第4話  第三章 深層世界にて死せるメモリー、夢見るままに待ちいたり

 第三章 深層世界にて死せるメモリー、夢見るままに待ちいたり


 私はいじめられていた。それを、この日知った。

 私はいじめに対してなにも出来なかった。どれだけ辛くても、苦しくても。一人で泣いているだけだった。

 そう、なにも出来なかったんだ。その時の私は臆病で、いじめの恐怖に怯えていた。

 ずっと、一人で――





「忌ミ子ヨ忌ミ子、ドレダケオ前ガ叫ンデモ、声ハ母ニハ届カナイ」

 それは深海を思わせる暗闇の空間だった。果てしなく広く、空気は重い、光のない黒の世界。

「アア、忌ミ子ヨ忌ミ子、捨テラレタ哀レナ子。ソレホドマデニ母親ヲ欲スルカ」

 生命どころか音も存在し得ない、この世ならざる場所で、しかし、そこには蠢く何者か、湧き上がる怨嗟にも似た叫びが、いくつもあった。

 それは声。

 それは祈り。

 それは本能。

 生まれてきたものには意義があり、あるべき場所があるのなら。

 叫びを上げる彼らは間違いなく、ここにいるべきではなかったから。

「ナラバヨシ」

 叫ぶ彼らとは別の声が、彼らに道を示す。

 それは言葉。

 それは計画。

 それは願望。

 存在するものには目的があり、叶えるべき望みがあるのなら。

 彼らを導く彼は間違いなく、己の願いを形にしていた。

「道ハ開イタ。母親ハスグソコダ」

 そして、彼は、彼らを、この暗闇の牢獄から母の元まで届けるために、この世界から姿を消していった。

 それは行動。

 それは変化。

 それは遊戯。

 

 これはまだ、途中。



「あっ」

 翌朝、私はたたき起こされたように瞼を開けていた。驚きのあまり身動きがとれずじっとしている。

「……どうして」

 終わったはずの悪夢。しかし悪夢は私をあざ笑うかのようにあり続けていた。

 どういうことなのか。ホワイトなら知っているかもしれない。彼に聞かないと。私は飛び起きてベッドから降りる。が、すぐにしまったと気付いた。

「もう、だからいろいろ教えてって言ったのよ!」

 私は彼の連絡先を知らない。まさかこんな事態になるなんて思っていなかった。終わるものとばかり。

 でも、それじゃどうしよう。どうしよう。私は床をぐるぐる回る。頭がぐるぐる回る。けれどどうすればいいのか分からない。

 結論として、とりあえずは学校だ。

 私はもやもやとした焦燥を胸に秘めながら学校の制服に袖を通した。問題はある。やらなければならないことも。なのに何も出来ない気分に憂鬱とも苛立ちともつかない思いに揺れる。

 朝から散々だ。寝る前とは大違い。ぬか喜びとはこのことで、期待した分落胆の衝撃は大きい。

 黒い世界、あれはいったいなんなのだろう。私はなぜあの夢を見るのか。あの夢はなんなのか。助けを呼ぶ少女もそう。あの子は、私ではないの?

 悪夢は、終わったはずではないのか。

 暗い気持ちに視線が下がる。そのまま私は玄関の扉を開けた。

 そう、それはいつもと同じはずの朝。数年見ている夢を今日も見ただけ。そう、これが私の日常だった、はずなのに。

「え?」

 誰が想像するだろう。たかが夢、その夢が、世界を変えるなんて。

『アリス死ね!』『消えろアリス!』『アリスウザい』

 アパートの二階、そこから見える住宅街の景色。その壁や道路に書かれた数々の言葉が、私の目を抉ってくる。

「なに、これ……。え、なによこれ。なんで……」

 その光景に、声が震えていた。それは。

 街一面が、私の悪口でびっしりと埋まっていたのだ。

『メモリーが出現したことにより本来交わることのなかった表層世界と深層世界が重なり始めている。このまま放置しておけばこの世界とワンダーランドが融合し、トラウマが表層世界にまで反映されただ事ではなくなる』

 ホワイトの言葉を思い出す。いじめを受けた私の心が世界に反映されている? 嘘!

 私は走った。信じたくなった。せめてここだけだと思った。それを確認するために、私は急いで駅前へと出る。が、そこはすでに、私の知っている街並みではなかった。

 大通りを選挙演説する車が通っていく。

『皆さん! アリス、黒木アリスを絶対に許してはなりません! 皆で無視をしてよりよい社会を目指しましょう!』

 大きなビルには私の顔写真が掲げられ、写真の上から大きくバツと書かれている。

 道には悪口が書かれ、私を模した人形がずぶ濡れの状態で捨ててある。

 他にも、他にも、他にも。町ぐるみで私を否定する。

「なによこれ……」

 いつもと同じ街。しかし、私の知らない街だった。私は吐き気を覚えながらも歩道に立ち尽くす。唖然となる。この光景が、信じられなくて。だって、こんな、こんなことってある!? ここは夢じゃない! ワンダーランドじゃない! なのに、なのに!

 知らず、私は泣いていた。悲しいから? 辛いから? 怒っているから? それすらも分からない。

「うっ、うう」

 私は手で涙を拭う。分からない。自分の感情すらも、ここでは何ひとつ。

「ねえ、あれアリスじゃない?」「ほんとだ、ウザ」「なんで生きてるの?」

 そこで、聞こえ始めた声に気づき辺りを見渡した。そこには行き交う人々が私を見つめ何かを呟いている。冷たい目。私を拒絶して、否定するいくつもの目と口がある。

 目を抉る視線と鼓膜を破りたくなる声が、私に浴びせられる。私は瞳に涙を浮かべて後づさる。

 みんなが、知らない他人までもが私を睨みなにかを呟いている。行き交う人々が。全員。ここには私一人だけ。みんなが私を嫌い、恨んでくる。

 いやよ、こんなの。いや、いや、こんなの嫌!

『助け、て。ザッ、ザー……、タス――ザッ――ケ、テ……』

「これは!?」

 そこで異変が起こった。私の足下を中心に影が広がり、コンクリートの地面と空を黒く染めたのだ。人々はいなくなり、代わりに聞こえ始める悲痛な叫び。

 影に空と大地を浸食され異界と化した、黒い世界だった。

「そんな」

 ぞわりと、冷水を掛けられたように体が凍える。気温が急激に下がったような悪寒が全身を襲う。この感じは間違いない。

 私の予想に応えるように、最悪の答えが目の前に現れる。

「オオオオン!」

 黒い空にまで届かんほどの大きな雄叫びに体が竦む。心の芯から凍り付く恐怖。

 メモリーは、目の前にいた。ビルの二階に届くほどの巨体。丸みをおびた漆黒の体にエメラルドグリーンの触手がいくつも付いている。イソギンチャクの触手によく似ており、全身にびっしりと生えた姿はたわしのようでもあった。うねうねと触手を動かし、頭頂部にある一つの赤い目が、私をじろりと見つめていた。

 メタテレパシーの影響か、私の口はコイのようにぱくぱくと動くだけで声を出せず、呼吸もろくに出来ないでいた。頬を流れる涙を拭うことも出来ず、私は見入られ恐怖に縛られる。次第に恐怖は体だけでなく、思考までにも手を伸ばしてきた。意識を崩壊させようと、自壊、自傷、自殺の波動を送ってくる。

 私はすぐに、渾身の力を込めて、メモリーから視線を切り動けなかった体をなんとか動かした。捕まってはダメ。離れないと。見えることも聞こえることもないほど遠くへ!

 黒いアスファルトを蹴る足音がリズムを刻む。同時にメモリーの叫び声も聞こえてきた。振り返れば、メモリーが大きく口を開けながら追ってきた。無数に生えた触手を手足のように操りアスファルトの上を走っている。

「はっ!」

 おぞましい迫力に息が切れる。殺される。頭を埋め尽くす単語が私を急かす。

 私は走る。激しい恐怖に震える足を走らせて、両腕を必死に動かして。

 私が走る先、そこには地下鉄の入り口と喫茶店が見えてきた。左側に地下鉄の入り口があり、右側には喫茶店に面した路地裏。もうメモリーとの距離は僅かしかない。どちらかに逃げ込まないと。

 二つの選択肢が私に迫る。みるみると近づいてくる。背後に迫るメモリーの音もさきほどより大きい。もう十メートルもない。

 どうする。どうする。もう五メートルもない。触手が届きそう。私は、

 ――地下鉄に入る。

 ――路地裏に入る。

 私は走る。すぐそこまで近づいている脅威から逃げるため。私は必死に走り、地下鉄に入り込んだ。階段を急いで駆け下りていく。

「オオオオン!」

 メモリーが叫び声を上げる。振り返れば、体を入り口に引っかけながら、私に向かって触手を伸ばしているメモリーがいた。執拗に私を追うメモリーの赤い目が、私をずっと、ずっと見つめている。

 私は階段を下り終え通路を走る。白いタイルの地面を蹴る足音が嫌に響く。無人の静けさに靴音が反響し、息づかいの音までもが大きく聞こえる。

 だが、無人のはずの地下鉄で突如物音がなった。背後から聞こえてきた音に走りながら顔を向けると、手洗い場から小型のメモリーが出てきたのだ。やはりいた。危なかった。もし路地裏に逃げ込んでいれば、挟み撃ちにあって今頃詰んでいただろう。

 しかし危険な状況は変わらない。追いつかれてしまっては、どの道私は死んでしまうのだ。

「ギャアアオウ!」

 手洗い場から出てきたメモリーが追ってくる。短い足をばたばたと動かし細長い腕を振り回して。地下鉄の通路に足音が加わり、逃走劇の旋律が加速していく。

 小型はそこまで早くない。私と同じか少し遅い程度。でも、走り続けた私には辛い。足の裏は痛みしか伝えてこない。体は熱くて息が苦しい。

「はあ! はあ!」

 私は走る。痛みに震える足を動かして、両腕を必死に動かして。

 私が走る先、そこには地下鉄の出入り口が見えてきた。右側に出口へと続く階段がある。小型の短い足ならば階段を上れず、腕を使って這いずらなければならないはず。そうすれば距離を稼げる。

 二つの選択肢が私に迫る。みるみると近づいてく。背後から聞こえてくるメモリーの音もさきほどより大きい。もう五メートルもない。

 どうする。どうする。私は、

 ――階段を登る。

 ――通り過ぎる。

 私は走る。すぐそこまで迫る脅威から逃げるため。私は必死に走り、階段を通り過ぎた。通過した出入り口が遠ざかる。代わりに背後に迫るメモリーが近づいてくる。私も遠ざけようと必死に走るのだけれど、これ以上速度が上がらない。

「ギャアアオウ!」

「うっ」

 今までのどれよりも近くからメモリーの声が聞こえてきた。もうすぐ、本当に後ろすぐ近くにいる。このままだと追いつかれる!

 そこでまた別の出口が見えてきた。私は迷うことなく登ることを選択し階段を駆け上がる。

「ギャアアオウ!」

 メモリーの叫び声。振り返れば、足幅を越える階段に悪戦苦闘している小型のメモリーが恨めしそうに私を見上げていた。

 危機一髪だった。本当にあと少しで追いつかれていた。不安と恐怖がすぐそこまで来ていたんだ。

 しかし私は振り切り、地下から地上へと駆け上がった。私が入った入り口からだいぶ離れた別の入り口。辺りを見渡せば小型のメモリーも大型もいない。良かった。同時にもし手近な出入り口で待ち伏せされていたら、と思うとぞっとする。

 私は逃げるのを再開し走り出した。朝の光はない。ここはまだ黒い世界のままだ。

 私は走る。この黒い世界を。ここには果てがあるのか分からない。無限に広がる空までもここでは黒く塗りつぶされている。それでも走った。スカートの裾を翻し、絶望に屈しそうになる心を辛うじて耐え繋ぎ。

 けれど、どこまで走ればいいの? いつまで走ればいいの? 私の心に黒いシミが浮かぶ。次第に広がり、不安が滲み、私はいつしか泣いていた。

「はあ……! はあ……!」

 怖い。辛い。苦しい。のどがからからで、肺は破裂しそうなほど痛い。足の感覚はとうに無くなり一瞬でも気を抜けば転びそう。

 ぼやける視界を直すため、私は両目を拭った。けれど不安に涙は次々にあふれ、頑張ろうとするのだけれど、私の心を折ろうとしてくる。もう駄目だと、屈しそうになる。

 私にはなにも出来ない。いじめられていた時だって、私にはなにも出来なかった。

 そんな中で、私は残された希望にすがった。

「ホワイト……!」

 知らず、私は叫んでいた。

「助けて、ホワイト!」

 私を守る者だと言ってくれたあなた。この状況で現れ私を助けてくれたあなた。私を守れるのはあなたしかいない。お願い、もう駄目。このままだと私、諦めそう。だからお願い、助けて。

 私は祈る。真実余裕はなく限界だった。心の底から私は叫ぶ。

 なのに、ホワイトは現れてくれなかった。

「どうして?」

 あふれる涙をふき取る気力も起きなかった。どうして現れてくれないの? 私が二度と出てくるなと言ったから? ストーカーだと悪口を言ったから? それなら謝る。何度でも謝る。本当は感謝していたって、嬉しかったんだって、正直に言うから。お願い、ホワイト!

 だけど、彼は現れてはくれなかった。

「う、ううぅ……」

 私の泣き声と荒い息が聞こえる。しかし、足音は聞こえなくなっていた。私は逃げることを止めた。もう駄目だ。これ以上走れない。立っていることすら出来ず私はその場に座り込む。大通りに面した歩道の上で、私は諦めたのだ。夢の時と同じように。

 悪夢の終点。私は力なく俯き、荒い息を残したまま座り込む。

 思い出されるのは、いじめの記憶だった。私を拒絶し哄笑する街の様子だった。辛くて、苦しくて。なのになにも出来なくて。私は、泣いた。

 お終だ。あとはメモリーに襲われるのを待つだけの、憐れな時間を過ごすだけ、だった。

「アリスさん!」

「え?」

 私は驚いて顔を上げる。誰もいないはずの黒い世界で肩を掴まれた。そして、名前を呼ばれたのだ。

 朝によく合う声。こんな黒い世界には不似合いな、それは澄んだ声だった。顔を上げた先。そこには、

「くおん……?」

 久遠が、折紙久遠が心配した表情で私を見ていた。膝を折って私の正面にいる。

「大丈夫ですか!? お怪我は?」

「私は……」

 私は、夢でも見ているのだろうか。目の前に久遠がいる。心細くて、もう駄目だと思った。なのに、なのに。私の友達が、すぐ近くにいるなんて。

「良かったです、ご無事で」

 笑顔で、私の前にいるなんて。

「久遠ー!」

 私は抱き付いた。久遠の細い体に両腕を回す。彼女の白い髪が頬に当たる。確かにいる。こうして触れ合える。それだけで救われたようだった。締め付けられていた私の心が、涙と一緒に弾ける。

「大丈夫、大丈夫ですよ……」

 久遠は優しい声をかけながら私の頭を撫でてくれた。私は彼女の胸に涙を落とすが、すぐに疑問と一緒に顔を上げる。

「なんで、久遠がここに?」

「私はただ、昨日無断で欠席されたアリスさんが心配で、直接お伺いしようと」

「そうじゃなくて」

 私が聞きたいことはそういう意味じゃなくて。彼女の優しさを知れたのは嬉しいけれど、私が本当に知りたいことは別のこと。

「どうして、久遠がこの世界に?」

 この黒い世界はメモリーの影響で出現する世界。なら私しかいないはずなのに。私は聞くが、それで思い出したかのように久遠は表情を険しく歪ませた。

「それよりも、そうですわ! これは何事なんでしょうか。突然人がいなくなってしまって、夜のように暗くなってしまい、わたくし、本当に困ってしまって。それに街の様子もおかしいのです! 何故かアリスさんが悪者のように。急いでアリスさんにお会いしないと思い走っていましたらここにアリスさんがいましたの。他の人は誰もいなくなってしまったのに。お会いできて本当に良かったですわ……」

 久遠が安堵のため息を吐いている。どうしてこの黒い世界にいるのか本当に知らないらしい。

「あ」

 すると黒い世界から影が退いていった。地面の影は建物に隠れるように。空の影は地平線の向こう側へと消えていく。そして今までいなかった人々や街の活気が一瞬で現れた。……私へのいじめと共に。

「これは、……どういうことなのでしょうか」

「……戻って来れたんだわ」

「戻って来れた、ですか?」

 私の言葉に久遠が小首を傾げている。とりあえず通行人の視線が気にならないようにするため、私たちは立ち上がり歩道の隅へと移動した。

「ねえ、アリスさん。さきほどの現象、それにこの街の変化も、何かご存知なのですか?」

「それは……」

 必死な表情で聞いてくる久遠にそっと視線を逸らしてしまう。どうして久遠が黒い世界に入れたのかは分からないし、街は変わってしまったのに久遠までは変わっていないのか、それも分からない。けれど、巻き込んでしまった心苦しさが顔に出てしまう。

「知って、いるのですね?」

 そんな私に、久遠は確信を得た瞳で聞いてきた。黙って過ごす、というのは出来そうにない。

「実は。いや、でも。信じられないわよ」

「それでもいいです、教えてください」

 まるでホワイトに尋ねる私と対面したようだ。今の久遠は普段の穏やかとは違い、必死さが感じられる。当然だ。こんな事態に遭遇して、必死にならない方がおかしい。久遠の気持ちを、私は自分のことのように理解出来る。

「……分かった。信じられないと思うけど、一応話す。無理して信じようとしなくてもいいから」

 そう前置きして、私は自分の知っていることを久遠に説明した。黒い世界。メモリー。観測者。意識世界。話していて、自分でも突拍子もないことだと思う。馬鹿馬鹿しいと、胸中では呆れそうになりながらも私は口を動かした。

 案の定、久遠は驚いた。次に疑問と不審が混ざったような眼差しを私に向けてきた。

「アリスさん。それは、本当におっしゃっているのですか? その……」

「うん。分かってる。信じられないよね。だから大丈夫。無理しないで」

 私の言葉に久遠は俯いてしまった。きっと私に失望しているのだろう。久遠にそんな思いをさせたくはなかったけれど、事実である以上、こういうことしか出来ない。私も暗くなり、気持ちと一緒に肩を落とした。

「私、信じます!」

「え?」

 しかし、久遠は顔を上げたかと思うと力強くそう言ってきた。驚いた。こんな話、誰も信じないと思っていたから。

「信じるって、こんな話を? でも、説明しておいてあれだけど、めちゃくちゃじゃない?」

「では、アリスさんは嘘つきさんなのですか?」

「いや、そうじゃないけど」

 あと嘘つきさんって……。

「なら決まりですわ」

 潔い久遠に私の方が戸惑ってしまう。久遠は、笑顔まで作ってくれた。

「だって、こんなことすでにあり得ないことではないですか。ではあり得ないなんて根拠になりませんわ。それは、正直に言いますと、わたくしも半信半疑です。ですが、アリスさんのことは信用しています。仮に嘘であっても、わたくしのためだと信じています」

「…………」

 久遠は笑顔で私にそう言ってくれる。それはきっと私の不安を減らすためだと思う。ありがとう。でも、私にはまだ余裕がなくて、表情は暗く、返事をする気力は起きてくれなかった。

「アリス!」

「え?」

 そこで声が聞こえた。男の人の声。慌てている大きな声で呼ばれ、私は背後を振り向いた。

「ホワイト!」

 そこにいたのはホワイトだった。彼には珍しく必死な表情で駆け寄って来る。

 すぐに私は久遠の手から離れホワイトの元へ近づいた。ようやく来てくれた、私は安心してホッと胸をなで下ろす。だが、すぐに安心は苛立ちに変わった。

「遅い! なんで来てくれなかったのよ!?」

「アリス……」

 目の前で立ち止まるホワイトを睨み上げ、私は棘のある声を飛ばす。思い出される恐怖はまだ胸にある。助けを呼んで、来てくれなかったことに裏切られたような悲しさがあった。辛かった、全部、全部。

「すごく怖かった。もう駄目かと思った。何度も何度も助けてって、あなたのこと呼んだのに」

 思い出すだけで流れる涙を、片手で拭う。

「でも、会えてよかった……」

 恐怖はまだ胸にある。でも会えた。それだけで、安心が胸に広がっていく。

「すまない」

 そういうホワイトは、暗い顔をしていた。

「何者かの妨害を受け、気が付くのが遅くなった」

「そうなんだ……」

「それで、お前は無事なのか?」

 いつになく、真剣な瞳と表情でホワイトが私を見つめてくる。

「うん、なんとか。それにね、久遠に出会えたし」

 私はなんとか涙を拭き終わると、小さく笑って後ろにいる久遠に振り向いた。誰もいない黒い世界で、彼女だけは存在し、私を励ましてくれたのだ。あの時の喜びは、感動にも似た衝撃だった。

「ん?」

 しかし、私が久遠を紹介した時、ホワイトの目つきが鋭くなった。まるで剣のような視線で久遠を貫く。

「貴様、何者だ」

 突然の詰問。さらに、ホワイトは拳銃まで向けたのだ。

「止めてホワイト!」

「え? え?」

 いきなりのことに久遠が怯えている。当然だ。知らない男に、突然銃なんか向けられて怖くないはずがない。

「止めてホワイト、なにするのよ!」

「黒い世界に他人は入れない」

 ホワイトは銃口を向けたまま久遠に近づいていく。そして眼前に銃を向け、彼女を見下ろした。

「答えろ」

 久遠は向けられる鋭い視線と、なにより銃に言葉を失くして怯えている。

「止めてー!」

 私は叫んだ。ホワイトに駆け付け、銃を持つ腕にしがみ付く。

「私の友達なの! 助けてくれたの! その人に、銃口なんて向けないで!」

「聞けない相談だ」

 私の抗議にも、けれどホワイトは腕を下ろしてくれない。

「こいつは敵の可能性がある。危険性がある以上、お前に近づけさせるわけにはいかない」

「そんな」

 言葉の内容に、私は絶句しそうになるも、必死にホワイトの腕を引っ張った。

「久遠はそんな人じゃない。私の友達よ、助けてくれたのよ!」

「無理だ」

 なのに、ホワイトは腕はビクともしなくて、下ろしてもくれない。

 久遠が怯えている。私の友達が。私を助けてくれたのに。それが嫌で、許せなくて、つい、私は怒鳴ってしまった。

「いい加減にしてよ! 久遠は助けに来てくれたのに、ホワイトは来てくれなかったくせにッ!」

 瞬間、ハッとなった。

「あ」

 腕を掴んだままホワイトを見上げる。

 ホワイトは久遠を見下ろしたままだった。私には見向きもしない。

 だけど、今までビクともしなかった腕が、ゆっくりと下りていった。

「ホワイト?」

 私の質問に彼は答えることなく、銃を消すとそのまま踵を返し歩き出してしまった。

「ホワイト!」

 叫ぶけど、彼は去って行く。私は追いかけようとしたが、けれど久遠の手前、そんなことをしたら彼女を傷つけそうで一歩が出ない。

 迷っていた隙に風が吹き、私の髪が視界を遮る。すぐに元に戻すが、そこにホワイトの背中はいなかった。

「ホワイト……」

 小さな呟きが、人通りの喧騒に消えていく。

 目に映るのは「アリス消えろ」と書かれた張り紙。耳に入るのは「ウザい」という私への悪口。それを私は見てるだけ。なにも出来ない、無力な私。

「アリスさん?」

 背後から久遠が心配そうに声をかけてくれる。だけど、私は振り返ることが出来なかった。

 変わり果てた世界。変えられなかった悪夢。変わらない黒い世界。さらに、ホワイトまで去ってしまった。

「うッうっ!」

 もう、嫌だ。

 すべてが嫌だった。もうたくさん。なんでこんなことになるの? なんでいじめられるの? 私がなにをしたの? なんで? なんで!? なんでよ!?

 私は、泣いた。

「待ってください、アリスさん!」

 走った。呼び掛ける久遠の言葉を無視して。

 私を否定する世界も。私を笑う人々も。私を襲う怪物も。それに対して、なにも出来ない自分も!

『皆さん! 黒木アリスと話してはなりません! 話しかけられても無視しましょう!』

 街は、未だに私を嘲弄する。拒絶を見せつける。

『ねえ、なんか臭くない?』『アリスだアリス』

 人々の横を通る度、私を嘲笑う声が耳をかすめる。それを無視して、私は走る。

『アリスなんていなければいいのに』『よく生きてられるよね』

 私は一人、笑われる。まるで閉じ込められた、黒い世界の中で。私だけが――

『あはははははは!』

『くくくくくくく!』

『ははははははは!』

 世界が笑う。

 私は、泣く。

「うあああああああ!」

 私は家に辿り着くと扉を閉めて鍵をかける。そのままベッドに横になった。枕に顔を沈め、世界から逃げた。

 胸を締め付けられる苦しみに、私は堪らず涙した。

 いじめられていた時の記憶を思い出す。そう、これだ。周りから感じる忌避と好奇の眼差し。酷く冷たい笑い声。無関心な傍観者。小さな教室は、それだけで私にとっては黒い世界だった。一人っきりで、周りからのいじめに耐えるだけの、辛い場所。どんなに悔しくても、悲しくても、自分じゃどうしようも出来なくて。ずっと笑われて。こんなに辛いのに、誰も私を助けてくれなくて。教室のみんなが、世界が、私を拒絶してくるんだ。

 それに対して、私はなにも出来ない。

 どうしていじめって起こるの? 私がなにをしたの? なんでこんなことをされなくちゃいけないの? 

 どうして私は、何も出来ないの?

「うう!」

 悔しくて、濡れたぞうきんを絞ったように涙を流す。もう出ないと思っていた涙は、後からいくらでも落ちてきた。

 それに、なんとかしようにも、頼りのホワイトも消えてしまった。私にはもう、本当にどうしようも出来なくて。

 ただ、耐えているだけだ。ずっと、このまま。

「うっ、うっ、うぅ」

 それから、どれだけ経っただろう。かなり長い時間を私はこうしていた気がする。窓から見る景色はすでに暗くなっていた。

 するとインターホンの無機質な音が部屋に広がった。

「アリスさん、中にいらっしゃるのでしょう!?」

 それは久遠の声だった。私のことが心配で来てくれたらしい。

「お話があるんです! ですのでここを開けて下さい!」

 扉越しに彼女の大きな声が聞こえてくる。私のことを本気で心配してくれて、必死に声を張り上げる久遠の姿が想像できる。だけど、今の私はすぐに会おうという気にはなれなかった。

「お願いしますアリスさん! 辛いのは分かります。ですけれど一緒に頑張りましょう!」

「…………」

 逡巡する。私は体を起こし、ゆっくりと扉に近づいた。

「久遠」

「アリスさん! 良かった。大丈夫ですか?」

「…………」

 扉越しのためくぐもった声が聞こえてくる。けれどその声音は穏やかなものだった。こんな私にも、久遠は温かな声で返事をしてくれる。本当に優しい人。だけど、私は鍵を開けることは出来なかった。扉のすぐ近くに顔を寄せて、顔を俯ける。

「久遠、気持ちは嬉しい。でも、無理だよ。私……」

 どうしようも出来ない。黒い世界は終わらなかった。記憶を思い出したのに。それどころか、私がいる世界までも大きく変わってしまった。

「これは、私の問題なの……。それに、私は無理よ」

 小学生のころ、いじめられていた私は何も出来なかった。周りからの迫害と嘲笑を受けるだけで。

「何も、出来ないよぉ……!」

 声は、震えていた。

 私にはなにも出来ない。ただ怖くて震えてるだけ。ましてや今度は世界そのものが私をいじめてきている。そんなの、どうすればいいの? どんなに辛くても、どんなに嫌でも、私は耐えることしか出来ないじゃない……。

「一人で抱え込まないでください! アリスさんは一人ではありません!」

「久遠……」

 私の諦めていた声に、久遠の強い言葉が重なる。その力強さに私は顔を上げていた。扉の向こうにいる、友人の顔を見るように。

「いじめに、たった一人で立ち向かえる人なんていませんわ」

 久遠の声は、怒っているようだった。けれどそれは私にじゃない。いじめという、現象に対してだ。

「アリスさんがいじめられていた時、たしかにアリスさんの傍には誰もいなかったかもしれません。ですけれど、今ならわたくしがいます。わたくしがアリスさんの力になりますわ。だって」

 扉一枚隔てた向こう側から、彼女の声が聞こえてくる。まるで黒い世界に閉じ込められた私を救い出すように。

「わたくし達、友達ではないですか!」

「久遠……」

 彼女の声が胸に届く。なにも出来ないと、もう駄目だと私は諦めているのに。

「一人では不安でも、わたくしがいます。一人では怖くても、傍にいます。一人では出来ないことでも、二人なら出来るかもしれません」

「私、でも」

「諦めないでください!」

 久遠が、大声で私に呼びかける。こんな私に。なにも出来なかった私に。

「わたくしがいます。だから、ね?」

 一人だと思っていた私の心を、久遠は励ましてくれる。それが、どうしても嬉しくて。

 恐怖が、久遠の優しさに触れて溶けていく。ひび割れた隙間から光が差し込むように、私に勇気をくれる。

 私はゆっくりと手を伸ばし、鍵を開けていた。黒い世界にある無数の扉に比べれば、こんなにも分かり易い出口に手を伸ばす。ワンルームという私の小さな世界に穴を開け、私は自ら、この世界の扉を開く。

 そこには、私の友達が待っていた。

「久遠は、いいの? 私、なんかの、ために」

 泣き声に震える唇をなんとか動かして言葉を作り出していく。頬を流れる涙を拭いて。

「はい! 当然ではありませんか。わたくしはアリスさんのお友達です。困っている友達がいれば、助けてこそのお友達ですわ」

 久遠はそう言ってくれた。私を助けてくれると迷いもなく言ってくれる彼女。友達だからと。浮かべる彼女の笑顔は、眩しいほどに輝いていた。

「久遠!」

 私は、久遠に抱き付いた。一人だった。孤独だった。でも今は一人じゃない。それだけで嬉しかった。友達がいる。それが、どれだけ心強くて、いじめられていた私にとって幸せか。

 一人じゃないんだ、私は。

「大丈夫です、大丈夫ですよ、アリスさん」

 泣きじゃくる私を、久遠は優しく受け止め頭を撫でてくれた。彼女の温かい体は、私の凍える心を包んでくれるようだった。


 それから久遠を部屋に入れ、私たちはベッドに腰掛けた。

「へえ~、ここがアリスさんのお部屋なのですねぇ」

「ま、まあね」

 久遠が私の部屋に来るのは初めてだ。珍しいもの好きな久遠は人の部屋を楽しそうに見渡している。とはいっても、私の部屋は簡素だと思うけど。

「アリスさん、もう具合は大丈夫ですか?」

「うん、ありがとうね。だいぶ落ち着いた」

 久遠がしっかりと私を受け止めてくれたおかげで、なんとか気持ちは落ち着いてくれた。私はいつものように久遠に返事をする。それで、久遠もニコッと笑ってくれた。けれど雰囲気をすこし変えて、私に話しかけてきた。

「わたくし、思ったんです。こんな事態ですもの。アリスさんが嫌なら、わたくし、部屋から出なくてもいいのではって。だって、あんな」

 久遠の表情は暗い。きっと外の様子を思い出しているのだろう。私だってそう。悪い夢だ。町の人すべてが、私をいじめてくるなんて。

 外に出ても嫌な思いをするだけで、どうしようもない。このまま部屋にいるという久遠の提案は、もっともだ。

「うん、ありがと」

 そんな彼女の優しさが嬉しかった。久遠は私の代わりに買い物までしてくれると言う。そんなの大変なはずなのに。久遠は友達だからといって笑顔で言いのける。

 本当に、優しい子。

 だけど。

「気持ちは嬉しい。でも、それじゃ駄目だよ」

「え?」

 私はベッドから立ち上がった。隣では驚いたように久遠が私を見上げている。

「私、決めたんだ。もう逃げないって。久遠に抱き締められた時にね。私は一人じゃないって実感した。そう思えただけで、勇気をもらえたんだ。だからもう逃げない。隠れない。今度こそ、正面から立ち向かおうって」

 私は逃げ出した。この世界から。その行動を、そして、その辛さを久遠は分かってくれている。だからこそ、私の選択に驚いている。

 でも、私は決めたんだ。かつてなにも出来なかった私でも、今度こそは、自分の力で立ち向かおうって。

 これは、私の問題だ。私が解決する。

「そう思った。あなたのおけげよ、久遠」

「アリスさん……」

 見上げる彼女、今度は私が力強く見つめる。

「でも、いいんですか? 正直に言うと、どうして私が黒い世界に入れたのか分からないんです。ホワイトさんも、わたくしが敵ではないかと言っていました。アリスさんは、不安ではないんですか? その、わたくしのこと……」

 久遠は心配に顔を俯けていた。どうして久遠が黒い世界に入れたのか。それは確かに分からない。私にとって一番の友達だから? それが理由なのかもしれないが、だけど、そんなの関係ない。関係ないよ。だって、

「久遠が私を信じてくれたように、私だって久遠を信じてる。私たち、友達でしょう?」

 彼女は、私の最高の友達だから。

 そう言った時、久遠は静かに涙を流した。きっと久遠だって不安だったんだ。変わり果てた世界に。人々は狂ったように私を中傷することしかしない者になり、ここには私たちしかいないのだから。

「ありがとうございます、アリスさん」

「ううん、そんなことないよ」

 久遠は涙を拭いて、私にお礼を言ってきた。

「で、ですが、その、立ち向かうと言っても、どうすれば」

 久遠が不安そうに見上げてくる。確かにそう。問題はそこだ。こんなこと、どう解決すればいいのか。

 けれど、私はすでに考えていた。

「私、小学校に行こうと思う。そこで記憶を思い出す」

「学校へですか?」

「ええ」

 不思議そうな久遠に私は頷く。

「忘れた記憶はメモリーになる。なら、メモリーを思い出したら記憶に戻ると思うの」

 正しいかは分からない。だけどどこか確信があったんだ。これこそが、この問題に立ち向かう唯一の方法なんだって。

「アリスさんの言うことは分かります。ですが、それが正しくても、記憶を思い出そうとすればメモリーが現れるのでは?」

「うん。でも、逃げてても倒せないんだ。ほっておいても奴らは現れる。いつかは、立ち向かわなくちゃならない」

 メモリーと対峙した、あの恐怖。考えるだけで怖い。死ぬほど怖い。でも。

「もう、逃げない」

 私は決めたから。かつてどんな辛い過去があって、私が苦しんでいても。そのせいで、世界が変わろうとも。

 私は一人じゃない。だから、立ち向かえる。

「私、行くわ」

 覚悟を決めて、小さく、けれど力強く、私は呟いた。

「でしたら、わたくしも協力しますわ!」

「え?」

 私の決断に久遠はベッドから立ち上った。暗くしていた顔を輝かせて。まるで仲間になれるのが嬉しいように。

「でも久遠、いいの? 相手はメモリーっていう怪物で、久遠にも襲ってくるかもしれないのよ。怖くないの?」

 黒い世界に久遠は巻き込まれてしまう。怪物が殺しに来るなんて、そんなのは誰だって嫌だし怖いはず。

「わたくしは大丈夫ですわ。アリスさんと一緒ですもの」

 そこで、久遠はまたも微笑を浮かべる。私の心配を払うように。優しい笑顔。

 私はそんな優しさが今だけは辛くて、否定しようとするのだけれど。

「アリスさんはわたくしに、親友を見捨てろとおっしゃるのですか?」

 先に、彼女は穏やかにそう言うのだ。

「そんなことは出来ません。それはアリスさんが言う怪物に襲われることよりも恐ろしいことですわ」

「久遠……」

「だからわたくしはアリスさんと一緒に行きます。お役に立てるかは分かりませんが、一人よりも。心の支えになってみせます。きっと大丈夫です。そんな恐ろしいことをお一人で抱え込まないでください」

 久遠はそう言った後、いたずらっぽく笑った。

「それとも、アリスさんはわたくしとご一緒では迷惑ですか?」

 久遠が私の両手を握ってくれる。両手を包む彼女の手の平と弾む声は温かい。

「…………」

 その言葉が、その温かさが、胸にジンと広がっていく。

 私は覚悟していたはずなのに、つい泣いてしまった。おかしいな、私はいつからこんなにも泣き虫だっただろう。きっと黒い世界の後だからかもしれない。一人で立ち向かうと決めた私でも、やっぱり一人では怖くて。彼女の優しさは胸を刺激して、私の気持ちを一杯にする。

 私は瞳に溜まった涙を指で受け止めた後、笑顔を浮かべて久遠に合わせた。

「さあ?」

「まあ!」

「ごめん。うそよ、うそ」

 わざとらしく、胸の前で両手まで合わせて。大仰に驚く久遠を見て私は笑う。

「ありがとう、久遠」

「いえ。わたくしはただ、アリスさんの笑っている顔が好きなだけですわ」

 そういって微笑む純白の笑顔が眩しい。どうやら久遠ももう大丈夫だ。この世界に取り残された私たち二人だけど、一人じゃない。助け合える友人がいるのだから。

「ではアリスさん。やるならば急いだ方がいいのでしょうが、今日はもう遅いですし、小学校へは明日行きませんか?」

「そうね。もう暗いし」

 窓を見るが、すっかり暗くなっている。分からなかったけど、私は相当長い間落ち込んでいたみたい。

 そこでふと思う。帰るにしたってこの町の様子では久遠の家も無事とは限らない。

 私は久遠を見た。

「久遠、今日は泊まってく?」

「いいのですか!?」

 私からの提案に久遠は目を輝かせて食いついてきた。そんな素振りが可愛らしくもなんだかおかしくて。私は小さく笑ってから顔を縦に振った。

「ええ、大歓迎よ」


 急遽久遠のお泊りが決まった。時間は七時を回っており、となれば夕食だ。二人分の料理が出来るだろうかと心配になりつつ冷蔵庫を覗いてみると、先日作ろうと買っておいたカレーの食材があった。良かった、これなら大丈夫そう。

 私と久遠は台所に立ち二人で夕食のカレーを作った。中央に置いた小さなテーブルにカレーを乗せ、対面して座り二人一緒に食べる。味はなかなかのもので、良く出来てると思う。それに、いつも一人で食べるのに、久遠がいるというのもなんだか良かった。安心できるというか、一人ではモノクロの食卓でも、誰かと一緒だと華やかになるというか。

「やっぱり誰かと一緒に食べるごはんっていうのはいいわね」

 普段の食事ではまずしない笑顔が零れる。なんかホッとする温かさていか、そういうのを感じるから。

「やはり、一人というのは寂しいですか?」

「うーん、寂しいってわけでもないけど。でもそうね、たまには」

「でしたら!」

 私は何気なく言っただけなのだが、久遠はなにやら使命感に燃えた目つきになって私を見てきた。いったいなんだろう。

「今日一日は、アリスさんに寂しい思いはさせませんわ」

 久遠のやる気に満ちた言葉を聞いて私はつい小さく笑ってしまった。だって聞いている私の方が恥ずかしくなるくらい、久遠は本気で言ってくるものだから、なんだからおかしくって。

「え? え? わたくし、何か変なことを言いましたでしょうか?」

「ううん、ありがと久遠。でもそんなに張り切らなくても、久遠が一緒にいるだけで寂しくなんかないわよ」

「いえいえ。わたくしに出来ることならなんでも。わたくしはそのために来たのですから。そうですわ! お食事が済んだらお風呂にしましょう。わたくし、アリスさんのお背中流しますわ」

「え!?」

 いきなりの提案に飲んでいた水を吹きそうになる。すぐにナプキンで口許を拭きつつ久遠を見る。

「ちょっと待って、一緒にお風呂は」

「恥ずかしいですか?」

「いや、恥ずかしいっていうか~」

 うん、恥ずかしい。視線を泳がし顔が少しだけ赤くなる。そりゃ同姓とはいえ恥ずかしいわよ。なにかいい言い訳はないかしら。

「その、うちのお風呂小さいから。二人は入りきれないわよ」

「詰めればきっと大丈夫ですわ。さ、せっかくなので入りましょう!」

 いや、なんでそんなに乗り気なの? 眩しい笑顔はなに? なんでそんなに楽しそうなの?

「ね!?」

「もぉう。分かった。降参」

 なんだか説得するのは難しそう。私は投げやりに言ってカレーを一口多めに頬張った。うん、おいしい。

 それから食事を終え、湯船にお湯が溜まったので二人揃ってお風呂に入ることにした。脱衣所、なんてものはないのでお風呂の前で服を脱ぐしかない。

「アリスさん、脱いだ服はどこに置けばよろしいですか?」

「あ、ここにカゴがあるから入れておいて。あとで洗濯かけておくから」

「ありがとうございます」

 久遠は上機嫌にそういうと靴下を脱いでカゴに入れた。さらには学生服のボタンに手をかけていく。私は恥ずかしさからなかなか脱ぐに脱げないが、久遠はご機嫌で鼻歌まで歌っている。なんて余裕、折紙久遠、凄すぎ。

「あれ、アリスさんは脱がないのですか?」

「え? いや、今から脱ぐとこよ」

 そんな久遠を見ていたら気づかれてしまった。人が脱ぐとこを見ているなんて失礼よね。それでも久遠は笑みを崩すことなく気にしていないようだった。私もずっと服を着ているわけにはいかないのでボタンに指をかける。するとボタンをすべて外し終わった久遠が制服を脱ぎ下着が露わになった。当然胸の形も分かる。

 デカッ! え、久遠て着やせするタイプ?

 久遠が身に付けている下着は純白のブラだった。パットの周りには小さなレースが付いており、ピンク色の水玉模様が可愛らしい。存在感を主張しつつも形のいいバストはC? いや、もしかしたらDはあるかもしれない。柔らかそうな胸がブラにみっちりと収まっていた。

 なにそれ。自信満々に脱いで嫌がらせ? 私に対する当てつけなの?

 世の中不公平。私にだってそのくらいちょうだいよ。今なら嫉妬で人が殺せそうだわ。

 そんな醜い思いを胸にしまいつつ《胸に嫉妬する思いを胸にしまう、というのが言い得て妙というか満足》、私たちは体を洗ってから湯船に入った。横に並び体育座りで入る窮屈なお風呂だがそこは気にしない。

「いい湯ですわね」

「ええ」

 私と久遠は髪を串で持ち上げ肩まで浸かった。暖かいお湯に体を浸し、久遠とはどうしても体が密着してしまう。私は前を何気なく見つめていたが、ふと久遠の視線に気が付いた。

「ちょっと久遠、そんなにジロジロ見ないでよぉ」

「だって、アリスさんったらとてもきれいな肌をしているのでつい」

 久遠は悪戯っぽい笑みを浮かべているが私の目はつり上がる。いや、あなたの方がよっぽどきれいな肌してるじゃない。

 と、今度はなにを思ったか、久遠はいきなり抱きついてきたのだ。

「久遠!?」

「いいではありませんか~、せっかくなのですし。あ、アリスさんの肌すべすべで気持ちいいですわ~」

「ちょっと止めてよ、久遠。触らないで。アンっ。ちょっと、今変なところ触ったでしょ! そんなところ触らないでよ。アっ。もう、止めてってば~!」

 狭い浴室で必死に暴れ強引に触ってくる久遠を引き剥がす。それから私もお返しに久遠の体をくすぐってやった。他にはお湯を掛けたり掛けられたり。久遠がこんな調子なので私まではしゃいでしまった。

「もう、久遠ったら悪のりし過ぎよ」

「ごめんなさい、つい調子に乗ってしまって」

 お風呂から出た後は私が用意した寝間着に二人とも着替え、私は勉強机で髪を乾かし、久遠はベッドに座り髪をタオルで拭いていた。鏡で背後を見てみると、久遠は反省しつつも表情をゆるませている。白いズボンのパジャマに身を包み、クリーム色の髪からはまだ湯気が上がっていた。

「まったく仕方がないんだから。はしゃぐにしても気をつけてよね」

 私は久遠に自制を求めるが、まあ、浮かれて遊んでしまったのは私も同じなので偉そうには言えないか。

「そういえばアリスさん」

「なに?」

 私は背後の質問にてきとうに答えながらドライヤーを髪に当てていく。

「今朝の白い男性の方、ホワイトさん。あの方とはどのようなご関係なのですか?」

「え!?」

 私はがばっと後ろを振り向く。ホワイトのこと? もしかして説明するとき、ホワイトのこと話してなかったっけ?

「あれはー」

「もしかして、彼氏さんですとか?」

「ええ!?」

 彼氏? あの無愛想な男が?

 久遠はなにやら期待した目つきで私を見てくるが、私としてはその期待に応えられそうにない。

「かっこいい方でしたものね、羨ましいですわ~」

「いえ、違います」

 きっぱりと、私は断言を以て久遠の期待を葬った。

「え、そうなんですか?」

「彼はその、そういうのじゃないわ」

 彼のこと、ホワイトのことが話題になり僅かに顔が暗くなる。今朝のことを、思い出してしまうから。

「久遠はその、ホワイトのこと怒ってないの?」

「それは……、正直に言えば怖かったです。でも、あの人がアリスさんのことを本気で心配しているのは分かりましたわ。彼は、優しい人です」

 優しい、か。

 突然銃を向けてきた彼をそう言える久遠もすごいけど。でも、そうね。ホワイトのことを思い出すと、いつもあんなに無愛想なのに、不思議と怖くない。

「私が怪物に襲われた時ね、彼が助けてくれたの。彼だけはメモリーを倒すことが出来て、私を守ってくれるって」

「そうだったのですか」

 私は久遠との会話中、意識を少しだけずらしてホワイトのことを考えた。彼は今どうしているだろう。私の言葉に怒っていないか、呆れていないか。

 できれば謝りたい。気が動転していたあの時では言えなかったことを、伝えたい。

 また会えたら、今度こそは正面からお礼を言いたいと、思っているんだから。

「頼もしい方ですわね。ですけれど、何故そのホワイトという方はメモリーを倒せるのでしょうか。それにアリスさんを守ってくれる理由はなんなのですか?」

「それは、実は聞いても教えてくれなかったのよ。そこはすごく頑固で。ただ、彼は表層世界の人間じゃない。それだけは確かだわ。そうじゃないとメモリーは倒せないもの」

 メモリーは失われた記憶が実体化した怪物だから、物理的な攻撃は利かない。幽霊みたいなものと、なんとなくだけど同じだと思う。

「なるほどですわ。では、あのホワイトさんもアリスさんの何かが実体化した存在なのですね」

「え!? あ、そっか」

 言われて思いつく。そうか、メモリーが失われた記憶が実体化した存在のように、表層世界の者でないなら、ホワイトも私の何かが実体化した存在なんだ。気づかなかった。メモリーのような怪物ならともかく、彼は一見普通の人間と同じだから。

「アリスさんは彼の正体に心当たりはないのですか?」

「うーん」

 私は腕を組んで頭を捻る。ホワイトの正体、気になるけれど、でもどれだろうか。意識世界は知識と心と本能でできていて、知識でないのなら心か本能になる。本能というのはよく分からないけれど、心ならば、どうだろう。勇気、とか? あんな怪物と戦うくらいだし。でも、どうにもピンとこない。私を守ってくれる理由もはっきりしないし。じゃあ、私を守ってくれる心ってなんだろう。…………友情とか? それとも、愛、とか? いや、それは絶対にない。

「うーん、難しい」

 彼について知っていることも分かることも少ない。そもそも、あんな素性不明な男のことなんか分かるわけないわよね。

「明日もあることだし、そろそろ寝ようか」

「はい」

 私は立ち上がりベッドに横になる。その後久遠も入ってくるので体を隅に寄せた。それでもシングルベッドの上ではぎりぎりで、もちろん同じ布団を被る。

「なんだかまた窮屈。ごめんね久遠、こんなんで」

「そんな。むしろわたくしは楽しいですわ」

 同じ布団を被りながら私たちは向かい合う。顔の位置はけっこう近くて、普段はなかなか見れない大きな笑顔がすぐ前にある。久遠のはにかんだ笑みは可愛らしい。

「それじゃ電気消すわよ?」

「はい」

 私は点けておいたスタンドライトを消し布団に潜る。部屋は真っ暗になるが、すぐ近くで彼女の息遣いが聞こえてくる。

「いよいよ明日ですわね。緊張していませんか?」

「ううん、大丈夫。久遠がいろいろ気を遣ってくれたから」

「そんな、私はなにも」

「謙遜しないで。分かってるわよ、今日に限って妙にテンション高いんだから」

「……分かりますか?」

「バレバレよ」

 目が慣れてきて久遠の顔がうっすらと見える。恥ずかしそうな表情も。私はそんな久遠に勝ち誇った顔で言うが、すぐに表情を戻した。

「ありがとね、久遠。久遠がいなかったら私、今頃すっごく落ち込んでたと思う。ううん、ずっと泣いてたに違いない。本当にありがとう」

「わたくしはただ。アリスさんが笑っていてくださればそれでいいですわ」

 久遠が小さく笑う。白くきれいな髪をベッドに好きにさせ、小さな口元を持ち上げて。そんな久遠を前に、私も小さく笑った。

「私ね、いじめられてた時、なにも出来なかったんだ。悔しくても、辛くても、それをどうにかしようとしなかった」

「それは――」

 言いかける久遠の口に私は人差し指を当てる。彼女が言おうとしていることは分かる。それは嬉しいけど、でも、今は私の言いたいことを言わせて欲しい。

「私は無力だった。それを思い出したの。そしてそれは今も変わってない。一人で塞ぎ込んで、閉じこもってた。でもね、久遠が来てくれた。こうして私を励まして、傍にいてくれて。だから、私は無力かもしれないけど、久遠がいるならやろうって思えた」

 私は久遠の口から指を離す。そして、彼女の瞳を覗き込みながら、明日への意気込みを語った。

「明日、頑張ろうね」

「はい」

 私たちはそう言って、笑顔のまま眠りについていった。明日にはほんの僅かな希望と、大きな不安と恐怖しかないはずなのに。それでも。私は久遠に感謝した。

 そして、次に考えていたのはホワイトのことだった。彼にも出来ればありがとうと、今度こそちゃんと言いたい。ごめんなさいと、今朝のことを謝りたい。もう彼と会うことは出来ないのだろうか? それは、寂しいことだけど。

 彼のことを考えて私の顔が少しだけ暗くなる。ううん、駄目だ。今はこのことを考えるのは止めておこう。今は明日のことだけを、出来ると信じて寝よう。

 私は明日、久遠と小学校へと行く。忘れている記憶を思い出すために。そこで、今度こそ悪夢を終わらせる。隣にいる久遠とならそれが出来ると信じて、私は瞼を閉じていった。

 が。

「くふぅ~!」

「きゃああ! ちょっと久遠、なに抱きついてんのよ!?」

 いきなり久遠がい抱きついてきた!

「わたくし、抱き枕がないと眠れないんですわ~」

「私は枕じゃないぃいいい!」

 久遠との夜はもう少しだけ長くなりそうだ。


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