第23話 1カ月前の悪夢

 1か月ほど前のことを思い出す。


その日、寝目田は課長の無茶ぶりで徹夜残業をさせられ、そのまま通常勤務を

経て疲労困憊の中やっとの思いで駅の改札を出た。さすがに明日は休めるが、

それは前々から希望していた休日に幸運にも重なっただけだ。


(やっぱうちの会社、どう考えてもブラックだよな。もうコンビニ行く気力もねえ。一刻も早く寝たい……)


 その時だった。


 あの開ノ戸という爺さんが、駅前に新しく出来たカフェから出て来るのを偶々

見かけた。


 そのカフェはコーヒーが1杯1000円近くもする高級店で、いつもなら通り過ぎる

だけの寝目田とは縁がない存在――この時もそうなるはずだった。


 きっかけは本当にただ間が悪かっただけ。

 でも自分でも知らないうちに溜め込んでいたモノがあったのだろう。

 それが背中を押した。


 その時の開ノ戸が身に着けているワイシャツとパンツも清潔感のある、パリッと

した仕立ての良いもので、帽子もモダンなハンチングを被っていた。

 

 全体的にとにかく余裕が感じられ、その余裕が寝目田のコンプレックスを刺激してしまった。

 

 駅構内をゆっくりと歩く開ノ戸に後ろからそっと近づいた寝目田は、ズボンの

ポケットに無造作に入れられた財布を抜き取った。

 

 今までこんなことをしたことはない。

 本当に魔が差したとした言いようがなかった。


 それが証拠に、自宅の安アパートに戻り正気に戻った寝目田は急に恐ろしくなってきた。


 監視カメラに撮られてはいないだろうか。

 男が警察に届けてはいないだろうか。

 誰かに目撃されてはいないだろうか。


 ――あれほど疲れていたのに、不安で全然眠れない。


 だが一晩が経過すると、逆に1周回って寝目田は開き直った。

 

(俺はこれまでそれなりに努力してきた。それでも何も掴めない。掴める奴との差

なんて運だけなのに。だったら少しくらい返してもらっても良いだろう)

 

 それが罪悪感に対する負け惜しみで本心ではないことくらい、寝目田自身自覚してはいたが、そうでもしないと心の均衡を保てなかった。


 しかしどれだけ日が経過しても、警察から連絡が来ることはなかった。

 その代わり、毎日夢に女が出るようになった。


 白いシャツに黒いロングスカートを着たスレンダーな女で、長い髪を後ろで1つに結んでいる。大き目のアーモンドアイに、小ぶりながらスッと通った鼻筋。しかし形の良い唇は決して微笑むことはない。


 その美しいがどこか儚げな女は、いつもただジッと俺を睨む。

 そして最後に必ずこう言うのだ。

 返せ――と。


 ただそれだけなのだが、その視線から心底伝えたい重さを感じ圧倒される。

 時折女が抱いている子どもも、女と一緒になって睨んでくるのも薄気味悪い。

 

 こいつら、一体何者なんだ?


 明らかなのは、あの爺さんから財布を盗んだ日から始まったということ。

 これは無意識にある罪悪感が見せる幻なのか?    

 だったら無視し続けるだけだ。


 真面目に一生懸命やってきて何も良いことなんてなかったんだ。

 今更罪悪感なんて持ったところで、何が報われるっていうんだ。


 そううそぶきながらも、寝目田は結構な額の入っていた財布の中身を使う気にはなれなかった。

 平凡な日々はそのまま続き、違うのはただ夢の中に女が出てくることだけ。


 その女は次第に距離が近くなり、「返せ」という声は段々大きくなり、寝目田を見つめる女の顔は段々崩れていった。


 こうなってくると夢だと分かっていても、寝目田は冷や汗をかいて起きることが

多くなり、ただでさえブラックな仕事環境に付随して日常にも影響を及ぼしてくる。


(しつこいな……。返せばいいんだろう!)


 幸いあの日以来、まったく手を触れていない財布を返すことに、寝目田はそれほど抵抗はなかった。

 

 そこで早めの時間にあの駅を通る電車の最後尾に座った寝目田は、何かを落としてしまったフリをして財布を座席の陰になる場所に置いた。


 これで気の利いた乗客が、駅員に財布を届ければ一件落着だ。

 あの薄気味悪い夢ともオサラバできる――寝目田のその期待は、その晩、さっそく裏切られた。


 女はまた夢に登場し、寝目田を恨めしそうに睨んできたのだ。

 

(本当にしつこいな。財布は返したってのに、これ以上何が不満だっていうんだ?)


 半ば怒りながらも不安ではあったので、あの女と何らかの関りがあるらしき財布の持ち主の家に立ち寄ってみることにした。


(どうせあの爺さんの連れ合いだか、亡くなった娘だってオチなのだろう。怪談話でありそうな展開だ。念のために財布を返す前に、財布に入っていたポイントカードに書かれていた住所と名前を控えておいて良かった……)

 

 こうして寝目田は1週間近く「開ノ戸」家の前を様子見しつつ、「あの女の正体」、ひいては「あの女が夢に出てこなくなる方法」のヒントを探していた。


 ――だがそれも、今日寝目田本人が自ら罪を自白したのだから世話はない。


(もしかしたら、これがあの女の目論見だったのかもな……)


 もともと半ば諦めていた人生だったが、寝目田は今度こそ本当の意味で「詰んだ」と実感した。

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