワイトの背後に炎の狼、クトゥグアが現れる。熱の痛みが実体化した怪物が。火の粉を全身から撒き散らし、トラックほどもある巨体が威嚇の咆哮を叫ぶ。

「ガアアアアオウ!」

 熱波と戦意を滾らせて、クトゥグアは召喚された。

 ニャルラトホテプの視線がクトゥグアに移る。クトゥグアもニャルラトホテプを睨み上げ、両者は戦闘態勢となっていく。クトゥグアは脚に力を溜め、ニャルラトホテプは無数の腕を広げていく。

 そして、戦闘の火蓋が切られた。

 クトゥグアが叫び声を上げながらニャルラトホテプに襲い掛かる。溜め込んだ四肢の力を爆発させ、見上げる影に飛びかかる。しかし、

「舐メルナヨ犬ガ」

 ニャルラトホテプの百を超える腕が襲撃を防ぐ。網のようにクトゥグアに絡まり動きを止めてしまった。そのまま全身を締め付ける。

「ガアアアアオウ!」

 クトゥグアも黙っておらず、炎の爪と牙で腕を切り裂き噛み砕く。超高温の体は絡みつく腕を灰にしていく。だが、ニャルラトホテプの腕はさらに増え、新たに生まれた百の腕がクトゥグアを殴打していく。全身を叩く叩く、乱れ飛ぶ拳の嵐がクトゥグアを打ちのめす。

「クトゥグア!」

 実体化した痛覚の苦戦を見上げ、ホワイトはすぐに両手に拳銃を出し加勢した。片手では到底扱えないほどの巨大拳銃でニャルラトホテプの体を射撃していく。

「利カヌナ、白ノ王」

 だが、直撃した銃弾は弾かれた。ホワイトの表情がますます歪む。

 表層世界の知識をいくら具現化しても、ニャルラトホテプにはなんらダメージを与えない。銃では好奇心を殺せない。たとえここで核爆弾が爆発しようとも、邪神には擦り傷一つ与えられない。

 それでも、ホワイトは手を止めなかった。

 コートの内側から新たな銃器を取り出す。それは巨大な銃だった。ギターよりも大きい、コントラバスのような銃。名をアンチマテリアルライフル。それをホワイトは己の足だけで発砲した。

 空気を殴る爆音が響き渡る。重い一撃と共に空薬莢が地面に落ちる。

「無駄ダ」

 だが、一切の痛手を与えることもなく、振り下ろされた影の手に吹き飛ばされた。

「ぐっ!」

 五メートル以上も離れた壁に激突する。衝撃に口から空気が漏れ、瞬時肺が止まる。なんとか地面に着地するも額からは一筋の血が流れていた。ホワイトは苦しみながらもニャルラトホテプを睨み上げる。

 するとクトゥグアまでもが地面に投げ捨てられた。虫の息で横になっている。

「言ッタダロウ、誰モ私ヲ止メラレナイ」

「くっ」

 ニャルラトホテプの勝利宣言ともとれる言葉に、しかしホワイトは見上げるだけだった。

「白ノ王ヨ、ココデ死ヌガイイ」

 ニャルラトホテプは雄大に構える。まるで黒い世界のように。

「ソレトモ降伏スルカ? ワンダーランドノカツテノ王」

 無数の腕がゆらゆらと揺れる。余裕と、愉悦を見せつけるように。

「全テヲ失ッタ哀レナ王。自分ノ民ニ見捨テラレ、国カラモ追イ出サレタ。今ハ赤ノ女王ガイル。オ前ノ役目ハ終ワッタ。オ前ハモウ、世界ニ必要トサレテイナイ」

 ホワイトの努力は決して無駄ではなかった。しかし、アリスを助ける度に増悪されて。たった一人、悲しみと苦しみに耐えた。そんなホワイトを、助けてくれた者は一人もいなかった。

「モウ、終ワッテモイイハズダ」

 ニャルラトホテプの言葉の後、彼の体にいくつもの顔が現れた。そこには男の顔があり、女の顔があった。子供の顔も老人の顔もあった。それらの顔が、ホワイトに向かって一斉に口を開く。

「死ね、ホワイト」

 占い師の顔も、白うさぎの顔も囁く。

 皆が囁く。死すべきだと。憐れな人生に幕を閉じるべきだと。

 それらの声を向けられて、ホワイトはしかし――

「笑止」

 痛みに震える体を気力で立たせた。ホワイトの目は死んでいない。彼は諦めていない。青い瞳に宿る戦意は未だ健在。

「這い寄る混沌、ニャルラトホテプ。終わるのは貴様の方だ」

 声は決意に満ちている。燃え盛る信念を消してはいない。

 ホワイトは姿勢を正す。そして、片手を前に突き出した。

「螺旋に組み込まれた歯車よ、何故回る。それほどまでに生きたいか。生きる意味も知らぬのに」

 彼は防衛本能。白の王。王を退いた身であろうとも、かつての気高き志は変わっていない。アリスを守るため、彼はそのためだけに生まれてきたのだから。

 故に、アリスを害する者を許さない。白の王は見逃さない。

「生にしがみ付く哀れな者よ、ならば教えてやろう。ここは我が城。我が帝都。何人たりとも侵入を許さぬ鉄壁の要塞。新たな宿主を求める侵略者、ここに貴様の居場所はない」

 アリスが生まれ、世界が誕生したその日から、ホワイトのやるべきことは変わらない。彼が存在する理由はただ一つ。

 それは防衛。

 それは役目。

 それは意義。

 存在するものには意義があり、果たすべき役目があるのなら。

 敵と戦う彼は間違いなく、己の役目を実行していた。


「悔しいだろうなッ!」


 言葉の直後、ホワイトの後ろの空間に波紋が生じる。メモリーが出現した時と同じように、しかしそれは一つではなかった。別の場所でまた一つ。別の場所でもう一つ。次々に空間に波紋が出現する。それは体育館中、壁はもとより天井から地面まで。まるで豪雨の如き波紋が空間に現れる。

「こい、仕事の時間だ。白血球の衛兵よ!」

 号令一下、かつてワンダーランドを支配していた王が命令を下す。

 応えたのは、数えきれないほどの兵隊だった。波紋から続々と登場する。皆が白の甲冑か僧衣に身を包み、フルフェイスのヘルムか布で顔を隠している。それらが全てニャルラトホテプに襲い掛かる。

 一人はチェスのポーンのようだった。メイスを手に無数の腕と戦っている。

 一人はチェスのナイトのようだった。馬で戦場を駆け弓で攻撃していく。

 一人はチェスのビショップのようだった。唯一僧衣に身を包み魔法の杖で動きを封じる。

 一人はチェスのルークのようだった。大きな体躯をゆっくり動かし、戦斧を突き立てる。

 無論ニャルラトホテプも抵抗する。無数の腕は兵士を掴み上げ、ガラクタのように壊し地面に叩き付ける。有象無象の兵を蹴散らし吹き飛ばしていく。

 しかし、次から次へと兵隊は押し寄せる。次から次へと、津波のように。

 体育館は白の兵隊で飽和していた。ついにはニャルラトホテプの体を昇り始め攻撃していく。

「オノレェエエ!」

 多勢に無勢。圧倒的な数の差に、ついにニャルラトホテプの動きが止まった。無数の兵が体にしがみつき離れない。

 ポーン、ナイト、ビショップ、ルーク、兵一人一人の奮闘が戦場を優勢へと押し上げる。

 そんな彼らを見つめるのは白のキング。ニャルラトホテプの動きが止まったのを見計らい、ホワイトはアンチマテリアルライフルを手に走り出した。王の進撃に兵が道を譲る。白い兵士が作り出す勝利の道を、ホワイトは走りながら片手を頭上に向けた。

「クトゥグア、こい!」

 ホワイトの言葉に瀕死のクトゥグアが身を震わす。全身を叩かれた体をなんとか立たせ、起き上がると狼の形を解き炎となってホワイトの元へと向かっていった。炎は宙を走りながら小さくなっていき、ホワイトの手に収まる時には赤い銃弾となっていた。同時にアンチマテリアルライフルが変形し、ボルトアクションのように薬室、銃弾を装填する場所が露わになる。そこへクトゥグアが変身した銃弾をセットした。

「深層世界に帰れ、ニャルラトホテプ!」

 ホワイトとニャルラトホテプの距離が近づく。ホワイトは敵を見上げ、地面を蹴った。

「来ルナァアアア!」

 身動きが取れない無貌の王が叫ぶ。しかし、

 宙を駆け、クトゥグアそのものを装填した銃口を、ニャルラトホテプの体に叩き付けた。


「これが欲しかったんだろうッ!?」


 ホワイトはトリガーを引き絞る。瞬間、圧縮された炎の弾丸が放たれた。

「グオオオオオ!」

 ニャルラトホテプの悲鳴が広がる。ニャルラトホテプを襲う大火力、クトゥグアが誇る炎熱を一点に絞った一撃はニャルラトホテプの体に穴を開けていた。銃口から噴出する業火が邪神を穿つ。

「オ、ノレェ……!」

 胸に巨大な穴をあけられニャルラトホテプが揺らめく。そんなニャルラトホテプの正面にホワイトは着地した。白い兵は消しており、彼一人だけが見上げている。

「覚エテイロ、私ハ死ナン。イツカ、必ズヤアリスヲワンダーランドヘト連レ込ンデヤル……!」

 そう言うとニャルラトホテプの体が薄くなっていった。存在感も消えていく。

 邪神が言い残す不吉な言葉を前にして、しかしホワイトは冷厳に、ニャルラトホテプを見上げていた。

「来るなら何度でも来い。その度に俺が排除してやる」

 それは宣言だった。役目を全うする、それは本能のあり方そのもの。

「俺は防衛本能。あいつに死が訪れるその時まで」

「グッ、ガアアアアア!」

 断末魔を残しニャルラトホテプが消えていく。その様を厳しい顔つきで見届けた後、ホワイトは踵を返した。

「アリスは、俺が守る」

 体育館の中央にただ一人、ホワイトは立つ。傍には誰もいない孤独な王のまま。けれど彼の瞳に宿った意志は、鋭いまま残っていた。


 誰もいない教室で、けれど私は立ち尽くす。見つけたものなど一つもないのに。私は唖然と立ち尽くす。

「ここって……」

 そう、私は戻って来たんだ、ここへ。きっと、ううん、もう二度と来たくはなかったこの場所へ。

 三年二組の教室、私がいじめを受けていた現場。覚えてる、私の席は右から二番目の、後ろから四番目。教室のわりと中央にある席だ。

 私はかつての自分の席に近づき、机に触れてみた。視線を下げればそこには何も書かれていない。当然か、あれから六年も経っているのだから。

 私は懐かしむような忌避するような、複雑な心境で机を見つめる。自然と目つきが細くなる。この席で、私は……。

 すると、何も描かれていなかった机にいきなり文字が浮かび上がった。黒のマジックで、いくつもの言葉が浮かび上がる。

「なに!?」

 驚いて手を離す。そこには、

『死ね』『バカ』『クサイ』いくつもの悪口が書かれていた。

「なんで……?」

 あまりのことに後ずさる。しかし今度は黒板に、チョークで大きく文字が現れた。

『アリス出てけ』

 でかでかと、一面に。私に向かって書かれた悪意が。私は顔を横に振る。けれど、文字から目が離せない。

 今度はひそひそと、どこからか話し声まで聞こえてきた。

『おい、アリスが来たぜ?』『うわー、急にクラスが臭くなった~』『誰だよ臭いやつ~』

 声だけが教室に現れる。見えない人が教室にいるように。あちらこちらから、声が聞こえる。

『なあ、みんなでアリスのこと無視しようぜ?』『さんせー』『アリスに声かけたやつゼッコーだからな?』

 ひそひそが、ざわざわに変わる。小声が反響して、大声になって聞こえてくる。

「やめて……」

 いつしか、私の唇は震えていた。聞こえてくる。知りたくもない、思い出したくもない言葉が耳に入ってくる。

「嫌、嫌……」

 私は両手で耳を塞ぎ、目を閉じた。

「嫌ぁあああ!」

 気持ちが、締め付けられる。悲しくなってくる。なんで? なんでこんなヒドイことをするの? なんで、こんなことが平気で出来るの?

 湧水のように溢れる記憶が、私の傷口を広げていく。その度に泣きたいほど悔しくて、悲しい思いに襲われる。私は拒むように耳と目を閉じる。けれど、ここに来て記憶を思い出していく。当時に味わった、いじめの記憶を。

 その、時だった。

「オオオオオン!」

 教室にまで辿り着いたメモリーが入口を破壊して入ってきた。頭から突っ込み、大きな口を開け赤い目を光らせる。エメラルドグリーンの触手を蠢かし、私に近づいてきた。

「あ」

 私は後退しながら、メモリーを見つめる。恐怖が、悲しみも悔しさも呑み込んでいく。

 メモリーは存在している、今もこうして。私を取り込み記憶に戻ろうとしている。

 その正体はトラウマの記憶。私はいじめられていた、辛い思いをした。その時の記憶は思い出した。でも、それだけじゃないの? 私はまだなにかを思い出していない。なに? 私はなにを忘れているの?

 私は壁際まで下がっていた。もう下がれない。そんな中、近づくメモリーを見つめながら、私は必死に考える。

 トイレに入ったら上から水をかけられたことも、みんなが私を避けるようになったことも。まるで孤独な世界に立たされたような悲しみを。だけど、他には? 思い出して私、私はここで、ここで!

 トラウマの記憶、メモリーが近づく。触手がみるみると。

 頭が痛い。私は激痛に目を閉じ両手で頭を抱える。

「くっぅ」

 痛みが走る。記憶が乱れる。この教室で、私は、私は。

「オオオオオン!」

 メモリーの叫び声に恐怖が絶頂する。

 だが、意識すら飛びそうな恐怖は過去の体験を思い出させて――

「ハッ!」

 目を開く。そうだ、私は!

 バン! 瞬間だった、教室の壊れていない方の入口が思いっきり開かれ、そこからホワイトが現れた。

「思い出すなー!」

 大声で私に叫ぶ。私は頭を抱えていた両手をゆっくりと放し、そんなホワイトを唖然と見つめた。

「私……」

「オオオオオン!」

 メモリーが叫ぶ。漆黒の体に生えた緑の触手を振り回し。教室に入り切れない巨体を震わせて。そして、身体が霧状になっていった。みるみると、この黒い世界から消えていく。

「アリス、お前、まさか……」

 ホワイトは入口で立ったまま、驚いた表情で私を見つめている。そんな彼を見つめ返したまま、私は、言った。

「思い、出した……」

 メモリーが消えていく。あれほど恐怖を振り撒いていた怪物が。けれどそんなことはどうでも良かった。もう、いいんだ。

 私は唖然と、ホワイトを見つめたまま立ち尽くす。そんな私の頬を伝い、一つの涙が零れ落ちた。

 思い出した。ようやく思い出した、ここで起きたことを。

 そして、どうしてホワイトがそこまで真剣に、焦った表情で私を見ているのか、その理由すら、今の私には分かる。理解、してしまう。

「私、サイテー、だ……」

 胸から湧き上がる感情。それは悲しみだった。今までとはまったく違う。

「う、うう、うっ……」

 私はその場に泣き崩れた。深い悲しみに、耐えきれず嗚咽を漏らしながら。

 私は、かつての自分を思い出した。

 いつものように、小学三年生だった私は登校し教室へと入った。しかし、私の机に書かれた悪口に、私は泣いていたんだ。周りからは小さな笑い声と、静かな視線しか感じなかった。

 私はずっと、一人で、まるで閉じ込められたような黒い世界で、泣いていたんだ。

『誰!? こんなことした人!?』

『え?』

 なのに、誰かが言った。泣いているだけだった私に、誰も構ってくれなかった私に、庇ってくれた女の子がいたんだ。

『だいじょうぶ? アリスちゃん?』

 岡島祈おかじまいのりちゃん。黒い髪のショートカットで、元気で明るくて、正義感が強い子だった。

 嬉しかった。誰一人、助けてくれる人がいなかった私に、彼女だけが声を掛けてくれた。心配してくれて、優しくしてくれたんだ。

 私はすぐに祈ちゃんと友達になった。話も合って、とても仲良くなれた。休み時間はいつも彼女の傍にいた、そこが一番安心できるから、一番楽しくて、そこが私の居場所だったんだ。祈ちゃんには感謝してる。親友だと胸を張って言える。一番大切な友達、だった。

『おい、アリス』

『え?』

 数日後。そんな私に、いじめをしていたリーダーの男の子が声をかけてきた、何人も友達を連れて。廊下を歩いている時に、突然。

『お前、岡島の靴隠せ』

『え? そんなの嫌だよ』

『ああ? アリスのくせに生意気だぞ。もし今日中にしなかったら、またお前のこといじめてやるからな』

 そう言って男の子は去っていった。怖かった、またいじめられることが。また、あんな思いをするのが。私は怖くて怖くて仕方がなかった。本当だったら先生や家族に相談すれば良かったんだろうけれど、その時の私は誰かに言ったらそれだけでいじめられそうで、それがまた怖くて、誰にも言えなかった。

 怖かった。二度と、あんな思いをしたくなかったから。

『誰!? 誰よ私の靴隠した人!?』

 教室で、祈ちゃんが叫んでいた。目に、涙を浮かべながら。なのに周りからは小さな笑い声と、静かな視線しか感じなかった。私は、机に座ったまま震えていた。怖くて怖くて。情けないとは思わなかった、その時は自分のことで精いっぱいだったから。

 だけど分かるよ、私のために勇気を出して助けてくれた人を。

 私の一番の親友を。

 私は、裏切ったんだ。

『うっ、うっ、うわああああん! ああああん!』

 泣いている親友を前にして、私は、何もしなかった。ただ見ているだけだった。

 そして、祈ちゃんは転校していった。それから、二度と会っていない。私は、私は。

「私は、サイテーだ……!」

 顔を両手で覆うが、涙が止まらない。悔しくて、悔しくて。自分という人間が心底嫌になる。

 そんな私を掴む手があり、私は見上げた。

「泣くな! 仕方がなかった、仕方がなかったんだ、お前は悪くない」

 私の前には、ホワイトがいた。私の肩を掴み、私と同じように座り込んで真剣な眼差しで見つめてくる。

「悪いのはいじめた連中の方だ、お前が気にすることじゃない!」

 強く、熱く、ホワイトは私に優しい言葉を掛けてくれる。だけど。

「そんなこと、ないよ……。あるはずがないよぉ」

 涙は止まらなかった。最低なんだ、私は。胸が張り裂けそうになる。私じゃない、私を助けてくれたにも関わらず、裏切られた祈ちゃんのことを思うと。

 私は、どうすればいいのだろう。我が身かわいさに、親友を見捨てた私は。これから、自分は最低な人間なんだと、自責しながら生きるのだろうか。でも、それが正しいのかもしれない、それが私の罰ならば。

「そんな必要はない!」

 そこへ、心を読んだようにホワイトが叫んだ。私はホワイトの顔を見るが、すぐに視線を下げる。暗い気持ちに押し潰されるように。きっと私はずっと、この気持ちのままだと思う。親友を裏切った、という事実がある限り。私はずっと。

「ホワイトさんの言う通りですわ」

「え?」

 そこへ、急に聞こえてきた声があった。朝に良く合う声。私は驚いて、扉に目をやった。

「アリスさん、自分を責めないで下さい。そんなに責めるから、この出来事はタブーとされ忘却されたのです」

「久遠!?」 

 そこには久遠がいた。クリーム色の髪は白のリボンで結ばれて、身体のどこにも怪我はない。無事な姿で、久遠が立っていたのだ。

 私は会えたことに嬉しくなるが、反対にホワイトは怖い顔で振り返った。

「白うさぎ!?」

 ホワイトはまたも銃を出して久遠に向ける。銃口を向けられ、久遠の顔が怯えた。

「ホワイト! 私の友達に銃なんて向けないでッ!」

「しかし!」

 私はホワイトを睨む。ホワイトは苦い表情のまま久遠に銃を向けていたが、しばらくしてから、そっと銃を下ろしてくれた。

「……へんな動きを少しでもしてみろ、敵対行動とみなしすぐさに攻撃する」

 射線から外れたことにより久遠の怯えた顔が戻る。私は立ち上がり、久遠と向き合った。

「久遠、その」

「はい、言いたいことは分かります。そこのホワイトさんは正しいです。私は白うさぎの変わり身であり、ニャルラトホテプという無数の顔の一つです。ニャルラトホテプというのは言わばネットワークのようなもので、私はその端末なんです。ですので常に接続していますし、すぐに乗っ取られることもあります。今も、本当に私の意思で喋っているのか、その保障はありません。ただ、今ニャルラトホテプは弱っているので、その隙に会いに来ました」

 そう言う久遠は躊躇いがちに笑っていた。まるで悪戯をばらすように。けれど表情をすぐに暗くして、久遠は伏し目がちに口を動かした。

「ごめんなさい、アリスさん。私はアリスさんを知らず裏切っていました。出会ったその時から……。けれど、どうしても言っておきたかったことがあるんです!」

 久遠が顔を上げる。手を胸に当てて。必死な瞳が、私に向けられる。

「楽しかった! あなたと一緒にいられて。共に過ごした学校生活を私は忘れません。この気持ちももしかしたら操られた気持ちかもしれない、それでも。私は確かに、アリスさんと一緒にいられて楽しかったのです、それだけは、嘘じゃないということを。私はアリスさんのことを、本当にお友達だと思っていました」

「それは私もだよ! 久遠としゃべって、遊んで、私だって楽しかった!」

「恨んで、いないのですか?」

「そんなこと、あるはずないじゃない! だって友達でしょ?」

 不安そうな久遠の表情に言ってやる、私も同じだと。久遠に負けないくらい真剣に。

「ありがとうございます、アリスさん」

 それを聞いて、安心したように久遠は表情を柔らかくした。優しい目つき。それはいつもの久遠だった。

「アリスさん、あなたはとても優しい人です。私を許してくれた、友達だと言ってくれた。そんなあなたなら、大丈夫です。お友達も分かってくれるはずです」

「久遠……?」

 久遠の言い方は私を論じているようだった。どこか距離のある、遠い言い方。

「アリスさん。あなたが罪だと思うなら、それを抱えるのではなく、清算してください。トラウマの記憶、いいえ、メモリーを本当の意味で克服するのです。優しくて、強いあなたならそれが出来るはずです」

 落ち着いた雰囲気で、久遠は穏やかにそう言った。自責に苦しむ私を救おうと、私を優しいと言ってくれる久遠。けれどううん、私なんかよりも、久遠。あなたの方がずっと優しいよ。

 ずっと一緒にいたい。また学校に通って、遊びたい。お泊りだってまたして。そう思う。あなただってそうでしょう? なのに。

「それでは、これでお別れです」

「久遠!? 待って、待って久遠!」

 私は走った。久遠が消えてしまう。危機感があるのだ、ここで止めないと、もう会えないという予感が。そんなのは嫌。だってそんなの辛いじゃない、せっかく友達になったのに。

「今まで、ありがとうございました、アリスさん」

 それなのに、久遠は笑っていた。とびっきりの笑顔で。なにがそんなに嬉しいのか、彼女は笑うのだ、幸せそうに。

 そんな満面の笑みに手を伸ばす。もう少しで届く。

 けれど、久遠の体はまるでシャボン玉のように泡となって消えてしまった。伸ばした手が、空を掴む。

「久遠ー!」

 叫ぶ。けれどもう久遠はいなかった。私は立ち止まり、肩が下がる。

「なんで、なんでよ……」

 私は、またも友達を失った。大切だった。恨むなんて、そんなこと一度だって!

「アリス……」

 私は項垂れるが、背後からホワイトの声が掛けられた。

「大丈夫か……?」

 優しい言葉。本気で私のことを心配してくれてるのだと分かる。

 私は袖で両目を拭いた。

「うん、ありがと」

 私は振り返り、ホワイトに正面を向ける。

「だいじょうぶ、だいじょうぶよ……」

 声は弱々しい。でも、私は一回深呼吸をして気持ちを落ち着けた後、久遠の言葉を思い出した。そこには、悲しみの中にも温かい思いがあって、それはちゃんと届いてる。

 うん、大丈夫。久遠との別れは辛いけど、彼女が残してくれた言葉が私を勇気付けてくれる。私は表情を引き締めて、胸の内である決断をした。

「決めたわ、私」

 そこにさきほどまでの弱さはない。私は覚悟を決めた。

「私は過去から逃げない。都合が悪いからって、忘れたりしない。立ち向かうわ。それが、本当のけじめのつけ方よね」

 けっきょく、私は逃げていただけなんだ。当時も今までも。思い出したのなら、それに立ち向かう。

 私の宣言を、ホワイトはいつもの表情で聞いていた。私のことを真っ直ぐと。どう思っただろうか。そんな風に思っていると、ホワイトは固い表情を若干崩して、瞳を閉じた。

「……フッ、好きにしろ」

 まるで人を小馬鹿にしたような、嫌味と皮肉を好む笑顔を浮かべて。けれど少しだけ優しくて。ホワイトは笑ったまま私に言った。

「生きるということは痛みを知るということだ。お前がなお生きるというのなら、足掻くといい。せいぜい苦しめ、その覚悟があるのなら」

「あるわ」

 即答する。彼の問いに揺れることはない。私は六年前にしなくてはならなかったことを、決めたのだ。

「空が……」

 すると黒い世界の空が晴れだした。世界を覆っていた影も消えていく。晴れ渡った空と、光に満ちた世界が現れる。この世界は明るい。黒い世界とは違って。

 でも、ここにこそ私が立つ向かうべき悪夢があったんだ。

 私は青空に浮かぶ雲を見上げる。右手を握り込みながら、決意を固めるように。

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