第3話 第二章 明かされる真実

 第二章 明かされる真実


 暖かい。柔らかい感触が私を包んでいる。ここはどこ。私は、どこにいるんだろう。

 ゆっくりと意識が戻ってくる。白い光の中から起き上がるように私は瞼をあけた。

「……私の部屋だ」

 見慣れた天井。白い布団にいつものベッド。周囲を見渡してもここは私の部屋だ。机においてある目覚まし時計を見れば時刻は十二時三十分。五時間ほど眠ってしまったらしい。

 瞬間だった。ハッと思い出し、私は体を両腕で抱きしめる。背筋が凍り、震えそうになる私の身体。

 記憶。忘れられるはずもない黒い世界の記憶。まだ、恐怖が体に残っている。余韻だけでも身動きを封じるほどの恐怖が。

 あれはなに? どういうこと? 分からない。

 そこで私は思い出す。

「そうだ、あの男」

 黒い世界にいた白い男。ここに運んでくれたのは彼だろうか。どうして私の部屋を知っているのか、どうして名前を知っていたのか。そして彼、ホワイトと名乗る彼は何故黒い怪物のことを知っていたのか。まだまだ聞きたいことはいくらでもある。今すぐにでも。

 それで私は改めて周囲を見渡してみた。しかし、当然そこには誰もいない。

「そんな……!」

 焦る。こんな訳の分からないことが起きて、なのに置き去りなんて嫌。

「誰かいないの!?」

 一人きりの寂しさが胸を締め付ける。孤独だと感じるだけで、また怖くなってしまう。私はベッドから降りて再び叫ぼうと――

「なんだ、うるさいぞ」

 と、したところで制されてしまった。

 いた。声がしたのは洗面台。ここからでは死角になって見えない場所から、白衣の彼が現れた。その手には今絞ったばかりの塗れたタオルが握られている。もしかして、私のため?

「あ、あの」

「とりあえず座れ、混乱しているだろう」

 まるで私の心を透かしているようにホワイトは言う。事実その通りなので、私は素直にベッドに腰掛けた。「いるか?」と手渡されたタオルを軽く顔に押し当てて、上がっている心を冷まさせる。そして顔からタオルを離してから息を吐く。これだけで大分落ち着いてくれた。

 ホワイトは対面にある勉強机の椅子に腰かけている。コートの端が床につき、初めて出会った時と同じ、何を考えているのか分からない表情をしている。冷たいというか、孤高のような。慣れ合うのを好まない態度。

 彼は腰掛けたまま足を組む。すらっとした長い足。銀髪と白い肌、青い瞳。彼の容姿を、今更私はこの部屋では浮いているなと思った。それだけに、彼は美しかった。こんな美形、外国人モデルでもそうそういないのではないだろうか。落ち着いた気品と洗練された雰囲気は、まるで本当の貴族か王子様のよう。

「ありがとうございます、その、ホワイトさん」

 私は借りてきた猫のようにお礼を言った。命を助けてくれたのだから、ちゃんと言わないと。私は感謝を込めて、彼に躊躇いがちに言う。

「まったくだ」

「…………」

 が、彼は無愛想にもそれだけ。私の感謝はどうでもいいように言い捨てられてしまった。まあ、たしかに迷惑をかけたのは事実だけど、でもそんな風に言わなくてもいいのに……。

「それでその、聞かせてください。さっきの、黒い怪物のこと。あなたのことも。私、なんにも知らなくて。あれは全部、現実……?」

 言っていて私は不安になってきた。だって、全部おかしいもの。現実にあんなこと起こるわけがない。あれは全部夢や幻だと言ってくれれば、相手が医者でなくてもそうだと信じてしまいそう。いや、むしろそうなのだと思いたいのかもしれない。

「いや、あれは幻覚ではない。全て、お前の身に起こった事実だ」

 けれど、彼は否定する。私の甘い期待を慈悲のない冷たさで摘み取る。

「お前が戸惑うのも当然だ。そして気に掛けるのも至極真っ当なことだ。お前は困惑しているだろうが、安心しろ。それが正常だ」

 ホワイトは淡々と口にする。きっと私を気に掛けてくれたから、とかそんな優しさではないと思う。彼はただ、事実を言っているだけ。

「だが、俺が答えたところでお前の迷いがなくなるとは限らない。いや、むしろ深まることもある」

「それでもいいです。お願いします」

 私は意を決めて、彼に頷いた。物さ定めをするような彼の視線に負けないように、彼を見つめる瞳に力を入れて。

「ならば話そう。信じるかは勝手にしろ」

 そう言って彼は視線を私から窓へと移した。昼の日差しが部屋に充ちていく。温かな光を彼はじっと目にするが、何を考えているのかはやはり分からない。

「この世界には三つの世界が存在する。一人の意識に基づいてだ」

「一人の意識?」

「そうだ。そのために意識世界と言われるが、人の意識は三つに分けられる。表層意識。深層意識。無意識。そのため、意識世界にも三つの世界がある。それぞれ、表層世界。深層世界。無意識世界と呼ばれるものだ。俺たちがいるこの世界は表層世界という世界で、知識によってできている」

「知識……」

 覚悟はしていたつもりだった。どんなとんでもないことを言われても、あの黒い世界以上のことはないだろうと。けれど甘かった。彼の言っていることは予想外で、まさか人の意識だとか三つの世界とか言われるとは思わなかった。私は面食らいそうになるが顔には出さず、彼の話を最後まで聞くと決めた。

「たとえば、元となる人物の知識、その大半が花や植物だとすると、それらの知識は世界に反映され、この地上のほとんどは木々に覆われることだろう。逆に戦争や軍事に詳しく、関心を寄せれば実際に戦争が起こり火の海だ。まあ、この世界を見渡す限り、その人物はまともな知識の持ち主のようだがな」

 そう言ってホワイトは目を閉じた。まるで皮肉のような物言いで、なんだか私の目を避けているみたい。

「…………?」

 私はじっと続きを待っていると、彼は静かに瞼を開いた。

「次に深層世界だが、表層世界の下にある世界だ。その人物の深層意識、いわゆる心や感情、人格というものが元になっている。例の人物が怒れば火事が起こり、泣けば雨が降るし洪水も起こる。別名、ワンダーランドと呼ばれる世界だ」

 ワンダーランド。その言葉には聞き覚えがある。夢の中に出てくる白うさぎが言っていた。ワンダーランドへと行こうと。偶然、なのだろうか。

「最後に無意識世界と呼ばれる場所だが、その人物の無意識、本能が反映された世界だ。無意識というのは誰にも観測できない。故に、そこには何もない。不変で、無機質な世界だ。原初から変わらないもの」

 無意識世界。その場所を語る彼の仕草はどこか辟易としているように感じられた。

「これらが意識世界、その三つに分けられる世界だ。それで、その元となっている人物を観測者という。その者が世界を観測し、そこで得られる知識が表層世界に反映され、起こる心の動きが深層世界を動かし、無意識は不変のまま」

「その観測者っていうのが」

「そうだ」

 ホワイトが切っていた視線を私に向ける。鋭い目。否定できない事実を押し付けるような。

「お前のことだ。この世界はお前を元にして出来ている」

 そんな。この世界が私を元にしてできている? 私の知識が? 私の心が? 私の本能が? 信じられない、そんなこと。

「ちなみに今朝体験した黒い世界だが、あれは特別だ。メモリーがここへ現れたことにより、表層世界と深層世界の一部が交わった、表層世界でありながら深層世界でもある、またはどちらでもないイレギュラーな空間だ」

 私は咄嗟に否定の言葉を出そうとしたけれど、喉元まで出かかった言葉を呑み込んだ。そうだ、ここで違う、と言ったところで仕方がない。ホワイトは信じるかは勝手にしろと言った。私はそれでも構わないから説明を求めたのに、否定するのは、本当に私の自分勝手なことだから。私はそれだけはしないようにした。

 では信じるかといえばそうではなくて。衝撃に戸惑う私というのもいる。私はどう心の整理をつければいいのか、口を閉ざしたまま僅かに目線を下げた。気持ちが重く、暗くなる。どうしよう。否定はしないけど、信じることも出来ない。

「今度からは軽率な行動や感情的になるのは控えるんだな。観測者であるお前が世界に与える影響は大きい」

 だというのに、ホワイトは無遠慮にそんなことを言う。私が考え込んでいるのを知っているはずなのに。

「そんなこと、急に言われても。すぐには納得出来ない。私が、世界の元になっているなんて」

「だろうな。お前は観測者だが、同時にそこいらにいる小娘と同じだ」

「こむッ」

 あまりの言い草に声が漏れてしまった。なによ、そんな言い方しなくてもいいじゃない。こっちは戸惑ってる中でも気を遣ってあげたのに。なんだろう、この感じ。だんだん腹が立ってきた。

「あなたがなんと言おうと、そんなことすぐに納得できる人の方がおかしいわよ。それに私が観測者だと言うけれど、証拠はあるの?」

「今朝の体験が誰にでも起こると思うか?」

 黒い世界で黒い怪物に襲われる経験。確かに、それはそうだけど。あんなこと普通では起こらない。言い返せない不満が私の頬を膨らませる。

「それはその、信じたわけじゃないけど、否定も出来ないから、まあいいわ。でもあなたはなんなのよ。私、あなたのことはまだ何も聞いてない。私を助けてくれたけど、どうして? 私を守る者って、どういうことよ?」

 彼は私を抱えて逃げている途中、私の質問に答えた。お前を守る者だ、と。真剣な表情でそう言った彼の顔を、私は今も覚えている。少しだけ、かっこいいとも思ってしまったことも。なのに、

「言えない」

 彼は答えてくれなかった。

「どうして?」

「どうしてもだ」

「じゃあ名前は? ホワイトってどう考えても偽名でしょ?」

「いや、俺の名だ」

「……嘘つき」

「嘘じゃない」

「なら証明できるの?」

「いや」

「ふぅーん」

「なんだその拗ねた顔は」

 何も答えてくれない彼にだんだん不信感が募っていく。彼には助けてもらったけど謎が多い。少しくらい、教えてくれてもいいのに。それに態度も偉そう。きっと人から敬遠されるタイプだと思う。だって素直に喜べないもの。

「言えないこともある。察しろ小娘」

 また小娘。そりゃあ、私は年下かもしれないけど。でも、もっと言葉を選んでくれてもいいのに。

「あなたこそさっきからその、何様なのよ。そりゃ、あなたには助けてもらったし、それは感謝してるけど、だからといって失礼じゃないの? なんで私のこと知ってるのよ、けっきょくあなたは誰なの?」

 命を助けてくれたとしても、こうも分からないんじゃ不安にもなるわ。この人は普通じゃない。だから信じるためにもいろいろ知りたいって思うこと、そんなにもいけないことなの?

「それは言えない」

「どうして?」

「どうしてもだ」

「不審人物」

「好きに言え」

 彼は吐き捨てるように言うと顔を横に向ける。めんどくさそうに。

「ちょっと、こっち向きなさいよ。せめて本当の名前くらい教えてよ」

 私は拗ねた子供のように彼に言い縋っていた。だって、なんだかんだ、彼には感謝しているから。その人の名前も知らないなんて。その人の本当の名前でお礼を言えないなんて、やはり寂しいから。お礼を言いたい。だから彼の名前を知ろうとするのだけれど。

「さきほども言っただろう。名はホワイト。それ以外は言えない、馬鹿娘」

「ば、ばかって言ったわね~!」

 信じられない。ほとんど初対面なのに。私女の子なのに。お礼を言ってあげようと思っただけなのに!

 頬が膨らんでいくのが分かる。感謝の気持ちが形を変えて苛立ってくる。

「今すぐ警察呼ぶわよこの不審人物!?」

「それが命の恩人に掛ける言葉か?」

「あなたが命を助けてくれた理由が分からないんじゃ信用できないもの。もしかしたら邪な理由かもしれない」

「なるほど、そうかもな」

「そうなの!?」

「めんどくさい奴だなお前も」

 ホワイトが足を崩し前屈みになる。垂れた銀髪に表情は見えないがとても嫌そうなのが分かる。

「だって気になるわよ! あんな黒い意味の分からない世界やメモリーのこと知ってて、拳銃を持ってるわ炎の狼を出すわ、あなただって普通じゃ――」

 私は体を前に傾け口にも熱が入る。この人のことを知ろうと躍起になって喋る、その際中。

 ぐぅ~。

「へ?」

 どこかから音がなった。え、嘘。嘘でしょ私。

 そう思いつつも私の両手は自分のお腹を押さえていた。どうして? 私は何故と思うがすぐにハッとなる。昨日の夜、アルバムを読んでから食事をせずに寝てしまった。今朝もそういえば夢に集中してて食べてない。

 どういうことかを理解してみるみる顔が赤くなっていく。すぐに顔を俯けて身体を丸める。きっと耳まで真っ赤だ。

 そんな、なんでよりにもよってこんな時に。空気を読んでよ私のお腹!

「……腹が減っているのか?」

「うぅ~」

 彼をまともに見ることも出来ず、私は降参したように情けない声しか出せなかった。


 数年間変わることがなかった夢が変わった。それは大きな進展だ。けれど夢が変わったくらいで日常までも変わるなんてこと、誰だって思わないだろう。それは私だってそう。いつものように朝起きて、いつものように学校に行く。そう、いつも通りに。なのに。

 なんで、こんなことになってるのかな~。

 視界に映る街の様子が左へと流れていく。灰色の座席のシートに腰を預け、私は道路を走るタクシーから窓へ視線を向けていた。静かなまま車外の様子と時間だけが流れていく。私は外を眺め続ける。他は気にしないようにして。決して隣を振り向いては駄目と言い聞かせる。

 だって。

 隣には、ホワイトが座っていた。相変わらずの無言で。それだけなのに、なんなのだろうかこの緊張感。すごく意識してしまって気まずい。私は固まったまま、助けを求めるように窓の外を見る。そりゃあこうしたくもなるわよ。

 部屋でやり取りをしていたあれから、ホワイトは「行くぞ」とだけ言うと外へと出た。そこでタクシーを拾い、運転手に店先を告げた後は黙ったまま。私は恥ずかしさもあって黙って付いていくだけだった。それがこうして、いつも薄い表情の無愛想で身元不明の、私の命の恩人が、隣にいる。けれど、会話はない。なにこの時間、嫌がらせ? 空腹も引っ込んじゃったわよ。

 私は窓を眺め続け時間を潰そうとしていたが、駄目だ。どうしても気になる。私はそっと隣人へと視線を寄せてみた。バレないように、ちょっとだけ。

 彼、ホワイトは正面を向いていた。表情は彫刻のように動かない。私を気に掛けている様子はなく、この無言の空間も気にしていないようだ。それもそうよね、あなたが原因だもの。そんな彼を見ながら、なにか話しかけた方がいいのだろうかと考えて。

「なんだ」

 バレた。

「い、いえ! なんでもありません!」

 私はすぐに窓へと向き直る。咄嗟に避けてしまった。これじゃ会話なんて出来ない。

 誰か助けて~。

 そうして重苦しい時間が過ぎていき、車に揺られることしばらく。ようやくタクシーは目的地に到着した。

「出るぞ」

 ホワイトは運転手に待っておくように告げてから外へ出る。私も早く出たかったのですぐに出た。よし出よう、早く出よう。

 ようやくあの空間から解放された。心の荷物をどさっと下ろしたような気分に気持ちが軽くなる。そんな感じで浮かれていた私に、目の前の光景はトドメを刺してきた。

「え?」

 え? なにこれ。この状況が分からない。緊張してたから気づかなかったけど、え、でもここって。

「ブティック?」

 私の目の前にあるのは飲食店ではなく服飾店だった。しかも見るからに高級そうな。店の看板は英語で読めないがショーウインドウから覗く店内は綺麗で、琥珀色のような空間にいくつもの服が飾ってある。

 けれどちょっと待って。なんでお腹が空いたから高級ブティックに行くことになるの? 私に服でも食えというの? ギャグなの? あなた、見かけによらずお茶目なの?

「何をしている、早く入るぞ」

「入るって、あんたこそ何してるのよ。ここどこだか分かってるの?」

「当然だ」

 私の疑問に一切答えることなくホワイトは一人で店内へと入って行った。

「ちょっと待ってよ!」

 信じられない、ちゃんと説明しなさいよ! ホワイトの背中を追い掛け私もお店に入る。

 店内は明るいが静かで、慣れない高級な雰囲気に畏縮してしまう。すぐにホワイトに駆け寄るが、自然と声が小さくなってしまう。

「ちょっと待って、なんでここに来たの? 食事するために部屋を出たんでしょう?」

「おい、こいつに合う服を選んでくれ」

「かしこまりました」

「無視しないでよ!」

 背の高い彼を見上げ必死に声を掛けるが、ホワイトは無視して店員に注文している。自分勝手な人。まるでわけが分からない。なんで説明してくれないのよ。

「ねえってば!」

「俺は外で待っている」

 いや、外で待ってるって。それよりも答えてよ。ちょっと、ねえ、私を一人置いて行かないでよ! 

「信じられない」

 行ってしまった。私を置いて。知らない国に置いてかれた気分。どうしよう、私は立ち尽くす。唖然と不安が込み上げてくるが、そうね、とりあえず逃げましょう。

「お客様」

 と、初めの一歩を踏み出す直前、女性の店員さんに声を掛けられてしまった。

「まずはお体のサイズを測りますので、こちらへどうぞ」

「あ、いや、その~」

 そう言われ私はまたもずるずると連れて行かれてしまった。そのまま更衣室へと入ってしまう。これでは逃げられない。そんな、私は捕らわれの身か。

「それでは計測しますので、まっすぐ立っていてください」

 言われるまま、私は鏡の前に立ちまっすぐ姿勢を正す。すると店員さんがメジャーを手に体の周囲を測り始めた。

 いや、というか私なに言われた通りにしてるんだろう。パニックになっているとはいえ、流され過ぎでしょう。それよりも早く誤解を解いて店を出ないと。そうよ、すぐにでも謝ってここから、え? 両手を上げる? あ、はい、分かりました。いや、だからそうじゃなくて。え? 好きな服? うーんと、好きな色は黒で、派手なのは、苦手かも。じゃなくて、私は平々凡々とした市民の一人であって、こんなお店のお世話になるような人間じゃないのよ。だから私は一刻も早くここから出ていかないと、え? これを着る? あ、はい、分かりました。て、そうじゃなくて!

「いったいなんなのよ……」

 私は手渡された服を途方に暮れた気持ちで手にし、ため息を吐いた。

 今日はおかしい。黒い世界に迷い込んで怪物に追われたり、見知らない男に助けられたり、かと思えば服を買いに行ったり。夢が変わったくらいでこの変わりよう。日常というものは、こうもぐるりと変わるものだっただろうか?

「どうでしょうかお客様、着心地のお具合は?」

「え?」

 声を掛けられて我に戻る。ほとんど気にしないまま服を着替えていた私は、そこで店員さんの言われるままに改めて正面の鏡を見つめてみた。

「…………うわあ」

 知らず、声が漏れる。

 気づけば私は黒のドレスを着ていた。スレンダーラインのすっきりしたドレス。滑らかな生地は光沢のある黒を映し、肩は露出していて胸元から着用するタイプ。裾は膝上くらいで、シンプルなデザインながらもそれが落ち着いた大人な雰囲気を出している。自分で言うのもあれだけど、綺麗だ。

 なんだか分からないまま着ちゃったけど、

「……ふふ」

 まあ、いいんじゃない? 

 私は鏡の前でちょっとポーズをとってみた。腰に片手を当てて表情も作って。うん、いい感じ。やっぱりあれよね、自分でいうのもあれだけど、私けっこう可愛いし? こういう服も似合っちゃうか~。

 私は更衣室のカーテンを開け外に出た。

「どうでしょう、お気に召しましたでしょうか?」

「ええ、ありがとうございます。とてもいい服ですわ《久遠流》」

 私は上機嫌に店員さんに笑みを浮かべた。脱いだ学生服は自宅に届けてくれるらしく、またお代は彼がすでに払っているということで私はそのまま外へと出る。お店を出て行く私を、従業員が深々と頭を下げてお見送りしてくれた。今更だけど、この服いったいおいくらなの?

 私はタクシーに乗り込み扉を閉める。見違った私の服装を誇るように、私はふんと自慢げに隣に座ってやる。そんな私をホワイトがちらりと横目で見遣るが、すぐに正面を向いてしまった。

「馬子にも衣装だな」

「…………」

 ふん。まあいいわよ、買ってくれたんだし、文句は言わないわよ。

 タクシーが走り出し、次なる目的地へと向かう。再びあの気まずい時間を過ごすのかと憂鬱になるが、数分後には到着していた。開かれた扉から身を乗り出し、ドレスの裾に気をつけて外へ出る。コンクリートの地面に立ち、私は正面を、いや、そこにあったものを見上げた。私の眼前に聳える巨大な建物。それは、

「ここ、西京グランドホテルじゃない!」

 タクシーが止まったのはこの町一番の高級ホテルの正面だった。それこそ金持ちか結婚記念日にしか利用しないような。正面入り口は車が立ち寄れるように道路に面しており、巨大な自動扉の前には荷物持ちの係員が待機している。白を基調とし天高く伸びる建物はそれこそ私たちには雲の上のような場所。なのに、私は今ここにいる。高貴な黒のドレスを身にまとい、入り口前に立っているのだ。これはなんの夢? だってこんなのあり得ない。あの黒い世界とはまた違う意味で、こんなこと私の身に起こるはずがないのに。

「どうした、早く行くぞ」

「行くって、ここに? まさか、そのために服を買ったの?」

「当然だ」

 ホワイトは何気なく、瞳を閉じてそう言った。威張るわけでも誇るわけでもなく、本当に何気なく。私はそんなホワイトをまじまじと見つめてしまう。初め見た時から思っていたことだけど、ここにきて私は確信する。

 この人、金持ちだ。

「それとも迷惑だったか?」

「ぜ、ぜんぜん! その」

 まぶたを開け、私を見てくる彼の瞳に慌てて首を振る。それで私は一応、言っておいた。

「あ、ありがとう」

「…………」

 ホワイトは黙ったまま歩き出してしまった。

 無視!?

「ちょっと待ってよ~!」

 もう、少しくらい待ってくれてもいいのに! 私も後に続き隣に並んだ。

 私たちは巨大なガラス扉を通りホテルの中へと入る。まず目に飛び込んできたのはロビーを照らす巨大なシャンデリアだった。次に受付フロントと休憩所にある茶色のソファに赤い絨毯。

 私は初めて来たホテルに歩きながら視線が右へ左へと移ってしまう。まるで落ち着きのない子犬のよう。しかしホワイトはまっすぐと迷うことなくエレベーターの前にまで来ていた。ホワイトと比べたら、今の私はさぞかし子供っぽいことだろう。

 まるで場違いな世界に迷い込んでしまったよう。けれど圧倒されるほどの美しさは変わらない。まるで夢のような時間。夢の中でさえこんなことなかったのに。

 そう、夢の中でさえ。私は瞳を輝かせ周囲を見る。いつしか心は魅了されてしまって、内心では興奮してしまう。女の子ならこういうこと、一度はしてみたいって思うもの。それが今叶ってるんだ。そうよ、せっかくなら楽しまないと。きれいなドレスに高級ホテル、うん、悪くないんじゃない?

 エレベーターの扉が開き一緒に乗り込む。ここには私とホワイトの二人きりで、エレベーターはガラス張りになっていた。外の景色が見えるようになっており、私はすかさず壁に立ち寄る。エレベーターが動き出しみるみると視界から地上が離れていき、代わりに見えてくるのは大きなビルや車が走る街並みだった。

「うわぁ」

 ぐんぐんと高くまで昇っていき、もう道を歩いている人が点にしか見えない。多くの建物も見下ろして、まるで独り占めにしたように街を一望している。学校の三階から見る景色とは全然違う、広大な街の景色。

「きれい」

 素直にそう思う。写真とは違う、直に見る迫力。等身大のミニチュア、というおかしな錯覚すら覚える。

「そうだ。これがお前の街。お前が知っている街。お前が作り出している街だ」

「私が……」

 ホワイトの声に振り返ることなく、私は街を眺め続ける。こうして目の前にある街が、私の知識を反映してできた街。彼はそういうけれど、でもやっぱりピンとこない。

「誇っていい。お前の街だ」

 私は視線を彼へと寄せてみる。私とは反対側の壁に彼は背中を預け腕を組んでいた。広いエレベーター内ではそれなりに距離がある。

「私の街、っていわれてもね」

 私は苦笑してしまう。そんな誇大妄想狂みたいな言葉、信じるなんてやっぱり無理。

「ねえ、仮に私がその観測者だとしてよ? たとえば私が持っている街の知識がこことは全然ちがったら、この街はどうなるの?」

「その通りに形を変えるだろうな。その例でいえば、自分が住んでいる街が京都や奈良のような作りをしているとお前が認識すれば実際にそうなるだろう」

 マジ!? え、本当に? 

 彼の言葉はてきとうに言っているようにしか聞こえない。そんな重大なことをこうも簡単に言うなんて。

 でも、試してみようかしら? そこまで言うのなら。起こるはずがないけれど、もし本当ならそれはそれで見てみたい。

 私は街を見て、それから瞼を閉じてみた。こっちの方が集中できるから。視界を黒く閉ざし、代わりに京都の街並みを想像してみる。コンクリートとは違った木製の建物に、歴史と芸術的な街の様子。私は出来るだけ詳細に思い描き、そっと瞼を開いてみる。そんな、まさか、もしかして?

 そして目に飛び込んできた光景に、私は思わず声が出た。

「なによ」

 それは不満。だって、そこには相変わらず同じ街が広がっていたから。私はホワイトに聞こえるように愚痴を吐く。

「やっぱり嘘。私いまここが京都だって強く思ったけど、全然変わってないじゃない」

「当然だろう、アホか貴様は」

「…………」

 なによこいつムカツク!

「表層世界は知識を元にしてできていると言ったが、そこには常識という知識が強く影響してくる。お前が宇宙人の存在を強く信じても、それでも常識的にいないという認識が少しでもあれば実在を許されない。突飛なことはそうそう起きん。街が一瞬で姿を変える、なんてことが起きれば、お前は正真正銘、狂人だ」

 なによそれ。なら初めからそう言いなさいよ、と言おうとしたが、彼が言い終えると同時に扉が開いた。到着した階層を見てみれば二十八階。このホテルの最上階だ。ということは。私は想像と期待を抱くが、答えは扉の向こうに待っていた。

 そう、ホテル最上階レストラン。内装は明るく木目の床に白い天井が爽やかな印象のお店。学生服姿ではとても来られない、特別な空間がそこにはあった。

 私たちの入店に男性店員がすぐに歩み寄ってくる。黒の制服に小さな白いエプロンを腰に巻いて、芯の入った表情と声で出迎えてくれる。

「いらっしゃいませ。ご予約はありますでしょうか?」

「二名で予約を取っているホワイトだ」

「かしこまりました、こちらへどうぞ」

 店員は手で席を示してからしっかりとした動きで歩き出す。ホワイトは当然のように店員の後をついていき、私も彼らに倣って歩く。

 予約なんていつ取ったんだろう。そしてこの雰囲気、なんかすごい。なんだろう、この感じ。上手く言えないけど、なんかすごい。

 私たちが案内された席は二人用の席に白のテーブルクロスが敷かれ、さらには窓際だった。テーブルには初めからナイフやフォークがいくつも並べられている。他にもテーブルはあるが、正午を過ぎたこの時間には私たちしかいない。

 店員さんに椅子を引かれ、そこに腰を下ろす。対面には当然ホワイトがおり、視線を右へとずらせばさきほど感動した街の景色が広がっている。青空と建物がずっと並ぶ、夜景なんかきっとドラマチックな席。この時間帯に来たのがもったいないかも、なんて少しだけ思ってしまう。

 店員さんは会釈してから離れると、少ししてから別の男性店員がやってきた。なんだろうか、さきほどの人よりも年上の、すらりとした三十代か四十代ほどの人。柔らかい笑顔がさまになっている。

「お久しぶりです、ホワイト様。本日も当店をご利用いただきありがとうございます」

 え、お久しぶり? どういうこと? 私は急いでホワイトに向き直るが、彼は無表情に近い顔のままテーブルを見つめていた。いや、見てあげなさいよ。

「急ですまなかったな」

「いえ、とんでもございません。いつでもいらしてください。……ですが」

 そこで男の人は言葉に一拍の間を置いてから、優しい目を私に向けてきた。

「ホワイト様にお連れ様がいるとはまた珍しい。事前に女性の方であると教えてもらえましたら、こちらでなにかしらご用意をさせていただけたのですが」

「構わん。いつも通りでいい」

「かしこまりました」

 ホワイトと男の人で淡々とやり取りが進んでいる。もう確認するまでもなく、彼はここの常連だ。嘘でしょ、あんた年になん回誕生日あるのよ?

「お嬢様」

「へ!?」

 お嬢様? 私のこと? しまった、いきなり声をかけられたから、変な声が。

「ご来店、まことにありがとうございます。私はこういう者です」

 そう言いながら彼は私に名刺を渡してきた。私は急いで立ち上がり両手で受け取る。見てみると、そこにはここのレストラン名とオーナーの文字が。え、この人オーナー? こんなに若いのに!?

「あ、あの、はじめまして。私、黒木アリスといいます」

 ぎこちないあいさつは不慣れなこと丸出しだが、彼は笑顔のままだった。私は緊張した固い動きで席に戻る。どうしよう、名刺なんかもらっちゃったけど、でもなにに使えばいいの? カードゲーム? 五枚集めれば特殊勝利?

 それからホワイトとオーナーで二、三言葉を交わしてからオーナーは離れていった。ようやく緊張が解けた私は肩の力が抜けるが、すぐにホワイトへと目を向ける。

「ねえ、ここへはよく来るの?」

「たまにな」

「たまに……」

 やはり初めてではないらしい。それにしても、お腹が空いたという出だしからよくここまで飛躍したというか、大事になったものよね。食事するために服を買うとかどんな異次元よ。

 私は彼の感覚に呆れそうになるが、そうこうしているうちに店員さんが近づいてきた。両手にお皿を乗せて。

 きた。きっとコース料理、ううん、そうに違いない。私の期待が高まる。コース料理は初めて目にする。いったいどんな料理が運ばれてくるのだろうか。

「失礼します。サーモンとマグロのマリネ、カクテル仕立てになります」

 料理名を告げられながら、ついに私の眼前にお皿が置かれる。きたきたきた~! ちょうどお腹空いてきてんだよね! そこに盛りつけられた一品目。それは!

 ちっさ! あ、でも綺麗。

 大きく丸い形をした白いお皿。そこに小さなブロック状のサーモンとマグロがドレッシングと一緒に混ぜられ盛りつけられている。お皿のわりには小さな山が中央に乗せられ、他にはウニやタイ? のカルパッチョもある。ウニの上に乗っているのはもしかしてキャビアだろうか。そんな、どうして名前に入れてあげないの、可哀想じゃない! こんなにも立派な子なのに。

「い、いただきます」

 緊張しながら、私はフォークでサーモンとマグロのブロックを持ち上げる。ドレッシングで光り輝くそれらはまるで宝石のようで、酸味のある香りがまた食欲を刺激する。私はゆっくりと、それらを口へと運んだ。

「ん、おいしい~」

 舌の上を転がるサーモンの甘味とマグロの濃厚な味、二つを包む酸味のあるドレッシングが後味爽やかでくどくない。ちょっと待って、本当においしんですけど。それにマグロってこんなに味した? 私が買う閉店間際の半額マグロは味しないわよ!?

「おかしいわ、この世界が私の知識でできているなら、マグロはこんなに味しない。そんなの私知らないもの」

 動揺する私をよそにホワイトは静かに食事を進めている。憎たらしいけど、そんな彼は本当に似合っていた。優雅さと気品があって。彼は口の中のものを呑み込み、手を止めた。

「それもお前の常識だ。安いものの味はそれなりにしかない。また、高いものは美味い。そういう無自覚な認識が両者の味を分ける。とはいえ、観測者にも好みはあるがな。それと、常識的に自分と他人では味の好みが違う、という認識もまた世界に反映されている。お前が美味いと思うものでも、嫌いな人間がいるのはそのためだ」

「でもさ、気にはなってたんだけど、やっぱりおかしくない? 世界にそれが存在しているから私が知っているんじゃなくて、私が知っているからそれが存在しているなんて、矛盾してるわ。私が知らないものを、どうやって私は知ったの?」

 たとえば目の前にあるフォークだってそう。生まれたばかりの私は当然だけどフォークなんて知らない。だけど、フォークはここにある。どうして?

「必要がなかったから省いていたが、観測者というのはお前が初めてではない。代々継承されるもので、観測者が亡くなると同時に新たな観測者が生まれる。表層世界を引き継いでな」

「なるほど」

 私がフォークを知らなくても世界にフォークがあるのは、先代が知っていたからか。

「じゃあさ、次の質問だけど、飛行機ってあるじゃない。なんであれは飛べるの? 私飛行機の構造なんて知らないし、歴代の観測者は飛行機の作り方まで知ってたの?」

「小娘にしてはいい質問だな」

 どういう意味よ? こいつ時代錯誤の男尊女卑主義者?

「表層世界観測理論における不確定性原理によれば、原因と現象は必ずしも相互関係していない。重要なのは飛ぶという知識だけだ。原因、この場合における構造は観測する時になって初めて存在することになる。ただし全てのものが正確に測定できるわけではなく、観測者効果による世界の僅かながらの改変も認められている」

「…………」

 日本語でオーケー。

「ようするにだ」

 意味不明な言葉の羅列に茫然としていると、ホワイトは顔を少しだけ顰めた後説明を付け加えてくれた。

「この世界にはお前の知らない領域が多く存在する。そこでは確かに何かが起きているが、お前が観測するまで何が起きているのかは分からない。もしかしたら別段何も起きていないかもしれないし、特別なことが起きているかもしれない」

「それって」

 彼の言葉。それを聞いてようやくピンときた。私の中にある考えと似ていたから。

「私が知らないだけで、本当はみんなが特別かもしれない、ってこと?」

「可能性はある」

 ホワイトは頷くでもなく、短くそれだけを口にした。

 やはり難しい。ホワイトがいう世界の構造は複雑で、私が理解していることだって本当に理解しているのかどうか。でも、私の持っている考え方がこの世界のあり方と似ている。それが、ちょっとだけ嬉しかった。

 そんなやり取りを交えながら料理を食べ終え、次の料理が運ばれてくる。どれも素敵な一品ばかりで私の心を躍らせる。ホワイトのいう意識世界への不可解さをこの時ばかりは忘れて、私は料理に夢中になっていた。

 そして最後の料理である苺のミルフィーユを食べながら、私はなんの気なしにホワイトへと声をかけてみる。

「ねえ、聞きたいことがあるんだけど」

「なんだ」

「なんで、こんなにもお金持ってるのよ? あなた何者?」

 やはりきになる。こんなこと一般市民じゃ出来ない。どこぞの資産家、その息子とか? そうでなくとも、彼が普通でないことは確かだ。私はあれこれ想像してしまうが、彼が口にしたのはまったく違うものだった。

「何度も言うが、この世界にあるものは知識に過ぎない。金融、経済、紙幣という概念、物質も含めてだ。俺はただ、知識を利用しているだけに過ぎない」

 そう言ってホワイトは食後のコーヒーを一口飲んだ。えっと。彼の説明は分かりづらかったが、要するに、働いて稼いだお金ではなく、お金という知識に手を突っ込んで、それをポケットに入れてるってこと? それって、

「インチキじゃない!」

「持っているものを使っているだけだ。お前は金があっても使わないのか?」

「それは……、使うかも」

 妙に納得してしまった。でもなんだか釈然としない。この男はこんな贅沢を簡単に堪能しているなんて、不公平じゃない。

 けれど、これでまた分かったことがある。ううん、これだけじゃなくて分かろうと思えば最初からだけど。私は途中でフォークを置いて、表情を引き締めた。炎の狼を出したり、知識を利用したり、そんなこと出来るはずがない。この世界の人間では。

「あなたは、ここ、表層世界の人ではないのね」

「…………」

 私は彼を真っ直ぐ見ながら言う。彼は表情どころか眉一つ動かさず黙って聞いていたが、しかし、しばらくしてから口を開いた。

「そうだ」

 冷淡な、けれど重みを感じられる肯定、その一言。彼は私を見ない。目線はずっとテーブルに固定されている。

「どこの世界?」

「それは言えない」

「そればっかりね」

「嘘は言っていない」

「本当のことも言えない?」

「そうだ」

 彼のことは、やはり分からず仕舞い。そんな気はしてたけど、でも残念。

 そこで、彼は私を見つめてきた。

「気になるか?」

「ええ、もちろん」

「……そうか」

 けれど、すぐに視線を切ってしまう。そんな彼を私はずっと見つめる。なんでだろう。

 今、彼の目が寂しそうに見えた。気のせいだろうか。

「それで、お前は今後どうするんだ?」

 彼の言葉にハッとなる。そうだ、忘れていたわけではないけれど、私には問題が残っている。

 黒い世界と、そこから現れる黒い怪物、メモリー。この脅威をなんとかしなければならない。

 私を真っ直ぐと見つめてくるホワイトの瞳は力強く、寂しさなんて少しもない。きっとさっきのは見間違いなのだろう。

「メモリーについて前にも言ったが、あれはお前が忘れた記憶だ。忘れてしまった記憶というのは知識でなくなるため、表層世界から深層世界へと落される。そこで、奴らはメモリーという形を得る。再び記憶に戻りたいと願いながらな。お前が記憶を思い出そうとすれば奴らはこちら側へと浮上する。お前はもう、過去を思い出そうとするな」

「それは分かるけど、でも、それじゃ駄目よ。私は夢の中に出てくる女の子を救わないといけないの。あの子を助けるためには、昔にあったことを思い出さないといけなくて」

 奴ら、メモリーが忘れてしまった記憶なら、思い出そうとするだけで私の目の前に現れる。それは分かる。でも、あの子を助けるためには過去の記憶を思い出さないといけない。

 私は助けたいという一心から声を出す。けれど、ホワイトの返事は冷たかった。

「それこそ忘れろ、その方が安全だ」

「忘れるなんて嫌よ!」

 私の大声が周囲に広がる。それで我に返り周りを見てみると、店員が何事かと心配そうに見つめていた。私は姿勢を正してホワイトを見る。彼はいつも通り、驚いてもいなかった。

「それは無理よ。私ね、数年間同じ夢を見てるの」

「知っている」

 夢のことも知ってる。なんでも知ってるんだ、私のこと。

「あの子の声、毎晩聞いてる。毎朝あの子の声で起きる。いつもいつも辛そうで、本当に悲しそうに、助けてって私を呼んでるの。ねえ、忘れ去られた記憶、そのメモリーだけど、思い出すことは出来ないの?」

 私は恐る恐る、ホワイトに尋ねてみる。反対されると分かっているから。もしくは答えてくれないか。どちらかだろうと覚悟しながらも、私は聞いてみた。

「メモリーを倒すとハートのエンブレムとなって現れる」

「え?」

「それを額に当てれば、そのメモリーに該当する記憶を思い出せる」

 意外にも、彼は教えてくれた。記憶を取り戻す方法を。期待していなかった分、驚いてしまう。

「ホワイト……」

「勘違いするな、これは警告だ」

 喜びそうになるが言葉で刺されてしまう。ホワイトはあくまでも反対だと、いつもの態度に険が混じっている。

「メモリーとはトラウマの記憶。あってはならない記憶だ。お前がエンブレムを手にすれば、それを思い出してしまう。辛い思いをするだけだ。お前を守る立場上、お前に危険な行為はさせられない」

「そっか。うん……」

 彼の厳しい物言いに私は目線を下げて、小さく頷いた。けれど苦しくない。むしろ嬉しかった。彼の言葉が。

「ありがとう」

「なに?」

「私のこと、ちゃんと心配してくれてるんだ」

 そっと視線を寄越して、怪訝な顔をしているホワイトを覗いてやる。あれだけ微動だにしなかった彼の顔が崩れていて、ちょっとだけ可愛いと思ってしまった。

「なんにも興味なさそうな顔して。なんか安心した」

 そして、表情が崩れているのはきっと私も同じ。私は目線を再び下げて、自分の思いを確認してみる。そう、私が本当にしたいことを。

「怖いよ、たしかに怖い。あんな体験、二度としたくない。メモリーを前にして感じた、あの恐怖。想像しただけで身体が凍りそう。それでもね」

 あたしがしたいこと。それは身を守ること? あの怪物から逃げて、襲われないようにすること? ううん、それもあるけど、本当は違うよね、アリス。

「あの子も、同じ思いをしてるのよ。それもずっと一人で。黒い世界に閉じ込められて、もう何年も一人っきりで、あの恐怖に耐えてるの。そんなの我慢できない」

 怖いと思う一方で、負けないくらいに助けたいと思う。あの子のことを。

「かわいそうだよ、そんなの!」

 このままずっと、誰に助けられることもなく、放って置かれるなんて。あんな怖い思いをずっとするなんて、そんなのは駄目。

「だから、お前が危険を顧みず助けると?」

「そうよ」

 私は顔を上げてホワイトの瞳を見る。鋭く青い、彼の双眸が私の覚悟の前に立ち塞がる。けれど、私も負けない。

「ホワイトには迷惑かける。また助けてもらうことになる。危険なのも分かる。それでも。これが私の思いなの。あの子を助けたいって、ずっと思ってた。それは今も変わらない。これが私の気持ち」

 真っ直ぐに。覚悟は瞳を鋼に変えて、ホワイトへと突き出した。

「文句ある、ホワイト?」

 少しの間、無言の空気が流れた。時間が止まった気さえする、重い雰囲気。けれど私の決意に支障はない。ひびどころか傷つくことなく、私は無言に力を込めていく。

 そして、最初に口を開いたのは、ホワイトの方だった。

「まったく」

 嫌そうに、けれど、どこか納得したような彼の声。ホワイトは姿勢を若干楽にして、ため息を吐くように口にした。

「あるに決まっている。だが、止める術もあるまい。厄介な小娘だよ、まったく」

「ごめんね、ホワイト」

 辟易とした彼にかけた言葉は嫌味に聞こえてしまっただろうか。けれどこれが正直な気持ちだから。決してあなたのことを蔑ろにしているわけじゃないの。ただ、どうしても譲れないだけ。

「ありがとう、ホワイト」

 だからせめて、私は彼にお礼を言っておく。

「…………」

 けれど、彼は瞳を閉じると黙り込んでしまった。それは怒っているとかではなくて、それこそ穏やかな印象すら受ける。彼はしばらくそうしていたが、ホワイトはそのまま、一言だけ口にした。

「…………いいさ」

 あれ、なんだろう。この違和感。嫌味や皮肉とか、そんなこと予想してたのに。彼はそう言う。なんで? こんなにも我が強い人なのに、私を助けてくれて、心配してくれて、手伝ってもくれる。

 あたなはいったい何者なの? あなたが何故守ってくれるのか、あなたが何を考えているのか、今も何を思っているのか、私、分からないよ。

「では行くぞ」

「え?」

「助けに行くんだろう?」

 彼が席を立つ。私も続いて立ち上がった。私は彼への興味を一旦頭の隅に追いやり、今すべき目的を中央に置く。彼のことは気になるけれど、私がやるべきことはそれじゃない。

 そうだ、あの子を助けに行かないと。

 私たちは会計を済ませ、一時の安らぎを後にした。

 しまった! 苺のミルフィーユ、最後まで食べてない……。


 私は自分の部屋へと戻っていた。これから必要なものを取りに。これから少女を助けるために、私たちはメモリーを出現させ、倒さなければならない。

 少しの緊張を胸に押入の扉を開ける。そこから取り出す一冊の本。見下ろす視線と握る手が僅かに固まる。

 小学校の卒業アルバム。これで記憶を思い出そうとしたらメモリーが現れた。この中に私が求めている答えがあるに違いない。

 私が忘れてしまった記憶の怪物、メモリー。恐ろしく怖い、本当はもう会いたくない恐怖の怪物。でも会わないと記憶を取り戻せない。そう、ここで怯えていてはなにも終わらない。

 私は緑色の卒業アルバムを手にして、外で待っているホワイトの元へと歩き始めた。

 それからメモリーと対峙するなら広い場所がいいということで、私たちは近くの公園へと行くことにした。学校の三階から見渡せる緑生い茂る広場だ。逃げることや隠れることは出来ないが、反対に不意打ちを受けることもない。

 私とホワイトはタクシーで公園そばの道路で降ろしてもらい、そこから木々に囲まれた散歩コースを歩いて広場へと出た。円形になっている広場の中央には大きな噴水があり、コンクリートの地面にはベンチが置かれている。おじいちゃんがベンチで休んでいる傍ら、元気にはしゃぐ子供たちをよそに主婦らしき女性たちが楽しそうに話し合っていた。こんな服を着ているからか、たまに視線が集まるのを無視して、私たちは噴水の近くで立ち止まる。

「ここでいい、ホワイト?」

「問題ない。それよりもお前のことだ」

 隣に立つホワイトへ視線を寄せて確認してみると彼は静観な顔つきだった。それに気にしているのは私のことで、いつになく真剣な眼差しが私を見下ろしている。彼は一見冷たいし失礼なことも言うけれど、けれど私のことを何よりも心配してくれる。内心、優しい人なのかもしれない。

「お前が手にしているそれを開けば、再びメモリーが現れる。奴らが放つメタテレパシーを受ければ想像を絶する恐怖が襲うだろう。お前はそれを知っているはずだ」

「ええ」

 脇にかかえるアルバムに自然と力が入る。体が固くなる。あの恐怖、自意識や心、精神を犯して破壊するほどのあの恐怖。私は最後には耐えられず意識が混乱してしまい、自分を傷つけてしまった。もしホワイトが止めてくれなければ私は自分を殺していたかもしれない。それほど、メモリーが放つ恐怖は絶大だ。だけど――

「分かってる。覚悟の上よ」

 逃げようとは、思わなかった。むしろ決着をつけたいと望む。数年間にわたって見続けた悪夢を、ここで終わらせるために。

「そうか」

 そんな私を、ホワイトは静かに受け入れてくれた。

「メモリーには大型と小型がいるが、小型は記憶の切れ端でしかない。要はおまけだ。本体は大型。奴を倒せば、ハートのエンブレムが手に入る。お前が求める答えだ」

「分かった」

「他に聞きたいことはあるか」

「ないわ」

 彼の質問に即答する。やることは分かっている。覚悟もある。ならそれをやるだけ。準備はもう出来ている。

 するとホワイトが歩き出し私の前に出た。

「ならば俺から最後に言っておこう」

「?」

 彼の後ろ姿が目に入る。背が高く、純白のコートに覆われた大きな背中。あの時私を助けてくれた背中。私を守ると、迷うこともなく言う男が見せる背中。

 そんな彼が、背を向けたまま私に言う。

「覚悟しろ。お前が求めている答えは、お前にとって毒でしかないのだと」

「? ……うん」

 彼の言う言葉はとても重く感じられて、迫力すら覚えてしまう。私は少し時間を置いてからようやく返事を返した。


 この時の私は悪夢を終わらせる目的と、メモリーに対する恐怖のことで頭がいっぱいだった。私がいったい何を忘れているのか、メモリーの正体とはなんなのか。

 トラウマの記憶。それが、なにを意味するのか、この時の私は深く考えていなかった。

 私の覚悟と、彼の言う覚悟が別のものだと、分からなかったのだ。


「始めろ。やり方は分かるだろう」

 背中越しの彼に促され、私はアルバムへと視線を落とす。アルバムを正面に持ってくる。

 やり方なら分かる。これを開いて、記憶を思い出そうとするだけ。すでに一度はやったこと。

 いよいよだ。私は軽く息を吐いてから、意を決してアルバムを開いた。ページをめくる度に記憶の断片が蘇る。切り取られた過去を一枚一枚見つめていき、そして私の目が集合写真で止まる。

 ここだ。前見たときはこの写真を見ていたら痛みがやってきた。

 が、痛みがやって来る前に異変に気付いた。

「え、どういうこと!?」

 前見た時はおかしなところなんてなかった。しかし今は違う。昇降口を背景にクラス全員が並んでいる写真。そこで皆が私から離れているのだ。集合写真なのに、私だけぽつりと立たされている。さらに、皆が私から顔を背けている。まるで私を見たくないように。

「写真が変わってる! これは……」

「黒い世界の影響だな」

 戸惑っている私に、ホワイトは振り返ることなく教えてくれた。

「メモリーが出現したことにより本来交わることのなかった表層世界と深層世界が重なり始めている。このまま放置しておけばこの世界とワンダーランドが融合し、トラウマが表層世界にまで反映されただ事ではなくなる。早くケリを着けるぞ」

「わ、分かったわ」

 このままだと、世界がめちゃくちゃになる? その異変の前触れが写真の変化で、放っておけば、こんな変化があちこちで起きるの? 

 私は危機感に急かされ、すぐに写真に目を落とした。前とは違った光景の写真。けれど。

「うう!」

 痛みはまたもやってきた。激しい頭痛が警告のように現れる。

「くっ!」

 痛い。片手で頭を押さえる。気づかないだけで、私は頭から血でも流しているのではないだろうか。頭の中を駆けめぐる苛烈な責め苦に眉間に皺が寄る。

 でも、これで。これで開くはず。私と、失われた記憶、黒い世界へと。

「来るぞ」

 ホワイトの言葉に、私は苦しさを耐えて視線を上げた。

 すると私の足下を起点として、周囲が影に浸食されていった。街が黒く染められ空も塗りつぶされる。人は姿を消して、私たちを除けば無人の黒い街。そして、聞こえてくるスピーカー越しの声。

『助け、て。ザッ、ザー……、タス――ザッ――ケ、テ……』

 少女の声だ。助けを求める、あの子の声だ。

 そして、それはきた。

 ぞわりと、背筋が凍る。予感だった。悪い予感。直後、氷に触れたように心が固まる。

 くる。あの怪物が来る。まだ現れてもいないのにこの恐怖。怖くて息も出来ない。頭痛はすでにない。けれどあの痛みがましなほど、これはまずい。

 そして、ついに現れた。

「グオオオオ!」

「ひぃ」

 私たちの目の前に。まるでサソリとヘビを合わせたような巨大で黒い怪物。大きさは噴水が上げる水に届くほど。全長はそれよりも長い。禍々しく、不気味な巨体を蠢かせ、怪物が再度叫ぶ。

「グオオオオ!」

「あ」

 私はアルバムを地面に落とした。目の前の怪物を、見てはいけないと思うのに見てしまう。目が離せない。顔が固定されてしまって、恐怖のあまり動きを止めてしまう。

 怖い。怖い怖い。奥歯ががたがたと震え出し、身動きが取れない。鼓動だけが、暴れたように動いている。二度目なんて関係ない。この怪物を、この恐怖を克服するなんて無理。

 でも、でもでも。ここで耐えないと、あの子を救えない。助けられない。だからどうか、耐えて私。この時、今だけ。少しだけでいいから。お願い、耐えて。

「くっ!」

 恐怖に震える瞳に熱が灯り始める。この恐怖を前にして、すぐに発狂することはない。

 けれど、いつまでももたない。早く倒してしまわないと。

 私は焦る。しかし、そこへ現れた叫び声に、焦りは不安へと変わった。

「ギャアアオウ!」

「そんな」

 小型のメモリー。四角い体に四肢のついた怪物が、何体も現れたのだ。噴水の広場をぐるりと囲んでいる。数は十体? ううん、二十はいるかもしれない。蠢く黒い集団が、叫び声を上げて長い腕を振り回している。

 しまった。包囲された。これでは広場を選んだのが逆効果だ。逃げることも隠れることも出来ない。ましてや多勢に無勢。まさか、こんなにも現れるなんて思っていなかった。

 一斉にメモリーが押し寄せる。叫び声と長い腕を振り回し。

 すかさずホワイトは両手に拳銃を握り発砲した。別々の方向へ銃口を向け、迫り来るメモリーを迎撃する。何度も銃声が鳴り響くと共に、メモリーが体を地面に沈めていく。しかし、メモリーの進軍は止まらない。奴らに物理的な攻撃は効かない。どれだけ傷つこうとも、すぐに元の形を取り戻し侵攻してくる。

 ホワイトは別の巨大な銃器までも取り出し掃射した。強烈な発光が闇に煌めき弾幕が集団を蹂躙する。

 けれど、それでも止まらない。無限に再生を繰り返し、メモリーは一歩、また一歩と近づいてくる。これではジリ貧だ。

「ホ、ホワイトッ!」

 私は縋りつく声で、正面にいる白い背中に呼びかけた。だってこんな。数があまりに違い過ぎる。加えて、今回は本体である大型までいるのに。

 窮地だった。なにもかもが不利の状況で、勝てるなんて思えない。

 なのに、ホワイトは言った。

「慌てるな」

「だってこれじゃ」

「心配ない」

「どうして?」

「俺が倒す」

「倒すって……」

 この数を? たった一人で?

 ホワイトは全ての銃器を消すと歩き出す。歩調に乱れはない。平然と、いつも通りの様子で歩いていく。この状況にも臆することなく。

 そして、本体である巨大なメモリーの前で立ち止まった。

「忘れ去られたメモリー、ナムガラー」

 ナムガラー。それがこのメモリーの名前?

「母親を前にして興奮しているな」

「グオオオオ!」

 ホワイトが見上げる先には大型の黒い怪物がいる。持ち上がっているサソリの胴体、そこから生えたいくつもの脚が蠢いている。赤く光る目が、ホワイトに視線を当てる。

「しかし、遊びは終わりだ」

 けれど、彼は諦めていなかった。いえ、いいえ違う。確信している。当たり前のように倒せると思っているのだ、彼、ホワイトは。

「世界に害なすものならば、俺はなんであろうが排除する」

 怪物、ナムガラーを前にホワイトは宣言する。私にこれほどの恐怖を与える怪物を前にして怯えも見せず。

 けれど、どうやって倒すの? 分からない。こんなにも数が違うのに。私はそう疑問に思っていると、ホワイトは冷淡な口を動かした。

「使うぞ、世界の意思を知るといい」

 そして続ける、彼は言葉を紡ぎ始めた。瞬間。

 世界が、軋んだ。

「螺旋に組み込まれた歯車よ、何故回る。それほどまでに生きたいか。生きる意味も知らぬのに」

 彼の言葉が、世界を曲げる。表層世界を歪ませて、別の世界が顔を出す。ねじれ曲がった空間から白い光が現れる。彼を包み、黒い世界に光が灯る。

「生にしがみ付く哀れな者よ、ならば与えてやろう。生きること。それは痛みを知ること。踊れ、お前は今生きている。歓喜しながら泣き叫べ」

 恐怖しかないこの世界でも、その光だけは温かく、まるで守ってくれる安心感すら覚えるほどで。私はその優しい光を食い入るように見つめていた。光の中で、なおも彼は謳い続ける。

 そして、ホワイトは片手を突き出した。

 

「これが欲しかったんだろうッ!?」


 光が集い像を成していく。それは人の形を作っていき、ホワイトの背後に浮かぶようにして、この世界に現れた。

「こい、凍傷の痛みを教えてやれ。ムー・トゥーラン!」

 発声の後、光が弾ける。それによって全容が明るみになる。

 それは、氷像の女性だった。全身が透き通った薄い青色をしている。長い髪の一つ一つが氷の輝きを発し、両腕には振袖のような袂の長い布が巻かれている。ダイヤモンドダストを纏った全身は煌びやかに輝き、袖が長髪とともに優雅に揺れている。

 ホワイトの背後、宙に浮かぶムー・トゥーランと呼ばれた彼女が両腕を広げる。ゆっくりと大きく。けれど死刑執行のような、恐怖が、広がる。

「アアアアアァ!」

 彼女の甲高い声が黒い世界に響き渡る。直後、メモリーたちの足元が氷で覆われていた。彼女の発声が続く度、氷は成長するかのようにメモリーの全身を覆っていく。

「グオオオオ!」

 それは大型のメモリー、ナムガラーも例外ではない。地面にとぐろを巻く蛇の胴体が氷漬けにされ、地面と接着されている。

 彼女の声がメモリーを凍結させていく。身動きを封じ、無力化して、数の優劣を覆す。メモリーたちは叫び声を上げる内に、とうとう全身が氷に包まれてしまった。

 ホワイトは彼らが凍り付けにされたのを確認してから拳銃を取り出した。目の前に立ち塞がるナムガラーの氷像に銃口を当てる。

 そして、トドメを刺す凶弾がナムガラーを撃ち抜いた。

 凍結された体はガラス細工のように粉々となって地面に散らばる。再生することもなく。ナムガラーは破片となって粉砕された。

 ナムガラーの崩壊と連動し小型のメモリーも消滅していく。パリンという大きな音と共に内側から破裂していく様はちょっとした花火のようでもあった。

「終わった、の……?」

 終わった。こんなにも呆気なく。あんなにも恐い怪物が、誰にも殺せないメモリーを、彼は倒す。

 周囲から敵がいなくなる。するとナムガラーの体が風化して消えていくと、そこにはハートのエンブレムが残っていた。三十センチほどの銀盤にピンク色のハートが浮き上がっている。

「あれが」

「そうだ」

 唖然と呟く私にホワイトが応える。敵を殲滅した達成感も悲哀も見せることなく、ただ私に事実を告げる。

「お前の記憶だ」

 あれが、私が忘れてしまった記憶。メモリーに変身していた、私の記憶。そして、夢で聞こえてくる少女を助ける鍵。

「いいんだな?」

「ええ」

 私はゆっくりと歩き出した。ハートのエンブレムを目指して。エンブレムは宙に浮きながら緩やかな動きで旋回していた。私は辿り着くと膝を折り、エンブレムを拾い上げる。後はこれを額に当てれば、私は記憶を思い出す。

 ついに、記憶を思い出せるのだ。あの子を助け出すことが出来る。

 私は緊張しながらも強い決意を持って、瞳を瞑りエンブレムを額に当てた。ひんやりとした冷たさが伝わる。

 これで、本当に思い出せるのだろうか。一抹の不安が脳裏を過る。だが、すぐに私はハッとなった。まるで深海の底から宝石を取り出したような、広大な頭の中に光り輝く衝撃が走ったのだ。

「あ」

 そうだ、思い出した。ようやく思い出した。これが、私が忘れていた記憶。黒い怪物となって私を追いかけ、けれど逃げてきた記憶。今なら何故メモリーがあれほど怖かったのか分かる。何故、メモリーが悲しそうな目をしていたのか分かる。そして、ホワイト。

『いいんだな?』

 あなたが何故、あれほど私に思い出させたくなかったのか分かる。やはり、あなたは優しい人だった。そういう、ことだったのね。

 私は、かつての自分を思い出した。

 それは小学校の教室。三年生だった私はいつも通りに登校し、朝の教室にいた。けれど私は自分の席の前で座り込み、泣いていたんだ。しくしくと、大粒の涙を流して。悔しくて、悲しくて、私は一人泣いていたんだ。

 どうして、忘れてしまったんだろう。こんなにも、その時に感じた辛さが分かるのに。

 私の机には、死ねとか、バカとか、クサイとか、他にもいろんな言葉が黒のマジックで大きく書かれていた。

 小学生の私は、いじめられていたんだ。

『助け、て……。助けて……』

 私は泣きながら助けを言うけれど、周りからは小さな笑い声と、静かな視線しか感じなかった。

 私はずっと、一人で、まるで閉じ込められたような黒い世界で、泣いていたんだ。

 これが、私が忘れていた記憶。私が、思い出した記憶だ。

「そう、だったんだ……」

 私は立ち上がる。目を開ければすでに黒い世界ではなく、光に満ちた元の世界だった。メモリーの残骸も、ハートのエンブレムも当然のようにない。

 けれど、私の頭の中にはちゃんと残っている。私の記憶、メモリーが。

 私の表情は晴れない。むしろ暗いだろう。胸に残る重い感情が、なによりも私を暗くする。辛いといえば、辛い。今更ながら悔しいと目頭が熱くなる。吐き出す息までも熱くなっていくのが分かった。

 私は感慨に耽りながらその場に立ち続ける。すると背後から足音が聞こえてきた。私は慌てて袖で両目を擦り、ちょうど隣に来た男に言っておく。

「い、言っておくけど、泣いてないからね!」

「俺は心配してないぞ」

「ふん」

 私は拗ねた表情を浮かべホワイトから顔を背ける。なによ。こういう時は優しい言葉を言ってくれたら、女の子は喜ぶのに。

「これが答えだ。後悔しているか?」

「…………」

 彼の質問に私は答えない。目線はコンクリートの地面を向いている。けれど、少ししてから顔を上げた。

「ううん、そんなことないわ」

 後悔なんてない。私は重い感情を振り切り真っ直ぐと正面を向く。辛い過去には違いないけれど、しかしあったのだ。忘れていただけで。私は辛い過去から目を逸らし、逃げていただけ。その結果、あの悪夢が現れた。

「私はもっと、早くに思い出すべきだったのよ。もっと早くに、自分と向き合うべきだった」

 そう思える。心から。だから、私は後悔なんてないわ。

「そうか」

 彼の声に振り向くと、ホワイトは目を瞑ったままいつもの表情だった。鉄仮面とは言わないけれど、感情をあまり表に出さない彼。でも、今だけならなんとなく分かる。ホワイトが安心したような、穏やかな顔をしているように見えたから。

「では、これで別れだな」

「え?」

 唐突に言われた言葉に、私は不意に声が出てしまった。そんな私をホワイトが見下ろしてくる。

「当然だろう。メモリーは記憶となってお前の頭の中に戻った。すでに怪物ではなく襲うこともない。となれば、俺の役目も終わりだ」

「そっか……、そうよね」

 言われてみれば当たり前の事実に私は納得すると同時に、別れという事実に軽く戸惑ってしまった。短い、本当に短い間だった。けれど、彼にはいろいろしてもらった。憎たらしいこともあったけど、何度も私を助けてくれた。

 白衣を身に纏い、銀髪を風に揺らし、私を守る者だと躊躇いもなく言ったあなた。彼と、別れなくてはならない。

「ねえ、最後まであなたのこと、教えてはくれないの?」

 私はホワイトを見上げながら、再度彼のことを知ろうと聞いてみた。往生際が悪いと自分でも思う。でも。私のことを助けてくれた人を知ろうとするのが、そんなにもいけないこととは思えないから。

「ああ」

 彼は一言、ああと、冷たく呟くだけだった。

「これで、会うのが最後かもしれないのに?」

「ああ」

「あなたはそれでいいの?」

「ああ」

「……ああしか言えないの?」

「いや」

 胸に芽生える不満。苛立ち。やっぱり彼は変わらない。初めて会った時となに一つ。

「まったく、冷たい人」

 風船から空気が漏れるように、膨らんだ不満が口に出る。命を助けてくれた間柄なのに、私と彼は最後まで、けっきょく他人のままなのだ。

「なんだ。いじめにでもあった感傷を慰めに来て欲しかったのか?」

「そ、そんなことないわよ!」

 私は腕を組みフンと顔を背ける。なんでもないことのように。むしろ自慢気な顔すら浮かべてやる。

「なによ、たかが小学生の時の記憶じゃない。あんなの昔のことよ。それに今の私は充実してるもの。友達だっているし? あんたは知らないでしょうけど、この前なんか三人の男の人に声かけられたんだからあ~」

「ああ、知っている」

「なんで知ってんのよ!」

 名前といい、住所といい、本当はストーカーなんじゃないでしょうね!

 私は睨み上げるがホワイトはすまし顔だ。それがますます腹立たしい。

「もういい、あんたなんてどっか行っちまえ。二度と私の前に現れるなこのストーカー、 もし出てきたらすぐに通報してやるんだからね! さっさとどこかに消えちまえ!」

「まったく、うるさい小娘だ。そうするよ、耳がもたん」

 そう言うとホワイトは歩き出して行った。「じゃあな」と、一言残して。

 コンクリートの地面を歩く乾いた足音がなり、彼の後ろ姿が遠ざかる。歩調に合わせてコートが揺れて、彼は真っ直ぐと歩いていく。

 一陣の風が吹き私の髪が視界を遮った。風はすぐに止み、私は急いで髪を元に戻して前を見る。だが、そこに彼の姿はいなかった。右を見ても左を見ても。この広場に彼の姿を見つけることは出来ない。まったく、けっきょくこんな別れ方。最後まで寄りが合わなかった彼。だけど私は不満を引っ込めて、柔らかな笑みを浮かべた。

「ありがと、ホワイト……」

 私にしか聞こえないように、いなくなってしまった彼へ思いを呟く。ありがとうと。もうここに彼はいないのに。でも何故だろう。まだどこか、身近に彼がいる気がしてる。だから私はせめてお礼を言っておいた。きっとこれが最後なのだから。

 そうして、メモリーはいなくなり、ホワイトも私の前から消えていった。いつもと同じ世界には私一人だけが残される。私の日常の中にあった特別が今日、終わる。

 見上げれば、昼の柔らかな青空がいっぱいの光と共に、世界に広がっていた。


「はあー」

 私は自分の部屋に戻るなりベッドへと寝ころんだ。時刻はもう夕方だ。今日はさんざんな一日だった。振り返ればいろいろあり過ぎて困る。黒い怪物に追いかけられて、ホワイトに助けられホテル最上階で食事をし、最後にはメモリーを倒して記憶を取り戻した。くたくただ。このまま寝てしまおうかしら。そんな甘い誘惑がささやくが、私は重い体を起こす。このまま寝るというのはよくない。夕食の準備やお風呂に入らなければ。

 けれど、食事を作るのは億劫だな。昼にあんな豪華な食事をしたばかりだけれど、今日の夕食はなにか買ってくることにしよう。

 私はベッドから降り私服に着替える。ホワイトに買ってもらったドレスをクローゼットに仕舞った。

「……もう、終わったのよね」

 たった一日の出会いだったけれど、特別な時間だった。またこのドレスを着ることはあるのだろうか。そんなことを思いながら、私は静かに扉を閉めた。

 そして近所のスーパーで買い物をし終え再び部屋へと戻る。私は食事を進めるが、そこでふと思い出してしまった。

「観測者、か……」

 今回の騒動、毎日見る夢と黒い世界。メモリーの怪物。それらは全部、私が忘れていたトラウマの記憶が原因だった。きっと、夢で助けを呼んでいたのは幼い頃の私だったのだろう。そう思い、不意に顔が暗くなる。

「私、いじめられてたんだ……」

 やはり、というか、改めて思うと傷つくことだ。ホワイトの前では気丈に振る舞ったつもりだけど、やっぱり。今まで順調に人生を歩んでいたと思っていたのに、実はいじめられていたなんて。どうしてそんなことをするんだろう。…………私可愛いのに。

 でも、ううん、分かる。私は記憶を取り戻した、だから分かる。どうしていじめられたのか。

 きっかけは些細なことだった。声を掛けられたのに気づけなくて、私はその子を無視してしまった。それに腹を立てた相手が友達と一緒に私を無視し始めたんだ。机に悪口を書かれたこともあった。トイレに入ったら上から水をかけられたこともあった。私は先生にも親にも相談出来なくて、一人でずっと、泣いていたんだ。

 私はいじめに対してなにも出来なかった。どれだけ辛くても、苦しくても。一人で泣いているだけだった。

「…………」

 食事の箸が完全に止まっている。問題は解決したはずなのに、心は晴れない。ううん、晴れるはずがない。ホワイトは教えてくれていた。答えは私にとって毒だと。

「ああ、もう!」

 真実は私にとって辛いものだった。けれど、私はそれでも決意した。うん、私は覚悟してこれを選択したはずだ。なら落ち込んでても仕方がない! 

「こうなったらヤケ食いよ!」

 私は乱暴に箸を動かして、残りのお刺身とごはんを食べていった。

 食事は終わり、私はお風呂に浸かる。肩まで湯船に沈めて、からだ全体をお湯に浸す。今日はいろいろあったから疲れをいつも以上に出したくて。私は普段よりも長風呂に身を預け、のぼせる前にバスルームを後にした。

 髪をかわかし、お気に入りの純白のネグリジェに着替えてベッドに横になる。時刻は九時。まだ寝るには早いけど、今日はもう寝てしまおう。今日くらい勉強はお休みだ。学校も休んでしまったのだし。

 私は布団の中で天井を見上げる。あとは寝るだけ。瞼を閉じて、何も考えず、体をベッドに預けていればそれは出来る。

 けれど、その後はどうなるのだろう。私はいったい、どんな夢を見るのだろうか。

「あ、考えてなかった」

 悪夢は終わった。記憶を取り戻したことで。なら、私は新たな夢を見ることになる。

「……ふーん」

 私は上機嫌に声をもらす。だって、仕方がないというものじゃない。新しい夢が見れる。そう思えばなかなか楽しみなことだ。今まで悪夢ばかり見せられてきたのだから、今度は楽しい夢がいい。夢のような夢を見させて欲しい。

 もし夢を見るのなら……、そうね、甘いものを食べる夢がいいわ。今まで散々頑張ってきたのだから、ご褒美くらいあってもいいわよね。ホールケーキを独り占めとか。夢なんだから遠慮しないわ。

「ふふ」

 なんだか楽しくなってきた。どんな夢が私を迎えてくれるのか、期待に胸が躍ってしまう。

「おやすみなさい、私」

 私はまぶたを閉じて、そんな甘い願いを抱いたままゆっくりと眠りについていった。


 そして。

 目覚めた時、私は気づけばここにいた。確かに部屋のベッドで横になっていた私の体は地面に立ち、服装は寝間着から制服になっている。そう、これは現実じゃない。

 これは夢だ。新しい夢が始まったのだ。

 そこにはどんな景色があるのだろう。私は期待に胸が躍ってしまう。

「え?」

 けれど、私は凍りついた。

「そんな」

 信じられなかった。

「嘘よ」

 何故なら、ここは――

「助け、て……。タスケ、テ……」

 黒い世界だった。

「なんで!?」

 底のような暗闇、無数の扉。助けを求める、少女の声。

 いくつもの扉が無数に広がる暗闇の世界。聞こえてくる、少女の声。同じ、悪夢。

 でも、でも。こんなのはあり得ない。

「終わったはずでしょう、この悪夢は!?」

 私は叫んだ。愕然とした衝動のままに。だって記憶は取り戻した。それで悪夢はおしまいのはずなのに。

 なのに、まだ黒い世界は健在している。こうして、少女が助けを呼ぶ声とともに、私を今夜も迎えている。

「嘘……」

 私は扉を開けるでもなく、その場から動けないでいた。

 そんな私に夢の終わりを告げるように、扉の裏から白うさぎが現れる。

「やあ、ご機嫌ようアリス。ワンダーランドへと出かけよう。扉はまだ、――開いているよ」

 白うさぎが浮かべるいつもの微笑。台詞。変わらない黒い世界。そして、助けを呼ぶ少女の声。

 私は、私は、

「私はいったい、なにを忘れているの……?」

 黒い世界は、雄大に、私に闇を見せつけていた。

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