第2話 第一章 あなたは誰?

 第一章 あなたは誰?


 急かされる焦燥に、私は足を走らせていた。

 暗く不気味な場所を、私、黒木アリスは走っている。

 ここは黒い世界。一面、見渡す限りの暗闇だ。さらにここにはいくつもの扉があった。安いアパートのような鉄扉から、緑色をしたインテリア調の扉。中には綺麗な造形を施された扉まである。

 私はそこを懸命に走る。服装は学校の制服で、大きく腕を動かし、必死に扉を開けていく。

 何故なら、聞こえるから。辛そうな少女の声が。

「助け、て……。タスケ、テ……」

 か細い声で、助けて、助けてと。何度だって。私は無性にこの声の子を助けてあげたくて、懸命に体を動かした。

「どこ、どこにいるの!?」

 大声で呼びかけても、助けを求めている少女は答えてくれない。私はこんなにも助けたいと思っているのに。なのに、少女は応えても、姿を見せてもくれない。

 急がないと。時間はあまりない。そうした思いだけが私を急かす。

 いくつもある扉を一つずつ、片っ端から開けていく。

 けれど、扉を開けた先はどこも真っ白な空間が広がるばかり。当然少女の姿もない。扉を閉めて、私は次の扉に向かう。

 開ける。駄目。

 開ける。違う。

 開ける。ここでもない。

 早く、早くしないと。

「はあ……、はあ……!」

 この子を、助けてあげたい。

「助け、て……。タスケ、テ……」

 耳を突く小さな悲鳴。弱々しい懇願が鼓膜に届き、私の心を焦らせる。

「もぉう、どこ? あなたはどこにいるの!?」

「助け、て……。タスケ、テ……」

 無限を思わせる黒い世界を走り回り、疲労を重ねる体が重い。けれど無理やりにでも、私は次の一歩を踏み出した。そうして無数の中から一つ一つの扉を開けていく。

 でも駄目だ、ついには限界を迎える。体が痛い、重くて倒れそう。私はついに立ち止まってしまった。

 すると目の前の扉の裏から、一人の影が現れた。

 その姿に目を奪われる。

 それは、白いうさぎ.の少年だった。小学生くらいの小さな男の子。

 なんて不思議な光景だろう。コスプレ? いいや違う、彼は本物だ。おとぎ話に出てくる幻想の住人。

 少年の服装はタキシードで赤の蝶ネクタイを首元にあしらい、黒のシルクハットを被っている。けれどうさぎの耳が顔の横からピンと真上に立っていた。顔や袖から覗く手は人のものだが、足だけがうさぎの足をしている。大きく白い体毛に覆われた足が、オニキスを思わせる透明感のある地面に乗っていた。

 そんな彼が、私に向かってお辞儀をする。帽子が落ちないように片手で押さえて。そして、少女を探し回り、疲れ果てた私に言うのだ。幼く、朗らかな声で。

「やあ、ご機嫌ようアリス。一緒にワンダーランドへと行こう。しかし残念。扉はまだ開いていない」

 演じるようにそう言って、白うさぎの少年は微笑む。

 そこで、私の意識がぐらりと揺れた。

 世界が終わる。

 救えなかった。

 助けられなかった。

 またも。

 またしても。

 私に罪悪感を突きつけて。

「待って! 私はまだ――」

 言っていて、視界が揺れる。遠ざかる。待って、私はまだ助けていない。やり残したことがある。けれど、意識が遠のいていく。

 私はなにも出来ないまま、悔しい思いを残して、この黒い世界から消えていく――

「あ」

 日差しを感じて瞼を開けた。私はベッドで横になっており、外からは小鳥のさえずりが聞こえてくる。朝の光と音が、ここが現実だというのを教えてくれた。

「……今日も駄目だったか」

 はあ~と一息つく。思い出される少女の声がまだ耳に残っているようで私は額に片手を当てた。

「次こそは、助けてあげたいんだけどな……」

 毎回思うんだけどね。でも叶ったことは一度もない。

 私にはいつも同じ夢を見るという特異体質があった。なんだそれはと思う人もいるかもしれないけど本当なのよ。

 いつからだっただろう? 中学生から? いや、小学生のころからだったかも? うーん。いつからかは忘れてしまったけれど、しかし、高校一年生になった今もこうして私は夢を見ていた。

 夢の内容、それは黒い世界。そこで聞こえてくる少女の声。いつも助けを求めていて、未だに姿すら見つけられない。夢なのだから気に病むことはないのかもしれないけれど、少女の声はとても悲しげで、夢だとしても助けてあげたいとそう思っちゃうんだよね。

 それにきっと、助けてあげないとこれからもこの夢は続くのではないだろうか。ずっと見ている夢にそんな予感がする。これからもずっと。それは困るわ。

「朝からこの疲労感はなんなのかしら。はあ~、……だるい。勘弁して。ほんと。お願いしますから」

 冗談じゃないわよ。こちとらちゃんと八時間睡眠してるのに。

 私は寝返りをして体を横にする。ちょうど目に止まった目覚まし時計を見てみると、時刻は六時二五分。アラームをセットしていた時間の五分前。

「まだあるじゃ~ん……」

 まるで損した気分。二度寝をしようとするが、しかし妙に意識は冴えてしまって、眠れる感じではなくなっていた。

「……起きますか」

 私は上体を起こし瞼を擦る。それから両手を天井に突き出して「う~ん」と背伸びをすると、ボスンと両手を布団に落とした。

「おはよ、私。いい朝ね」

 もちろん皮肉。あんな夢から始まる朝なのだから気分はどちらかといえば暗い方。ただ天気自体はよくて、晴れているのが部屋の明るさと温かさからもよく分かる。

 さて、朝だ。学校だ。

 私が一人暮らしをしている九畳のワンルームアパート、その二階。私はベッドからフローリングの床に降りると、全身を映せる鏡の前に立った。夢の中では制服だったけれど、今の私は純白のロングドレスのネグリジェを着ている。刺繍がきれいで、縦に走るレースもお洒落なお気に入り。私は学校の制服に着替え、化粧棚兼用の勉強机に座った。

「うーん、まあまあかな」

 背中まで伸びる黒髪を整え、立てかけの鏡を覗き込んでチェックする。自慢ではないけれど、二重の大きな瞳は悪くない。人から小顔だねと言われる顔もそれなりに綺麗だと思う。

「よし、行きますか」

 それから朝の用意を済ませて、軽めの朝食をとって準備はお終い。

 鞄を持って部屋を出る。住宅街の道を歩き、徒歩十分ほどの駅を目指す。六月の風は心地よく私の髪をふわりと持ち上げた。

 電車を経由し、たどり着いたのが私が通う学び舎、純徳すみのり高等女学園だ。早めの登校なので人並みが少ない中、私は三階にある教室の扉を開けた。

 ガラガラと、人が少ない教室に扉の音が響く。穏やかで落ち着いた空気はいかにも朝という感じだ。窓際にある自分の席に鞄を下ろし、椅子に座ると教科書類をしまう。後はホームルームの開始を待つだけ。なんていうか、うん、そう。

 まさに平凡。

 まさに平穏。

 まさに日常。

 これが、私の生活。

 日本中どこにでもある、なんでもない一日を私は過ごす。探せばいくらでもある女学生の日常だ。

 そうして時間が過ぎるのを待っていると、隣の席に人がやってきた。

「アリスさん、おはようございます。今朝も早いのですね」

 朝によく合う澄んだ声が耳を通る。喋り方一つ取っただけも伝わってくる上品さは、この教室には一人しかいない。

「おはよう、久遠(くおん)」

 私は振り向き、彼女の微笑に合わせて口元を持ち上げた。

 隣の席のクラスメイト。折紙久遠(おりがみくおん)。クリーム色の淡いセミロングが着席と同時に揺れていた。白いリボンで髪を一つにまとめ、袖から覗く腕も新雪のように透き通った白をしている。目つきは優しく、穏やかで品のある人。

「今朝はまあ、ちょっと早くに起きちゃって。でもいつも通りよ」

「いつもだからすごいのですよ。私は一日だって真似できそうにありませんわ。……ふぁ~」

 席に着いた久遠が片手を口許に当てながら欠伸をする。昨日は夜更かしでもしたのだろうか。ただ、欠伸をしただけなのに彼女が行うと可愛らしい仕草に見える。なんかずるい。

 すると唐突に、久遠は眠たそうにしていた目を見開き私に振り向いてきた。

「そういえばアリスさん、ご存知ですか!?」

「あ、その感じ。もしかして今朝も?」

 彼女の唐突な行動だが私は驚かない。慣れというのはおそろしいものだ。

 久遠は珍しい物好きで、仕入れた情報を毎朝私に教えてくれるのだ。昨日は芸能人のこと、もっと前ならゲームの一つであるホラー系TRPGのこととか。久遠の対象は幅が広い。いったいどこから仕入れてくるのか。

「実は最近、学校の近くにクレープ屋さんが出るようになったのですよ? そしてそこのチョコバナナクレープが絶品なんです!」

「へえ~」

 クレープか、いいなあ。久遠の口から出てきた甘美なささやきについ食べるところを妄想してしまう。

「久遠はよくそんなものまで知ってるわね。珍しいもの好きっていうか、新しい物好きっていうか」

 久遠は新しいものに目がない。それか、好奇心旺盛? っていうのかな。久遠はいつも何かに目を輝かせてる。毎日楽しそうで羨ましい限り。

「あ、いつもと言えば。アリスさん、今朝もあの夢を見たのですか?」

 すると、くるりと大きな瞳を向けて久遠が話題を変えてきた。あの夢、といえばあれしかない。

「あー……、うん。今朝も」

 少女に助けを求められるも、助けられない夢。無力感と罪悪感を突き付ける夢に、顔が少しだけ暗くなる。

「不思議なことですよね。いつも同じ夢を見るのだなんて」

「いつもだから慣れちゃったけどね」

 私は肩を竦めて、やれやれと毎朝の苦行を受け流した。

 黒い世界で助けを呼ぶ少女と、最後に現れる白うさぎの少年。それだけならまだしも、毎晩見るなんて。うーん、不思議。

 普通に見えて、私はそう普通でもない。人とは違うところがある。まあ、自分でいうことではないけれど。

 なんだけど、久遠は笑っていた。

「きっと、アリスさんは特別なんですわ」

「ちょっと、止めてよ、からかわないで」

「からかってなどいませんわ。普通、こんなことありませんもの」

「それはそうだけど。でも、私だけが特別じゃないわ。それは皆も同じよ」

 私は真面目に言い切る。皆が特別。そう思っていたから。私は誰に見せるわけでもなく頷いた。

「?」

「あ、その、なんていうんだろ、例えば……」

 しまった。久遠が小首を傾げている。どう説明しようか。私だけ納得していても分かるわけないよね。うーん。こめかみに指を当てて考える。

「そう、例えば、いつも同じ電車に乗っていても、そこに昨日と同じ人がいるわけじゃないでしょ? 昨日とは違うのに、私たちは今日をいつもと同じだと思ってる」

 久遠は黙ったまま興味深そうな顔をしている。ただ、そんなたいしたことじゃないんだけど……。

「同じ顔がいつもいるわけじゃないし、新しい人だって毎日出会う。もっと視野を広げれば、こうしている今も日本のどこかでは、世界中では、昨日と違うことが起きている。私たちがそれを普通と判断していることだって、本人からしてみれば特別なことかもしれない」

 どうだろう、伝わるかな? 私はちょっと不安になったけれど、久遠は茶化すことなく、うんうんと穏やかに頷いてくれた。

「だから、みんなが特別だと。私たちがそれを知らないだけで」

 さすが久遠、私のつたない説明でもちゃんと分かってくれたらしい。良かった。だけど、笑われたりしない? もし笑われたら、うん、へこむかも。子供っぽい、という自覚はあるから。

「まあ」

 と思っていたが、久遠は両手を合わせて笑っていた。

「アリスさんは、とても高尚な考えをお持ちなのですね。尊敬いたしますわ」

「だからあ、止めてよそういうの。こそばゆい」

 久遠は明るい声で褒めてくれた。嬉しいけど、でも、気を遣われただけかもしれない。この笑顔と声は作り物なんじゃないだろうか? 私は疑って久遠を見つめてみるが、

「…………」

 めちゃくちゃニコニコしてる。

 ううん、きっと違うよね。純粋できれいな瞳と声は嘘を言っているようには思えない。疑ったのが失礼なくらい。

 なんだか、こうして話をしているだけなのに私が穢れている人間に思えてくる。うう。

「だめですか?」

「そりゃそうよ」

 私は顔を正面に向け目を閉じる。よし、こうなったらこのきれいな子を少しいじめてやろうかしら。理由? 人間ちょっと汚れてるくらいの方がちょうどいいからよ。

「学業も容姿も、おまけに人柄まで優秀な折紙久遠さんから尊敬するなんて言葉、嫌味かと思っちゃうわ」

「あら、それこそ嫌味ですわ。もしかして、アリスさんは私のことがお嫌いですか?」

「さあ?」

「まあ!」

「うそようそ、ごめんごめん」

 駄目だ私、やっぱり穢れてる。いや、ううん、そんなことない! きっと久遠が悪いのよ。この子ときたら純粋過ぎるから、ちょっとからかってみたくなるのは自然なことよ。……たぶん、きっと、……おそらく。

「止めてください。そういう御冗談は好きではありませんわ」

「すみません、反省します……」

 うう、怒られた。私は頭を下げてしゅんとなるが、すると怒っているはずの久遠の口から、ぷっと息が漏れた。

「ふふ、冗談ですわ」

「え?」

 聞こえてきた言葉に頭を上げる。私は数瞬だけ気を取られるが、すぐに気がついた。

「もぉ~う!」

 その笑顔に拗ねた声を投げつける。なのに、久遠は口許に手を当て私のことを今も楽しそうに微笑んでいる。

「ごめんなさい、私もアリスさんのいじける顔が見たくなってしまったの。でも、これでおあいこですからね?」

 そう言って、久遠は再び微笑んだ。

 なんでだろう、まったく悪戯みたいな邪気を感じない。むしろ上品で。淑女の優雅さを教えられる。なんでだろう、年は同じはずなのに、彼女の方がお姉さんのように感じてしまう。

 きっとこれが折紙久遠の特徴なんだと、私はそう思った。

 久遠との会話が終わり、そこでふと、私は窓から外を見渡してみる。

 純徳女学園の立つ場所は高い。おまけに三階ということもあり、ここからは街が一望できる。最近では人が少なくなってしまったという商店街や、全体的に灰色染みた街で一際目立つ、緑に囲まれた大きな公園。学校の近くに視線を寄せれば、多くの車が列を作って走り、横断歩道では朝の忙しさを演出するように人々が行き交っている。

 いつも通りの風景。けれど、昨日とは違う光景。これらの中にどれだけの違いがあっても、私たちは普通だと思って気づかない。

 そんな、いろいろな物事が詰まった複雑な世界を、私は瞳で撫でる。そういうものとして受け止める。私はそう、見てるだけ。こうして窓から一枚隔てた場所で見ているように。

 だからこそ思うのだ。

 この世界は普通だけど、普通じゃない。見方を変えるだけでこの世界は平凡で退屈なものから、特別なものへと姿を変える。もし退屈な日常から抜け出したいのなら。

 不思議の国への入り口は、すぐ近くにあるのかもしれない。

「と、思ったところで」

 学校はすでに終わり、今は下校中。まだ明るく、コンビニやファミレスが並ぶ賑やかな歩道を私は一人で歩いている。

「そう簡単に生活が変わることもないわよね」

 私は退屈を紛らわすように小言で呟いた。

 特別なことがいくらでもあるといっても、結局そんなものは他人様のことで私には関係ないことだ。ちょっとやそっとじゃ日常というのは変わらないわけで。もしころころ変わってたらそれこそ大変だ。まあ、平凡な学生らしく、ここは素直に部屋に戻って宿題でも終わらせてしまいましょう。

 そう、思っている時だった。

「ねえねえ、君。今学校終わったとこ?」

「え?」

 後ろから声を掛けられ、振り向くよりも早くに私の正面に回り込まれていた。

 三人の男の人。軽装で開けた胸元にはアクセサリーがぶら下がっていて、髪も派手な金色をしている。香水の臭いが強い。

「これからカラオケなんてどう? ゲーセンでもいいしどうよ?」

「あの、その」 

 笑顔で話しかけてくるが、ちょっと怖い。声が上擦ってる。

 どうしよう。というより、しまった。無視して歩いてればよかったのに、立ち止まってしまった。正面に三人立たれて、通れない。

 私は鞄を両手でぎゅっと握りながら、なんとか前に通ろうと歩いてみる。

「あの、急いでますので」

 三人を迂回して、やり過ごそうと足を動かす。

「そう言わないでさー」

 けれど、通り過ぎようとした私に男の一人が手を伸ばしてきた。

「ちょっ――」

 握られた、手を。痛くないけど、強い。振り解けない。手首を握られて、逃げたくても逃げれない。一気に焦る。胸中をさざめく波が高くなる。

「あの、止めてください。私帰りますから」

「そう言わないでさあ、少しだけ遊ぼうよ。ヘンなことしないって」

 私は断るのに、男の人は笑顔で放してくれない。他の二人も私を強引に誘ってくる。どうしよう。どうしよう。どうすれば。

 私は考える。けれど不安になってきて、怖くなってきて。本当に、どうすれば。

「おい」

 その時だった。彼らではない、別の声がした。

「ああ!?」

 第三者の声に男たちが荒れた声と共に振り返る。私も声がした方向、彼らの背後で、私の正面にいる人物に目をやった。

 そこにいたのは、目を疑う二十代ほどの青年だった。

 全身が白で統一されている。髪は銀色で青く鋭い双眸が私たちを睨んでいる。背は高く、くるぶしまで届く純白のロングコートを羽織り靴も白。それに一目でハンドメイドだと分かる高級品。外套に施された刺繍は優美でこれだけ白いのに汚れがまったく見当たらない。

 夏を控えた六月に服装は季節外れで、衣服は都会離れしている。まるで絵本に出てくる貴公子。少女趣味はないけれど、白馬まであれば絵に描いた王子様だ。

 場違いな風貌。日本人じゃない。というか、まるで人形の域の美形。細い眉に切れ長の瞳は、冷徹だけれどかっこいい。

「そこの女を放せ」

 彼は端的に、要点しか話さない。頼むわけでもなく、願うわけでもなく、ただ放せと、命令する。

「んだと?」

 男たちが怖い顔をして彼を睨む。けれど彼は眉ひとつ動かすことなく、両手をコートのポケットに入れたまま睨み返している。

 そこへ、男の一人が近づき彼の胸倉を掴み上げた。

「てめえ、そこにいる女は俺が初めに声かけたんだ。横取りしようとしてんじゃねえぞ」

「フッ、なるほど。低俗な輩だと言語も解さんか。脳までカビたな、貴様」

「んだとぉ!?」

 彼の言葉に男がキレる。拳を振り上げ、彼の顔面を狙っている。危ない。私は叫ぼうとして、でも咄嗟に口が動いてくれない。

 当たる。痛々しい出来事を予期して目を逸らしそうになる。けれど、私が予想したことは起こらなかった。

 彼はポケットに両手をしまったまま上体を回し、男を投げ倒したのだ。合気道、なのだろうか。足をいつの間にか前に出し、男の体がひっかかるようにして、相手に掴まれている力を利用して地面に倒した。加えて、掴まれている腕を振り払うと横になる男の腹を踏みつける。ぐえ、とカエルのような声が男から零れた。

「てめえ、やりやがったな!」「調子こいてんじゃねえぞ!」

 仲間がやられたことにより他の二人も襲い掛かる。どちらも本気で彼に殴りにいく。

 彼は迫る拳を払うと空いた腹に膝蹴りをし、もう一人の攻撃は掴むと腕を捻り地面に押し倒した。地面に倒れる三人から苦しい呻き声が出ている。

 すごい。彼はその場から動いていないのに、あっという間に終わっていた。

「くそ、もういい! 行くぞ!」

 そう言って三人が去っていく。彼は立ちつくしそれ以上のことはしない。そんな彼を、私は真っ直ぐに見つめる。

 外套をまとった、白衣の青年。銀髪を風に躍らせて、私をじっと見ている。

 凍えるほど鋭く、溶けそうなほど熱い視線。彼は私を、ずっと見つめている。

「あ、あの!」 

 一拍の間を置いて、ようやく私の口は開いてくれた。助けてくれた彼に、お礼を言おうと唇を動かす。

 けれど、彼は踵を返し歩き出してしまった。

「待って、まだお礼が!」

 私の呼びかけにも応じず、彼は歩みを止めてくれない。そのまま角を曲がり姿も消えてしまう。

 当然私は追いかける。交差点の角から、彼の向かった先を見る。そこに彼の姿を探す。

 しかし、異変が襲った。

「あれ、えっと」

 私は片手を頭に当てる。そんな、ちょっと待って。嘘でしょ?

 私は戸惑う。どういうことか分からない。

 だって、彼の姿が、思い出せないのだ。

「どうして?」

 大通りを車が走り、歩道には数人、私と同じ学生からスーツ姿の人たちが行き来している。その中に彼の姿が見当たらないのではなく、思い出せない。

 しかしそんなのはおかしい。今まさに、出会ったばかりの人を忘れてしまうなんて。きっと気がまだ動転していて、混乱しているんだと思う。ちゃんと考えれば、分からないはずがない。

「えっと、確か服の色は、そう、白……だったかな。それとも赤? だったような。 えっと、黒?」

 記憶を掬い出そうとするも指先から零れていく。水面をいたずらにかき混ぜるだけで、水底から記憶を持ってこられない。

「どんな人だっけ? 外国人だったような、いや、日本人? というか、日本だからきっと日本人よね。それでええっと、男……、ううん、女性、だったかも……?」

 ダメだ。考えれば考えるほど混乱していく。

 私は今一度辺りを見渡してみた。いろいろな人に目を向けるが、その人が助けてくれた人だとピンとこない。

「…………」

 どうしようもないと、目線を下げた。助けてくれたお礼を言えなかった心残りはあるけれど、私は部屋に向かって歩き出す。最後に一度だけ振り返り、助けてくれた人の姿を探してみるけれど。

「…………」

 私の表情を暗くするだけだった。

「やあ、ご機嫌ようアリス。一緒にワンダーランドへと行こう。しかし残念。扉はまだ開いていない」

 そう言って、白うさぎの少年は私にお辞儀をする。帽子が落ちないように片手を当てて。

「待って! 私はまだ――」

 やり残したことがある。ここでしなければならないことがある。けれど、私の意識は遠のき、薄くなっていき、この黒い世界から追い出されるようにして、意識が――

 ジリリリリ! ……ピタ。

「う~ん……」

 目覚まし時計のベルで目を覚ます。時刻は六時三十分。時間通りだ。

「おはよう、私。いい朝ね」

 寝起きの緩い声が朝の空気に溶ける。言葉の意味はもちろん嘘。今朝もあの夢を見た。結果も同じ。助けられなかった。判定、最悪の朝。

 いつもの朝だ。私はお気に入りの寝間着から制服に着替え部屋を出た。

 学校に着き早めの登校を終える。朝の静かな教室はわりと好きで、この静穏とした空気は早起きした者にのみ味わえる特権だ。私はモーニングコーヒーの香りを堪能するように、この場に佇む。

「おはようございます、アリスさん」

 すると朝に良く合う声が隣から聞こえてきた。あ、もうこんな時間か。なんて、彼女のあいさつを聞いて初めにそんなことを思う。

「おはよう、久遠」

 振り返れば隣に久遠が座っていた。綺麗なクリーム色の髪をリボンで纏め、今日もねむたそうに欠伸を一つ。お嬢様のような人なのに、こういうところは幼い子供のようで私は微笑ましく見つめてしまう。

 そんな私に気づいたようで、久遠はハッと顔を赤らめた。

「ア、アリスさん。そんな風にじっと見ないでください」

「変わらないわね久遠は、朝が弱いとこ」

「う~、朝は駄目なんですわ」

 恥ずかしそうに久遠が俯く。いったい何時まで起きているのだろうか。聞いてみたい気もするけど、うーん。

「いいではありませんか。授業が始まるころには、私ちゃんと起きていますから」

「ほんとうに~? 昨日、一限目は顔がゆらゆらと揺れていたわよ?」

「う~、アリスさん、いじわるですわ~」

 意地悪く言う私に久遠が弱気な声を出す。俯きもじもじと体を縮めていた。可愛い。そんな可愛らしい仕草をされたら、もう少しだけいじめたくなる。理由? 人間いじられる間が華だからよ。

「あれ? 久遠、ここ、ここ」

 そう言って私は目頭を指さす。なんだろうかと久遠が見てきた後、「ええ~!」と大声を出して目を擦り始めた。けれどハッと思い出したように動きを止め、ぷるぷると震えながら睨んできた。

「アリスさん! 私でも、ちゃんと毎朝顔は洗いますから。冗談は止めてください!」

「すみません、反省します……」

 うう、怒られた。調子に乗り過ぎてしまったらしい。私はしゅんとなり姿勢を正す。そういえば、こんなやり取りを昨日もした気がする。

「あ」

 それで思い出した。昨日のこと。三人の男たちに絡まれて、誰かに助けられたこと。

「ねえ、久遠」

「アリスさん。話題を変えようとしてもダメです。私いま、すごーく怒っているんですからね」

「ごめん久遠~。許して、ね?」

「ダメです」

 私は両手を合わせてお願いしてみるが久遠は目をつむってツンと正面を向いている。

「許してくれないの?」

「ゆるしません」

「どうしても?」

「どうしてもです」

「後でロイヤルミルクティーおごるのに?」

「ゆるします」

 それで久遠がこちらを振り向いてくれた。目がらんらんと輝いている。久遠はミルクティーが大好きなのだ。

「それでアリスさん、さきほど何をお話になろうとしていたのですか?」

 それで思い出し、私は昨日のことを振り返った。

「実は昨日、学校から帰る途中に三人の男に声かけられて」

「あら」

 私は昨日の、あの嫌な出来事を話すが、久遠から出てきたのは明るい声だった。

「そんなんじゃないわよ。最悪。私何度も断ったのに諦めないし。強引だし。手まで握ってきたのよ」

「あら」

 同じ言葉が久遠からもれるが、今度は声音が下がっている。その後、すぐに心配そうに私を見つめてきた。

「それでアリスさん、大丈夫だったのですか? 乱暴なことはされませんでした?」

「ううん、大丈夫。ありがとう。そういうのはなかったんだけれど」

 久遠からの心配が嬉しい。そういうことになりそうだったけど、そうならなかったのは良かった。

「それにしても迷惑な殿方もいるものですね。レディの扱いにはもっと気を遣って欲しいですわ」

「え、ええ。そうですわね。おほほほ……」

 殿方、レディ。やっぱり久遠はすごいわ。うん、すごいですわ。

「そういうのはわたくしも嫌いですけれど、アリスさんは、どのような方がお好きなのですか?」

「え、私の好きなタイプ?」

「はい」

 私の疑問に久遠がにっこり笑う。もしかして私の好きなタイプも久遠の好奇心の範囲内なのだろうか。

 好きな男のタイプ、か。そりゃあ、私にだってあるけれど。私はそうねー、と顎に人差し指を当て、視線がやや上になる。

「まあ、いろいろ気にする点はあるけれど、やっぱり一番気になるのは」

「気になるのは?」

 私のもったいぶった言い方に久遠が顔を寄せてくる。興味があるようで表情はやはり楽しそう。そんな彼女を気にするでもなく、私は一番の重要条件を口にした。

「やっぱり、経済力よね」

「お金ですか……」

 しかし、答えを聞くなり彼女の表情が萎んでいった。ちょっと、それどういうことよ!?

「だ、だって! お金は重要よ。大切よ。お金がないと生きていけないんだから!」

「そうですけれど……」

 私の弁解を久遠が残念そうに見つめている。心外だ。というか、久遠と私は違うのよ。お金の大切さを私は知っているもの。

「今月だって、私結構きびしいんだから」

「あ、そういえばアリスさんは一人暮らしをされているんですよね。確か、叔父さんからの仕送りで」

「そうよ」

 久遠は合点がいったように両手を胸の前で合わせている。顔も納得してくれたようで安心した。

 私の生活費をまかなっているのは叔父さんからの仕送りだ。ひと月暮らすには十分な、けれど決して多くはない仕送りが私の収入源。ぜいたくは出来ないけれど、ちょっと遊びに行くことくらいは出来る金額。けれどたまには辛い月というのはあるもので、私は自分の分くらいアルバイトで稼ごうとしたこともあるけれど、叔父さんが認めてくれなかったのだ。学生たる者、勉学に励むべし、とのこと。叔父さんには面倒を見てもらっているという大きな恩があるので、私は言葉通りに勉強は人並み以上にしている。順位もまずまず。隣人には負けるけれど。

「それで話を戻すけれどね、昨日のこと。その、不思議なことがあって」

「不思議なことですか!?」

 失言だった。私が口にした言葉に過剰反応としか思えない勢いで久遠が顔を寄せてくる。ちょっと待って、近い!

「あのね、男たちに絡まれている私を助けてくれた人がいたの。それは覚えているんだけれど、その人のことが思い出せないのよね。それもすぐに。助けてもらった直後。その人はどこかに行ってしまって、お礼も言えなかった。どうしてあんなにすぐ忘れてしまったんだろう」

 今思い返してみても分からない。どんな人だったのか。何故思い出せないのか。お礼くらいは言いたかった。それが出来なかったことが、私の心にちょっとした重石になっている。

「そうだったのですか。それは不思議ですわね。うん、それは調べがいがありますわ」

「調べるの?」

 ここでも久遠の新たな探求が始まるのか。久遠の好奇心には本当に見境がない。

「ですけれど、以前に人は極度の緊張状態にあると記憶がとんでしまう、なんてお話を聞いたことがありますわ。アリスさんは、自分が思っている以上にその時が怖かったり、緊張していたのではないですか?」

「うーん、やっぱりそうなのかな~」

 久遠からの説明に私は躊躇いながらも納得してしまう。それしか理由が思いつかないもん。

「あ、そういえばなんですけれど、アリスさんご存知ですか!?」

「ここで?」

 もはや習慣となった久遠からのお話、ずいぶんとまた唐突ね。でも、今朝はいったいなにを教えてくれるのだろうか。

「今日のは一段と特別ですわよ? ぜひアリスさんにお伝えしたくて」

 なんだろうか。久遠が私に体ごと正面を向けてくる。表情は嬉しそうというか期待を露わにしており、なんだかとても楽しそうだ。

「実はですね、昨日、駅の出口付近で見かけたのですよ。絶対アリスさんなら気になるかと思いまして」

 久遠がにこにこと私に言い寄る。

「なんとですね、――があったのですよ」

「え?」

 久遠の口から踊り出た言葉に私の意識はすぐさに反応した。助けてくれた人の正体、そんな謎が霞むほどの。なんだってそれは、数年間に渡って私を襲う、最大の謎なのだから。

 それは――

「夢占いの、屋台?」

「はい!」

 私の聞き返しに、久遠はにこにこと笑っていた。

 学校が終わり、私は久遠から教えてもらった駅に来ていた。白のタイル模様の地面を歩き出入り口付近に近づいていく。帰宅ラッシュにはまだ早い時間帯なので利用客は学生やスーツ姿の人が疎らにいる程度。決して大きな駅ではないけれど、出入り口前は広場のようになっていて、若い人たちがダンスやパフォーマンス用の自転車の練習をしていた。他にはチラシを配っている人の姿も見える。静かだけれど、それなりに賑やかな場所。

 そんな中、駅の影の下。人気のない隅にそれはあった。組み立て式の屋根と机と椅子二つ。立てかけられた看板には、夢占いの文字が浮かぶ。珍しい。普通屋台の占いなんて、手相だと思うのに。でもそんなことはどうでも良かった。

 近づいていた私は一端足を止め、緊張した胸から重い息を吐く。うん、大丈夫。緊張はしているけれど、それは恐れじゃなくて期待からだ。

 夢について自分なりに調べたことはある。けれど、結局答えは分からなかった。けれども専門家なら分かるかもしれない。胸には期待が渦巻き、念のため財布の中身を確認しておく。うん、ちゃんとある。利用料の五百円。

 私は財布をしまい歩き出した。期待が歩みを早くする。

「あの、すみません。今だいじょうぶでしょうか?」

 私は屋台に近づき、机の対面にいる紫色のローブを被った女性に声をかけてみた。頭から全身を覆う姿に表情しか分からないけれど、顔から女性だと分かる。

「はい、どうぞ。こちらにお座りください」

 落ち着いた、占い師のイメージ通りの厳かな声で席に勧められる。私は座るとカバンを膝の上に置き、さっそく話を切り出してみた。

「あの、夢占いということなんですけれど。私、実は気になる夢があって。信じられないかもしれないですけれど、いつも同じ夢を見るんです」

「いつもと同じ夢。分かりました。それは、どのような夢でしょうか」

 私は意を決めてから夢のことを話した。多くのことを語るほど複雑な夢ではないけれど、詳細を、仔細に。私は全部を話した。

 占い師の人は一言も挟むことなく静かに聞いていた。私が言い終えた後、占い師は一回、静かな動作で頷く。落ち着いた姿勢で座ったまま。何を言うのだろうか。私はじっと言葉を待った。

「あなたの夢のお話は聞かせていただきました。それで、いくつか質問をさせていただきます」

「はい」

 緊張した動作で、私は頷く。

「あなたが毎晩見られるという黒い世界。あなたは思い当たることはありませんか? 昔、部屋や箱に閉じ込められたことがある、など」

「いえ……」

「では、黒い世界。そこから何を連想されますか? 何をあなたは思いますか?」

「えっと」

 質問に私は考える。そういえばもう何年も見ている夢なのに、こうして考えるのは初めてのことだと気付かされる。それで思ったことを、私は拙いながらも並べていった。

「なんだろう。その、寂しいとか、悲しいとか。なんというか、孤独、ていうのをすごく感じます。一人っきりで。それが、ものすごく悲しいんです。だから、助けを呼ぶ少女のことも、すごく辛そうで、助けてあげたいって、とても強く思うんです」

 私は膝の上にある自分の両手を見つめながら、決意を改めるように言う。言っていて、気持ちが強くなっているのを自覚していた。

 あの子を助けたい。今でも、そう思うから。

「分かりました。では、その少女のことについて。その少女は声だけ聞こえるそうですが、年齢はどれくらいだと思われますか?」

「たぶん、小学生くらいだと思います」

「分かりました。あなたは小学生くらいの少女の声を探し、いくつもの扉を開けていく。扉とは別の場所への入口です。ここではない、どこかをあなたは探していると言えます。では、導き出される答えとして」

「はい」

 私の緊張が一層高まる。強張った表情で、占い師の答えを待った。

「あなたの夢。それはあなたの小学生時代、もしくはそれに近いころの『孤独』な体験、記憶が起因になっている可能性があります。その孤独から、あなたは出たがっているのかも。あなたが忘れているだけで、あなたはそのころに何か、重大なものを心に刻みつけているのです。その失われた記憶を探すことが夢の解決に繋がるかと。気が向きましたら、小学生時代のアルバムかなにかを手にされてみてはいかがでしょうか」

「はい、分かりました。ありがとうございます」

 私はお礼を言うのと同時に頭を下げた。今まで不思議なだけだった夢に、解決の糸口を教えてくれた。孤独な体験、というのに心当たりはないけれど、私はすぐにでも実践してみようと思う。

 私は財布から五百円を取り出し机に乗せる。五百円では安いくらいの情報を教えてくれた占い師に感謝の念は絶えない。けれど私はすぐにでも実行したくて、もう一度お礼を言ってから席を立った。

 よし。やることは決まった。すぐに何かが変わることもないだろうけれど、やらないよりはましなはず。

 私は意気込み帰路につく。早く部屋に戻りたい。まるでお気に入りのゲームをもらった子供のよう。すぐにでもしたくて胸がうずいていた。

 それも全ては占い師のおかげだ。私はせめてもう一度頭を下げようと、背後の屋台へと振り返った。

「え?」

 そこで、驚愕が声になって漏れた。

「嘘!?」

 次に大きな声が出た。私は堪らず走った。目を疑い近づくも、屋台の場所に戻ってきて見間違いではないと知る。だが、疑問は晴れず混乱した。だって、何故なら、

 そこに屋台なんて、なかったのだ。初めからなにもなかったように。屋根も、机も、二つの椅子も。あの、占い師さえ。

「どうして」

 人が行き交う駅の隅で、私は呆然と一人立ち尽くしていた。何もない場所に、見えない屋台を探すようにして。


「どうしようかなぁ……」

 私は家に戻ってからというもの、悩んでいた。やるべきことは分かっている。しかし、忽然と消えた屋台の謎。あの出来事に不気味な気配を感じてしまう。

 けれど、悩んでいても始まらない。そうよね。まずは行動しよう。このままでは、あの悪夢はずっと終わることはないのだから。

「えっと、ここら辺だと思うんだけどな~。あ、これかなぁ」

 私は決断するなり押入れからアルバムを探した。忽然と消えてしまった夢占いの屋台のことは今はいい。気にしても仕方がないのだし。それよりも建設的に。今は行動しよう。

 私は古い段ボールを引っ張り出す。小ぶりではあるけれど、中身が本なだけに重い。それをなんとか持ち出し床に置いた。腰を下ろして開けてみると案の定、そこには重量に相応しいいくつものアルバムが収まっていた。

 そこから本命を見つけるべく中身を取り出していく。これは中学校のときのアルバム。これは小学生の教科書。……なんで捨ててないんだろ。それからえーと、

「あった」

 目に映った深緑色をしたアルバムを手に取る。小学校の名前と共に、卒業アルバムと金色の刺繍で記されていた。

 私は感慨に耽る間も惜しくすぐにページを開く。大切な思い出だけど、楽しむ余裕なんてない。遊びじゃないんだから。私はそう自身に言い聞かせていざアルバムを覗き込む。

 一分後。

「なっつかしー!」

 私は何故か、一人時間をさかのぼり興奮していた。いや、分かってるよ? ちょっとだけよ。それに楽しんだら駄目という理由もないのだし。

「うわ、ちっちゃ。てかもしかして、この頃の私、かわいい?」

 かつての自分にまじまじと見入る。運動会のかけっこ競争で一位になった私は手作りの金メダルを手に満面の笑顔を浮かべている。他にも修学旅行で奈良公園の鹿にせんべいを食べさせている場面や、遠足で工場見学に行った時の写真。見てみると私が映っている写真はけっこうあった。

「ふふん。さては担任の教師め、私のことがお気に入りだったわね」

 誰に示すわけでもなく勝ち誇った私の笑顔は、きっと他人が見ればとても虚しいものだろう。でもいいのよ。だってここには誰もいないのだから。

 それで私は浮かれながら次々にページを進めていく。思い出が花畑のように咲き誇り、楽しい記憶が踊り出す。

 そして私はクラスの集合写真を開いていた。見開きいっぱいに、昇降口を背にクラスの皆が列を作って映っている。当然私の顔もある。

「懐かしいなぁ……」

 特別今に不満があるわけではないけれど。こうして昔を振り返るとどこか温かい気持ちにしてくれる。郷愁、と似たようなものなのだろうか。過去というのも故郷と呼べるものなのかもしれない。

 そうして私は集合写真をゆっくりと、眺め続ける。

「うっ!」

 しかし、急に私の頭を激痛が走った。あまりの痛みにこめかみを押さえる。アルバムが床に落ちる。私は両手で頭を押さえる、痛みを消すように。

 でも駄目。退かない。あまりの痛みに額に汗が浮かぶ。眉間に皺が寄り、苦しい声が口の隙間から漏れる。

 なにこれ? どうして急に?

「うっ、うう!」

 激しい頭痛、内側からハンマーで叩かれているよう。

 私は必死に頭を押さえ耐え続ける。そうして、ようやく痛みは退いていった。

「…………ふう」

 安堵の息が知らず出る。なんだったのだろうか、今のは。私は立ち上がる。そして床に落ちている卒業アルバムに目を遣った。私は拾い上げるが、再び開こうとは、しなかった。

「変なの……」

 あんなに楽しかったのに、今ではどこか沈んでいる。落ち込んでいるように。

 私は気分を洗い流すためシャワーを浴びることにした。今日はさっさと寝てしまおう。そう決めて、私はアルバムをもとの段ボールに詰め押入れに戻した。

 シャワーを浴び終え寝間着に着替える。けっきょく、気分は変わらなかった。さきほどの頭痛に憂鬱な気持ちのまま髪をドライヤーで乾かす。お腹は減っていない。食事をする気にもなれなので、私は早々にベッドに横になった。

 まったく、せっかくいい気分だったのに台無しだ。けれど、そう。いよいよだ。

「夢……」

 これから私は眠りにつく。そしたらきっと、あの夢を見る。黒い世界の夢を。

 これで何か変わるのだろうか。いつも見ている夢、数年変わらない夢。それがついに、変わるのだろうか?

「…………」

 期待するな、という方が無理だ。私の胸は妙に高鳴り、眠気を退く。けれど寝なくてはならない。私はなかなか寝付けないまま、ベッドの中でその時を待った。


 そして、その時は来た。

 気が付けば、私は黒い世界にいた。ここは広大で果てがない。天井もあるのか分からない。そして、無数に広がるいくつもの扉。聞こえてくる、少女の声。

「助け、て。タスケ、テ……」

 どこかから聞こえてくる少女の声に、私は力強く頷いた。

 大丈夫。今度こそ、見つけてあげるから。

 私は走った。黒い地面を蹴り、スカートの裾を翻す。そして、ここに少女の姿があると信じて、私は目につく扉を思いっきり開いた。

 開ける。駄目。

 開ける。違う。

 開ける。ここでもない。

 扉の先、そこには空白の世界が続く。

 私は諦めず走り続ける。扉を開け続ける。

 開ける。駄目。

 開ける。違う。

 開ける。ここでもない。

 なんで? 

 私の中でどんどん不安と焦燥が高まっていく。変化が見られない。兆しもない。

 もしかして、無駄なの? 今回も、助けられないの?

 私は走り続け、いくつもの扉を開けていく。大丈夫、今度こそ助けられると。この悪夢を終わらせると。

 けれど、駄目だった。

「はあ……、はあ……!」

 息が荒い。肺が破裂しそう。足が痛くて、立っているのも辛い。

 ついに私は立ち止まってしまい、息を整える。少女をのぞけば静かな黒い世界に、私の熱い呼気が溶けていく。

 駄目だ。このままでは駄目だ。今度こそ、彼女を救い出せると思ったのに。

 そう思うのに、疲れ果てた私の身体は動かない。動いてくれない。

 そして夢が終わることを告げるように、正面の扉の裏から、白うさぎの少年が現れた。タキシード姿に黒のシルクハット。いつもと同じ格好。いつもと同じ微笑。

 駄目、駄目。駄目なのに。助けてあげないと駄目なのに。なのに、けっきょく変わらなかった。何一つ。

 そんな私に、いつものように白うさぎがお辞儀をする。帽子が落ちないように片手を当てて。

「やあ、ご機嫌ようアリス。一緒にワンダーランドへと行こう。扉が――開いたよ」

「え?」

 今、なんて言ったの?

 私は顔を上げる。驚愕を表情に表して、目の前でお辞儀している白うさぎを見つめる。

 けれど、急に私の意識が遠のいていく。薄くなっていく。でも待って。変わらなかったはずの世界で、いつもと同じ夢の中で、あなたは今、なんて言ったの?

 今でも、少女の声が聞こえてくる。悲しくて、辛そうな声が暗闇に響く。私が助けると決めた、少女の声が。助けてあげると決めたの。だから待って。

 待って、待って、待って――


「待ってー!」

 バッ、と私は体を起こした。朝の空気に向かって片手を伸ばしながら。大声を出して。気づけば隣からビリリリと目覚ましのベルが鳴っていた。けれど私は呆然としていて、数秒してからようやくボタンを押した。そして、今日見た夢のことを振り返る。

「確かに、言った……」

 そう、言った。聞き間違いなんかじゃない。白うさぎは確かに、扉が開いたと言った。この数年で初めてのことだ。

「変わった」

 それはたった一つ、しかも小さな変化だった。台詞が変わっただけの。だけど、今までの不変だった数年間に比べれば、大きな進展だ。

「うん。いける……」

 どういけるのか、それは分からない。けれど変えられるのだと私は知った。変えられるなら、終わらせることも出来るはず。

 私はベッドからフローリングに足を下ろす。カーテン越しに日差しが入り温かい空気が部屋に満ちている。小鳥の歌声に太陽の光が、私を包み込む。

「……いい朝ね」

 私はどこか、決意と自信に溢れた声で呟く。やる気というか、達成感すら覚えるほど、私の胸は強い意思を持っていた。

 そのまま私は朝の準備に取り掛かる。夢は変化したが日程は変わらない。今日も学校だ。

 私は制服に着替え部屋を出る。快晴の青空。春の穏やかな風が私の黒髪をふわりと持ち上げる。

 そうして私は今日も学校に向かい歩き出した。駅に着き電車に揺られる。いつもと同じ朝。けれど、頭の中では夢のことが消えてなくならず、ずっと考えていた。あれはいったい、どういう意味なんだろう。

「扉が開いた……」

 走る電車の窓から見る街の景色が視界から通り過ぎていく。私はぼうと見つめながら、思案する。

 扉といえば、真っ先に思い付くのは夢に出てくる無数の扉だ。でも、今まで鍵が掛かっていたことはない。まだ開けたことのない扉なのだろうか。それとも、無数の扉とは別の扉? もしかしたら比喩や暗示で、私と別の場所が繋がったということ? 占い師の人も、扉とはこことは違う場所への入口と言っていた。

 私は考える。いくつか推測は浮かぶ。けれど、たしかな答えかは分からなかった。


 それは深海を思わせる暗闇の空間だった。果てしなく広く、空気は重い、光のない黒の世界。

「忌ミ子ヨ忌ミ子、ドレダケオ前ガ叫ンデモ、声ハ母ニハ届カナイ」

 そこに、声が響いた。

「アア、忌ミ子ヨ忌ミ子、捨テラレタ哀レナ子。ソレホドマデニ母親ヲ欲スルカ」

 生命どころか音も存在し得ない、この世ならざる場所で、しかし、そこには蠢く何者か、湧き上がる怨嗟にも似た叫びが、いくつもあった。

 それは声。

 それは祈り。

 それは本能。

 生まれてきたものには意義があり、あるべき場所があるのなら。

 叫びを上げる彼らは間違いなく、ここにいるべきではなかったから。

「ナラバヨシ」

 叫ぶ彼らとは別の声が、彼らに道を示す。

 それは言葉。

 それは計画。

 それは願望。

 存在するものには目的があり、叶えるべき望みがあるのなら。

 彼らを導く彼は間違いなく、己の願いを形にしていた。

「私ガ連レテイコウ、母親ヘ」

 そして、彼は、彼らを、この暗闇の牢獄から母の元まで届けるために、この世界から姿を消していった。

 それは行動。

 それは変化。

 それは遊戯。

 

 これが、始まり。


 目的地に到着し私は電車を降りる。そのまま通学路である大通りに面した歩道を歩いた。今日も車が行き交い、私と同じ学生やスーツ姿の人が歩いている。私も学校に向かって歩く。いつもと同じ朝だ。いつもと同じ。

 私はいつもと同じ道を進む。その、時だった。

『助け、て……。タスケ、テ……』

「え?」

 私は立ち止まり辺りを見回してみる。

「まさか、ね」

 今、たしかに声が、少女の声が聞こえたような。けれど周囲に少女の姿は見えない。なら幻聴? きっとそうよね、まだ夢の名残が耳に留まっているらしい。

『助け、て……、タスケ、テ……』

「!?」

 瞬間、私の身体は硬直した。また聞こえた、前よりもはっきりと。

『早く、逃げて……、はや、く……』

「え?」

『彼ら、が、くる……、にげて……』

 怯えた声、それは凍えるほどの恐怖にさらされて、耐える小さな声だった。

 いきなりのことになにがなんだか分からない。逃げて? どういうこと? 彼らってなに? わけも分からず辺りを見回した。

 けれど異変はこれからだった。私の足元から突然影が広がると、みるみると周囲を呑み込んでいったのだ。影はさらに広がる。世界を黒く塗り潰していく。拡大する影に触れた人々は音もなく消えてしまい、走る車も消えてなくなってしまった。

「え、なに!?」 

 一瞬のことだった。理解するよりも早くに大地も空までもが影に呑み込まれ、ここは太陽が輝く世界から、夜になっていた。いや、違う。空には星も月もない。墨汁を塗ったような真っ暗な空だ。

 さらに、それは聞こえてきた。街のどこからか。けれど街中で、スピーカーから伝わるように。砂嵐に紛れ込んで街中に広がるそれは、――少女の声だった。

『助け、て。ザッ、ザー……、タス――ザッ――ケ、テ……』

 助けを呼ぶ少女の声が聞こえてくる。悲し気で、辛そうな声。ついさきほど聞いた声と同じ。

 誰もいない黒い街。聞こえてくる少女の声。ここはそう、まるで、

「黒い、世界……?」

 夢と同じ、黒い世界だった。

「どうして! どういうことよ!?」

 私は混乱する。ここは現実なのに。目の前の光景が信じられない。どういうこと? 分からない。分かるはずがない。これは幻覚? それとも、私はまだ夢を見ているの?

 鞄から手を放し頭を抱える。こんなのはおかしい。パニックだった。冷静なんかじゃいられない。どういうこと? どういうこと? 疑問が脳を圧迫する。

「グオオオオオオオ!」

「ひっ」

 背後から、声がした。近い。すごく近い場所から。まるで猛獣のような叫び声が、私の背後すぐ近くから聞こえてくる。

 私はゆっくりと、凍える背筋を伸ばしながら、振り向いた。

「はっ――」

 息を呑んだ。呼吸が瞬時止まる。身動き取れない。衝撃だった。

 そこにいたのは猛獣じゃない。それは、怪物だった。

 黒い怪物。信号機を超える大きな体を見上げる。不思議な形をしていた。例えるなら、サソリとヘビが合体したような。サソリの尻尾がヘビになっていて、胴体であるサソリの部分が持ち上がっている。そう、キングコブラのように顔を持ち上げ、胴体についたいくつもの脚が蠢いている。そして顔には一つの赤い目が、私を見下ろしていた。

「なに、これ……?」

 私の唇が、私の意思を離れて震えている。

 これはなに? 分からない。知らない。こんなもの私は知らない。いえ、いいえ違う。この世界にあるはずがない。この世界にこんなもの存在しない。だから名前なんてあるはずがない。 

 名状しがたきもの。この前に、命とは価値ではなく現象でしかないのだと思い知らされるほど、広大で超自然的な存在感は、まるで宇宙を前にして己の矮小さを痛感させられる人間のような、当たり前であるがゆえに絶対的で普遍な、覆しようがない恐怖。

 それが今、私の目の前にいる。

 気が付いていないだけで、私はとっくに発狂しているのかもしれない。喉を締め付ける恐怖に。胸を抉る不安に。

 理性の殻は呆気なく砕かれて、裸の本能が叫んでる。

 怖いと。

 ただ怖い。どうしようもなく怖いのだ。目の前のこれが。

 指先が痛いくらいに硬直している。舌どころか眼球すら動かない。瞼も同様。乾いた瞳を潤すように、けれど決してそうではなく、涙が流れ出す。

 動けない。鼓動すら止まりそう。

「グオオオオオ!」

「ひぃ」

 短い悲鳴が漏れる。涙が頬を伝う。足が、身体が、動かない。このままでは、襲われる。

 恐怖が体と心を飽和する。血液が冷たい。身体が石のよう。

「い、いや……」

 死にたくない。

「いやよ……」

 死にたくない、そう、私はまだ、死にたくない。

 その時だった。私は、目の前の怪物とは別の声を聞き取った。

『助け、て。ザッ、ザー……、タス――ザッ――ケ、テ……』

 私に助けを求める少女の声。恐怖に縮まる心が、かすかに奮えた。そうだ、この子も怖いんだ。ずっと、こんな思いをしていたに違いない。ずっとこんな世界に閉じ込められて。

 私だけじゃない。諦めていいはずが、ない! 襲われては駄目。ここから、この怪物から逃げないと。

 逃げて。逃げて、私。走るのよ、アリス!

 私は、行動した。

「はっ!」

 凍ったように動けなかった体が、動く。私は振り向き走った。ぼやける視界を拭い取り、意思を血のように体中に走らせ逃げることのみを考えた。走れ、走れ。それだけを考える。

 直後、怪物が叫んだ。叫び声が背中にぶつかる。私は走りながら振り向くと、怪物はヘビの胴体をくねらせて追ってきた。獲物を狙うヘビと同じ動きで、私を追ってくる。

 私はすぐに路地裏へと逃げ込んだ。大きなビルとビルの隙間に体を滑らせる。背後では怪物が迫るが、サソリの部分が大き過ぎて追って来られない。怪物は叫び声を上げた後、恨めしそうに睨みながら去っていった。

 きっとすぐに回り込まれる。私は緊張を緩めることなく路地裏を走り切る。

 路地裏を抜けた先、私は走り続け住宅街の道を走っていた。多くの家が密集しているここは曲がり角や路地裏が多い。そしてここにも人はいなかった。黒い空は世界を覆い、夜と変わらない暗がりを下ろす。私は家の中に逃げ込もうかと扉に手を掛けたが、駄目だった。窓も開かない。何故? 声も聞こえない。聞こえてくるのは少女の声だけ。

『助け、て。ザッ、ザー……、タス――ザッ――ケ、テ……』

 今にも泣きそうな、少女の声。あなたも、あの怪物に狙われているの?

 次第に声は小さくなり、砂嵐が強くなる。声は聞こえなくなってしまった。

 私は走った。分からないことばかりで、知らないことが多過ぎた。けれども今は全部後。今は走らないと。どこか、どこか遠くへ。この黒い世界が終わるまで。

 私は角に差し掛かる。まだ背後に怪物の気配はない。私は曲がり角を選択し方向を変える。が、

「――――」 

 いた。角を曲がった先、道の中央に巨大な黒い怪物が。どうやらまだ気づいていないらしく、私を探してゆっくりと前進しながら頭を回している。

 私はすぐに体を止めて反転する。来た道を逆走する。

「グオオオオオ!」

 怪物が叫ぶ。気づかれた? すぐに怪物が進んでくる音までも聞こえてきた。振り返る。まだいない。でも、私を間違いなく追っている。

 私は身近な曲がり角に体を潜り込ませるように入った。一本道が続くが、そこには自動販売機が置いてあった。あの角なら、隠れて休めるかもしれない。さきほどから走り続けている私の身体はもう限界が近い。でも、怪物に追いつかれ、隠れているのが見つかってしまったら。

 二つの選択肢が私に迫る。みるみると自動販売機との距離が近づく。疲労で体が重い。息で喉が焼けそう。どうする。どうする。私は、

 ――休む。

 ――休まない。

 私は走る。すぐそこまで近づいている脅威から逃げるため。私は必死に走り、自動販売機を、通り過ぎた。背後に置き去りにした自動販売機が遠ざかる。でもそれでいい。今は休んでいられない。もし見つかってしまったら、全てが無駄になる。

 私は走り続けた。休むことなく逃げたおかげか、怪物の気配がなくなっていることに気付いた。なんとか撒いたらしい。もし休んでいたらどうなっていたのだろう。もしかしたら見つかって殺されていたかもしれない。

「はあ、よか、た……」

 私は多少足取りを緩ませる。本当は立ち止まりたいけれど、止めることはしなかった。全身の疲労がおしかかる足でトボトボと黒い地面を歩きながら、胸に片手を当て、調子を測る。

 辛い。苦しい。内側から襲われる疲労と筋肉痛が体を蝕んでくる。怪物と出会ってから数十分は走っていた気がする。もしかしたら気のせいでもっと短いかもしれないけれど、体感ではそのくらいはある。上空を見上げれば黒い世界はそのままで、時間の経過は分からない。

 私はまだ荒さの残る息遣いを引きずりながら左右へと分かれる道へと出る。ここからどこへ行くべきか、考える。

「え?」

 だが、そこで目にしたものに声が出てしまった。

 道を出た右側に、別の怪物がいたのだ。さきほどの怪物よりも小さいが、人よりも大きい。

「そんな」

 一体だけじゃ、ないの?

 小型、とはいっても見上げるほどの大きなその黒い怪物は、パズルのピースのような歪な形をしていた。四角い体に突起やへこんだ部分がいくつもあり、角のそれぞれに細い腕や足が付いている。腕は長く足は短く、胴体には赤い目が二つある。

 しまったと思った。多少気が緩んでいた私の意思を、絶望がへし折る。衝撃に、咄嗟に体が動かない。

 私の声に怪物が気づく。目が合った。

「ギャアアオウ!」

 怪物は叫び声を上げ私を追ってくる。まずい。早く逃げないと。

 私は再び走った。疲労で足がもつれ転びそうになるもなんとか支えて逃げる。

 小型の怪物は大型よりも速くない。私は必死に走り距離を取る。追いつかれては駄目。逃げて。なんとか怪物を振り撒いて逃げなくては。

 私は角を曲がりゴールを求める。けれど、そこに待っていたのはゴールではなかった。行き止まり。コンクリートの大きな壁が私から逃走を封じ、絶望となって立ち塞がる。

 私はすぐに引き返そうとするけれど、そこにはすでに怪物がいた。

「ギャアアオウ!」

「うそ……」

 言葉が漏れる。

「これじゃ、……私」

 殺されてしまう。そんな。嫌、嫌よ。

 怪物が一歩、また一歩と近づいてくる。それにしたがって私の恐怖も増大していく。息も出来ない。近づく度に首を絞められているかのよう。

 こんな状況で、怪物に襲われたら怖いけど、でもこの恐怖はなに? 『遭遇しただけなのに、正気を保つのも難しい』。精神が壊れそうな恐怖は自ら死にたくなるほどで。分からないほどに、私はこれが怖い。今にも暴れ出しそう。

 助けて。助けて。誰か、助けて。

 私は祈るように、縋るように心で呟く。孤独な世界で。一人っきりの場所で。けれど、黒い世界に取り残された私の声は、誰に届くことなく消えていく。

「ギャアアオウ!」

 怪物が叫び、また一歩近づいた。あと一歩も進めば、襲われる。 

「メモリー。忘れ去られた記憶」

 誰?

 そこで声が聞こえた。男の人の声。厳かで、冷たく、けれどよく澄んだ声。

 私は周囲を見渡す。声の主を探して。孤独だと思った世界で聞こえてきた第三の声。私は必死に探そうと顔を動かすが、私の焦りに反してその人はすぐに見つかった。

 何故ならば、その人、彼は、この黒い世界で全身が白の服装をしていたのだ。左の壁の上に立ち、怪物を冷厳な瞳で見下ろしている。

「忌み子よ、ああ、思い出にもなれなかった哀れな忌み子よ、何故踊る。母親に捨てられたと知って憤っているのか?」

 黒い世界で一際目立つ真白の外衣が風に揺れている。銀色の髪を躍らせて、青い眼光が闇に浮かぶ。まるでおとぎ話から出てきたような高貴な雰囲気。一目でハンドメイドだと分かる高級な服。白衣の貴公子が、そこにいた。

「笑止」

 声音は冷たい。まるで侮蔑すら滲ませて、彼は言う。

「鏡でも見て出直して来い。貴様みたいな化け物を、傍になどおいていられるか」

 怪物を前にして、彼は怯えどころか傲慢な態度のまま見下ろしている。

「ワンダーランドへと帰れ、メモリー」

 彼は端的に、要点しか話さない。頼むわけでもなく、願うわけでもなく、ただ帰れと、命令する

「ギャアアオウ!」

 彼の言葉に怪物が振り向き、叫び声で応じる。言葉でなくても分かる、拒絶の意思。

「そうか」

 断られた事実に一言、彼は無感情に頷いた。

「ならば死ね」

 彼は言い放つ。すると彼の両手には、いつしか黒い拳銃が握られていた。まるで手品のように。しかも二つ。しかも大きい。彼は二つの銃口を怪物に向けると、躊躇いもなく引き金を引いた。

 発砲音が周囲に広がり暗闇に火花が煌めく。銃弾は眼下の怪物に命中する。怪物はよろけ、姿が欠ける。

「え?」

 しかし、当たった場所は霧状に四散すると、すぐに元の形に戻っていった。まるで立体映像のようにブレただけ。今では復元されて、傷もなにもない。

「そんな」

「ギャアアオウ!」

 怪物が身をよじらせ、怒りのような叫び声を上げる。攻撃がまるで利いていない。これじゃ、倒せない。

 怪物は男を見上げていたが、思い出したかのように私に振り向いた。目的はあくまで私だというように。顔に浮かぶ赤い目が、執拗に、熱気を伴って私を見ている。

 怪物が近づく。荒々しい熱気を体中に纏い、私に迫る――

 そこで、目の前に白衣が入り込んだ。彼の背中が私の前に立っている。

 彼が私と怪物の間に降り立つと、すぐに怪物に向かって発砲する。何度も何度も、いくつもの銃弾が怪物に集められる。体表を吹き飛ばし、腕がもげ、足が取れて転倒する。さらに男は両腕を広げ拳銃を消すと、片手で外套を広げた。その内側から、巨大な銃身が現れる。

 もう、何度目になる不思議な光景なんだろう。あの外套の裏は四次元にでも繋がっているのか。そこから出てきたのは巨大な銃器だった。ギターよりも大きい。コントラバスのような銃。それを彼は軽々と持ち上げ、支えもなしに、発砲した。何度も何度も。空気で殴られるような音と反動が私にも届く。私は両手で耳を押さえうずくまった。

「きゃああ!」

 激しい空気のうねりに悲鳴が出る。頭を抱えたまま身を低くする。しばらくして音が止み、恐る恐る怪物を見てみると身体がボロボロに砕かれていた。けれど、すぐに修復が始まり砕かれた部位が霧となって本体に集合している。

 利かないのだ、やはり。この怪物は倒せない。どんなに攻撃を加えても。

「おい、貴様」

「え?」 

 そこで彼に声を掛けられた。彼は振り向いていない。顔を正面に向けたまま、私に聞いてくる。

「走れるか?」

「え、その」

「遅い」

 私が口籠っていると彼は急に振り返った。彼の鋭い眼差しが私に注がれる。そして、彼は銃器をまたも消すと私に手を伸ばし、私を抱きかかえたのだ。彼の両腕が私の背中と太ももを支えている。王子様がお姫様を抱えるように。見た目よりも太く、がっちりとした彼の体。私は落ちないように咄嗟に彼の首にしがみ付くが、いきなりのことに驚いてしまう。

「ちょっと」

「黙ってろ」

 そんな私を彼は一言で制し、抱えたまま地面を蹴った。とても強い跳躍力で私を壁の上に運ぶと怪物を飛び越え道に降り、そのまま彼は走り出す。速い。私を運んでいるとは思えない。

「あ、あなたは誰? どうして私を助けてくれるの? それに、あれはなに? ここはどこなの!?」 

 彼のことを聞いてみた。それだけのつもりだったが、質問すればあれもこれもと溢れてきて、いくつも質問していた。私はこの世界のことが何も分からない。けれど、この人は知っているはず。黒い世界も。黒い怪物のことも。

 けれど彼は足を止めず、振り向いてもくれなかった。

「ホワイト」

「え?」

 だから、彼が何を言ったのか、分からなかった。けれどその直後、彼の瞳が私を見下ろした。すらりと長い目が、私を真っ直ぐと見つめている。

「お前を守る者だ」

「私を、守る……」

 私はこの状況を瞬時忘れて、彼の横顔に見惚れてしまった。躊躇いもなく断言する彼の一言は、それだけに心強く、かっこいいと思えてしまったから。

 彼は立ち止まった。怪物は見えない。壁面によって続く大きな一本道のアスファルトに下ろされる。

「あ、ありがとう……」

 優しく下ろしてくれたことに自然とお礼が出る。彼は無言。けれどそんなことはどうでも良くて、私は再び質問した。

「ねえ教えて! あの怪物はなに? ここはどこなの? あなたは知っているんでしょう?」

 話していて自分の口が震えていることに気が付いた。上手く喋れない。それでも私は懸命に舌を動かし、目の前の彼、白の外套を着込んだ彼、ホワイトと名乗る彼に聞いた。

 彼が私を見る。この異常な世界でなお彼の青い瞳は落ち着いており、その冷静さが頼もしいと同時に怖くも感じてしまう。

「あれはメモリーだ」

「メモリー?」

 彼の言葉を聞き返す。メモリー、黒い怪物の名前。やはりこの男は知っている。聞き逃さないように、意識が彼の言葉に向かう。彼は相変わらず平然としたまま、話を続けていく。

「メモリーとはお前が忘れた記憶、それが実体化した怪物だ」

「え」

 え? どういうこと? 彼の言葉に変な声が出た。異界の中にいながら私の目が点になる。

「ここでいう忘れた記憶とは、単に忘れた記憶ではなく、防衛的に忘れた記憶喪失のことだ。すなわち、覚えていると人格や精神に悪影響を及ぼすほどの心的外傷、トラウマの記憶。自分を守るために、お前は記憶を忘れ、忘れられた記憶はメモリーという怪物となって生まれた」

 トラウマの記憶。それがあの怪物の正体? 言っていることはおとぎ話も同然の、荒唐無稽なもの。でも、この黒い世界にいるからか、頭ごなしに否定しようとは思えなかった。

「忘れた記憶がどうして怪物になるの? それにどうして私を襲うの? いきなり私の前に現れて、もう、全然分からない!」

「奴らは忘れられた記憶だ。そのために、お前の頭の中に戻ろうとする帰巣本能がある。お前を襲うのは、お前を求めているからだ。元がトラウマであるメモリーはメタテレパシーなるものを発し、お前はあれを認識すると必要以上に恐怖を覚えてしまう。恐れるのが嫌ならばあれを見ない、聞かないことだ。普段は深層世界という場所で大人しくしているんだが、何故かここに現れたようだな。考えられる理由としては」

 彼の目が少しだけ細められる。銀の前髪から覗く青い瞳がじっと見つめる、私を問い詰めるように。でも、何故そんな目を向けられるのか分からない。

「お前、最近なにかを思い出そうとしなかったか? 忘れた記憶が表に出てくるなど、それしか考えられん。記憶を思い出そうとすれば、奴らは姿を現す」

 忘れた記憶を、思い出そうとしなかったか? ホワイトの言葉に私はハッと息を呑んだ。彼の言葉を全部信じたわけではないけれど、心当たりなら、あったから。

「あ、アルバムなら昨日、読んだけれど」

「ちっ、余計なことを」

 彼が忌々しく舌打ちをする。心底嫌そうな顔が表情に浮かんでいた。

「で、でも! ただアルバムを読んだくらいでなによ!? こんなことになるはずがないじゃない、普通!」

「お前は観測者だ。普通じゃない」

 観測者? また分からない言葉が出る。彼はなにを言っているの? 全部冗談? それとも、全部本気で言っているの?

 彼の真意を分かりかねている時、叫び声が聞こえてきた。私は背後を振り向く。そこには曲がり角からちょうど出てきた小型の怪物、メモリーが私たちを追っているところだった。あれほど粉々にした体は傷一つなく元に戻っている。

 見つかった。なんとかしないと、このままでは二人とも襲われて死んでしまう。なのに彼は平然とメモリーを見つめている。そのまま、顔を動かさず言ってきた。

「奴はお前の記憶が実体化した怪物だ。記憶である以上、物理的な攻撃は意味をなさない」

「そんな! それじゃ、倒せないってこと? なら急いで逃げないと!」

「必要ない」

「どうして?」

「俺が倒す」

「倒すって……」

 彼が静かにメモリーに向かって歩み寄っていく。私は唖然としたまま彼の背中姿を見つめた。それしか出来ない。他に出来ることはなにも。

 メモリーは彼の目の前で立ち止まり、巨体から覗く赤い目で見下ろしていた。叫び声を上げ、今にもホワイトに襲い掛かからんと、細い腕が鞭のように持ち上がる。

 それを悠然と見つめながら、ホワイトは躱す気配もなく不敵に立っていた。

「失われた記憶、メモリー。死が存在しない哀れな忌み子。故に、誰もお前を殺せないだろう」

 目の前の怪物、メモリー。あれの正体は私の記憶だという。真偽は分からない。しかし、もし記憶ならば倒しようがない。身体を砕いてもすぐに再生され、心がないので迷いも生まれない。どうやっても、あの怪物を止めるのは不可能だ。

「しかし、遊びは終わりだ」

 けれど、彼は諦めていなかった。いえ、いいえ違う。確信している。当たり前のように倒せると思っているのだ、彼、ホワイトは。

「世界に害なすものならば、俺はなんであろうが排除する」

 怪物、メモリーを前にホワイトは宣言する。私にこれほどの恐怖を与える怪物を前にして怯えも見せず。

 けれど、どうやって倒すの? 分からない。記憶の倒し方なんて。私はそう疑問に思っていると、ホワイトは冷淡な口を動かした。

「使うぞ、世界の意思を知るといい」

 そして続ける、彼は言葉を紡ぎ始めた。瞬間。

 世界が、軋んだ。

「螺旋に組み込まれた歯車よ、何故回る。それほどまでに生きたいか。生きる意味も知らぬのに」

 彼が呟く。黒い世界にホワイトの言葉が浮かぶ。彼が発しているのは言葉。ただそれだけなのに、私は感じる。何かがくる。何かが起こる。分からない。けれど、何かが起こると直感する。

「生にしがみ付く哀れな者よ、ならば与えてやろう。生きること。それは痛みを知ること。踊れ、お前は今生きている。歓喜しながら泣き叫べ」

 傲慢に。冷厳に。侮蔑すら含めて怪物へと告げる。人では敵わぬ怪物へ、彼は平然と言葉を発する。その度に、彼の周囲が歪む。彼を恐れるように。もしくは畏まるように。白い瘴気のようなものが彼の周りを走り始める。

 そして、ホワイトは片手を前へと突き出した。

 

「これが欲しかったんだろうッ!?」


 一際大きな声が暗闇を走る。暗い空間が揺れ動き、周囲が恐れおののくように震撼した。

「こい、熱傷の痛みを教えてやれ。クトゥグア!」

 彼は命令する。それが役目のように。それが意義のように。彼はここにはいない何者かへ命令する。

 直後だった。白い霧が弾け飛び、彼の周囲に焔の玉がいくつも浮かび上がった。なにもない空間が発火する。そのまま火の玉は炎上し大きくなっていく。互いの火の玉と結びつき、さらに大きなものへ。全ての火の玉が繋がり一つとなって像を成し、そこにいたのは、巨大な炎の狼だった。

「ガアアアアオウ!」

 炎狼が雄叫びを上げる。火の粉を体から撒き散らし、大きさはトラックほどもある。闇夜に似た世界を一瞬で照らし出し、顕現した炎の狼はメモリーと対峙する。狼の方が大きく、何よりその威圧感。狼が持つ威厳と炎が持つ原始的な神秘が、一体となって表れている。

 狼がメモリーに襲い掛かる。身体に噛み付くと前足を使ってしがみ付き、狼は、メモリーの体を食べ始めた。狼の炎熱が黒い体表を焦がしていき、炎でできた牙がメモリーに突き刺さる。無論メモリーも腕を使って振り払おうとするのだが、狼の体をすり抜けるだけで意味がない。炎が、くっ付いて離れないのだ。

 灰にしながら捕食していく。みるみるとメモリーの体積が減っていく。

「ギャアアオウ!」

 メモリーが叫ぶ。言葉でなくとも分かる、苦痛の意思。怪物が、断末魔を振り撒き食べられていく。

「これは、なに……?」

 目の前の光景が、耳に入ってくる音が、私のなにかを超えていた。怪物が悲鳴を上げて、なのに躊躇いもなく滅ぼしていく別の怪物。必死に逃げようとするメモリーを、炎の狼は逃がさず腕を、足を、もぎ取り腹に収めていく。メモリーは体を食べられていく。燃やされていく。生きながら。生きていながら、燃やされ食べられていくのだ。

「ギャアアアオウ!」

 その際に出す声が、とても、あまりにも……。

「嫌、嫌……、もう止めて……」

 いつしか、私は泣きそうな声で呟いていた。私を襲ってきたあの怪物が、今では辛かった。見ていて辛いと感じてしまうのだ。

 この非現実的な黒い世界はなにもかも、私の理性も感情も超えていて、壊していく。怖い。私は怖い。この世界の全てが。この今が。堪らなく怖い。

 すると、倒れているメモリーと目が合った。足がないメモリーは立っていることも出来ず、胴体を狼に踏みつけられ今も体を燃やされていく。その最中、赤い目が、まるで母親に助けを求める子供のように、私を見ているのだ。とても悲しそうな目で。

「あ」

 瞬間、私の恐怖が一気に増大した。身体の奥から、体中に恐怖の念が津波のように押し寄せる。無理、耐えられない。

 私は発狂しそうな頭を抱え、強く目をつぶった、なんとか耐えようと。

 けれど。

 ――私は、駄目。私はこれに、耐えられない。

「いやああああああ!」

 叫んだ。恐怖のままに。アスファルトの地面に座り込み、溺れているように体を動かす。パニック状態だった。腕を振り回し地面に叩き付ける。取り乱し自制が利かない。考えが出来ない。ただ暴れる。

「ちっ、犯されたか」

 景色も音も分からない。ただ怖い。怖い。助けて。もう嫌だ、本当に怖い、駄目なの。

「おい、しっかりしろ!」

 思考が出来ない。私は足掻く。藁にもすがる思いで、どこかに手を伸ばす。何か。何か。何か。

「暴れるな、奴のメタテレパシーを受けただけだ!」

 誰かが声を掛けている気がする。とても近くで。私のすぐ近くで。でも分からない。何も。何も。いつしか私は何かを噛んでいた。必死に噛み付く。これを引き千切らないと駄目なんだと、何故か思えて、私は歯に力を入れていく。

「アリス!」

「あ」

 その時、私のすぐ近くで名前を呼ばれた。知らないはずの私の名前。私は動きを止める。混乱した意識が回復していく。私は噛んでいたものを放すと、それは自分の腕だった。肌に痛々しい歯形が残っている。同時に、誰かが私を抱き締めているのだと気が付いた。暴れるのを止めさせるように。

 私はゆっくりと、抱き締めている人を見上げる。そこにはホワイトが、真剣な目つきで私を見つめていた。

 あれほど冷たかった目が、優しく感じられる。温かくて、力強い彼の腕。彼の背後では大きな火柱と、怪物の悲鳴が上がっていた。光と音はなくなり、勝負が終わったのだと分かった。

「大丈夫だ、終わった」

「おわ、った……」

 端的に、彼は要点しか話さない。けれどそれだけで良かった。私はホッとしてしまって、意識が緩む。段々と意識が遠のいていく。彼の腕に抱かれたまま視界がぼやけ、そして、

 この悪夢の中で、私の意識は眠るように落ちていった。


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